死後の世界 (自己紹介)
人は必ず死にます。
たとえ、どんなに老いに抗い、健康維持に努めても、どれだけ財力があっても、
死は万人が受け入れざるを得ない宿命。
死に向けて一歩一歩、歩んでいくのが人生。
こんなことを書くと、怖い、不吉、考えたくないと嫌悪感を抱かれる方も多いと思います。
わたしは、未熟児で生まれて、そのあと1歳の頃に入院をした。その時に、両親は医師に、『この子は、そんなに長く生きれないかもしれない』と宣告されたそうです。
そのあと、わたしは、3歳で救急車で大学病院に運ばれると即入院。ICUに入り、それからは、もぅ、何十回と入退院を繰り返し。
小学校に上がる前は、大きな病院に入院をしていた。小児科病棟の面会時間は5時迄と決まっており、3歳の小さなわたしは、
母が帰るのが悲しくて、『いやだ。一緒に帰る』って毎回、泣いていたそうで、看護師さんがどんなに、おやつやおもちゃで紛らわせようとも、
『いらない。お家に帰りたい』って泣いていたそうです。母は、毎日、後ろ髪を引かれる思いで、時には泣きながら、帰ることもあったと聞きました。
また朝になれば、母は、毎日来てくれるのに、毎回のようにわたしが泣いていたのは、
もしかしたら、もぅ明日には、お母さんに会えないかもしれないという恐怖があったのかもしれません。小さくても死を意識していたのでしょう。
中学、高校時代、体力の有り余る青春時代も、入院生活の方が長いのではというほど、学校も行けず、病院の中で生活をしていました。
高校の入学式も病院から行き、入学式だけ出席して、また病院に帰り、入院生活。高校は初めから、出遅れからのスタートでした。
その後も、ほぼ入院生活が長く、当時のことは、よく覚えていません。病院と学校が協力してくれた。進学校に通っていたので、周りはみんな頭がいいし、本当に大変だった記憶しかありません。しかし、この状態で、ストレートで大学まで行けたのも、奇跡としか言いようがない。努力もしたけど、それ以上に、
全て神の計らいがあってのこと✨🌅
数年前のお正月親戚で集まった時、お酒が回った🍶叔父が
『みほ、お前は、まーだ生きとったか〜』と
わたしは、お正月からなに?と内心ムッとして、叔母や周りのみんなも『何を言いよるとね!』と叔父を叱責すると、叔父は
『バカか!嬉しいとたい!お前は、赤ちゃんの頃からどれだけ心配させてきたか。もぅ、今度はダメかもしれんと、もぅダメかもしれんと。
ICUでガラス越しにしか対面できない。小さい身体を管に繋がれて懸命に生きる。その姿を見て
お前の両親も、じいちゃんばぁちゃんも、みんな陰で泣いとった。
お前は弱そうにみえて、生命力の塊。』
と、お酒に酔った叔父は、涙を浮かべ話してくれたことがあった。
そう。それほどに、わたしのすぐ隣には
常に『死』というものが存在していたのです。
小児病棟に入院していると、昨日まで一緒に遊んでいた子が、居なくなる(亡くなる)なんてことは、何度も経験してきた。
幼いながらにも、亡くなったんだんだってことがわかるのです。
わたし自身、17歳の頃、もぅ入院生活がイヤになり、自ら死を選ぼうとしたこともあります。
わたしはこれまでに奇跡のような体験と出逢いによって、まだ、生きている。
そして、節目節目で、出逢うべきキーパーソンになる方と出逢い、その方たちが、死なないようにサポートをされていたと感じるしかないのです。
もちろん、肉体を守ってくれた病院のお医者様や看護師さん達にも感謝しています。
と同時に、魂を守ってくれる特殊な方たちとの
不思議な出逢いがなければ、この世に、わたしはもぅいないと思うのです。
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