反発を覚える作品は必ずしも悪い作品とは言えないかもしれない。最初に読んだときは気に入らなかったけれど、後で自分のなかに消化吸収されたことで大事な本になったものがたくさんある。反発する作品はそれだけの刺激を与えるものなのだから、印象深いのには違いない。
昨日『ロリータ』を読み終わった。凄まじい小説である。あの文章を把握できる人を、僕は尊敬するし、羨むし、憎むだろう。ジョン・レイによる前書きがあり、ハンバート・ハンバートの華麗で退屈な本文があって、彼に劣らず強靭な個性のもち主であるナボコフの後書きが続き、若島正の訳者あとがき、そして「野心的で勤勉な小説家志望の若者へ」と題す大江健三郎による解説――これまた素晴らしく知的な文章――で締め括られる。 正直に言って、僕はあらゆる点で胸焼けした。壮大な冗談とはるか高みの真実性を手に、
小説というのは――あくまで僕にとって、ということだが――現実にいては書けない。現実から一歩引いて、現実を冷笑しているときにしか書けない。そういうときには副作用もある。激しい虚脱感、死への焦燥、人と関わる気が失せる。かと思えば相手構わず個人的で偏執的なことを喋りつづけたりする。しかしともかく小説は書ける。 現実にいるとき、僕は常に一杯いっぱいである。きっと皆、この一杯いっぱいの状態に慣れきってしまって、それで大変だとも思わなくなってしまったのだ。確かに現実にいれば楽しいことも
はじめに この前Uという人と話していたら、禁欲について争いになった。『夜間飛行』に登場する航空会社の社長リヴィエールは、会社の発展のために長年一緒に働いてきた友だちを首にするし、『素晴らしい新世界』で舞台となる理想社会に迷い込んだジョンは、快楽ばかり溢れて苦痛が徹底的に排除されている現状に耐えかねて物語の最後で自らに鞭を振るう。人間らしい感受性を重んじるUは作者がそういう場面を好意的に描いていることに文句を言っていた。禁欲で自分の感情や欲望を押さえつけることなど意味がない
自分の能力のなさに絶望したとき、それを補うためにどれだけのことができるか。もっと言えば、いかに合理的かつ効果的な方法を考え出し、実行し、継続できるか。それがいまのテーマです。作品のテーマということではなくて、生活する上でのテーマです。こう言うとよほど芯のある人物だと思われそうですが、何のことはない、根はただののんびり屋で、逃げ道をつくるのが得意と来ています。「できる限り偉大な知者のごとく思索し、しかし誰もが使う言葉で語れ」というショーペンハウアーの言葉が好きなのですが、それと
しずくが落ちて 蒼い目の少年がほほ笑む しずくが落ちて 黒髪の赤ん坊が母親の 腕のなかで泣く しずくが落ちて 吊り下げズボンを穿いた 会社員が家に帰る しずくが落ちて 裸のダンサーが写真に収まる しずくが落ちて 森の館には誰もいない しずくが落ちて……
僕はライオンではないんだな。 勇敢な子供ひとり乗せて 砂漠を駆けるほどにはライオンじゃない。 僕は人間で、それも弱い人間だ。 だからともかく胸を張ってやってみたまえ。 例え翌朝には音を上げたとしても 僕は愛そう。 苦しいことはやりたくないと僕は言うけれど それならやめてしまえ。 しかし永久にやめるのでなく いつでも試合に戻れるよう体をあっためておかなくちゃ。 勝負ごとに例えるのは嫌いだって? 気にするなよ。何に例えたってなくなるものじゃない。 だって僕は近所の工事現場を見たは
僕は地面を見、半月を見て、それから君の整へられた顔を見た。 眉の下にまなざしがあつた。 僕はその広さを前にどうしたらよいのだらう。 僕は言葉を発さなかつた。 君は少し笑つたが、僕は石のやうに固まつた両腕を下ろした。 君は寒さで震へてゐたが、僕は他にしやうがないから震へてゐた。 まう僕にできるのはからつぽの体を揺らすことだけだつた。 冬は僕の季節だつた。 夜だつたから自転車の灯りをつけた。 僕の前を照らしても僕は真つ暗なままだ。 僕は君から離れて一番星へ漕ぎださう。 君が僕の
僕は落ちる 静かに海へ 髪が水に浸かり 耳が水に浸かり 水は頭骨の中へと 頭骨でそれは鉛になり あるいは金に もしくは錆びた鉄になり 僕は沈む 海へ 全身がしなり 弓なりにしなり いるかのようにつま先が伸び 僕は沈む 目はきつく閉じられ しかしそれは塩水のためでなく 閉じた瞼に意志が漂い 手は組まれ あるいは無造作に投げ出され やはり指先は弓なりに伸びていて 僕は沈む やがてくらげとともに
拝啓 お母さんへ 年の瀬が近づいてきたけれど、お元気ですか。ぼくは元気です。少なくとも、今は。 ぼくはお母さんに言われたように月に一回はこうやって手紙を出しています。先ごろふと気になったので、これまでに出した手紙が何通あるか調べてみると――月に一度定期便的に出しているので、手紙が手元になくてもどうってことないのです――なんと五三通もありました。筆不精なぼくにとっては驚異的な数です。快挙と言ってもよいでしょう。 さて、他に変わったニュースもないので、今からは最近ぼくの身に
価値にはふたつの種類がある、根源的価値とそうでない価値である ある人が価値Aをもっているとする。誰かから価値Aをもつ合理的根拠を求められた場合、その人は「私は価値Bをもっているので、価値Aをもっているのだ」と答えるはずである。この場合の「ので」は発言者が合理的アナロジーをおこなったことを意味する。「価値Aは価値Bから論理的に類推される」ということである。 ある人がもつ価値は有限個である。よって、合理的アナロジーを逆向きにたどっていくと何からも帰結されない根源的価値に行き着
使い古された言い回しだが、僕はいま暗闇のなかを歩いていると思う。暗闇のなかにいて困ることというのは、周りの様子がまったくわからないことだ。もう少し歩き続ければきっと明るくなると思う。あるいはまだだいぶ歩かなければいけないのかもしれない。しかしいつかは日が昇る。もしくは電灯がつく。そうして、いままで恐る恐る手で探っていた環境が明らかになる。僕が恐れるのはまさにその瞬間だ。そのとき僕がいるのは、濃い赤色の花が咲き乱れる熱帯林か? それとも北極の氷の上なのか? はっと息を飲むような