価値についてのメモ

価値にはふたつの種類がある、根源的価値とそうでない価値である

ある人が価値Aをもっているとする。誰かから価値Aをもつ合理的根拠を求められた場合、その人は「私は価値Bをもっているので、価値Aをもっているのだ」と答えるはずである。この場合の「ので」は発言者が合理的アナロジーをおこなったことを意味する。「価値Aは価値Bから論理的に類推される」ということである。

ある人がもつ価値は有限個である。よって、合理的アナロジーを逆向きにたどっていくと何からも帰結されない根源的価値に行き着く。

根源的価値に行き着かない場合もある。それは価値Xから直接あるいは間接に導き出される価値Yが価値Xの根拠にもなっている場合で、このとき循環をなすすべての価値が全体として根源的価値であると見なすこともできるだろう。

根源的価値の価値は評価不能である

ある人が「事物Aは価値がある」と言う場合、事物Aがその人のもついずれかの価値によって肯定されることを意味する。「事物Aは価値がない」と言ったときには、何らかの価値が事物Aを否定していることを意味する。

ニヒリズムは「価値には価値がない」と主張する。しかし実際には根源的価値の価値は評価不能である。根源的価値を肯定したり否定したりする価値はないからである。

根源的価値は世界の構造によって内面化される

「世界の構造によって」という表現は便利だが、有用なことは何も意味しない。「世界の構造によって」という言葉は、厚さのない布で町をすっぽり覆うようなものである。覆う前と覆った後で変わるものは何もない。

いわば、世界の構造はある人の価値観の全体を規定するが、その人は自分の全体の外には出られない。

内面化された根源的価値は信仰によって正当化される

信仰は合理的アナロジーによって正当化できなかった根源的価値を正当化する。その形式は「何にせよ私はこの価値を信仰しているのだ」というものである。

ふたりの人間が議論において分かり合えないとき、それはふたりの対立が信仰の対立だからである。

前出のふたりがその後合意に達したとすれば、それはふたりのうちのどちらかが(あるいはどちらともが)議論をするという世界の構造によって価値を変化させたからである。


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