ドストエフスキーの寒中水泳

使い古された言い回しだが、僕はいま暗闇のなかを歩いていると思う。暗闇のなかにいて困ることというのは、周りの様子がまったくわからないことだ。もう少し歩き続ければきっと明るくなると思う。あるいはまだだいぶ歩かなければいけないのかもしれない。しかしいつかは日が昇る。もしくは電灯がつく。そうして、いままで恐る恐る手で探っていた環境が明らかになる。僕が恐れるのはまさにその瞬間だ。そのとき僕がいるのは、濃い赤色の花が咲き乱れる熱帯林か? それとも北極の氷の上なのか? はっと息を飲むような場所か? 安心して思わずへたり込んでしまうような場所か?(何しろずっと神経を張り詰めていたのだ)ひょっとすると、そこは地獄でありはしないのか? いまのところ、最も公算が大きいのは一番最後のものだという気がする。人は僕をただの悲観主義者だと言うかもしれないし、実際否定できない。しかし僕は単に軽率な謙遜や人生の失敗に備えた保険やセンチメンタリズムのためにこう述べるのではないのだ。これは予感である。そうして予感というのは当たる。何だかんだ言っても、未来は自分によってつくられるからだ。この予感に襲われて、僕は次のように思う――僕はジェイムズ・ジョイスやフランツ・カフカ、ウィトゲンシュタインのようにはなれなかった。彼らは頭脳明晰だが、僕は決してそうではない。それでは、ドストエフスキーやトーマス・マン、コッパードのようにならまだなれる機会はあるだろうか?

僕はこれも疑わしいと思う。ちょっと考えてみればわかるが、ドストエフスキーになりたいと思ってなれる人間なんてそうざらにはいない。トーマス・マンやコッパードにはまだ凡人の匂いがする。しかしドストエフスキーとなると、あそこまで破滅的になることができるだろうか。無理だろう。僕は破滅もできないくらい破滅的に凡人なのだ。僕はまた凡人でないという点でも凡人だし、トーマス・マンやコッパードのような凡人のなかの逸材にもなれないと思う。なんだか話が拡散してしまったようだが、つまるところ、僕は凡庸であることに耐えられないが、一方で僕はウィトゲンシュタインではない。

こうして比較的冷静に自分のいる状況について書いていると、僕自身の若者性について感じる。僕は典型的な若者だろうとまで思う。そして、いま灰色の水に浸かって社会を寒中水泳している人たちも、皆若者のころは何者かであったのだろうと考える。彼らはひとりひとり権威ある思索家であり、表現者であり、行動家だった。そう考えると、僕もいつかは鳥肌を立てて震えながら水に飛び込まなければならないのだろう。きっといま隣で僕と話しているドストエフスキーは、親指が水面に着くか着かないかのところでわっと叫んで逃げ出すことと思う。彼は舌を噛み切って楽に済ませようとは考えない。そんなのはショーペンハウアーあたりに任せておけばよいのだ。そして警備員にとっ捕まってはがいじめにされる。僕は彼を羨ましそうな目で見ながら、もう水に浸かり切ってしまっているのだ。


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