宗教者論(01)


はじめに

この前Uという人と話していたら、禁欲について争いになった。『夜間飛行』に登場する航空会社の社長リヴィエールは、会社の発展のために長年一緒に働いてきた友だちを首にするし、『素晴らしい新世界』で舞台となる理想社会に迷い込んだジョンは、快楽ばかり溢れて苦痛が徹底的に排除されている現状に耐えかねて物語の最後で自らに鞭を振るう。人間らしい感受性を重んじるUは作者がそういう場面を好意的に描いていることに文句を言っていた。禁欲で自分の感情や欲望を押さえつけることなど意味がないというのだ。しかし僕は少し違う考えである。中世の「三美神」の生気のなさに現れているように、禁欲を美徳とする価値観が人間に悪い影響を与えてきたのは疑いがない。しかし一方で禁欲とは理想へ向かう過程であり、禁欲を徹底している人は高尚な理想を掲げる人だ。禁欲と対極にあるのが例えば放埒で、力を抜いてどっぷり現実にひたることだと述べればわかってもらえるだろうか。僕はそういう厳しい人間に魅力を感じるし、彼らがときに人情に負けたり怠けたりして身をもち崩す様子にはもっと惹かれる。ピコやパスカルといった人文主義者たちが、人間が神と獣の間にあると述べ、そこに人間性を見出したのと同じ意味で、僕は禁欲を望み、かつ大抵は実際に意志を貫く人が、ときに堕落してしまうことをとても人間らしいと思う。僕の言うことはUの言い分と大差ないのかもしれない。しかしやはり完全には賛成できないのは、根本において僕が禁欲を肯定しているためだ。ただその場ではうまく自分の考えを言うことができなかった。禁欲がどのような点で尊敬すべきすべき行為なのか、そして禁欲が優れたおこないであるとして、どうしてそれを目指しながら失敗する人が大衆を惹きつけるのかという点について、自分でも不明確だったからだ。それではということで、文学のなかで、また現実において、僕が魅力を感じている人物についてもういちど理屈を立ててみようと思いついた。それがこの記事である。「宗教者」とは、禁欲と堕落の狭間にいる人のことで、文字通りの意味ではない。しかし宗教者は宗教において典型的に現れる。

信仰と伝播、教祖と伝道者

最初に宗教を分析してみたい。宗教に不可欠な要素はふたつだ。信仰と伝播である。ある宗教の中心命題(信仰)が個人を支え、中心命題が伝播して多くの人から成る信仰集団が生まれると、強固な絆によって信者はより大きな安心を得る。

信仰とは根源的価値だ。根源的価値とは人間の価値観の根底に位置する価値である。ある人は多くの価値をもっているのであって、「なぜこれこれの価値をもっているのか?」と尋ねれば、「それそれの価値をもっているからだ」と答えが返ってくる。「なぜリンゴが好きなんですか?」――「だって甘いでしょう」こんな具合である。しかしひとりの人間は有限なので、その人のもつ価値も有限だ。したがって、いまのような問答を繰り返していると、他のどんな価値にも裏付けられない根源的価値に行き着く。人間の価値観は樹形型と円環型の分類されるが、樹形型は根源的価値を見分けやすい。円環型(一連の価値のうち最も根源的なものの根拠が最も発展的なものにある)の場合は一個の根源的価値を特定することはできないが、円環全体として宙ぶらりんになっている――つまり価値観に裏づけがないことに変わりはない。そして信仰とはまさにこの根源的価値だ。キリスト教の信仰とは「イエスは救世主だ」だが、それは合理的根拠のない命題である。そして、だからこそ宗教は人間にとってときに欠かせないものになる。いまの説明から類推されるように、論理(ある価値から別の論理を結論づけるプロセス)は根源的価値(宗教の場合は信仰)を前提とするからだ。信仰は論理に先立つ。

樹形型(左)と円環型(右)。○:価値、◎:根源的価値、A→B:価値Aは価値Bの根拠である。

もう一方の要素、伝播に必要なのは三つだと考えている。中心命題(信仰、根源的価値)に加えて、教祖と伝道者である。教祖は人間である。つまり神ではなく、神のような人間でもない。教祖はあくまで求道的な人間に過ぎない。真理に触れたり、世の中を正したいと思っていたりはするが、尊い存在ではない。その人に神聖さを与えるのは伝道者だ。教祖の死後――生前の場合もあるかもしれないが――伝道者は教祖の教えにある種の解釈を加え、彼らの生涯をより意味深いものに見せる。中心命題を決定するのも伝道者だ。中心命題は人の心に響くものでなくてはいけない。信者の拠り所となるものだから、人びとが自分の信仰としてもつにあたって、彼らの人生がより幸福なものになるような命題でなくてはいけない。腕の見せどころである。伝道者の能力によって、宗教の伝播が将来的に小規模なものに留まるか、広域なものになるかが決まる。もちろん歴史的な偶然も伝播の範囲に大きく影響するし、また教祖と伝道者はしばしば同じ人物が担うことになるので、いま述べた図式がいつでも当てはまるわけではないと思うが、細部は問題ではない。

ここで注目するのはもっぱら教祖だ。将来において教祖として扱われる人間ではなく、伝道者が描く教祖、いわば修正済みの教祖に焦点を当て、彼らを宗教者と呼ぶことにする。宗教が広く受け入れられるためには、もちろん宗教者が人を惹きつけなくてはならない。彼らの魅力はどこにあるのか、それを考えたい。今回はイエスの例を挙げる。

イエスは神か人間か

イエスは典型的な宗教者と言って差し支えないだろう。彼は帝政ローマの初期にパレスチナで生まれた。土地の宗教ユダヤ教の律法主義を批判して多くの支持を集めたが、パリサイ派を始めとする旧来の勢力に疎まれて、最後にはユダヤ属州総督ピラトゥスに処刑された。その後彼の弟子たちが「イエスは救世主である」との信念のもとで教義の体系化と布教に努め、地中海地域の人びとに浸透した結果、キリスト教は大きな勢力を築いた。ローマ帝国は一貫してキリスト教を弾圧したが、四世紀までには一転保護に乗り出し、国教に指定するに至った。キリスト教がこれほど強力に伝播した理由は何か。さまざまな神学的、歴史的、社会学的な説明があるだろうが、宗教者イエスの描かれ方の重層性も大きな役割を果たしていると考えられる。具体的に言うなら、神性と人間性の間で揺れ動く姿であり、強さと弱さの同居である。それは弟子たちが求道者イエスを宗教者イエスに書き換える過程で生まれた修正の粗なのだが――というのは、イエスはあくまで人間であり、さまざまな誤りを犯す。しかし聖書を書く弟子たちにとって、神聖な存在でなくてはならない。そこでなるべく彼を神の代理人として、つまり完全性や普遍性を体現する存在として描くのだが、実際イエスが言い、行ったことから離れるわけにはいかないから、難しい作業なのだ――、こうした人為的な揺らぎであれど、人びとはこうしたイエス像の非一貫性に惹きつけられていた。三つの宗教会議を挙げて説明したい。ニケーア、エフェソス、カルケドンで開かれた有名な公会議である。四世紀に招集されたニケーア公会議においては、イエスの神性と人間性は一体のものだと主張するアタナシウス派と、神性を認めないアリウス派が対立し、アリウス派が追い出された。五世紀のカルケドン公会議では、神性と人間性の両方を認めながら相互に独立した性質だと見なすネストリウス派が異端とされた。エフェソス公会議はイエスの本質は神性にあると唱える単性論の取り扱いを話し合うために開かれた。いずれも、イエスが神なのか人間なのか、そのどちらともなのか、両者の性質を兼ね備えているとすれば、どの程度の比率で兼ね備えているのか、という点で議論されている。彼のもつ神性と人間性は微妙な均衡の上で両立していることがわかるというものだ。アタナシウス派はその後三位一体説を確立して現在のカトリックにつながるが、三位一体説とは、イエスは神ではないが、神と共通の神性をもっているとするものである。

人間性と神性の均衡など、宗教をもたない現代人には無縁のものかもしれない。少なくとも、キリスト教徒やキリスト教に特別の興味をもっている人でない場合、当時の人びとと同じところにイエスの神性を感じ、人間性を垣間見るのは不可能である。しかし現代人なりに、過去の人びととは少し異なる形でイエスの不安定な姿を感じることはできるのでないか。新約聖書にこうある。

するとそのとき、その町で罪の女であったものが、[イエスが]パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。 [……]イエスは[シモンに]言われた、「[……]それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

「ルカによる福音書」第七章(http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html)

この章句は、イエスがパリサイ派の人物の家に招かれて、弟子と共に食事ととっている場面である。そこに娼婦が罪を赦してもらおうとやってくる。パリサイ派の人物は、イエスが罪深い女にどのような態度を取るか興味を惹かれるが、イエスは淡々と引用文のように言う。つまり罪の大きさに関わらず神はすべての人を赦すのであり、むしろ罪の大きい人にほどより多くの赦しが与えられる。そして多く赦された人はより深い信仰心を得るのだ。神の慈悲深さを語った文章である。しかしかすかに違和感がある。イエスはこの場面で、神という普遍性を盾に冷たい眼差しから娼婦を守っている。時代の特殊性から完全には逃れられていない。つまり、娼婦が罪をもっているということを前提にしている。もちろん、ユダヤ教やキリスト教によればすべての人は罪を背負っているのだが、イエスたちは娼婦は特別の罪をもっていると考えているようだ。対して、買春する者が「罪の男」と呼ばれることはない。ここに人間イエスが立ち現れてくる。彼は何よりも神の代弁者であり、つまり普遍性の代弁者だった。しかし一部では時代の枠組みに囚われているのである。

新約聖書の別の箇所を見てみよう。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

「ヨハネによる福音書」第八章(http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html)

この文章にも、先ほどと同じように、ある種の視野の狭い考え方が見て取れる。お互いに決まった相手がいる女と男が交渉をもった場合(つまり不倫が起こった場合、ということだが)、女が男を誘惑したのだと見られ、男女で処罰の程度が変わってくる。引用文でも、女が石を投げられそうになったことが書かれているが、男については何も書かれていない。お咎めなし、あるいはより軽い罰で済んだと考えられる。そしてイエスがそいういう因習に直接異を唱えている様子はない。

いたずらにイエスを批判したいのではないのだ。二千年前の人物に現代の常識を強要するのは生産的でない。そうではなくて、イエスが現代からみて、特殊性と普遍性を兼ね備えた存在であることが言いたい。イエスがじめじめした時代の空気から自由でないとしても、依然として、人は皆罪をもっているのだから自分のことを棚に上げて人の罪を咎めるべきでないという彼の教えは生き続ける。いや、むしろ当時の民衆と同じように一見さまざまなバイアスに囚われて見えるけれども、根底にはより高次の一貫性が隠れているのではないか。反感がむしろ彼への興味をそそり、そうやって新たな解釈を生むのであって、この視点は過去の人びとが彼に人間性と神性のどちらともを感じた視点の現代版である。ここではジェンダー論的視点からイエスに二面性を見出したわけだが、聖書を読む人の関心に応じてイエスは多様な形で現れる。常に揺れ動き、新しい課題を突きつける。それがキリスト教徒でない人にとってのイエスの魅力ではないだろうか。


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