ムラセコウイチ

様々な職種、業界を経験。 ある時、自分にはこれといった特技も思いもないことに悩み、心理…

ムラセコウイチ

様々な職種、業界を経験。 ある時、自分にはこれといった特技も思いもないことに悩み、心理学を中心に学び始めキャリアコンサルタント取得。 現在、セルフ・キャリアドックの導入キャリコンとして勤務。放送大学で心理学を学びながら、将来の起業に向けて準備中。 紅茶が大好き!

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  • わたしのジョブ・カード

    私は色々な仕事を経験したのち、働く方を応援するお仕事をしています。どのような経緯で、このような仕事にたどり着いたのか?何を思い、何を考えて行動したのかをお話ししてまいります。週に1か2話ずつ、企業にお勤めの人材育成の方、あるいは企業内、企業向けキャリアコンサルタントの方に読んでいただくと幸いです。

最近の記事

【わたしのジョブ・カード】10,起業体験と挫折

私が利用したプログラムというものは、とにかくユニークなものでした。 「バーチャル・ハリウッド」というネーミングです。 お客様に感動を提供するために、業務時間内でもいいから積極的に行動せよ。 内容はどんなものでも構わない、自分で考え、自分で仲間を見つけ、自ら行動する。事務局は、そのグループを全力でサポートしてくれる。この活動の交通費は、全額事務局で負担する。というものです。 今だから言いますが、私がこれに応募した最大のきっかけは「交通費」でした。 全国のメンバーとの会議の為に

    • 【わたしのジョブ・カード】9,勤めていた会社で面接

      複写機の販売会社X社への勤務が始まりました。 私が入社したころは、300名弱ぐらいの社員数だったと思います。 といっても、今まで務めたことがない大きな会社。 場所も大阪市内のど真ん中で、これまた初めての経験。 仕事は、営業のサポートの仕事。 データ検証やトラブルサポート、イベントの企画なんてものもありました。 何より、定期的にお給料がもらえるという当たり前でありながら、この頃の私には 心からの感謝しかありません。 一緒に入社したのはKさんという、とても聡明な女性でした。 二

      • 【わたしのジョブ・カード】8,娘の顔に見た地獄と大樹の若葉

        声を掛けてもらって働くことを辞めました。 ようやく、自分で仕事を探し始めました。 新聞の折込で入っていた求人の中から、看板屋さんのアルバイトに行くことにしたのです。 面接の日、妻が仕事に行っており、保育園児の娘の面倒を見ながら 面接に行かなくてはならなくなりました。 といっても、さすがに面接に同席させるわけにはいきません。 仕方なく、ホームセンターのペット売り場に連れて行き、 ここでしばらく待っているように伝え、面接に向かいました。 面接が終わり、急いで娘のところへ向かい

        • 【わたしのジョブ・カード】7,翻弄と解放

          給料遅配が一回でも発生すると、会社都合で退職することができます。 会社都合で退職すると、失業手当がかなり短い待機期間で支給されます。 船会社を退職した時も、会社都合でしたのでその時も失業手当をいただける 権利はあったのですが、すぐに就職したので手続きをしませんでした。 今回は、後先を考えず退職をしたので、失業手当をもらうことにしました。 まだ33歳。仕事はまだまだいっぱいあるわとタカをくくって、求職活動らしいこともせず、 まだ保育園に通う娘の子育てをしながら、ぶらぶらする

        【わたしのジョブ・カード】10,起業体験と挫折

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        • わたしのジョブ・カード
          10本

        記事

          【わたしのジョブ・カード】6,ようやく見つけたやりたいこと

          震災後のどさくさもようやくひと段落着いた頃、X社というところがある提案してきました。 それは、現在使っているカラーコピーにMacintoshというパソコンをつないだら、 すごい事が出来ますよと。 当時、X社の人たちはとてもスマートで、いつも革新的な提案と、寄り添ってくれるような受け答えで、とても輝いて見えたのです。 この時、こんな会社で働ける人をうらやましく思うと同時に、全く何も考えてこなかった自分を恥ずかしく思いました。 結局、この提案を受け入れることになり、DTP一式

          【わたしのジョブ・カード】6,ようやく見つけたやりたいこと

          【わたしのジョブ・カード】5,阪神淡路大震災とパーパス

          神戸ハーバーランドのお店では、主に「事務」を担当しました。 タイムカード管理や、釣銭や小口現金の管理、パーティーの予約受付や、 制服管理など、色々な業務がありました。 想像以上の激務で、茨木の実家から通うことが難しくなり、 神戸で一人暮らしを始めたのもこの頃。 食事もちゃんと取らなくなり、10kgほどやせてしまいました。 この調子で、ずっと勤務していると別の仕事を探す気力も出ません。 時間もありませんでした。今から考えれば、ここでしっかりと考えて ちゃんと職探しをすれば、

          【わたしのジョブ・カード】5,阪神淡路大震災とパーパス

          【わたしのジョブ・カード】4,自分を見失う22歳

          なんの苦労もなく転職が決まったものの、結局自分の目標が定まらなくなってしまったのが旅行会社での勤務でした。 私が転職したプレハブの旅行会社。 グループ自体は、大阪でもかなり大きな企業グループなのですが、私がいたのはその子会社の子会社。地元ではそれなりに名前があるものの、地方では全く通用しない旅行会社でした。 それでも大きな駅前ですし、空港が近いのでやたらに航空券が売れました。 当時は航空会社が3社あり、それぞれ発券の為の端末があり、微妙に操作方法も違っていました。端末操作

          【わたしのジョブ・カード】4,自分を見失う22歳

          【わたしのジョブ・カード】3,貴重な第二新卒

          私が選んだ専門学校とは、「観光専門学校」という学校でした。 旅行業界で働くために、旅行業法や旅行業約款、旅行実務や関税などを勉強させてもらう学校でした。 ろくな勉強もせず、ろくな就職活動もせず、たまたま見つけた豪華客船の会社に応募して、10倍を超える倍率での中で正社員として採用され、そこがわずか2年でつぶれてしまうという、キャリアのスタートから大荒れとなりました。 実は、進路指導室(今でいうとキャリアセンターですね)の先生からは、「あそこは、確実につぶれる。君にはもっとい

          【わたしのジョブ・カード】3,貴重な第二新卒

          【わたしのジョブ・カード】2,就航から終航まで

          年が明けて、長崎佐世保での研修が始まりました。 正社員で採用されたリーダークラスの方が第一陣として旅立ちました。 私は、新卒だからかその中には入ることができず、悔しい思いをしたのを覚えています。 今から考えれば、当たり前のことなんですが、当時はとにかく早く戦力になりたいという気持ちばかり 先走っていました。 遅れること、2週間ぐらいで佐世保に向かいました。 到着したのは佐世保重工業。 立派な造船工場です。 そこに、改造中の船がいました。 ずいぶん、丸っこい船だなと思った記

          【わたしのジョブ・カード】2,就航から終航まで

          【わたしのジョブ・カード】1,一発勝負の就活

          私は、1970年、大阪万博の年に大阪府茨木市で生まれました。 (母には、「あんたが生まれたから万博に行けなかった」と愚痴られましたが、そんなん知らんがな) なんの不自由もなく、のほほんと育ちました。 ただ、小学校高学年では、まったく勉強についていけなくなりました。 わからないところがわからない。当時は「おちこぼれ」と言われていましたが、 もしかすると、学習障害があったのかもしれません。 小学校の担任には「無視」される始末。 中学、高校でも全く勉強は出来ず、成績はいつも下

          【わたしのジョブ・カード】1,一発勝負の就活

          はじめまして

          こちらを見つけていただき、ありがとうございます。 私は、ムラセコウイチと申します。 働いている方を応援する仕事をしています。 私自身、様々な仕事を経験してきました。 おそらく、普通の方では経験できないようなことも経験していると思います。 なので色んな方に寄り添って、一緒に働くことの悩みを解決できるようなことができると思っています。 働くことは生きていくために必要なもので、人生を豊かにするものです。 決して、働くことで命を落とすようなことはあってはなりません。 1人でも多く