【わたしのジョブ・カード】2,就航から終航まで
年が明けて、長崎佐世保での研修が始まりました。
正社員で採用されたリーダークラスの方が第一陣として旅立ちました。
私は、新卒だからかその中には入ることができず、悔しい思いをしたのを覚えています。
今から考えれば、当たり前のことなんですが、当時はとにかく早く戦力になりたいという気持ちばかり
先走っていました。
遅れること、2週間ぐらいで佐世保に向かいました。
到着したのは佐世保重工業。
立派な造船工場です。
そこに、改造中の船がいました。
ずいぶん、丸っこい船だなと思った記憶があります。
その造船工場の中で、研修が始まりました。
豪華客船の研修ということで、主に接遇面を重点というより、接遇研修しかありませんでした。
余談ですが、その時の接遇講師の先生は、某県某市の市長になられ大活躍されていました。
朝9時から夕方6時まで、とにかく接遇研修。
3月に就航ということで、時間もなく2月に入ってからの休みは1日しかありません。
3月の初旬には佐世保から離れ、途中宮崎により神戸に入りました。
3月に入ってからも、全く休めない状況のまま船での勤務を強いられたのでした。
私は、右も左もわからない学生でしたのであまり感じなかったのですが、
社会人を経験されてきた方々ばかりでしたので、この現状に対して
かなりの反発が起きたのです。
研修と言っても接遇ばかりで、肝心の業務オペレーションに関して何もなかったこと。
全く無休の状態で、しかも監禁に近い環境での業務だったこと。
指揮命令系統が全く存在せず、なにをどうすればいいのか全くわからなかったことなどなど。
結局、ストライキのような状態にまで発展しました。
全く自由が効かず、閉じ込められて、情報がない状態になれば、満足に働くことが出来なくなることを実感した出来事になりました。
結局、研修責任者は免職となり社長を始め経営陣が立て直しに入り、就航後3ヶ月ぐらいまでは大変な状況が続いていたと思います。
私はというと、とにかく自分の事だけで必死でした。
なんとかして戦力になりたいとか考えて行動したのですが、やることなす事空周り。
最初に配属されたところでは、全く活躍できず、レストラン部門へ配置転換となってしまいました。ところが、ここで腰を痛めてしまい船での勤務は難しくなってしまいます。
会社に無理を言い(半ば、どさくさに紛れて強引に)陸上勤務に配置転換してもらいました。
どうしても、船で働きたいわけでなく、かといって苦労して入ったので辞めたいと思ったわけではなく、結果的に一番いいところに収まったような気がします。
陸上勤務では「配乗管理」という仕事になりました。
これは、船で勤務する人たちの管理業務です。採用や教育なども行う人事のような仕事です。
とにかく、船の業務はストレスが溜まります。
仕事が終わっても、家に帰ることもできず、プライベートな空間はほとんどなく、
勤務時間もかなり長く、それによって離職率も相当なものでした。
今から思えば、かなりブラックですね。当時は、これが当たり前でした。
なので、ほぼいつでも求人をしていて、まだ20歳の若造が偉そうに面接などを行っていました。
なんとなくですが、この仕事の面白さを感じ始め、将来は社会保険労務士を目指したいとかすかに思い始めたころ、事業が停止されたのです。
理由は、「客が来ない」以上!
神戸と横浜なんて、当時でも新幹線で3時間かかりません。
そんな中、21時間かけて船で行こうと思う人なんてほとんどいなかったのです。
1年目は大阪で花博がありましたから、それなりには来たのですが、
2年目は目も当てられないぐらい来ませんでした。
それに、神戸から横浜に行こうと思うと、太平洋に出なければなりません。
太平洋は、波が高くとにかく揺れます。揺れのためグランドピアノが動いたこともありました。
また、豪華客船と言いながら部屋をたくさん取りすぎていたために、とにかく狭い部屋や窓がない部屋も多く、また遊びに行けるところも少なかったのです。
そうなると、リピーターもほとんどいません。
「二度と乗るか」と吐き捨てながら降りて行ったお客様は数知れず…
ということで、初めての就職は、会社都合ということでクビになりました。
22歳の出来事でした。
これが私の波乱のキャリアの幕開けです。
このあと、ジェットコースターの様なキャリアが続きます。
気長にお付き合いください。
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