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アートを楽しむウィーン旅②「表現者」について考えた日

芸術の都、ウィーン!

建築の野外博物館とよばれるプラハから電車で約4時間半。
チェコの田園風景を楽しんでいると、あっという間に到着!

人生4回目のウィーン。
でも、アートをめぐる旅は今回がはじめて。
いつもは、クリスマスマーケットめぐりだったり、仕事関係だったりで、なかなか美術館を訪れる機会を作れなかった。

日本からはるばる来てくれた母といっしょに、美術館めぐりの旅へ。


2日目は、アルベルティーナ美術館へ。
1日目に訪れた美術史美術館とはちがい、印象派や近代アートを展示する美術館。

1日目の美術史美術館の記事はこちら↓

アルベルティーナ美術館の建物はハプスブルク家の宮殿だったもので、壮麗な部屋の数々も見学できる。

ギャラリーの展示は次の3つ。
・モネからシャガールまで
・ピカソ
・アレックス・カッツ

それに加えて宮殿の部屋の見学。
午前中にシェーンブルン宮殿に行っちゃったため、入館した時点で時間は12時半。閉館時間は18時。

圧倒的に時間が足りない予感しかしない。

しかし、美術館で
「さくさく効率的にまわる~」
ということはしたくない。絶対に。

好きな絵の前では、思う存分そこにいて堪能したいじゃないか。

一抹の不安を抱えつつ(大げさ)、いざ中へ。

時間がないというに、もちろんオーディオガイドも拝借。
前日に行った美術史美術館のオーディオガイドが秀逸すぎたから。
勝手にウィーンの美術館に期待があがる。

「アルベルティーナよ。一体何を聞かせてくれるんや」
と意気込みオーディオガイドを設定したら、「あれ?」

日本語がない。

厳密に言えば、宮殿の部屋の説明のみが日本語利用ができ、絵画の解説は英語とドイツ語しか選べない。

嘘でしょ。
そんなら、「日本語は部屋の説明のみです」とか、注意書き用意しててよ!

がっくりと肩を落とし、トボトボと館内へ。
せっかくなので、オーディオガイドがある宮殿の部屋の見学からスタート。

輝かしい赤やイエローで内装された絢爛豪華な部屋の数々。
壁にも絵画が飾られていて、オリジナルの家具や調度品に目を見張る。
デューラーの『野兎』やルーベンスの習作なども展示されているので、宮殿の歴史に興味がない人もこちらのエリアをまわることをおすすめ。

一通り、ハプスブルク家の豪勢ぶりに感嘆しつくした後、絵画の展示へ。

有名なモネの『睡蓮』やドガの『踊り子』をはじめ、ルノワール、シャガールの作品にうっとり。
個人的に点描画がすごく好きで何時間でも見ていられるんだけど、アルベルティーナはコレクション数も多く大満足。

ポール・シニャックの作品


ゆったり落ち着いて見られる展示室

今回の旅で新たに好きになった画家が、アウグスト・マッケとマリアンネ・フォン・ヴェレフキン。
美術に興味を持ちだしたのは、数年前のこと。人並以下の知識と興味しか持ち合わせていなかったので、美術館を訪れるたびに、新しく好きになる画家に出会えるのが楽しい。

マリアンネ・フォン・ヴェレフキンの『Night Prowler』

ヴェレフキンの描く夜がそれはもう神秘的。時間も忘れ、ずっと見入ってしまう。

印象派の絵画を堪能し、お次はピカソ展に。
ピカソは、15年以上も前に大学の授業で取り扱われたので、それなりに書籍も読んだしドキュメンタリー動画も見た。
彼の画家人生は本当に興味深い。

んだけれども。
ピカソの作品は、見れば見るほど、なんだか目がまわってしまい、いつも長時間見ることができない。
情けないなぁと思いつつ、「いや、凡人には理解できないのだよ」と、誰でも言ってそうな言い訳を並べ、早々に展示室を後にしてしまう。
それでも諦めがつかず、ピカソ展があれば必ず足を運ぶのだが…

最後は、アレックス・カッツ。

カッツの描く女性は凛として美しい

カッツはニューヨーク出身のアーティスト。
今年96歳になるけれどまだ現役だと知り、開いた口がふさがらない。
人は何歳になっても表現者でいられるんだと強く衝撃を受けた。

17時45分、退館。
なんとか閉館時間までに見切った!

その日の晩は、見て回った美術館を反芻しながらしばらく考え事をしていた。

カッツのように何歳になってでも現役でいつづけ表現をやめない画家たち。
激動の時代を生き、戦争に翻弄された数多くの画家たち。
そもそも、「激動じゃない時代」なんて存在しない。
どんな時代であっても、何歳になろうとも、人は表現者であり続けることができるのだと学んだ(表現したものに価値が生まれ、後の世に残るかどうかは別の話だけれど)。
もちろん、想像できないほどの困難が伴い、時には耐え難い恥辱や侮辱にまみれた人たちもいただろうし、いるだろう。誰にでも成し得ることではないけれど、それでも希望を与えてくれる。

あらゆることの事象をどう捉え、どう生きていくのか。
捉えたものをどう表現するのか、それともしないのか。
自分の表現したものに価値なんかなくとも、それでも表現する意義とは。
自分の表現したものが誰にも届かないかもしれないのに、表現したいと思う意志とは。

普段、言語教師として、学生に「表現することの大切さ」を話しているけれども、今回の旅でふと自分自身そこに立ち返ってみるきっかけになった(思いがけず)。

時には自分のフィールドから離れたものに触れる時間もやはり大切だなぁ。

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