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短編小説「飛びミミズ」

飛びミミズ


 腕に小さな水ぶくれができた。ちょうど肘の少し上のあたり、シャツの裾で隠れるところで気付かなかった。シャツを捲って左腕を掻いていると、隣で噛み煙草をクチャクチャやっていたマサァラが呟いた。
「ああ、そいつはエアワームの食事の痕だ。あんた、やられたな」
 よく日焼けして人種が分からない顔がニンマリと口元を歪めてそう言った。僕は不可解な顔をしてマサァラのニヤついた顔を見返した。マサァラはニヤニヤしたままで僕から視線を外して森の奥の方を指差す。腰掛けた倒木に右足をかけて、「あの森に入ったからだ」、そう言って黒いニスの塊を水溜りに吐き出した。
「ちょうどもう孵化の時期だ。なに、気にするこたぁない。あんたの水ぶくれ、そいつはもうカラッポだ。エアワームは一匹だって入っちゃいないよ」
 マサァラが何故か肩を竦めるゼスチャーをしてそう言った。空模様が怪しい。そろそろ大粒の雨が落ちて、薄いトタンの屋根がバタバタ鳴り始める頃だ。マサァラはゆっくりと腰を上げて僕に近付いた。彼の日光と汗のにおいが鼻につく。
「なんだい? そのエアワームってのは」
 僕がしつこく左腕を掻きながらそう言うと、マサァラは皮膚の厚い逞しい掌で、ボリボリと皮膚を擦る僕の右腕の動きを止めた。そしてやはりニヤニヤしながら僕の左腕の水泡を覗き込んで、爪の短い厚紙のような指先で僕の薄い皮膚に触れる。マサァラの体温は指先だけで奇妙なほどに温かい。
「こいつはエアワームが飛び立った痕だ。あの森に入った時に食いついたんだな」
 マサァラは指先に唾をつけて僕の水泡をそれで擦った。
「めでたいことだ。一つのツガイが飛び立ったんだ」
 嬉しそうにマサァラはそう呟いた。

 空を一枚の紙切れが飛んだ。
 小さな紙切れだ。白く、小さく、薄い、とても生き物とは思えない空中を漂う一枚の紙切れ。それがエアワームだ。
「こいつらは動物の皮膚に食いつくんだ」
 エアワームに筋肉はない。風に乗って空を舞って、たまたま動物の肌に付着したエアワームだけが生き残る。エアワームの食欲は繊細で脆弱だ。身体が薄く小さいのだから当然かも知れないが、たった数ミリグラムの有機物で生殖を行いタマゴを産んで増える。
 動物の皮膚が彼らの唯一にして最後の食糧だ。タマゴから孵化した瞬間に彼らは空を飛び始め、初めて付着したその場所から動かない。たとえそれが苔の生えた岩の表面でも、枯れ果てた朽木の幹であっても、肉を持たない彼らはそこで生涯を終える。それが数秒であるか、あるいは数週間であるかの違いだけだ。どんな場合でも例外はない。
「よく見ろよ。よく見ないとエアワームは見えない。小さくて薄いからな。指先じゃとても摘めない。日本人だって無理だ」
 動物の肌にまるで湿布のように張り付いたエアワームは、丁度紙切れの真ん中にある嘴を器用に動かして動物の皮膚を食む。いったん食いついたら絶対に離れない。離れてしまったら、二度と食いつくだけの力がないからだ。常に動物の皮膚を食んで、食みつづけることで彼らは身体を固定する。伸縮性に富んだ彼らの組織は、嘴を先頭にしだいに動物の皮膚に深く食い込んでゆく。
「こいつらは内側が雄で、外側が雌なんだ。今度ここに来る時はルーペを持ってこいよ。性能のいいルーペで観察するとよく分かる」
 マサァラは僕の水泡を指先で撫ぜながら一言一言を区切るようにして言う。
「表と裏で雄と雌なんだ。一匹に見えるけどな。しかし違うんだ。こいつらはこんな薄っぺらなくせに助平でさ、生まれたときから雄と雌でくっついて離れないんだ」
 マサァラは口元を歪めて僕を見て、いやらしく笑った。
「生涯ずっと、ハメ合ってるってわけさ」

 上手い事動物の肌に食いついたエアワームは嘴を活用して深く深くその肌を食む。だが、深いといっても体長が1mmに足りないのだ。彼らの食んだ痕は動物にとっては傷にも満たない。痛みを感じる神経まで彼らの身体は届かずに、表面を舐めるように、有機物を掠め取るように、彼らは毎日の糧を得る。
 エアワームの身体は掘り進むに連れて穴の深さに比例して細く長く伸びてゆく。呼吸と排泄のために彼らの薄っぺらい身体の端々は皮膚の外に固定されたままだ。そのため嘴を先頭に中心付近だけが細く長く伸びる。その姿がまるであれだ。
「ワームだ」
 マサァラは人差し指を立ててそれをくにゃくにゃと動かして見せた。
「空飛ぶ、ミミズだ」
 僕は溜息を吐く。

 エアワームの生涯は短い。遺伝情報に忠実に従った幸運な個体も数週間でその生涯を終える。彼らの身体がもたないのだ。エアワームの雄は、動物の皮膚から得た栄養と自らの精液を、背中にくっついた雌に絶え間なく送りつづける。雌は雄からもらった栄養を信じられない変換率で受精卵に作り変え、背中に背負うようにそのタマゴを溜め込んでゆく。ちょうど動物の皮膚に空いた細長い穴に、エアワームのタマゴがびっちり詰まったような感じだ。
「タマゴは粘ついてないからな。傾けるとポロポロ落ちるぜ。いくらでも、いつまでも落ちるぜ。絶対に途切れない。まるで永久機関か、砂時計だ」
 動物の皮膚に食いついてゴムのように身体を伸ばしたエアワームは、ついにその弾性の限界を迎える。雄の嘴が自らの弾性に耐えられなくなり、その頃には雌は大量のタマゴを袋状になった自らの背中に保有している。すべて受精卵で半ば孵化しつつある細切れの薄片だ。
「雄が嘴を離すだろ? するとどうなる? 弾けるんだ。エアワームの身体がトランポリンみたいに反撥して、パチン!」
 マサァラは夕焼けに頬を赤く染めて言った。
「クラッカーみたいに弾けるんだ」

 エアワームが弾けると、雌が背中に背負い込んでいた大量のタマゴが一斉に空中に放たれる。クラッカーの音と同時に親たちは剥がれ落ちて死に、無数のタマゴが飛び立ってその一つひとつがまるでパラシュートのように空中で弾け広がる。風が吹けばそれに乗って子供たちは飛び広がってゆく。高密度の子供たちは偶然触れ合った兄弟と接触し、それが上手い事雄雌であれば、一個の完全なエアワームとして次世代を目指し新たな世代を構成する。
 そして彼らのシグナルは二つだけだ。
 食べる事。
 増える事。
 マサァラは眩しそうに手を翳して夕焼けを見る。
「エアワームは日の出にタマゴを弾くんだ。綺麗なもんだぜ。小さすぎて何が光ってるのか分かりゃしないが、飛び出した無数のタマゴが一斉に弾けるんだ。その瞬間は見物だぜ」
 マサァラは片方の頬をくいと上げて誇らしげに僕を見た。
「目の前の空気が、光り輝くでっかい塊になるんだ」
 マサァラの黒い皮膚が夕焼けを反射して、光る。

「本当にそんな生き物がいるのか?」
 僕が疑わしげにそう言うと、マサァラは例の肩を竦めるゼスチャーをして僕に言った。
「信じるなよ。話だけで信じられちまったら、ダストを見た時のあんたの顔が、曇っちまう」
 僕は何も言わずに完全に日が落ちた森を見る。
「またあんたにここで会えるのが、おれの楽しみだ」
 マサァラが形ばかりの握手を求めた。
「また、会おう」
 僕はそれを握り返した。




※涌井の創作小説です。


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