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べき思考は排除できないから、最終的な判断の際に”自分がしたいかどうか”を決定因子としたい
何か判断・行動するときに、その思考の途中で「〜すべき」「〜しなければならない」と考えてしまうのは仕方ないというか自然なこと。
それらを完全に取り除くのは難しいので、そのような思考の末、最終的に「自分がしたいかどうか」で判断して行動できれば、自分本来の人生を歩むことができる。
というお話です。
思考の癖なのか認知の歪みなのか
私はどうしても「べき思考」に陥りがちです。
運動をする「べき」
読書をする「べき」
親孝行する「べき」
日常、このような「べき思考」でいっぱいです。
でもこれって、どこか他律的ではないでしょうか。
運動を例にとれば
確かに世間一般で、健康のため”運動はすべき”とされています。
でもそれだけに流されてなんとなく運動をしているのは、どこか他人任せというか、思考を放棄している気がしてならないのです。
大切なのは”自分がしたいかどうかで”判断していくこと。
これは自分本来の人生を歩むことに繋がるのかなと。
ただここで大切なポイントがあります。
それは、思考の過程で発生する「べき思考」を排除する必要はないということです。
最終的に”自分がしたいかどうか”で判断できれば前向きに自分本来の人生を生きられるかなと思います。
「べき思考」を完全に排除するのは難しいです。
だってシンプルに、
運動はすべきだし
読書はすべきだし
親孝行すべきだし
このような「べき思考」を全くしないというのは無理な話です。
なので冒頭の結論に繋がります。
何かをしようと判断するとき、その思考過程で「べき思考」が入ってくるのは当然のことで、なんの問題もないのかなと。
でもそのまま流されて「べき思考」のまま何となく判断をしてしまう、、、これは他律的で他人任せなので、したくないなということです。
「運動すべきだからする」
ではなくて
「運動すべきとされている。これを踏まえて、自分は運動をしたいと思うからする。」
こんな感じの思考を経て判断・行動していきたいです。
何か判断・行動するときに、その思考の途中で「〜すべき」「〜しなければならない」と考えてしまうのは仕方ないというか自然なこと。
それらを完全に取り除くのは難しいので、そのような思考の末、最終的に「自分がしたいかどうか」で判断して行動できれば、自分本来の人生を歩むことができる。
というお話でした。
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