[エストニアの小説] 第4話 #11 100万クローン(全15回・火金更新)
二人が去っていったとき、ニペルナーティは川向こうからの車の警笛を聞いた。ニペルナーティが川を渡るともう一つ聞こえ、その後さらにもう一つ聞こえた。ジプシーのインダスは、そのとき駆け足で道を進んでいたが、車を見ると、足を蹴り上げ、いなないて、風に吹き飛ばされたみたいに道から外れた。そこはクープのライ麦畑で、インダスは足を踏み鳴らし、あたりをグルグルと回りはじめた。インダスは首にベルをつけ、ボロ布の切れ端をからだに掛けていた。白髪混じりの髪はもじゃもじゃで、あごひげは胸まで垂れていた。
ニペルナーティはインダスをつかまえると、肩をポンポンとたたき、こう言った。「ジージー、いい子だ、怖がらないでいい。家に戻るんだ」
ジプシーのインダスは嬉しそうにいなないて、自分で自分の背中をムチ打ち、軽いステップで駆けていった。その背中は半分肌が見えていて、できたばかりの傷跡がくっきりと見えていた。
それから少しして、葬式の人々の長い長い列ができた。ニペルナーティはこんなに多くの客をもったことがなかった。午後になってやっと、その列はなくなって静かになり、ニペルナーティはクープの居酒屋に足を踏み入れることができた。
「今日はひどく忙しい日だったよ」 ニペルナーティは自慢げにそう言うと、クープの目の前で金を数え始めた。「今日の儲けはすごいぞ、こんな金を手にしたのは、何十年も前のことだな。どう思う、クープ、これで何をしたらいいかな?」
「それだけ働いたんなら、ビールをボトルで飲みたいんじゃないかい?」 クープは親切な口ぶりで言った。
「ビールだって?」 ニペルナーティは見下したように答えた。「いや、兄弟、ウォッカをくれ、コーヒーを頼む、もしどこかで何かうまいものを手にしたなら、それも頼む。わたしたちどっちも独身だ、ん? あんたの女は町に行ってて、わたしたちはちょっとばかり気を抜けるだろう?」
「コーヒーに、ウォッカに、何かうまいものか?」 クープは機嫌よく言った。クープの目が輝き、笑顔になった。嬉しそうに走りまわり、テーブルを拭くとそこにクロスをかけた。そしてニペルナーティのところに戻ってきて、疑わしそうな声でこう言った。「で、コーヒーにウォッカに何かうまいものだな?」
「そのとおり」とニペルナーティ。
「で、俺たち二人で飲むんだな?」
「二人で飲んで、金はわたしが払う」
「そりゃそうだな、あんたが払う」 クープは安心してそう言うと、飲み物をテーブルに運びはじめた。
テーブルに飲み物を並べると、クープはニペルナーティの向かい側にすわり、酒を注いで飲み始めた。
「あんたはいいやつだ!」 感激した声でクープは言った。「いつもアン・マリに言ってることだ。いつもそう言ってきたんだ。アン・マリ、俺の言葉をよく聞け。こいつはいいやつだ。俺は間違っていたかな? だがな、あんたが牛小屋にいたとき、アン・マリはそこにはいなかったんだ。あの子はしょっちゅう気が変わる。ここで寝てると思ったら、今度はあっちだ。あの子に用があって探しても、どこにもいない。意固地で変な子だ、あの子は。やっかいなやつだ」
クープはしゃべるのをやめ、耳を澄ませた。誰かが渡し舟のところで、渡し守を呼んでいる。
「行かなくていい」 クープが言った。「俺が走っていって、あいつらを渡してやろう。ヨーナも家にはいない、あいつはアン・マリと町に行ったんだろ?」
「わたしはそうしていいとは思ってなかった」とニペルナーティ。「ヨーナはまだ若い、町までの旅で何が起きるかわかったもんじゃない」
クープがニヤリとした。
「あんたはアン・マリを知らない」 クープは自信満々だ。「あの子はライオンの雌みたいなもんだ」
クープは走り出ていって、渡し舟の客を向こう岸に渡すと、顔を赤くして戻ってきた。そしてウォッカをガブリと飲み、さらに何杯も飲んだ。
「あんたが払ってくれるんだよな」 クープが疑わしげにまた訊いた。「うん、もちろんそうだ、あんたが払う、そして俺たち二人で飲む」 そう自分で言うと、口を閉じた。
「で、次はコーヒーとなんかうまいものか?」
クープはすでに足元がおぼつかなかった。手は震え、休むことなく飲みつづけている。
「こんな風に飲んだのは、ずっとずっと前のことだ」 そうクープは打ち明ける。「ここで誰がウォッカをおごってくれる? たまに誰かがビール1杯くらいならおごってくれるかもしれん。親切心とも言えないようなものだ。みんなけちでしみったれだ、自分が満足できるほどにも酒を買うことが叶わない。厳しい時代だ、税金は高く、ほんの数クローンでさえ無視できない。あんた銀行にいくらかあるのかい?」
「100万だ」 ニペルナーティはあくびしながら答えた。
クープは何かに刺されたみたいに飛び上がった。そしてニペルナーティをあきれ返って見た。
「100万?」 クープはおうむ返しに言った。「ほんとに、100万マルクか?」
「いや、 100万クローンだ」 どうということはないといったニペルナーティ。「半分は父親が遺言で残したもの、残りの半分は自分で貯めた。銀行に入れてある、将来のためにね、いつか役にたつ」
「いつか役にたつ?」 クープがうらやましそうに言った。「いい父親をもったな、たいした父親だ。俺の父親が残したのは2本の風呂用ブラシだ、無使用の乾いたカバノキのブラシ、二つだ。それ以外は何であれなしだ、古いコートとか履き古した靴さえない。破れた帽子すらな。人があまりに貧しく死ねば、恐ろしいことだが、相続人は、唯一の相続人であれば一人っきりで、死んだ者を埋めるために棺や何やかやを買うはめになる。それを考えると頭がおかしくなる。金もかかれば、困ったこと悲しいことだらけ、それなのに、みじめなことに、カバノキの風呂用ブラシ2本、それだけだ。いや、聞いてくれ、これは地獄のタワゴトだ。そのせいで苦虫を噛んだようになる。自分のポケットに1ペニーすらなかったとしたら、いいか、ブラシ2本でどこに行けってんだ。いや、あんたの父さんは天使だ。神様は天国に父さんの予約席を準備したんだろうな。で、100万クローンの半分をあんたに残していったんだな。で、あんたは自分で、渡し舟を引いてる。あんたはただの渡し守なのか?」
「いったい誰がわたしが渡し守だと言った?」 ニペルナーティが声を高めた。
「いったい誰が言ったかって?」 クープがおうむ返しに言った。「じゃ、あんたは沼さらいなのか?」
「くだらない、わたしはこれまでに一つの沼地も見たことなどない!」
「だが、あんたはマーラの水を捌(は)けさせると約束しただろう。器をひっくり返すみたいにしてな」
「そうだ、そうするだろう。だがこれをやるのに技術はいらない。今じゃ、その辺の少年だってやってる」
突然クープはしらふになった。
「ここの沼に手をかけるな」 そうクープがささやいた。「アン・マリはそれを望んでない。あんたは友だちだから警告してるんだ。アン・マリがそれを知ったら、あんた酷い目に会うぞ。あいつはタチの悪い恐ろしい女だ。神があいつと対立することを許さない!」
ニペルナーティは笑みを浮かべて、クープに何度も酒を注いだが、自分ではまったく飲もうとしなかった。
「笑ってるんじゃない」とクープ。「あいつは気狂いじみたことを何度もやってる。ジプシーが盗んだ馬でいかさまをやってるのは誰か。俺か? それともヤイラスか? 俺がかかわって何か面白いことがあるか? 5、6年は人生を無駄にすることになる。俺は刑務所なんぞに入りたくはない。俺の商売は誠実一辺倒。ウォッカを買って、その代金を払う、それだ。前に密輸の蒸留酒の話をしたが大したことじゃない。生きるのは大変だ、税金は高い、何ペニーかポケットに残さなくては。だが馬を盗んだりしない。これは 一番の犯罪だ。いなないてるでかい馬をどこに隠す、ポケットには入らない、隠せない。ヤイラスはどうか? ヤイラスは正直な男だ、畑を耕し、冬には木を切り、仲間の持ちもののことなど聞きたくはない」
「じゃあ、アン・マリが?」 ニペルナーティがびっくりして言った。
「そうだ、アン・マリなんだ」 クープがため息をついた。「だがヤイラスは罪を喜んでうけた、3年の刑を受けたんだ。どうしてそうなったか、わかるかい? いかれた女だ! 一人の酔っ払いがここでくたばった。俺たちはそいつを荷馬車に乗せて、馬にムチ打って家に戻した。そいつは近隣から来た農夫だった。ところがアン・マリはネコみたいにこっそり跡を追って、そいつが眠ってしまうと、馬から馬具を外して、連れ帰った。真っ昼間にな、人がたくさんいる中をだ。アン・マリは馬を家に連れていって、沼に引いていった。その日のうちに、ジプシーを通じて、もっと遠くへ馬をやってしまいたかった。ところが捜索隊がすでに跡を追っていた。そしてそいつらが盗っ人を追い詰めたとき、盗みを否定することはできなかった。それで馬は持ち主の元に返り、ヤイラスが自白した、自分が盗んだと言ってな。ああ、ナザレーからやって来た若者よ。ヤイラスはそこで打たれ、人々が蜂の巣を突ついたようにヤイラスを攻撃し、みんな一発くらわせようとした」
「で、アン・マリはどうした?」とニペルナーティ。
「アン・マリは納屋の中で絶叫してた。悲しみからじゃない、馬を取られて腹をたててたんだ。アン・マリとはそういう女だ。で、あいつは復讐を誓った」
「で、誓いを守ったのかい?」
「俺になんでわかる」 クープが怒りの声をあげた。
クープは立ちあがろうとしたものの、崩れ落ちた。そしてまた椅子に座り込んだ。ニタリと笑い、次々に酒を口に運んだ。
「その農夫はその後落ちぶれた」 しばらくしてクープが言った。「不幸に次々みまわれて、この教区にはもういない。誰かに畑を売って、立ち去った。だから俺は言ってるんだ、あの沼には手をかけるなってな。アン・マリが知ったら、メス狼みたいに襲ってくるぞ」
'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)
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