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[エストニアの小説] 第4話 #10 ヤイラス(全15回・火金更新)

前回 #9 一人語り
 「あんたは魔法使いだ、魔法をつかって、わたしからアン・マリを遠ざけている。わたしのいないところに行かせてるんだ!」
 ニペルナーティはののしりながら、渡し舟の方へと走っていった。
 クープはその跡を目で追いながらつぶやいた。「沼さらいじゃない、仕立て屋でもない、あいつは頭がおかしい。ここの警官はこう言われるはずだ。
あいつには前科を記した書類があるだろうとな」

Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

 次の朝、まだ日がのぼる前に、アン・マリは小舟をこいで川を渡っていき、ヨーナの小屋の窓を叩いた。
 アン・マリはレースとリボンで着飾り、絹のスカーフを頭にかぶり、その白い縁飾りが肩から背中へと垂れていた。ベルトにはお気に入りのバラの布飾りをつけていた。一歩一歩、歩くたびにそれに目をやり、花の向きを変えたりしていた。しかし足は裸足で、靴ひもを肩からひっかけ、手には荷物を携えていた。
 「ヨーナ、まだ寝てるの?」 アン・マリが声をかけた。
  曇った窓ガラスに顔を押しつけ、さらに何度か叩いては耳を澄ませた。しかし中から何の音もない。
 「この寝坊すけが」 アン・マリは浮かれて言った。「この人たちときたら、冬眠中のクマみたいに眠ってる。大きな音をたてても聞こえないんだから。しょうもない人たちね。イケてる男たちってのは夜、家にはいないってわけね、村から村をツィターを抱え、歌いながら歩きまわって、ニワトリを追うフェレットみたいに女の子のあとを追いかける。太陽がやっとのぼりかける頃になって、やっと家に戻ってくるんだから」

 アン・マリは少しのあいだ待ち、白い霧がのぼる沼の方を眺め、スカーフを整え、ベルトのバラをまた触った。それから小屋のドアを開けて中に入り、そこで立ち止まった。手荷物を足元に置き、男たちが服を着るのをしばらく見ていた。そしておはよう、と言った。
 「ずいぶんと早いんだな、今日は、アン・マリ」とニペルナーティ。「きみが来るとわかっていたら、こんなじゃなかったと思うんだけどね。小屋の中を花で飾って、床にはやわらかな苔を敷いてね。だけどきみは突然やってきた、突風みたいにヒューッとね、もうそこにいた」
 「そう、早く来たの」 アン・マリはヨーナの方を見て返事をした。「今日は町まで行くの。ヤイラスのところに行かなくちゃ。もう彼にはずっと長いこと会ってない。3番目の手紙が届いてる、昨日ね。ヤイラスはあたしに町に来てくれって、何度も頼んでる。何か問題があったからなのか、ただあたしに会いたがってるのか、わからないけど。手紙には来てほしい理由は書いてなかった。ただ、来てくれって。それだけ。だから今日、町に行くの。早く行かないと時間がなくなる」

 「受刑者っていうのはそういうものだ」とニペルナーティ。「彼らはときどき女の人をチラッとでも見たくなるもんだ。おそらくヤイラスは、きみがここでどうしてるか聞いて、塩水にムチを漬けてるだろうね。気をつけろ、アン・マリ、ムチ打ちのごほうびが待ってるぞ。受刑者がピシャリとやるとき、そりゃひどく痛いもんだ」
 「あんたは黙ってて」とアン・マリは厳しい調子で返した。「あんた自身、どっかから逃げてきたんじゃないの。風来坊のあやしいやつだからね。それになんでヤイラスとあたしのことがわかるのよ。ただあれやこれや言ってるだけでしょ、カササギみたいに無駄に騒いでるだけ。ヤイラスはそういう男じゃないの。あの人が3回も手紙を寄こすのは、いいことがあるからよ。ひょっとして予定より早く釈放されたとか。そんなことが少し前に言われてたからね」
 「そりゃまた悪いニュースだな」 ニペルナーティが同情するように言う。「夫が家に戻ってきたら、きみはどうするのかな、哀れなことだ。それとも自分の犯した罪を告白するのかな、神父にするみたいに。もしそうしたとしたら、あのアホはきみを生かしておくだろうか?」
 アン・マリはニペルナーティを憎々しげに見つめ、答えようとしなかった。そしてヨーナの方を見て、「ちょっと、ヨーナ」と言った。「あんたクープのところに行って、なにか手伝えるんじゃない。それほどやることはないけど、もし居酒屋に誰かやってきたら、クープの助けになるからね。渡し舟の助手を見つけたんだから、暇じゃないの?」
 ヨーナはベルトを神経質にさわって、答えなかった。
 アン・マリは手荷物を入り口に置いたまま、前に進み出て、繰り返した。「行くの、ヨーナ。それとも行かないの? どっち?」
 「小さいときから、いつもこんな風だった」 ヨーナがアン・マリを見ることなく不平を言って、部屋の隅を歩きまわった。「毎晩、オレはベルトを椅子にかけて寝た。朝になって探すとどこにもない。煙みたいに消えてた。どこに行ったんだ?」
 「じゃ、あんた行きたくないのね」 アン・マリはそう言うと入り口の荷物の方へと下がった。
 「ヨーナは行くよな」 ニペルナーティはヨーナに向かって言い、「だけどそういう理由ではなくだ。ヨーナはアン・マリと町に行く。そこで必要なものを手にしてくる。ヨーナはそうすると以前に言っていた、今日こそはその日だ。二人が一緒に町にいくのはいいことだ。それでわたしがクープのところに行って、手伝えばいい。渡し舟の仕事はそれほどないからね」

 ヨーナがグッと頭をもたげて、その言葉に耳を傾けた。確かに、このニペルナーティに与えられた命令から逃れられないとすれば、アン・マリと町に行くのはいいことに思える。アン・マリと一緒にいられるのだから。そして「町に用事がある、というのは本当だ」とアン・マリを見ながら小さな声で言った。
 「そう」 アン・マリはそう言うと、椅子にすわった。「じゃあ、町に行くってことね?」 アン・マリはヨーナに笑みを見せて言った。「わかった、じゃあ急いで準備して。長いこと待ちたくないから、急いでるの」
 アン・マリはバラの花にまた触れると、色っぽい表情を見せた。スカーフを整え、スカートを座ったまま左右に広げて、ニペルナーティにこう言った。「クープが言ってたんだけど。ゆうべあたしを探してたの? 牛小屋を探しまわって、床を踏み鳴らして、ひどく怒ってたって、そうクープが言ってたけど」
 アン・マリは詮索するようにニペルナーティを見て、指でバラの花を引っ張った。
 「ずっと前から気づいてたよ」 ニペルナーティが何気ない様子で言った。「クープは信用できないやつだ。あいつは嘘ばかりついてる。実際のところ、なんであんなひどい嘘をつくのか理解できない。わたしがきみに何を望むことがある? なんでわたしが牛小屋を探しまわって、床を踏み鳴らすのかい。いいかい、アン・マリ、クープはきみに自慢をしたかっただけだ、わたしに会って、わたしと話したってことをね。それにいずれにしても、わたしはあの男を好きじゃない」
 ニペルナーティはアン・マリの前に立った。
 「わたしはきみを本当に探していたのかな?」 自信ありげにそう言った。「きみは何事もなく元気にここに座ってはいないだろうね。君の骨をボキリと折って、ほとんど肉も残らないようにしてたさ。それが上等な女性を手にしたときのわたしだ。いやいや、それが誰であってもだ。何も残ってはいない。皮と骨と、二つの窪んだ目だけだ!」

 ニペルナーティは部屋の端から端を何度も行き来した。そして脅すようにこう言った。「わたしの言ったことを覚えておくんだ。この先、まだ起きるかもしれないからね。実際、かなりの時間、わたしはきみを訪ねる計画を立てていた。そしてそこらへんの小屋や納屋のドアを全部壊す。わたしは盗っ人みたいにコソコソ隠れて忍びこんだりしない、大きな音をたてて、大胆に、目の前のドアを壊していく、するとそこにいる男どもはみんなわたしを警戒する。スズメが罠にかかったときみたいに、『クソ!』とさえ言う間がない。こう言われるべきだろう。女性というのはこういう男が好きなんだ。どうだ、この腕を見てごらん、ん? きみのヤイラスよりずっと強そうじゃないかい?」
 ニペルナーティは肩のところまでシャツの袖をまくり上げて、アン・マリに見せた。
 「どうだい、きみはどう思う? それとも口がきけないのかな?」
 アン・マリは飛び上がって、見にやってきた。が、ヨーナがいることに気づいた。ヨーナは部屋の中央にじっと立って、目を見開いてアン・マリを見つめていた。アン・マリは急にニペルナーティの腕を押しやった。
 「棒切れみたいな腕なんか、見せる価値がないの」  見下げたように言った。
 そしてアン・マリは腹をたててヨーナにこう言った。「いい、正直いって、あんたには耐えられない! あたしはここで丸1時間もおしゃべりしてて、時間を無駄にしたの。それなのにあんたはまだ準備ができてない! 花嫁みたいに着飾ってるわけ? こんなことしてたら、あたし遅れてしまう」

 「だけど準備はできてるよ」 ヨーナがおずおずと言った。「オレの考えでは、もうずっと前に出発できてたはず。だけどおしゃべりしたり、ニペルナーティの腕を見てたのはあんただろ」
 「ちょっと生意気じゃないの」 アン・マリがいましめた。「あいつの腕に何かしら見るべきものがあるかしら、って思ったのよ。あれくらいの腕なら誰だって持ってるってこと。さもすごいことみたいに、ニペルナーティは見せたけどね。何かすごいものが見れるのかと思っただけよ」
 アン・マリは荷物を手にすると、命令口調で言った。「いくわよ、ヨーナ」
 「じゃ、これが小さな子の腕みたいだって言うのか?」 ニペルナーティがアン・マリの背にむけて声をあげた。「そんな子がいるなら、見てみたいもんだ。10クローンやろうじゃないか、その子に。その子がいい子だったらもっとやってもいい。だけどそんな子はまだ生まれたためしがない、だから10クローンはわたしのポケットから出ていかない」
 ニペルナーティは入り口の敷居に乗って、細い腕に袖をおろすと、外を見た。アン・マリは息をきらせハアハアいいながら走り、その後をヨーナが駆け足で追っていった。

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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