見出し画像

[エストニアの小説] 第4話 #12 火薬筒(全15回・火金更新)

前回 #11 100万クローン
 クープは立ちあがろうとしたものの、崩れ落ちた。そしてまた椅子に座り込んだ。ニタリと笑い、次々に酒を口に運んだ。
 「その農夫はその後落ちぶれた」 しばらくしてクープが言った。「不幸に次々みまわれて、この教区にはもういない。誰かに畑を売って、立ち去った。だから俺は言ってるんだ、あの沼には手をかけるなってな。アン・マリが知ったら、メス狼みたいに襲ってくるぞ」

 「なんであんたはマリ・アンを家に住まわせてるんだい?」 ニペルナーティが訊いた。「自分の女みたいに森に連れていったり、嬉しそうに干し草畑を見に行ったりしたんだ? なんであの魔女をずっと前に追い出さなかった?」
 そこでクープは二ぺルナーティを訳ありな目で見た。
 「ヤイラスと俺は約束したんだ」 クープはつっけんどんに言った。「ヤイラスが捕まったときには、マリ・アンの世話を頼むとな。だからあの子がすべて悪いってわけじゃない。ヤイラスは釈放されて家に戻るまでの間、俺に、あの子の男に、世話役になってくれと言ったんだ」
 「あんたは嘘をついてる!」 ニペルナーティが大声を出して立ち上がった。「あんたの言葉はどれもこれも嘘だ!」

 クープは自分のグラスにウォッカの最後の一滴を注ぎ、それを飲み干し、勘定書を書きはじめた。
 「いっしょに飲んだわけだが、支払いはあんただ」 笑いながらそう言った。「それとももう1本いくかい。この楽しい飲み会をもう一回りするかい? あんたは気のいいやつだ、ここまでの支払いをしてくれてな。じゃ、もう1本持ってこようか?」
 クープは金をつかみ取ると素早く勘定し、それをポケットに押し込んだ。そして静かに言った。
 「いや、どうしてだ。俺は嘘などついてないぞ。友だちだから話したんだ。もちろん信じる信じないはあんた次第だ。しかし俺の口から嘘を聞いたことがあったかな。小さな嘘、くだらない嘘だってないだろ?」
 「あんたのやることはどれも同じだ! だます、盗む、嘘をつく」 ニペルナーティが声を高めた。「あんたは青々とした牧草地が怖いんだ、沼地にいるミズトガリネズミと同じだ。魚みたいにぬかるんだ所から離れない。あんたは泥の中が好きだろ、草むらの下で水がゴロゴロうなってる場所だ。ゴロゴロ音をたてて靄(もや)が広がる沼地が好きなんだ。母親のお腹にいるときから、コケモモの実やヒメシャクナゲやオシダなんかと一緒に育ったってわけだからな」
 ニペルナーティはクープの方へと歩み寄ると、テーブルをガツンとこぶしで叩いた。

 「だけどな、わたしがあんたを楽しませることはない!」 ニペルナーティは腹をたてながら言った。「わたしは千人の男をここに呼ぶ、のこぎりが音をたて、鋤(すき)が土を掘る。秋までには沼の水は消えて、草地は平らになるだろう。そしてゴロゴロと音をたてる底なし沼だった場所は、緑の草地に、広大な畑になる。そうすれば1、2年のうちに豊かな農場ができて、ここがあのマーラだったとは信じられないくらいだ」

 テーブルとベンチにつかまりながらヨロヨロと棚まで歩いていき、クープは新たなボトルを取り出してテーブルに置いた。
 「これもおごってくれるかい? これが最後の1本だ」とクープ。
 クープは急に態度を改めてテーブルの反対側で縮こまり、ニペルナーティに訴えかけた。
 「あんたの年老いた友、クープにこのウォッカを買ってくれるんだな? あー、ナザレーから来た若者よ、あんたはたいした金持ちだ、気前のよさは限りない。あんたの父親は50万クローンを残した、いい父親だ、優しい父親だ、わたしはそういうのを一つ捕まえて、テントウムシみたいに手のひらに乗せて、息を吹きかける。これはわたしのものかな? このウォッカを買うかい? ひとこと言えばいい、ひとことだ。そうすれば瓶のコルクはロケットみたいに飛んでいく。だろ?」
 ニペルナーティは金を投げつけ、クープはそれを犬がするように宙でつかみ取った。
 「しかしな、マーラには手をかけるな!」 クープが金をポケットに入れながら、不機嫌そうに言った。「ここではあんたは必要ない、千人の男もだ。沼地をさらいにどこかよそに行けばいい」

 クープはガブリとウォッカを飲み込んだ。目はらんらんと赤くなり、くちびるが膨らんできた。尖った頬が赤く染まった。
 「マーラには手をかけるな!」 クープが繰り返した。「ゴロゴロいわせておけ、さざなみも靄(もや)もだ。俺らは慣れてる」
 「わたしはあそこの水をはけさせる」 ニペルナーティが叫んだ。
 「そうか、おまえはそういうやつか。困ったやつだ」 クープが脅すような口ぶりで言った。クープは立ち上がってニペルナーティの方へ行こうとしたが、テーブルの上にどさりと倒れ込み、そこにあったボトルもグラスも皿も跳ね飛ばした。そして破片に囲まれて、すぐに眠り込んだ。唸り声をあげ、ブツブツ言っていたが動くことはなかった。
 ニペルナーティはクープをそこに残して、渡し舟の乗り場に向かった。

 ニペルナーティはクープにも、ヨーナにも、マーラにもあきあきしていた。旅にまた出たくなった。新たな場所、新たな人々と出会いたくなった。しかし夕方までに、ヨーナが火薬筒やドリル、導火線を手に戻ってくるだろう。それで自分は何をする? あー、ドリルに火薬筒。あー、あのアホなヨーナ。わたしに従うなんて! それともヨーナが戻ってくる前に、ここを出ていくか。痕跡を残さずに逃げだすか? だけどあいつらはあーだこーだ言い、笑いのめすだろうな、クープもアン・マリもヨーナもみんな揃って。自慢話ばかりする沼さらいがここに来て、沼をちゃんと見もせずに、おじけづいて逃げていったと。そして道ゆく人に、その辺にいる人に、宿の客に、ハンマーやドリル、火薬筒を見せてまわるだろう。みんなで嘲笑い、それをネタに楽しみ、ニペルナーティのことを臆病者とかなんとか呼ぶのだろう。
 いや、ニペルナーティはここにとどまらなくては。
 ニペルナーティはここの沼に、ここの人々に手を出さねばならなかった。不愉快な気分で、落ち込んで、森を歩きまわり、戻ってきた。そして渡し舟でまた寝そべった。

 夕方近くになって、居酒屋の方から呪いの声が聞こえてきた。クープが起きたのだ。
 クープは渡し舟にやって来た。顔は青ざめ、フーフーと息をつき、目は落ち窪んでいた。唸り声をあげると、頭を抱えた。
 「あー、哀れな俺!」 そう苦しげに声を出した。「俺は何をした? 最下層のケモノみたいに、グラスを、皿をウォッカの瓶を壊して、床にばらまいた。なんというならず者だ、この俺は。どうしようもない悪党だ。目が覚めてみると、何もかもが壊れてる、すべてのものが打ち砕かれてる。一番小さなグラスさえこなごなだ。これを誰が支払ってくれる?」
 クープはニペルナーティをじっと見つめた。
 「おまえが払うわけないな」
 「払わないだろうよ」 泣きそうな声を出した。「俺のために、このどうしようもないケモノのために、払ってくれはしまいか? どのノートにこの莫大な損失を書き込んだらいいんだ。何て題をつけて書けばいい? 理由はどう書く? 俺は幸せだった。今日はクローンをいくらか稼げる、いくらかの金を手にできる、とな。しかし何もだ。失って、失って、失いつくした。アン・マリが帰ってきたら、なんて言ったらいい? 皿は、グラスは、カップはどうしたのか、と訊かれたら。あの高価な陶器のコーヒーポットも二つに割れた。カケラが残ってるだけ。20年間、あれでコーヒーを入れてきた。見て楽しみ、心が暖かくなった。それがもうない。消え去った! あー、ナザレーからやって来た不運な男よ」 

 泣きながらクープは、ニペルナーティの方を向いた。「俺を叩いてくれ、叩いてくれ、このろくでなしの頭をガツンとやってくれ!」
 クープは頭をかかえ、手を押しつけ、髪の毛をかきむしった。
 「それにあの、あのきれいなコーヒーカップ、覚えてるかい?」 そう辛そうに言った。「そうだよな、覚えてないわけがない、あんたはあれでコーヒーを飲んだからな。アン・マリからの40歳の誕生日のプレゼントだったんだ。小さな可愛い天使が描いてあった。青いやつだ、青いな、天使がこっちを見てニッコリほほえんでいるんだ。その反対側には小さなバラの花が一つあって、芝土があったらもっとよかった、そこに鼻をつっこんで、いい匂いがするか嗅げるからな。もしこのカップが壊れていなかったら、いや、しかしそうじゃない、ひとたび不運に襲われると、何もかもがやられてしまう!」
 クープは失望し、ニペルナーティの方を怒りの目で見た。

 「いったいどこのどいつが俺にこんなに飲ませやがった」とクープ。「もしあんたがもうちょっと飲んでいたら、俺はここまで飲まなかった。なのにあんたは酒を見ようともしない。あそこに座ってはいたが、ウォッカは減っていかない。居酒屋にいて座ってるだけかい? ここに来たら、ぼんやりしてるんじゃない、飲むんだよ! あんた、おれの負債を払ってくれるんだろうな?」
 「いいや」とニペルナーティ。
 「だめだ!」 クープが嘆く。「こいつは、いいやと言った。やすやすと、冷たく、どうでもいいという風にな。あー、ナザレーからやって来た不運な男よ」

 不平を言い、あえぎながら、クープは居酒屋に走り込んだ。ドアがバタンと閉まり、悲しげな泣き声が窓越しに聞こえてきた。愛する者を失った女たちが悲しみの声をあげるように。

#13を読む

'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?