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[エストニアの小説] 第4話 #13 アン・マリとヨーナ(全15回・火金更新)

前回 #12 火薬筒
 「いったいどこのどいつが俺にこんなに飲ませやがった」とクープ。「もしあんたがもうちょっと飲んでいたら、俺はここまで飲まなかった。なのにあんたは酒を見ようともしない。あそこに座ってはいたが、ウォッカは減っていかない。居酒屋にいて座ってるだけかい? ここに来たら、ぼんやりしてるんじゃない、飲むんだよ! あんた、おれの負債を払ってくれるんだろうな?」
 「いいや」とニペルナーティ。
 「だめだ!」 クープが嘆く。「こいつは、いいやと言った。やすやすと、冷たく、どうでもいいという風にな。あー、ナザレーからやって来た不運な男よ」
 不平を言い、あえぎながら、クープは居酒屋に走り込んだ。ドアがバタンと閉まり、悲しげな泣き声が窓越しに聞こえてきた。愛する者を失った女たちが悲しみの声をあげるように。

 ダーベッ・ヨーナが町から戻ってきた。
 神に感謝だ、とヨーナは思う。ニペルナーティはこれで満足だろう。ドリル、火薬筒、導火線がカバンにはある、それで望みどおり、まるごと地球だって吹っ飛ばせる、もうヨーナの仕事は済んだ、問題はなしだ。しかし嫌な使いだった、嫌なことをさせられた、正直なところ。店のやつらがどれだけヨーナをジロジロ見て、笑ったりバカにしたりしたことか。あいつらの顔が森の上にのぼる月みたいに、どれだけでかく膨れてテラテラしていたことか。ヨーナはあんな嫌な顔は今まで一度として見たことがなかった。あいつらは傲慢で横柄だった。歯に金歯を入れていた。頭のてっぺんは剥げて光ってた。腹を見れば樽みたいで、いや樽以上にぶっとかった。あいつらはブルジョアというやつだ、ヨーナはとうとう自分の目でそれを見た。しかしあいつらは本当に嫌な感じだ、短い足はダックスフンドみたいに曲がってた。あいつらはニペルナーティの手紙をじっと読んで、ゲラゲラ笑った。それからヨーナのカバンに道具を詰め込んだ。そして気をつけろとヨーナに言ったが、金は一銭も受け取らなかった。ヨーナには厄介な知り合いがいる、すぐにでもあいつを追い払わなければ。

 そしてアン・マリとも何もいいことはなかった。
 アン・マリがこんなにも底意地が悪いのはなんでだ。あいつが走れば、捕まえるのは不可能。長い旅の間、アン・マリとヨーナは一言も口をきかなかった。片一方がすごい勢いで馬車を走らせているとき、どうして話などできよう。アン・マリは後ろを振り返りもしなかった。まるで家に帰る途中の小鬼みたいで、息つく間もなく、馬にムチ打っていた。ヨーナは頼みこむ。アン・マリ、頼むからちょっと足を休めよう、おしゃべりでもしよう、アン・マリ、お願いだ、こんなスピードでは息が詰まりそうだ。しかしアン・マリは耳を貸すこともなく、狭軌エンジンみたいに息切らせて走り抜け、竜みたいにうねる土ぼこりを後ろに舞い上がらせていた。ニペルナーティがアン・マリをいらつかせたのは確かだ。それとも他になにか問題があるのか。

 二人が町に着くと、アン・マリは刑務所に走っていった。ヨーナがアン・マリに言った。「大好きなアン・マリ、今日、町で祭りがあるんだ、行ってみようよ、ちょっと見てみようよ。ブドウパンとか何かおいしいものを買うよ」 またスカーフを買ってあげようと約束もした。エプロンとか洋服とか指輪を買ってあげてもいいとさえ思っていた。ちょっとの間、一緒にいてくれたなら、少しでも親密な言葉をかけてくれたら、優しく自分を見てくれたら。たった一度でも自分のことを見つめてくれたら、すっからかんになるまで、すべてをそのために手放しただろう。これがヨーナという男だった。しかしアン・マリは指輪もいらないし、ブドウパンもほしくない。ただただヤイラスのところへと急いだ。

  そしてヨーナは取り残され、ポカンと口を開けていた。実際のところ、午後になってヨーナはアン・マリと祭りで再会した。が、アン・マリはジプシーの人たちと一緒で、最初、ヨーナのことを無視していた。「そろそろ家に帰ろうか?」 ヨーナが訊いた。「いいえ、帰らない」とアン・マリ。「あたしは明日かあさってに帰る。そうクープに伝えて」 ヨーナはちょっとの間、顔を見る勇気もなく躊躇していたが、やっとこう尋ねた。「ヤイラスはなんか困ったことでもあって、きみを町まで呼び寄せたのかい?」「何を言ってるの?」 アン・マリは腹立たしげに答えた。「何を言ってるの?」 そう繰り返した。「あたしにちょっと会いたかっただけよ、それだけ。あの人、髪の毛が白くなって、腰もまがって、見るのも辛い姿になってる。おどおどして、従順で、おとなしい、前のヤイラスとは大違い。それにもうすぐ釈放されると思う、行ないがいいからよ。そうクープに言ってちょうだい!」

 アン・マリはパッと背を向けると、それ以上口をきかなかった。ヨーナはそこに突っ立って、あれやこれやと質問したけれど、アン・マリはジプシーたちと話しはじめて、一言も答えようとしなかった。それでヨーナは、アン・マリを祭りに残してその場を離れた。アン・マリがジプシーたちにピタリとひっついているときに、どうやってそこから引き離すことができよう。アン・マリは彼らと何か計画しているに違いない、そこをぶらぶらしていて離れない。ジプシーたちは浮かない顔をしていて、頭を横に振っている。アン・マリが何をたくらんでいるかは、誰にもわからない。この女についてはいろいろなことが言われている。しかしヨーナはそういった噂話を信じなかった。自分の目で見て、アン・マリは親切で性格がよく美しい、ただちょっと意地悪で横柄なところがあるのだと思っている。アン・マリはジプシーたちと何か相談をしてるだけで、それは家に帰るのに馬車に乗せてもらうといったことだろう。

 ヨーナはきっと後悔する。ニペルナーティは沼地の水捌けをし、岩壁に穴をあけてぶっこわす。ヨーナはまた渡し舟を行き来させるのだろうか。恥ずべきことだが、牧師館のやつらは、ヨーナを罵り、説教し、小屋から放り出すぞと脅した。そいつらが言うには渡し守の役目を果たしてない、客は川を渡るのに何時間も待たねばならなかったと。不満が爆発して、火と化すほどだった。小さくて痩せた村長自身、金切り声をあげてヨーナを糾弾した。村長は指を振りかざして「いいか、おまえは役立たずの父親と同じ道をたどってる! 同じ終末を迎えるだろうよ、おまえが悔い改めないかぎりな、まともな人間にならないかぎりな。ブラブラ、ピーピーしてんじゃない。まともな人間がやるように、渡し舟を走らせろ!」

 人々は代わりばんこに、あるいは声をそろえてヨーナに向かって吠えたてた。ヨーナは牧師館を出ると、汗びっしょりになっていた。もしこのろくでなしどもがヨーナのカバンに入っているものを知ったら、生かしてはおかなかっただろう。しかしここには小さな真実があった。ヨーナは自分の道を改善すべきだった。もし人々がこの男を放り出したなら、ヨーナはいったいどこに行けばいい? あいつらは渡し守の仕事を誰かにやらせて、ヨーナを追い出すのか?

 いいや、ヨーナは自分の仕事を熱心にやってきたし、必要な道具だって揃えた、ニペルナーティはそれを今や手にできる状態だ。もうヨーナの役目は終わった。ヨーナは沼地さらいから逃れればいい。もし誰かがあとで何か言ってきたり、勘違いをしたら、水から上がったばかりのアヒルみたいに、こんなに清潔だと、身の潔白を証明するだろう。

 そんなことを考えながら、ヨーナは深夜になって家に戻った。
 ニペルナーティはもう眠っていたが、ヨーナが小屋に入るとベッドから起き出して、こう訊いた。「ああ、やっと帰ったんだね。必要な道具は揃ったのかい?」
 ニペルナーティはカバンの中をかき回して、ドリルとハンマー、導火線をテーブルに並べ、火薬筒を慎重に検証すると、ポケットにしまい込んだ。しかし満足げでもなく、嬉しそうにもしていなかった。ため息さえついた。
 町で手に入れた道具類は、目的に叶うものではなかったのか? ヨーナはそう思い、びくびくしてニペルナーティに目をやった。明日、もっといいものを手にするため、また町にやられるんじゃないか。
 ところがニペルナーティは「よくやった、ヨーナ、必要なものを手に入れてきたね」
 それからニペルナーティは、ドリルとハンマーと導火線をカバンに戻してこう言った。「いいかい、ヨーナ、このことは秘密だ。誰にも知られずにコトはなされなければならない。やっているところに人が押し寄せてくるのは嫌だからね。わたしたちだけで、静かに、滝のところの岩壁に火薬筒を埋め込むんだ。そして準備万端整ったら、岩壁を爆破する。ドリルで穴を開けるのにそれほど時間はかからないだろう。4、5日でやり終えると思う」
 「オレはやんないよ!」 ヨーナが強く抵抗した。
 「なんてアホなんだ!」 ニペルナーティはそう言ってベッドに潜り込んだ。「悪い仕事じゃないんだ、マーラの水捌けによって金メダルがもらえるだろうね。だからヨーナ、明日の朝だ、朝早くな」
 ちょっとするとニペルナーティの寝息が聞こえてきた。ヨーナにこれ以上何が言える?

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'White Nights' from "Toomas Nipernaadi" by August Gailit / Japanese translation © Kazue Daikoku
Title painting by Estonian artist, Konrad Mägi(1878-1925)

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