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何度でも読み返したいnote3

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何度でも読み返したいnoteの備忘録です。こちらの3も記事が100本集まったので、4を作りました。
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#コラム

看護師だった母のこと

8月になり、母の何度目かの命日が訪れる。 大人になるまで、私は母が好きではなかった。 はっきり嫌いとまではいかなくても、自分の母と周りを比べて子供の頃からコンプレックスを感じていた。 母は看護師だった。 私が幼い頃から両親は共働きで、私と姉は当時でいう鍵っ子だったので学校から帰ってくると夜までひとりで留守番していた。 年が離れた姉は中学で部活をやっていたから、帰宅は母より遅かった。 留守番は苦ではなかったけれど、母が仕事の日に友達と遊びに行けないのが嫌だった。 ふだん

好かれようとし過ぎてた

異動まで、あと1週間。人生の終わりが残した思いに寄り添う仕事を離れて、来月から、新たな門出から続く長い旅路に花を添える職務に就く。さようならではなく、おめでとうと言える仕事に、少しだけ、心が躍っている。 あと少し、今の部署に在籍するものの、気持ちはすでに新しい部署に赴いている。幽体離脱で、朝礼に参加してる。あとは、現部署から、跡を濁さず、ライトにポップに、姿を消すだけだ。 ということで、金輪際、旧部署の人間に、どう思われても構わない。今まで被っていた猫をキレイサッパリ脱ぎ

「俺たちの本当の戦い」はもう始まっている

「俺たちの本当の戦いはこれからだ!」 みたいな、ジャンプ漫画の唐突な打ち切られ感満載のセリフ。 セットで 「〇〇先生の次回作にご期待下さい!」 これ実際に言っている人が結構いる気がする。 主に、現状に満足していない人。 子供の頃思い描いていた未来と現実が大きく乖離していて、それを認めたくない人。 うちの夫もそうでした。 ちなみに今は全く言わなくなりましたが、昔彼が鬱まみれになっていた頃、よく言っていました。 なにかにつけて「俺の人生、俺がまともに働き始めてから始まるん

もう海に沈めなくてもいいように

「コンクリートに括りつけて、海に沈めてしまいましょう」 同僚が言い放ったその物騒な言葉を、お守りのように胸に抱いていた時期がある。 その同僚と出会った職場は、博物館だった。 私は、大学を卒業してから、正職員の学芸員になったが、1年半ほど働いたのちに退職した。そのときの私は抑鬱状態だった。 半年ほど何もしない日々を送った末、私は、博物館の非常勤職員と大学の非常勤研究員として働くことになった。 博物館では、学芸員としてではなく、来客対応をする解説員として採用された。チケッ

史上最高のビールはこれだ!

ウイスキーはお好きでしょ、と歌うのは石川さゆりだが、ビールはお好きだろうか。 ビール好きなら誰にでも忘れられないビールというものがあるだろう。 初めて飲んだビール。 彼女と飲んだビール。 親友と飲んだビール。 失恋のあとのビール。 それぞれに思いの染み込んだビールの味に違いない。 しかし、この世には人類史上最も美味しいビールというものが存在するのだ。 僕は「とりあえず」ビール派だ。 そしてその後はビールだけのおかわりで終わることもあれば、日本酒、焼酎とすすむ時もある

おおかまちと娘

「おおかまちも連れていっていい?」公園に行く準備をしていると娘が言った。「いいよ」そう我が家にはお父さんはいないが「おおかまち」がいた。 それは娘が言葉を覚え始めたころ。わたしは実家で暮らしていて、玄関には母が懸賞で当てた30㎝くらいのキューピーちゃんが飾ってあった。 それは大事に飾られていた。わたしには賞味期限が切れる前日のカチコチのバームクーヘンしかくれない母だが、孫のかわいさに勝るものはなかったらしく母は人形遊びをしていた娘のもとにキューピーちゃんを連れていき、「こん

お天道様と私は見ている

ここにきて、もともとバカ高い私の自己肯定感がさらにうなぎのぼりで天井知らずである。 なぜか。 そう、朝起きたら顔を洗って日焼け止めを塗るようになったからだ。 この至極当然のひと手間をきちんと日常に組み込むようになり、私はこれまで以上に「正しくちゃんと生きてる感」を手に入れた。 毎朝顔を洗う度ににんまり。 私、今日もやったよ! 人として正しく一日をスタート出来たよ! 清潔な顔を保湿して、日焼け止めを塗布してにやり。 みんな見て! 一日家の中にいるくせに日焼け止めで紫外線から

20代の最後にロンドンに飛び立ったときのこと

今から6年前、残り数ヶ月で30歳になろうとしていた29の私は、20代の最後をこのまま平凡に終わらせたくないという衝動に駆られて、一人でロンドンに飛び立った。といっても、大それたことではない。ただの一人旅である。 20代は色々迷走していた。大学を卒業してからすぐに洋服関係の仕事をしたけれど、物足りなくて1年でやめた。それからずっと都内でマーケティングやウェブ関係の仕事をしていたが、社会(というか会社)に迎合しすぎた結果、自分を見失い身体も壊して29歳の時に思い立って東京を去り