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ミラノサンドを食べない

今日は、ドトールでコーヒーを飲んだ。

「コーヒー飲もうかな」って思って、
「やっぱりやめよう」とハッキリしっかり決められずに、
「どうしよっかなァ」というときには、飲むようにしている。

コーヒー屋でしか生まれないものはたくさんある。
それは、この部屋で生まれるもの以上に
余所にいたほうが自由な気分だなんて、なんだか不思議だ。

月に何回くらいコーヒーを飲むだろうか。
多いときは週に1回以上だし、少ないときには月に2回くらいというこの回数が
多いのか少ないのかわからないし、結果どちらにしても、外でコーヒーを飲むというのは、必要悪というか、贅沢であるという意識は持っている。
でも、コーヒーは飲む。
コーヒーという贅沢のある人生を、選んでいる。

ミラノサンドを食べたい。と思っている。
ずっと、思っている。

出勤の途中に、ドトールの看板を見て
ずっと食べたい、と思っている。

ああ、むかしはミラノサンドじゃおなかいっぱいにならなかったのに。
サンドイッチのことは飲み物だと思っていたのに
パンよりコメと肉のほうがいいと思っていたのに。
ああ、おとなになってわかる、ミラノサンドの誘惑たるや。

コーヒーは必要悪だけど、ミラノサンドは必要じゃない悪のような気がしている。
なんていうかもっと瀕死なときに
あるいはもっとハッピーなときに
あるいは、家の冷蔵庫がからっぽであるなどの
圧倒的な条件が揃ったときに食べるべきだ、と思っている。

わたしは、贅沢を棲み分ける。

コーヒーは必要悪。
必要に応じてカフェラテも認める。
スタバのフラペチーノは、新作が出たら1度は飲む。
人生に絶望したら(或いはその前に)コメダ珈琲に行くことも許す。

スタバのケーキは、あまり食べない。
「いつか食べたいなァ」と思ってみている。

ミラノサンドも同じカテゴリで
「いいなァ」と思って見つめている。

「食べればいいじゃん」と言われるけれど、そうではない。
食べることには理由と覚悟が必要で(それは値段ではなく棲み分けの問題として

いつかのその日を夢見ているあいだの
ふわりふわりとした幸福たるや。

このあいだ「スタバのギフトをいつ使おうか悩んでいる」と言ってくれたあの子みたいに
原宿で働いていたときに、「しぬ前にクレープを食べよう」と思い続けていたみたいに
(原宿では2年くらい働いていたけれど、3回くらいしかクレープ食べなかった。人はなかなか死なないものであった

いつか、食べよう。という幸福もまた
生きる希望に成り得るのだと思うので

わたしがスタバのケーキとか、ミラノサンドを食べているところを見かけたならば
「よく頑張って生きましたね」「おいしいでしょう?」と
褒めてもらいたいものです。




スタバのケーキを見ると、いつもこの日のことを思い出します。

でもここで、ひとりの時間で
しずしずと食べるケーキの幸福というのは、何かのひとつの儀式みたいに
よろこびの栄養が、身体中をめぐるのだ。



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