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【読書感想文】 流星シネマ

二週間、鯨のことばかり考えて過ごした。

ここのところ、手にした本を貪るように読んでいて
長い時間集中しているわけではないのだけれど、5分〜30分の読書を何度か繰り返して、早い場合は一日、長くても数日で読み終えていた。

本を読むことが、楽しい。
定期的にそんな時期がやってきて、まさに今それだった。
そういうときは、次々に本を買いたくなってしまうので、戒めるために図書館へゆく。
入り口の、表紙が見えるように置いてあるあのコーナーが好きで(たぶん、コーナーを作っている人と気が合うんだと思う)、そこから一冊選ぶ。

本を選ぶのにはコツがあって、まずは「読みたいかどうか」
当たり前だけれど大切で、いやいや手に取った本は最後まで読めない。

まずは表紙、それから文体、ページのめくり心地。
わたしは文章そのものの次に、余白を大切にする。
四隅に文字が詰まっている本は、だいたい読めなくなってしまう。
隙間があって、すうっと入ってくる本っていうのは、だいたいわかる。

そしてそういう本は、寂しいくらい一気に読み終えてしまう。
ああ、続きが気になって、終わってほしくないのに、結末が気になって、
寂しさに勝る感情がそこにあって、買ったばかりの二冊はすぐに読み終えてしまった。

▼最近、続きが気になってすぐに読み終えてしまった二冊


そう、好きな本というのは、すぐに読み終わってしまうのに。
「流星シネマ」は、少し違う。
読みやすさは、どこか懐かしさすら感じるほどであるのに、どうも前に進まない。
前に進まないことだけが、おかしい。
延々と興味の炎は消えず、わたしは二週間、鯨について考えていた。


タイトルには、鯨の文字はないけれど、鯨と溝(ガケの街)の話だった。

読みやすい小説、というのは幾つかあって、定番だけれど短編集が好きだ。
長編をぐうっと読むのは体力が必要で、それこそ神聖な儀式みたいで、よほど気が合う小説(あるいは見知った作家さん)でなければ、長編は読めない。

「流星シネマ」もそうだと思った。
表紙には6人の登場人物。
きっと、「流星シネマ」のある街で、それぞれの暮らしが入り乱れて、心がちょっと優しくなるような、そういう小説だと思ったのに。

予想は裏切られた。

主人公、というか「僕」はずっと太郎だった。
章が変わっても、わたしは太郎と一緒にガケを(ときどき登って見渡したりしながら)歩いた。
いつも小説を読むときは、もっと俯瞰した気持ちだったのに、わたしの視線は太郎となり、
あるいは、この街に住んでいる登場人物のひとりとなって、太郎の隣を歩いているような感覚に陥った。

だからわたしも、確かに探していた。鯨を


「これが小説っていうンだよなあああ……」

読み終えたあと、深夜ひとりの部屋で声が漏れた。
たくさん素晴らしい小説を読んで、好きな小説に出会ってきたのに、こんな感想は久し振りだった。

じゃあ、他の小説と何が違うかっていうと、提示された伏線と、回収のバランスがひとつ挙げられる。
まったく回収されないわけではないし、もちろん納得なのだけれど、そもそも解決する気がないというか
まさしく、「街の暮らしを一部切り取った」ようで、
暮らしは続いてゆくから、それほど終わりも始まりもない。
早めの段階で、アフルレッドは街を去るのだけれど、「いつか帰りたい」と言っていたくせに、帰ってくるわけではない。
「シを書きなさい」と言われた太郎は最後まで書かないし、
アキヤマ君のことだって、すべてが解明するわけじゃない。
それなのに、なんていうかなんだか、「ああ、小説を読んだなあ」と、妙に納得させられてしまった。

「あのね、手を動かして始めないことには、未来は生まれてこないみたいなの」

”流星シネマ”より引用

最後のミユキさんのせりふで、なんだかもう、そういうことだと思ってしまった。
手を動かさずに、小説に逃げ込んでいたわたしを見透かされたようで。
それが、清々しく心地が良かった。


例えば、凪良ゆうさんの「滅びの前のシャングリラ」は、「地球が滅びる」という設定で
吉本ばななさんの「ミトンとふびん」は、どこかふわっとしていたのは、旅先での物語だったから。

この「流星シネマ」は、本当にありそうだった。
ごくごく自然の、隣町の話みたいで、いやでも隣町に鯨はいるわけがないのだけれど、この街にだっているわけはなくて、だからいるかもしれなくてという、なんともいえない絶妙な、現実感と言っていいかわからないけれど、それが心地よかった。

あとは、立ち入り自由でピアノのある「流星新聞」の事務所の居心地の良さだとか
深夜にやっている「オキナワ・ステーキ」だとか
カレーの匂いが漂う喫茶店「バイカル」とか
やっぱり隣町にあるような気がしてしまう。

いつか「流星新聞」の事務所みたいなところに住みたい。
立ち入り自由で、壁は本で、ピアノがあって
わたしはそこで書いたり、ピアノを弾いたり歌ったり、眠ったりしたい。
小説だったら「だいたいあのひとは眠っている」と書かれたい。
「事務所とは名ばかりで、何の”事務”をしているかわからない」「あのひとは、どうやって収入を得ているのだろう」「大富豪の愛人がいるだとか、裏山はすべて彼女の資産だとか、諸説あるけれど、わかることはいつもひとつで、彼女は今日もお気に入りのモンスターの絵柄のついたスウェットを着ている。……そういえば、年齢もわからない」とか、そういうふうに書かれたい。

たぶん、良い旅だったのだと思う。
小説というその世界に、”どっぷり”というのとは少し違って、”しっかり”と浸って、適温のスープみたいに温かで、逃げられなくて、居心地の良い場所に、送り込んでいただいたような。


スープ、といえば
スープと、サンドイッチのことばかり考えていた日々のことも、覚えている。

本屋で、知らない作家さんで、それも男性のお名前で
表紙が可愛い絵柄(ネコとか女の子がいるとか)ではないのに、どうしてこの本を手にとったのだろう。
タイトルに惹かれて、開いたときの余白と、やはり懐かしさに惹かれたような気がする。確かあれは……そうだ、病院の帰りの本屋で買ったんだ。

丘の上の大きな病院に通っていたときの絶望感は、あまり思い出したくない。
先生とほんの3分話して、漢方を処方されるか
鼻に綿棒を突っ込まれる痛い治療をするか、どちらかで通っていた時期のこと。ああ、あとは立ったときと座ったときの脈拍を調べるだとか、なんとか。とにかく通っていた。

大きな病院っていうのは、何かに似ていると思って考えたことがある。
長い椅子と、ほんのりと薄暗さ。靴の擦れる音。
学校と、体育館の、その狭間みたいな空間だ。と思った記憶がある。

ときには、本を読んで過ごしていた。呼ばれるのも、呼ばれないのもいやで、時折きちんと受付がされているのか不安になったりして。そのときに読んでいたのが、「それからはスープのことばかり考えて暮らした」だった。

この本もなかなか進まなかったのだけれど、途中で離脱することなく最後まで読んだ。
大半を病院で読んだので、たぶん消毒の匂いがすると思う。

そしていまも、懐かしく思う。
路面電車が走り、サンドイッチとスープのお店があり、ちょっとかわったマダムみたいな大家さんのいるアパートのこと(なんとなく、赤と白と、レンガのイメージだった)
わたしはあの街に住んでいたし、今でも鮮明に思い出せる。


「この街になら、住めそう」

何度めかの引越しのとき、そう思ったことがある。
あれは兄の家に泊まって、それから仕事に向かうというシーンで、駅に向かったのは昼くらいだと思う。
ちょうど、人生のミゾみたいなときで、バンドも仕事も恋人も、ぜんぶ手放そうとしていたときだったから、人生で初めて「ほんとうに何を基準に家を探していいかわからない」と思っていた。
大抵は仕事とか、恋人とか、あるいは趣味の都合になるのだろうけれど、信じられないことにすべてを失おうとしていた。だからミゾだった。

昼のその街は明るくて、人が多くも少なくもなくて、ちょうど心地よかった。
いま思えば、「晴れた日の午後に景色を見る」という経験が久しかっただけで、なんともないような景色だったような気もするけれど、絶望の中「この街なら…」と浮かび上がった感情は、一生消えないのだと思う。
あのあと、兄の家の近くに引越した。


吉田篤弘さんの書く小説は、「住めそう」とか「気づいたら住んでいた」みたいな身近さと、独特の包み込むような温かさがあるような気がする。

失恋したときには、ユーミンの「春よ、来い」と「DANG DANG」
あとは、スガシカオの「クライマックス」を聞くと決めていたのだけれど
それでもままならないときは、吉田さんの小説を読もうと思う。
その街に少し住んで、あれこれ考えて、必死に生きて、英気を養って、
そうしたら自分の暮らしに、帰ってゆけるような気がしている。





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