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隣の芝生を、見つめている

かなわないな、と思う。

わたしの、上辺だけさらりとつくろうような言葉とは、違う。
物事の深淵に触れ、掴み取り、やさしくあたたかい言葉で回帰させる。
それが、日常に溢れていることでも、どれほど絶望的な事柄だとしても。
傷を、傷だと書くだけなら、誰にでも出来る。
でも、そうじゃない、そういう言葉を書く人を、ときどき見つける。

かなわないな、と思う。
何度も、打ちのめされる。
わたしとは、違う、ということを
わたしが、いちばんよくわかっている。

それを、「物事にまじめに向き合った代償」を思えれば、前向きだろうか。

そうやってわたしを打ちのめしてくるのは、今までの人生はピアノと音楽だけだったし
いまはそれに、”文字を書くこと”も加わってきている。

「わたしとは違う」ということは、
「どこかに在る、わたし自身を、少なからずわたしが理解している。そして向上したいと思っている」ということだと、そういうことにしたい。



「でも、”悔しい”と思うでしょう?」

音楽仲間と、音楽の話をしていたときだった。
よくある話だけど、もはや音楽を”好き”とか”嫌い”で括れない。
でも、”趣味”と言い切ることに違和感を感じる。
でも、お金を稼げいるわけではないので”仕事”とは言えない。
でも、わたしたちは、ライブのチケット代とか、CDの売上で、お金をもらっている。

同じ境遇でも、「お金をいただいているのだからプロだ」と言い切れる人がいて、
そういうひとたちは、やっぱり眩しいし、真摯だなあと思う。
それもやっぱり、”わたしとは違う”と思ってしまう。

「”悔しい”のはきっと、まじめに向き合ったからだよ」

きっと、そうなのだと思う。
わたしがどれだけ料理が下手でも、絵が下手でも、どうでもいい。
そりゃそうだ、と思う。

でも、そう思えないのは、きっと、



わたしより、「すばらしいもの」を持っている人は、たくさんいる。
当然、たくさんいる。
わかっているのに、何度も打ちのめされる。

そもそも、「すばらしいもの」ってなんだろう。
言葉って、本当に難しい。

「すばらしいもの」は、
「わたしが持っていないもの」で、
隣の芝生は、本当にいつだって真っ青だ。



それでも、
「読んでるよ」「好きだよ」「応援してるよ」と言ってくれる人が、わたしにもいる。
本当に嬉しい。有り難い。
そう思ってくれたうえに、それを言葉にして伝えてくれるのは、本当に嬉しい。

わたしが何を「持っていない」と思っていても、
きっと、わたしが「持っているもの」を見つけて、拾い上げてくれているのだと思う。

「好きにしゃべるから、勝手に拾い上げて欲しい」というような文章を書くわたしは、
本当に身勝手だなあ、と思う。
残念ながらそれが、「わたしらしいなあ」とも思う。

支えてくれている人がいる。という事実は、しっかりと受け止めたい。
でも、「わたしが持っているものは、”すばらしい”という評価をいただいたので、わたしはこのままでいい」というのも、少し違う気がする。

言葉って難しい。
いや、それ手前の「感情の置所」って、本当に難しい。
Aが事実であることにイコールして、Bが事実でない、というわけではない。
同じように、Aが事実だから、Bも事実だ、というわけではない。
連なっているような事柄も、それぞれは独立している。
評価を受け取りながら、叱咤激励をする。
なかなか難しい。



答えはまだない。
これからもずっと、ないかもしれない。
そして、答えを求めているかも、わからない。

そういえば、10代の頃「遊牧民になりたい」と言っていた。
モンゴルが舞台の小説で、移動式の住居を使って、旅をしながら暮らす話だった。

いまでもわたしは確かに、旅をしている。
目的地を目指す旅では、ないかもしれない。
何にもなれないし、何も成し得ないかもしれない。
目的地がないっていうのは、そういうことだ。

でも、「何もしなかった人」になりたくない。

そんな思いで、わたしは今日も
音とか言葉の、薄い隙間を縫うように、旅をしている。



【photo】 amano yasuhiro
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【model】 ハルナ
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