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誰かを「羨ましい」とおもうとき

羨ましいなあ、と思っていた。
そんなふうにできて、いいなあ、なんて気持ちを、ぷかぷかと心の海に浮かべながら、わたしは眠りについた。

いいなあ、なんて誰かを羨んだりしてしまうとき
わたしの心は、だいたい2種類の方向に傾いている。
そうなのではないか、と、目覚めの一服をしながら考えた。

ひとつは、「わたしだってそうしたいのに」という気持ち。
わたしができなかったり、我慢したりしながら、どうしても手に入れなかったものを、持っている人を見たとき。

もうひとつは、「わたしは絶対にそうしない」と思うとき。
わたしのルールや、生き方や、美しさや気高さを大切にするならば、「そっちは選べない」とか「選べない」ものを、選んでいる人を見たとき。

この、どちらかのような気がする。
だからこそわたしは少し、妬ましいような視線を送ってしまう。
そんな自分が醜く感じてしまって、「今日はもう、何を言っても思ってもだめだ」と思って、眠りについたんだ。

醜さは、煙と一緒に吐き出してしまった。
今朝のわたしはけろりと、「そりゃあ、そうだよなあ」と頷きながら、コーヒーを飲んでいる。
そりゃあ、そうだ。
どちらにしたって、「今わたしの手の中にないものを持っている人」は、なんだか眩しく見える。
当然のことだった。
だいじょうぶ、悲しまなくたっていい。

状況はもう、整理された。
わたしはどう努めればいいか、理解している。

「わたしだってそうしたいのに」と思って手に入れたいものがあるならば、努力をすべきだった。
なぜだか、「すでに手に入れた人」を見ると、「あいつは容易く手に入れていいよなあ」と思ってしまう。
それはずいぶん勝手で、
もしそれが事実だとしても、「わたしにとっては、努力しなければ手に入らないもの」であるならば、やっぱり努力するしかない。
相手がどうやって手に入れたか、その過程はわたしの人生に於いて関係のないことだった。
参考にすべき点があるなら、積極的にパクろうとは思うけど、それだけだった。

その道程は、ずいぶん遠く見えて、気が遠くなるけれど、進んでゆくしかない。
進みながら、「本当にわたしが欲しいものなのか」を確かめて、「わたしが求める形」に近づいていくしかない。

「わたしは絶対にそうしない」と思うものは、本当にそうしてはいけないのだ。
そんなことは、わかっている。
そういうときも勝手に、隣の芝生は青く見えて、「この人はラクをしている」とか「ずるをしている」ように見えてしまう。
そんなふうに妬ましさを感じるのは、美しくない。
そして、わたしにとって美しくない生き方は、わたしの幸福ではなかった。
然るべき形で、幸福でありたい。そう願う。
わたしは、わたしのルールの中で、美しく生きようと努めている。完璧じゃなくても。

やっぱり、隣の芝生はわたしには関係がなかった。
隣の芝生に影響を受けることもある、ということは別途自覚したうえで、わたしは自分の生き方を貫くだけだった。
もしそこで、「生き方を変えてもいい」とか「わたしのルールの中で選べる道がある」と思ったら、物語が少し変わる。
「手に入れるべき対象」と判断したなら、やっぱり努力すべきだし、そうではないなら視界の端に追いやるべきだ。
そう、そういう世界線もあるのね、と呑み込む。そして消化して忘れる。
わたしは、わたしの世界を生きるしかない、そうしたいのだということを、もう一度確認する。

なーんだ、たったそれだけのことね。
つぶやきながら、二本目の煙草に火をつける。
やるべきことは、わかっている。

さあ、今日も「わたしのやり方」を貫いてやろう。
わたしの欲しいものを、手に入れていこう。
ゆっくりね、サボったって良い。
でも、そう思ったことを忘れずにいよう。

ひとりで小さく笑いながら、朝7時の時計に向かってほほえみかけた。




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