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おじさんたちが、元気な世界が良い

知り合いのおじさんが主催するライブに
知り合いのおじさんが出るっていうから
遊びに行ってきた。

有り難い。
もう、知り合って十余年も経つのに。
まだこうして声をかけてもらえる。

会場に行ったら、「久し振りだねぇ」と声をかけてもらえて、知っている顔がちらほらいて、なんだか嬉しくなってしまった。

最近はライブハウスの出入りも減って、周りも後輩ばかりになってきたけれど
おじさんたちと話していると、20代で、バーカウンターで煙草ばっかり吸っていた自分のことを、深々と思い出せる。

おじさんたちと知り合ったころは、まだキャスターマイルドを吸っていたでしょうか。
いや、おそらく失恋して煙草を変えたあとーーーわたしの最後の煙草、アメリカンスピリットメンソールライトに変えたころだったはずです。

「うまいから、吸ってみな。1本やるから」
煙草を変えたのも、ライブハウスでの出来事だった。
恋人と別れて煙草を変えるというのは、必要な儀式だと思えて
あの夜、「やさしくてカッコ良いおじさんに勧められたキャスターマイルドを吸うわたし」に生まれ変わった。
だからあの煙草は、ずっとずっとやさしい味がした。

わたしはあのとき、恋人がいることも、恋人の元を去ったことも、ごくごく限られた人にしか言わなかったけれど
ある夜のジャズセッションのときは、ほんとうに狂ったように煙草を吸っていた。
お客さんも少なくて、煙草を吸っていなければ立っていられなかったようで、煙草を吸うことが仕事のような夜だった。

「失恋でもしたかァ?」
いつものおじさんが、ふざけて声をかけてきた。
いつもは「おじさんとデートするか?」とか、「おしりさわっちゃうぞ」とか、とにかくふざけた人だったから、別に気にしなかった。いつも通り笑ったはずだった。
おじさんが、わたしに触ったのはあの夜だけだった。
あの夜だけ、おじさんは黙ってわたしのアタマを撫でていった。

あの手に、救われた。

そのような出来事の繰り返しで、わたしは生きてきた。
今日、おじさんたちの歌を、音を見て、まるで走馬灯みたいに思い出していた。
「若いんだから、走馬灯なんて言うんじゃないよ」と、おじさんたちは叱ってくれるだろうけれど。

光の中にいる”おじさんたち”を、浴び続けきた。
二十代のころ、それが日課だと言っても良い。
毎週火曜日のセッション、第一日曜日のセッション、
土日も、高校生や大学生のイベントも多かったけど、おじさんのイベントも確かに多かった。

あれが、わたしの世界と、未来だった。

みんな酔っ払って、その大半が心地の良い酔っ払い方で(だから十余年経っても、みんなわたしのことを覚えてくれている)
怒鳴ったり喧嘩したりっていうのは、ほとんどっていうか、全然なかった。

昼間はどんな仕事をしているんだろう、と思ったこともないけれど
仕事帰りの平日、特別な土日にライブハウスに現れるおじさんたちは、高校生みたいにキラキラしていた。

ほんとうに、あのころお客さんに怒鳴られたことがないっていうのは、いまでもわたしの自慢だった。
あれから別の仕事をいくつかしたけれど、世の中っていうのは平気で他人に怒鳴ったり、電話をガチャ切りする人が、一定数いる。残念ながらいる。
でも、ライブハウスのおじさんたちは、趣味や目的を持って、それは居場所となって、怒鳴っている暇なんてなかったんだ。
そんなことしたって、ギターはうまくならないし、酒がまずくなるって知っていたんだと思う。

この音と、光の中で生きてきた。
わたしは今日、確信した。思い出した、と言ったほうがいいかもしれない。

あのころ、未来に不安がなかったのは、若かったからだと思っていた。
自分の”バンド”という安心する居場所と、わたしのピアノを必要としてくれるうた歌いがいたからだと思った。

だけど、たぶんそれだけじゃない。

楽しそうだったんだよ、おっさんたちが。
ずっと、みんな、
もれなく、揃いも揃って
いっつも笑ってたんだよ。

ときどき、お菓子をくれたり、一緒に煙草を吸ってくれたりした。
わたしの顔を見て「いつもの」と言ってくれる人がいた。

ああ、わたしはあのとき、希望をいただいていたんだ。
いやいや、おっさんたちはそんなつもりなかったと思う。
ただただ、自分が、仲間と楽しくやってただけだと思う。
それでも、それだから

おじさんたちが、楽しそうな世界がいい。
それを見ると、わたしも楽しくなる。

おじさんたちの今は、わたしの仮想未来で
なんとなく、それが明るいってことのような気がした。
たぶん、大丈夫だと思えた。

そうやって、生かしてもらってきた。
わたしは、町田に訪れてくれたすべてのおじさんたちに、おとなにさせてもらったんだ。
みんなの背中を見て、ここまでこられたんだったーーー

「どうして生きてるんだろう」

ここ2年間は、そう思うことが多かった。
「生きている意味は、ないのではないか」と。

病気になった身体は言うことを聞かず、仕事にも行けない日々が続いた。
経験上、こういうときは「元気になったらアレをやろう」という目標は持たないほうがいい。
「結局、目標に至らなかった」という結論に至ってしまったとき、本当にすべてが終わってしまう。
だから、ただ、なんとか、生きていることだけを褒めようとしていた。

自分で家賃を稼げない自分を、ひどく呪った。
家賃を払えなくなったら実家に帰ったらいいけれど
実家で、ときどきアルバイトとかできたりしても
目標も持てずに、動かない身体で、ただ、母親に心配されながら生きてゆくわたしに
生きている意味は、あるのだろうか。

世の中の、働けないひとに生きている意味がないなんて、そんなことは絶対に、断じてない。
断じてないから、わたしも生きていてよいはずだと思ったけれど
わたしが働けない分の、家賃とか食費を、家族に払い続けてもらって生きてゆくことに
病気が治らなかったらそうなってしまうことに、ひどく絶望していた。
誰かに養ってもらってまで、大切な人の命と時間を燃やしてまで、わたしの命に意味はあるのだろうか。
その答えを何度も誤魔化して、何度も、何度も

「生きたい」

ストレートにそう思えたのは、久し振りだった。
このところはうまくいかないことより、やりたいことの比重が増えてきてはいたけれど
まだまだ足りないところを数えてしまうような日々で
「生きていってみっかァ」と笑えるくらいにはなっていたけれど。

生きたい。
生きなきゃダメだ。
わたしは、このおじさんたちよりも、長く生きなきゃダメだ。

それは、いただいた光だった。
こんなに、こんなに「生きるって楽しいぜ」って
そりゃあツライこともさ、みんなあっただろうけど「まあ、なんとかなるからさァ」と言って
“まだ”歌ったり、ギターを弾いたりしている姿が、どれほど眩しいことか。

10年前からオジサンだったひとたちが、10年後もオジサンのままで、まだステージに立ってるっていうのはねえ
ほんとに、すごいことなんだよ。
おじさんたちの、その真っ直ぐさと、バカさみたいなものがね、
わたしを、二十代から三十代に導いてくれたんだよ。

おじさんたちの姿を見て、おとなになったんだよ。
いやいや、そんな大それたこと言わないでくれよって、おじさんたちは言うかもしれないけれど
これはね、おじさんたちに言ってるんじゃないの。
わたしと、同年代と、
それから、もっと若い子たちに言いたいんだよ。

わたしは、あの光の中を生きて、おとなになったから
その光を、次の世代に返したい。
おとなになるっていうのも、年を取るっていうのも、悪くないって、何歳でも人生は楽しいって
「変わんねぇよ」って、健康の話とかしながら、でもそう言って、笑って、生きてゆきたい。

おとなになっても、何歳になってもだいじょうぶ
だいじょうぶ、心配すんな

それが、町田でのライブハウスで過ごしたわたしが、勝手に受け取ったメッセージだった。
それを今日、思い出していた。

ああ、今日は善い日だった。
たまに会うのもいいねえ、なんて言って。
なんの話をするわけでもなく、顔を見れてよかった、ってやつ。

今日、ちょうどこんなツイートを見た。

わたしのご縁っていうのは、ここにあるのだと思った。

そして願わくば
これからもずっと、おじさんたちが元気な世界がいい。
その元気を、わたしが”次のおじさん”になって、そしてまた次のおじさんに渡していきたい。
おじさんたちが元気だったら、世界はずっと負けないんじゃないかと思った。
負けて欲しくない世界があると思った。

だからわたしも、折れずに生きて、
わたしが元気な姿を見せることが、おじさんたちの元気に繋がりますかね?
そうやって循環させてもいいですか。

今日はありがとう。
わたしの時間と、命の重さを知れた気がしています。

未来が明るいかどうかは知らん
でも、おじさんたちのイマってやつは、なかなかに格好良いと思えたわけですよ。

そんなね、あなたたちの背中を見て育ったわたしが、苦しみながらしぬわけにはいかないのです。
げらげら笑って、失敗して、でも自分と仲間を大切にして
生きてゆくことの中に、答えはある。
いや、あるのかもしれないと言って、笑って明日も越えてゆきます。




【photo】
amano yasuhiro
https://note.com/hiro_pic09
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