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コーヒーと百の物語

「今日は、スターバックスに寄って帰ろうと思うの」
雪だし、リモートワーク推奨だし、
今日はもう帰るね。
スタバの新作があーだこーだと少し話してから、「お疲れさまです」と言ってオフィスをあとにした。

スターバックスは満席だった。
いつもより帰りの時間はずいぶんと早く、雪の日だというのに。

ドトールも満席だった。
なんていうか、今日はそういう日なのだと思う。
外出したなら、コーヒーのひとつでも飲んで帰りたいよね。
わかるわかる。
わたしも、そう。

でも今日は寒いし、満席だし、念のため持ち帰ったパソコンは重いし、帰ろうと思っていたところで、思い出してしまった。
そう、いまはいつもより少し早い時間。
ということは、いつも6時とか7時に閉まってしまうカフェに、行けるのではないか。
ああ、わたしってば天才かもしれない。

いくつか候補はあるけれど、友達が勧めてくれたカフェにした。
勧めてくれる、というのはとてもいい。
はじめての場所なのに、みょうに勇敢な気持ちになる。
だってもう手紙に、「あなたが勧めてくれたカフェに行きました」って書くつもりだから。



はじめての場所は、いつも緊張する。
ほんとうはそうだ。
できる限り、安心して暮らしたい。
カフェも、スタバとかドトールなら安心だ。
メニューも、注文の方法もわかるし、過ごし方もわかる。
初めてのカフェは、ひとりで座って本を読んだりできるだろうか。そわそわしちゃう。

でも今日は、えいやっと扉を開けた。
面倒事を飛び越えた先のときめきに、どうしても惹かれてしまうときがある。
それは雪の日の、ひとりの、今日みたいに。

店内はガラス張りで、明るかった。
黄色い電気と、白い電気がまざっているみたいな、好きな明るさだった。

「店内をご利用ですか?」と尋ねられ、頷く。
「お好きな席へどうぞ」と言われ、手近な窓側の席を選んだ。
荷物をおろそうとしたけれど、パソコンとカバンと傘が絡まって、全然スマートにいかない。
というのは半分くらい言い訳で、このお店は、あそこのカウンターでコーヒーを注文するのかな。それとも座って待てばいいのかな。なんて不安に思っていた。
荷物をおろすあいだに、うまいこと見極められたらいいのだけれど。
そんなこと訊けばいいのに、わたしってばいつもそわそわしちゃう。

コートを脱ぎ終わったころに「メニューです」と声をかけてもらった。
このまま座ってもいいらしい。
「決まったころにお声掛けします」

渡された3枚のシートを、じっくりと見る。
コーヒーが何種類かと、ケーキがみっつ。
いろいろ悩ましい気持ちもあったけれど、どうしても「限定コーヒー」が気になる。
ケーキを食べようか悩もうとして、さっきクリーム大福を買ったことを思い出した。ばんごはんも近いし、今日はコーヒーだけにしておこう。
思考がまとまったと同時に、メニューをテーブルに置く。

そのあとすぐに「お決まりですか?」と声をかけられて、驚きというか、漂うような心地よさだった。
わたしがメニューを置いたことに気づいて、それが「注文が決まった頃」と見極めた。
言語化するならば、「もてなされている感じ」だろうか。
ドアを開けてもらう、荷物を持ってもらう、
困りごとに対して、スマートに手を差し伸べてもらえるような
わたしはこの空間のゲストで、居心地がいいように尽くしていただいている。
その感覚は、心をとてつもなく踊らせた。



今日は、読みかけの本を読もうと思っていたのに、なかなか開けずにいる。
踊った心の、早すぎるワルツにしばらく酔う。
売られているコーヒーの種類を確かめる。
店内の明るさも、もう一度確かめる。
そうすることで、少しずつBPMを落としてゆく。

夕方5時のチャイム、聞き慣れた音がごぉんと響いた。
ああ、いつも聞いている音なのに。

聞く場所が違うだけで、こんなに違うふうに聞こえて響いている。
ただそれだけのことに、また心が躍る。
知らないことをひとつ知る。
それは、一度目に読む結末のわからない小説みたいなときめきだった。

それは、確かな幸福だった。
わたしはいまこの空間に揺られ、味わい尽くそうとしている。



届いたコーヒーをまたじっくりと眺め、息をのむ。
ふわりと濃い香り、
そして口の薄いカップ。

口の薄いカップというのは、飲み物をおいしくする。
おいしくする、というか、味をダイレクトに伝えると思う。
だから時々出会う、この手のカップにときめかずにはいられない。
「おいしい」という自信のあるものだけが、ここにいることを許される。

コーヒーとお酒っていうのは共通点があって、飲み物のくせに「チョコレートのような濃厚さ」とか、「カシスのようなさわやかさ」とかたとえられるところだ。
いやいや、コーヒーはコーヒー味で、日本酒は日本酒で、ビールはビールだろう。
そうに決まっている。

と、思っていた。
この瞬間まで。

まず濃い。
それなのにさわやかだ。緑の気配がする。
そして甘い。チョコレートの後味と言われたら信じる。
それなのにコーヒー味で、濃いのに飲みづらくない。
ああ、コーヒーってこういうことだったのか。




友達に手紙を書こうと思った。
今度は一緒に行こうね、って言う。

わたしはまた、ここに来ると思う。
また幸福を、コーヒーを、味わい尽くしに来ると思う。

さっきコンビニで、トゲトゲした声を出したことを反省している。
店員さんもなんだかイライラしていたし、わたしは笑う余裕がなかった。疲れていたんだと思う。

だいじょうぶ、大福も花も買った、コーヒーもうまい。

わたしの人生ってば、案外容易く幸福を取り戻せるではないか。
今日はコーヒーと一緒に、そんなことを確かめている。

コーヒーなんて、いくらでも飲んでいる。
たぶん帰っても飲むし、会社でも飲む。
でも、コーヒーはコーヒーの数だけ気づきと物語があって、
わたしの日常も、コーヒー屋も、コンビニの店員さんも、なにもかも
その数だけ物語があって、そのうちのいくつかはきちんと幸福にできているのだと思う。


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松永ねる
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