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やさしさをまとって

「へえ、」
わたしはひとり、つぶやいた。

Amazonで買い物をするときは、クレジットカード会社のホームページを経由して、「ポイント2倍」の恩恵を授かっていたのだけれど、その優待がなくなったみたい。
残念だけど、仕方がない。

わたしがいますべきことは、失われた事実を悲しむよりも、笑って「他に使えそうなモノはないかなあ」と探すことだった。
わたしが普段使うサイトで、ポイント2倍になるもの。

調べてみたら、「ユニクロ」の文字を見つけた。
なるほど、これなら使うかもしれない。
でも、ユニクロで買い物するときは、オンラインよりも実店舗のほうが回数が多い。
このポイント優待は、実店舗の買い物でも適応されるのかなあ。

と思ったところで、面倒になってiPhoneを投げた。
ユニクロで買い物をする回数は、Amazonの5分の1以下だと、わかっていた。

わかっていた。

インターネットの広い海に旅立てば、同じ疑問を持った人が、答えを書いてくれているであろう、ということは。
情報を鵜呑みにするのは危険だけれど、いくつかサイトを見て巡れば、答えにはきっと辿り着ける。
いまはそう、そういう世の中なのだ。

どれだけ情報が溢れていても、何を信じるか、はいつだって自由だと思う。
何を信じるか、どの情報を摂取するか。

子供の頃のわたしは、天気予報を信じていなかった。
なぜだか、「靴を蹴飛ばして表だったら晴れ」というのと、大差がないのだと思っていた。

いまでは、天気予報を見ながら暮らしている。
もちろん外れることもある、というのも理解しながら。

「君はエッセイで”謝って欲しくない”と言っていたけれど、ほんとうは謝って欲しかったんだろう?」
と、言われたことがある。
それはずいぶん、確信めいた言い方だった。

わたしは驚いた。
「嘘を書かない」というのは、わたしの中で大切にしていることだった。

フェイク、を入れることはある。
いまは水を飲んでいるのに「コーヒーを飲んだ」とか、(でもほんとうにさっきまではコーヒーを飲んでいた)
時計が「6時18分」を差しているのに、「6時だった」と書いたり、
ほんとうは煙草を2本吸っていたのに、1本と書いたりとか。
そういう、わたしが”些細”だと思えることだけ、「嘘」ではなく「フェイク」として書く。

「謝って欲しいかどうか」なんてそんな大切なこと、どうして嘘を書かなきゃいけないんだろう。
そう言われて、悲しくなってしまった。
いや、もしかしたら「謝って欲しくない」と思い込みたかっただけだろうか、そういう意味合いなら書くかもしれない。
でもやっぱり、書いた時点で「謝って欲しくない」がわたしの真実なんだ。

わたしから吐き出された言葉は、その時点で「わたし」から離れてゆく。
どのように受け取られても仕方がない、とわかってはいる。

わかってはいるけれど、
もし君が「まつながはエッセイで”謝って欲しくない”と言っているが、謝罪を必要としているのだと思う」と誰かに言ったら、
誰かには、それが真実になるのだろうと思う。

少なくとも君が、「謝罪を必要としていると解釈した」という事実は、残ってゆく。

こんなことを言ったら、何も書けないだとか、気軽に感想も言えない、なんてなってしまうのは寂しいから、そういうことを言いたいのではないのだけれど。

「インターネットは、現代人には早過ぎだ」と言っていた友達の事を思い出す。

かつては、「自分の村」とか「隣の村」の情報だけで生きていた人類が、産業革命に於ける蒸気機関の発明で、長距離移動の術を経て(これだって18世紀半ばだから、ずいぶん最近の出来事だ)
テレビの普及で、「会ったこともない人」から多量の情報を得られるようになって
それから数十年経っただけの現在では、「誰でも不特定多数に情報を発信できる時代」になったんだから驚きだ。早すぎる。

それでも、「情報」というのは「他者」であり、
他者と関わるには、「情報」がついてくる。
わたしがさっき例に挙げた「謝る云々」の話は、オフラインでの出来事だった。

誰かと、関わって生きたいんだと思う。
そんなことができるかわからないけれど、救いたいし、救われたいとどこかでずっと願っている。

「強く生きるね」

ライブを見終わったあと、わたしはおじさんにそう告げた。
格好良いライブをする、格好良い生き方をしているおじさんだった。
年下の小娘にも、気さくに接してくれるところも、やっぱり格好良くて好きだった。

ライブを見終わったあとだから、おじさんが忙しいであろうことはわかっていた。
だからわたしが告げたのは、ひとことだけだった。
そして、おじさんは笑った。
息をするように、わたしに返事をした。

「やさしく生きるんだよ」

いまでも、おじさんの言葉を思い出す。
わたしが「格好良い」と心惹かれたあのひとは、強さじゃなくて、やさしさを抱いて生きている。

幼さを隠すような強さや、傲慢さ、戦車のように勢いよく駆け抜けるだけではなくって
足元の花を見つめて、「きれいだね」って思える、やさしさを。

溢れる情報の中、わたしは「やさしさを纏うこと」だけは、どうか
どうか、忘れずに生きていきたい。

これがわたしの真実だ。
この真実ひとつあれば、大きく踏み外すことはない、と。
信じることに、決めたのだ。




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