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サッカーの本当の楽しさを、知らないままに死んでいく

私はサッカーの本当の楽しさを知らない。
そう思い知らされたのは、割と最近のことである。

大人になるまでまともにボールを蹴ったことはない。
正確に言うと、蹴ることが許されなかった。

ボールを蹴ることを許されてからというものの、
それまでの人生で失ったものを取り戻すことを最優先に生きてきた。

誤解を恐れずに言えば、仕事よりも大切だ。
観戦主体に動くようになってからも、それは変わらなかった。

自分の判断で、自分の大切に思っていることに打ち込む。
そんな自分が誇らしかった。

毎日が楽しかった。
過去のわだかまりは清算できたつもりでいた。

これでようやく人生うまくいく。


はずだった。


サッカーをよく知る人から見れば、
私のようなケースは到底「楽しんでいる」とは認められないようだ。

確かに、ボールを蹴り始めてからも、
チームでは決して戦力とは言い難かった。

では何が楽しかったのだろう。

おそらくは、やりたいことに打ち込める「生き様」が楽しかったのだ。

それを「サッカーが楽しい」と言い換えるのは欺瞞なのだ。

自分自身は楽しくても、
客観的に見ればそれは所詮「おままごと」だったのだ。

ネットが発達し、まともにサッカーに打ち込んできた人達の生きざまが可視化された影響は大きい。

図らずも自分の本当の立ち位置を自覚することとなった。
プロ選手などではなく、学生時代に普通にサッカーに取り組んできた人たちと比較してである。

彼らと比べ、顕在的にも潜在的にも長いこと壁を感じて生きてきたが、
あくまで自分の気の持ちようの問題だと考えていた。

そうではない。厳然とした壁はあるのだ。それを思い知らせてくれた。

もはや遅かったのだ。

「大切な時期」の十数年間は、一生かかっても取り返せない。

どう逆立ちしたところで、
同じサッカーファミリーと認められることなど到底かなわない。

私のような人間を彼らから見れば、それがどんな理不尽な事情であろうと、サッカーファミリーから脱落した十把一絡げのなりそこないの一人に過ぎない。

このように万に一つと呼べるようなレアな経験しかしてこなかった人間が
情報発信することを快く思わない人がいるのも、残念ながら事実である。

だからといってここで人生の歩みを止めることなく、
自分と同じように満足にサッカーと関われない人を、一人でも減らすこと。

そのために出来ること、やるべきことはなにかを追求していくこと。

それがある限り、生きていく意味はあるものだと思っている。


それでもこれだけははっきりしている。

今すぐ人生を終わらせたとしても、寿命を全うしたとしても、たとえ永遠の命を得たとしても、

私はサッカーの本当の楽しさを、知らないままに死んでいく。


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