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月光の囁き、陽だまりの感触 (第一話)

<あらすじ>
大島雛子は25歳、デザイン会社の制作進行として日々忙しく働いているのだが、雛子の心には常に大きな喪失感が影を落としている。
月の輝く夜に、雛子の元に現れるのは三年前に死んだはずの恋人・透だ。部屋に来る度に雛子を抱きしめて闇の世界に誘う。雛子にはそれが妄想なのか現実なのか、わかっていない。
ある日、会社の新スタッフとして山岳カメラマンの高瀬紘一が加わった。太陽のように明るく、頼り甲斐のある紘一に、雛子は内心惹かれるがそれ以上踏み出せないでいた。
雛子に一目惚れした紘一、雛子を好きなスタイリスト祐司、紘一を好きな親友・桜子も加わり、4人の恋と友情が交差する<新規プロジェクト>が始まった。


1 月光 月夜の訪問者


大島雛子はベッドに入って微睡んでいた。時計を見ると午前一時、そろそろ来る頃かもしれないと思ったが、眠気には勝てなかった。身体の力が抜けて、雛子の意識は眠りの淵にゆっくり沈んでいった。

少しだけ開いたカーテンの隙間から、青い月の光が、雛子の頬に薄く差していた。

あと少しで完全に眠りに落ちる……その間際に、背中に人肌を感じた。

いつの間にか透が背中から雛子を抱きしめていた。

「起こしちゃった?」

と、透が耳元で小さく囁いた。

「……ううん……大丈夫だよ」

「ごめんね、今夜も遅くなっちゃった……」

「いいの、気にしないで……。忙しいんだから」

雛子は半分眠ったままで、透に言った。

透は、雛子の髪をやさしく撫でた。雛子の黒く長い髪が透の指ですかれた。雛子は透に髪を指で触られるのが好きだった。

「落ち着く……」

「……うん」

「今日はどんな一日だった?」

透の声は少し低い。夜中に耳元で囁かれるとエコーがかかったように思う時がある。

「……いつもと変わらないよ。商品を手配して、ちゃんと受け取って、スタジオに運んで……それからスタッフさんたちにお声がけして……お弁当の予約なんかもして……あとはみんなのお手伝い……」

「偉いなあ、雛子は」

「偉くないよ……誰でもできるよ」

「そんなことはないさ。雛子だから、みんながちゃんと気持ちよく仕事できるんだ。きっと、みんな雛子がいなくなったら、有り難みがわかる」

「いなくならないし」

と、雛子は目を瞑ったまま微笑んだ。

「そうだね……雛子は急にいなくなったりしない……それだって、実はすごいことなんだ」

「そうかな?」

「そうさ……だから……今夜もご褒美あげなくちゃ……」

そう言いながら、透は雛子の背中を優しく撫でた。細い背中だ。雛子はうっとりと目を閉じたままだった。今にもまた眠りに吸い込まれそうだ。透は雛子が願う限りいつまでも背中を撫でてくれる。

 透の手が、お腹に回り、おへそのあたりを静かにさすった。

「ちゃんと食べてる?」

「……うん……食べてるよ。今夜はね、お豆腐と油揚げと小松菜をお出汁で炊いたの食べた。あとは昨日の残り物かな……」

「美味しそう」

「……透の分、残しておけばよかったね……」

「ううん……いいんだ……僕は済ませてきたよ」

「そっか……」

透の手が、パジャマの裾からそっと入ってきた。

「じっとしてて……」

 透の手はやわらかく、細く、ひんやりとした指が美しい。雛子は、透の手が身体を触れるのが好きだった。いつの間にか首の下に回されたもう一方の手が頬を撫でている。知らず知らず、雛子はその手に頬ずりしてしまう。

「きれいな指……私、好きよ……透の手……」

「そう?」

お腹をさすっていた透の指が、少しずつ上に上がってきた。その指先は雛子の胸の膨らみを捉える。胸の下の稜線に沿って何度もゆっくりと往復をする。

「……透……」

「いいから……じっとしていて……」

 透の指先が、横の膨らみをなぞるように、そっと動いた。雛子は肩を抱いている透の腕に顔を埋める。

「くすぐったい?」

 雛子は小さく首を振る。

「じゃあ……こっちも同じようにするね……」

 透の指はもう片方の胸の膨らみを捉えると、静かに指先を這わせた。ゆっくり、そして少しだけ早く、またゆっくり……透の指は雛子の身体に魔法をかけてくれる。

 雛子は透の肩に顔を埋めたまま、少しだけ声を出してしまう。しばらく、そうされていると、足の指先まで温かくなっていく。透が、全身を雛子の背中に押しつけた。

「ほら……こうするともっと温かいだろ?」

「……うん」

外は木枯らしが吹いている。冬になると、東京でも空気は透明になって月がきれいに見える。今夜も帰り道に見上げた月が美しかった。アパートの部屋は冷え切っていた。雛子は一人で夕食を作り、一人で食べた。そして、風呂に入って、髪を乾かしながら配信のドラマを二話見てから布団に包まったのだった。いつもの夜のように。

「あったかいよ……」

 雛子の声が幾分さっきより甘くなってきた。

 透の手のひらが、雛子の形のいい胸にすっぽりと添えられた。

「ほら、こうするともっとあったかいでしょ」

「うん……」

 雛子の声がますます甘くなる。

 透は力を入れないで、やさしく両方の胸を揉みほぐすようにした。透の指先が桃のような雛子の胸を静かに触り続けた。雛子はうっとりしてつい声をあげそうになる。

「やめる?」

雛子は返事をする代わりに小さく首を振り、透の細い筋肉質の腕にしがみついた。

透、このまま……そう声にして透に伝えたいのだが、なぜか声に出せない。

髪に触れていた透の唇が肩先に触れ、首筋に触れたとき、雛子はたまらず小さく声をあげてしまった。透の薄い唇は雛子を啄むように、耳たぶを甘く噛んだ。

「ね……キ……ス」

と、雛子が言いかけたとき、透の唇がそっと雛子の頬にキスをした。透はすべてわかっているのだ。

「大丈夫……じっとしていて……今、雛子をもっと気持ちよくしてあげる……」

 透の指先が、雛子の胸の蕾を淡く触れた。すでに尖りはじめていた蕾はピクッと反応してしまう。

「あ……っ……」

透の触れ方は、やわらかく繊細で、いつも身体が蕩けそうになる。今夜は一段とソフトに触れてくれる。むくむくと蕾が開き始め、透の指先を待ち侘びているようで、雛子は恥ずかしい。なのに、それ以上のことを心のどこかで求めている。雛子がどうなっているか、透に気づかれているに決まっているのだ。

「……ね……そこは……」

「好きでしょ?」

雛子の頬が赤くなる。透は時々わざと恥ずかしいことを言って、雛子を困らせる。

「嬉しい……雛子が喜んでくれると……僕は……」

透の息遣いが耳元で少しだけ荒くなった気がする。やがて、人差し指と親指の指先が、雛子の固くなった蕾をそろそろっと摘んだ。

「んんっ…………だめ……」

透が耳たぶを甘噛みしながら囁いた。

「ううん……だめじゃない……もう片方も同じようにしてあげるね……」

 雛子は恥ずかしさのあまり、ぎゅっと目を瞑り、何度もうなずいた。雛子の許しを得た透は、もう片方の蕾も指先で同じようにそっと摘んだ。両方の蕾を同時に攻められた雛子は、軽い目眩を感じるほどだった。

透の絶妙なタッチは、雛子の身体をすっかり蕩けさせていく。むず痒いような、それでいてむず痒い感覚が、胸から全身へと広がっていく。

「さあ……もう寝なきゃ……」

透は耳元でそう言うと、雛子の両方の蕾をほんの少しだけ指先に力を入れて摘んだ。

(あっ……)

そう思ったときには、雛子の目の前に光が散って、細い背中をのけぞらせながら透に全身を強く押し付けていた……。

 翌朝、いつものように目覚ましが七時半に鳴って、雛子が眠りから覚めると、透の姿はなかった。ベッドには透の温もりがまだ残っているように雛子は感じた。



2 陽だまり 春の陽射し  


「すいません! おはようございます!」

 雛子は、事務所のドアを開けるなり大声で挨拶した。

「大丈夫、まだみんな来てないよ」

と、同期入社の椎名桜子が笑った。桜子はアシスタント・グラフィックデザイナーだ。まだ一本立ちしていないが、そのセンスは会社内外に認められている。

「うわ、まじ焦った。もう、スタッフさん揃ってるかと思ったよ」

「まだ、集合まで十分以上あるし」

「え? そうなの。私の時計では……」

雛子は慌てて腕時計を見た。

「今時、アナログの腕時計とかしてるからだよ。私みたいにスマートウオッチにすればいいのに」

桜子は先月の給料で買った最新のスマートウオッチを雛子の目の前でヒラヒラとさせた。桜子はデジタルに強く、最新のガジェットに明るいので、雛子はいつも助けられている。

「うん、でも私はこういうのが好きなの」

雛子の腕時計は、大学時代にフランスの蚤の市で手に入れたアンティークだ。その旅行は大学の卒業旅行で、親には女友達と一緒だと嘘をついて、透と一緒に初めて海外に出かけたのだ。

「まあ、それも雛子らしいんだけどね。それっていつくらいの時代のものだっけ?」

「えーと、確か1940年代とか?」

「うわ。まじ昔じゃん」

「そうだねえ」

雛子の喋り方はどこかおっとりしている。忙しいデザイン事務所の仕事において、雛子の喋り方が、スタッフや先輩社員の癒しになっていることに雛子は気づいていない。

 その腕時計の文字盤には、一時と二時のところにごく小さな小窓があって、雲の上には夜空と星が広がっている。雲間に月の満ち欠けがわかるようになっているムーンフェイズと呼ばれる昔々の工芸品だ。そこも雛子が気に入っているポイントだったが、なによりその腕時計は、透が選んでくれたものだった。

「さあ、そろそろみんな来ちゃう。準備しなきゃ」

雛子は、小道具などがしまってあるバックヤードに向かった。

雛子の勤めている会社は、渋谷区の広尾にあるデザイン事務所だ。商品のパッケージデザイン、そのポスターや販促物などを手掛けている。会社立ち上げ当初から、紙媒体中心ではなく、デジタル媒体の仕事も多い。それで、若いデジタル系の社員を積極的に登用していた。

雛子は大学でデザインを学んだわけではない。ごく普通の学部の出身だ。ただ、モノ作りに興味があったし、フランス雑貨や昔のデザインが偏執狂的に好きだったので、大学の掲示板にあった社員募集に運試しに応募してみたら、偶然採用されたのだ。

雛子の採用理由は、デザイナーの社長曰く「大島さんはなんだか周囲の人をやわらかい気持ちにする」とのことだった。仕事の腕を見込まれたわけじゃない、雰囲気採用と言ったところか……雛子はそれを聞いたときに内心苦笑いしたが、それでも憧れの職種に近づけた気がした。

 雛子は、カートにこれから撮影する雑貨類を詰め込んで、エレベーターに乗った。その雑貨類は雛子が探したものも数多くある。

 廊下の奥のエレベーター扉の前には背の高い青年がいた。肩には黒いリップストップ地のカメラバッグを下げている。雛子は反射的に「おはようございます!」と、元気よく声をかけた。この世界では、見知らぬ相手だろうと、昼夜を問わず挨拶はこうする決まりなのだ。

「おはようございます」と、その青年は頭を軽く下げた。前髪が額にはらりとかかった。エレベーターが来て、扉が開いた。

「何階ですか?」

青年の声は明るい響きのいい声だった。

(あ……好きなタイプの声だ……)

雛子は反射的にそう思った。雛子は人の声で好き嫌いを判断するところがある。

「あ、B2です」

事務所の入っているビルの地下に撮影用のスタジオがあった。

「じゃあ、同じだ」

「あ、今日の……」

「はい。撮影の高瀬です」

「あ、クラフトデザインで制作担当をしています大島です。よろしくお願いします」

「こちらこそです」

高瀬と名乗った青年は、にっこりと雛子に笑いかけた。笑うと人好きのするやさしい目になった。

(ずいぶん若いカメラマンさんだな。私より少し上かしら? しかし、背が高いな……)

雛子は156センチだ。今日は撮影だから、足が疲れないようにスニーカーを履いていた。高瀬はいかついワークブーツを履いていたせいもあって、雛子と30センチ以上は差があった。雛子は思わず、横目で見上げてしまった。エレベーターがゆっくり下降した。

「このエレベーター、遅いんですよ」

「え? ああ……まあ、でも急ぐわけじゃなし」

「まあ、そうですよね」

確かに十秒早く着いたところで、仕方ない。しかし、いつも追い立てられるように仕事をしているので、ついつい急ぐ癖がついてしまっているのだ。

 やがて、二人を乗せたエレベーターはB2に着いた。扉が開くと、スピーカーからは当たり障りのない外国の音楽が流れていた。

「お、早いな。紘一」

そう言って出迎えたのはディレクターも兼ねている社長の三島俊介だ。社長といってもまだ四十歳そこそこであり、業界では腕のいいデザイナーとしても知られている。

「おはようございます、社長」

「おい、社長はよせよ」と、三島が苦笑いした。

「じゃあ、いつものように三島さんで」

「おう」

二人は旧知の間柄のようで、戯れ合うような会話の感じを聞いていると、まるで少し歳の離れた兄弟のようだった。

スタジオには、ライティングを手伝う若手スタッフや小道具スタイリストなど数名がいて、すでに忙しく立ち働いていた。

「えっと……みんなに紹介するね。今日からうちの会社に撮影スタッフとして参加してもらうことになった高瀬紘一くんだ。高瀬……いや、紘一は山岳カメラマンでね。しかもファッション系も撮れるという珍しいカメラマンなんだ。俺は前から紘一の写真が好きでね。聞くと、次の撮影プロジェクトの資金集めに苦労しているなんて言うからさ。じゃあ、少しうちで仕事してもらって旅費の足しにしてもらおうかなあなんて。で、腕と人柄を見込んで、俺が口説いたんだ。それに腕がいいのは保障付きなんだよ。去年も、フランスの何とかっていう写真の賞もらったりね。海外ではすでに評価されている男なのさ。Instagramのフォロワーなんかすごいことになってるから、チェックしてみるといいよ。これからは個人の活動を邪魔しない範囲で、うちの仕事もやってもらう。みんなよろしくね」

三島が、紘一をみんなに紹介した。

(へー、そうなんだ……)

雛子は、隣に立つ紘一をまた見上げた。

「えーと、高瀬紘一です。カメラマンです。三島さんからのご紹介のように、まだ儲かっていない駆け出しカメラマンなのですが、仕事は一生懸命やりますので。あ、みんな紘一と呼ぶので、皆さんもそう呼んで下さると嬉しいです。本日はどうぞよろしくお願いします」

スタッフたちが、笑いながらパチパチと拍手して紘一を迎えた。それぞれが、紘一に自己紹介した。

「いい男だろ?」

「え?」

三島がニヤニヤして、雛子の耳元で言った。

「これがまた悔しいほどモテるのさ」

「でしょうね」

雛子はつられて笑った。

(これだけカッコよくて、腕のいいカメラマンで、声が素敵なら、モテないほうがおかしいもんな……)

あっという間にスタッフに溶け込み、明確な指示を飛ばし始めた紘一の後ろ姿を、雛子は呆れるような眼差しで見つめた。

「じゃあ、今日も頼むぞ」

三島が、気後れしていた雛子の背中をポンと押した。

「は、はい!」

 雛子もカートを押して、スタッフの輪に向かった。

 その後、午前中の撮影は順調に進み、ランチタイム休憩になった。雛子が両手に人数分のお弁当を下げてエレベーターから降りてきた。

「皆さーん、お待たせしました。お昼ご飯到着でーす」

「うわ。やっときた。腹減ったー」

スタッフの誰かが声をあげ、ゾロゾロとテーブルのほうに向かってくる。

人気のお弁当だけに、到着が予約時間に遅れてしまい、雛子は焦っていた。撮影にお弁当が遅れるなんて、制作として一番やってはいけないことなのだ。

「すいませんでした! お待たせしましたー」

雛子はスタッフに謝りながら、弁当を並べた。

「ぜんぜん。今日順調だし。出来立てのほうが嬉しいし」

そう言ってすかさずフォローしてくれたのは紘一だ。

雛子は額に汗を浮かべながら、スタッフにお弁当とお茶を配った。

「おお、久々の権兵衛じゃん」

紘一が声を上げた。権兵衛は和食弁当の老舗でスタッフに人気があった。

「紘一さん、お肉とお魚どっちにしますか?」

「え? 迷う。まじ迷う。どうしよ。大島さんはどっちにするの?」

「え? 私ですか。えーと、紘一さんの選ばなかったほうです」

「なんで?」

 弁当の好みは事前に聞いてあった。ただ紘一のことは知らなかったので聞けなかったのだ。弁当の発注は制作の大事な仕事だ。数が多すぎては予算が無駄になるし、もったいない。足りないのは言語道断。みんなの好みや気分を配慮するのも大切な仕事だった。撮影スタッフには毎日お弁当の人もいるのだ。

「今日、紘一さんがいらっしゃるの知らなかったものですから、どちらがお好みかわからないので……あ、私はどっちも好きだから大丈夫っていうか……」

「えー。そんなの悪いよ。大島さん好きなの選んで。じゃないほうを僕が食べるから」

「いえ、それは……できませんよ」

「でもさあ……」

二人がいつまでも譲り合っていると、さっさと弁当をパクついていた三島が声をかけてきた。

「弁当なんかで揉めるんじゃないよ、みっともない」

スタッフたちが笑った。雛子は思わずうつむいて赤くなる。

それに反論するように紘一が言い返した。

「あれ? 撮影のときの飯にこだわるのが俺の信条だとか、三島さんの口癖じゃ……」

「そうだよ。こだわるよ。でも、この場合、どっちも美味いんだからいいんだよ。じゃあ、紘一が生姜焼きで大島が銀鱈な。それでいいか?」

紘一が笑って「いいすよ」と生姜焼きを取った。雛子もつられて笑って「銀鱈いただきます」と笑った。

 弁当は、まだほんのり温かく美味しかった。

「紘一さん、お味噌汁……」

「あ。ありがと」

「美味しいよね、ここの弁当。手作り感があって、俺好きなんだ」

「よかったです」

「いっつも冷たい弁当だから、まじ嬉しい」

「そうなんですか」

雛子は意外だった。紘一ならいつも素敵なものを食べているような気が勝手にしていたのだ。

「フリーの若手カメラマンなんて、そんなもんだよ」

「へえ」

「だから、三島さんに声かけられたとき『美味い飯付きなら』って答えたんだよね」

「じゃあ、これからいつも美味しいもの用意しないと」

「期待してます」

二人は顔を見合わせて笑った。

「あれ、このお味噌汁って、権兵衛の?」

「あ、いえ……それは私が……」

「え? 大島さんの手作り?」

雛子が撮影の隙間を見て、スタジオにあるミニキッチンでパパッと作ったものだ。そういう雛子らしさを出す余裕が出てきたのも最近のことだ。

「いえ、そんな大袈裟なあれじゃなくて……スタジオ撮影ってお弁当続くじゃないですか。だからせめて汁物くらいって……」

「うわ。まじ感動した。しかも、相当美味いし」

「そうですか? よかったです。こんなのでよかったらいつでも作りますよ」

「ほんとに? おかわりしてもいい?」

「もちろんです」

 紘一が大急ぎで味噌汁を平らげた。雛子はその様子を見て笑いそうになった。まるで子供のようだ。雛子はすぐにスタジオの端にある小ぶりな鍋から、おかわりの味噌汁をよそった。大根と油揚げの味噌汁だ。

「これ白いご飯にぶっかけて、掻き込んだら美味いだろうなあ」

「あ。美味しいですよね。ちょっとお行儀悪いけど」

「まあね。でも、そういうのが好きだな」

雛子は紘一に自然に微笑みを返した。自分の作った味噌汁を美味いと言ってくれたことも嬉しかったが、女性の前で気取らない紘一に好感を持ったのだ。


撮影は午後も順調に進み、夕方の五時半過ぎには終了した。桜子が紘一の噂を聞いたのか、途中こっそり様子伺いに撮影を覗きにきていたのがおかしかった。

「みなさん、お疲れ様でしたー」

基本、あまり大きな声は出すのには慣れないが、雛子はスタッフたちに精一杯大声をかけた。スタッフたちは談笑しながら後片付けを済ませると、それぞれ帰っていった。

最終的に残るのは制作担当の雛子だ。翌日ある別班の撮影のために、スタジオを元の何もない状態にしなくてはいけない。

「大島さん、お疲れ様でした!」

スタジオに戻ってきたのか、紘一がひょいと顔を出した。

「あ、紘一さん、お疲れ様でした。素敵な写真、ありがとうございました」

「いやいや。美味しい味噌汁のおかげですよ」

「そんな……」

雛子は思わず手を振り恐縮した。いつものことで、そんなたいしたものではないと正直思っていた。すると、紘一がにこっと笑った。

「この後はなんかあるんですか?」

「あ、デスクに戻ってなんやかや、ですかね」

「働くなあ……」

「まだ駆け出しですから」

「ね、終わったら、このあたりで飯食べに行きません?」

「え?」

「よかったら……ですけど」

雛子は、突然の誘いに戸惑った。誰かに個人的に食事を誘われるなんてずいぶん久しぶりだった。

「あ……でも、まだ、やらなくちゃいけないことあって……」

口を突いた言葉は雛子らしい引っ込み思案なものだった。雛子はしどろもどろになって、抱えていた荷物を持ち直した。

「待ちますけど」

紘一は、雛子の返事をまったく意に介さず相変わらず笑顔で言った。

「あ、でも……何時になるかわからないんで、すいません、またいつかの機会に……」

雛子は恐縮してペコリと頭を下げた。

「そうかあ、残念。じゃあ、また今度ね」

「はい、また。すいません、ありがとうございます」

「じゃあ……お疲れ様。お先です!」

そう明るく言い残し、紘一はあっさりとスタジオを出て行った。

雛子は「お疲れ様でした」と、紘一の背中に小さく声をかけただけだった。



3 月光 外はまだ冬のように凍えている


「雛子……雛子……」

「……ん……?」

「そんなところで寝てたら……風邪ひくよ……」

「あ……うん……」

撮影を終えて帰宅した雛子は、明日の段取りの準備をしながら、いつの間にかうたた寝をしてしまっていた。

透のひんやりした手が、優しく背中を撫でていた。

「あ……寝ちゃったみたい……」

「うん……そうみたい」

透がクスッと笑った。

「来てたの?」

「うん、さっき。……しばらく雛子の寝顔見ていた。雛子の長いまつ毛をずっと見ていたんだ……」

「起こしてくれればよかったのに……」

「気持ちよさそうだったから……ね」

「いやだ……恥ずかしい」

「お風呂、沸かしたよ……一緒に入ろう……あったまるよ……」

「うん……ありがと……外、寒かった?」

「うん……まだまだ寒いね……」

雛子は、透の手を取った。それから、長くて繊細な指先をそっと握った。

「雛子の手は温かいな……」

「体温が高いのよ……」

「いや、心が温かいのさ……」

雛子は淡く微笑むと、透の指先に頬を擦り寄せ、しばらくそうしていた。

「もう……透の手も温かくなってきた……」

三階建ての東南角のワンルームの部屋。さして広いわけじゃない。陽当たりだけが取り柄のごく普通のアパート。ここが雛子の小さな城だった。

バスルームのほうから、白い湯気が流れてきた。

「……さあ」

透は、雛子のカットソーの裾を持ち上げるとふわっと持ち上げた。雛子は両手を上げて、透が脱がせやすくする。ノロノロと立ち上がると、すっとワイドパンツのホックが外され、ジッパーが降ろされた。ラグマットの上に、ストンとパンツが落ちた。

「あとは自分で……」

「ううん……脱がせてあげる」

「……いいよ、恥ずかしいよ……」

「……いいから……」

透は、ソックスを手際良く脱がせると、後ろに回ってブラジャーのホックを器用に外した。肩のストラップが指先に滑った。はらりとブラジャーが落ちる。

雛子はそっと腕で胸を隠した。

「きれいな背中……」

透の指先が、真っ白い背筋をスーッと撫でおろした。それだけで、雛子の全身に電流が走ったようになる。

「あ……っ……」

思わず開いた唇から小さな声が漏れる。何度かさすられていると、雛子の首の角度が徐々に上がり、細い顎が小さく仰け反ってしまう。

透の指先は、その後も背筋を撫で上げ、やがて肩甲骨の付近や脇腹を両方の指で触れるか触れないかのタッチで往復する。まるで雛子の背中に指先で抽象画を描いているようだ。

「……なんか……ゾクゾクする……」

「背中……弱いもんね、雛子は……」

「……うん……そうかも……」

雛子は、透の指先に身体を委ねている。透の触れ方はやわらかく繊細で、雛子の身体を大切な楽器のように扱ってくれる。その度に、雛子はいつも小さな音色を鳴らしてしまうのだ。

どれくらい背中を撫でられていたのだろう。雛子は、これだけでうっとりとしてなにも考えられなくなる。

「さあ……下も」

「……うん」

透は膝をつくと、前に回って雛子を見上げた。透の前髪が暖気に揺れた。

雛子を見上げる瞳は抜けるように透明で、その黒目には雛子が映っている。やさしくていつも雛子を見守ってくれる。透が雛子の瞳を見つめながら、ショーツに手をかけると、ゆっくりと下げ始めた。プクッとした雛子のお尻が空気に触れた。

透に見られていると思うと、雛子は恥ずかしくてたまらない。股間が少し熱を持ってきたようになり、思わず両脚を閉じてしまう。

それを透がそっと力を抜くように誘う。長い指先でお尻の輪郭を何度も往復し、さりげなく合図を送ってくる。それがなんとも心地いい。

透の指先の感触が、雛子の感覚を刺激して、自然と漏れ出す声が甘くなる。雛子は左手で胸を押さえたまま、右手で透の肩に手をついた。

透がショーツを膝から下までゆっくりと降ろした。股間が空気に晒され、なおさら雛子の気持ちには恥ずかしさが込み上げてくる。

「脚を上げなきゃ……」

「……うん……わかった……」

雛子は素直に誘われるままにした。透の手で雛子は裸にされた。自然と鼓動が高鳴ってしまう。透が雛子の裸をやさしく微笑んで見つめている。大切な場所を隠したいのになぜか隠せなかった。

「……そんなにじっと……見ないで……」

「……きれいだよ……雛子……ずっと見ていたい……でも、寒くなる前に……一緒にお風呂に入ろうね……」

雛子は恥ずかしげに頷くと、バスルームへ向かった。



4 陽だまり  塩鯖とラーメン


 雛子は通勤の電車の中で、紘一のInstagramを見ていた。確かにものすごい数のフォロワー数だった。それよりも、雛子の驚いたのはアップされている写真だ。とにかく雄大できれいだった。三島が言っていたように、山岳写真や現地の人のポートレイトが中心ではある。その生き生きした人間たちの表情の数々。生っぽい感じではなく、どこか物語性があり、おとぎ話のようだった。そして、それだけではなく、いわゆるファッション写真もたくさんある。普通は偏るのに、あえて幅広く撮るのだろうか……。リンク先のホームページへ飛ぶと、さらに色々なアーカイブがあった。

(こっちは大きな画面で見たいな……会社着いたらにしよう)

雛子はInstagramのほうに戻り、すぐにフォローした。

地下鉄が広尾の駅に滑り込んだ。たくさんの人の流れに乗って、雛子はうつむいて歩いた。

「ね、高瀬さんのお誘い断ったらしいじゃない」

「え?」

出社するなり、桜子が話しかけてきたのは、どうやら昨日のことのようだった。誰が言ったのだろう。紘一だろうか……。小さい会社だ。話が拡散するのは早い。雛子が答えに窮していると、桜子が勝手に喋り出した。

「なんで? もったいないなあ」

「そんな。そんなんじゃないよ。それに紘一さんは、かなりモテモテらしいよ」

「え、『紘一さん』って、なに、その距離感。もう下の名前で呼び合ってるわけ?」

「いやいや、紘一さんがみんなの前で、そう呼んで欲しいって言ったから……」

雛子は慌てて言い訳めいた説明をした。こういうのは最初に迂闊なことを言うと、後々面倒なことになる。

「かあーっ。私も担当ならよかったのになあ」

雛子は笑って、桜子の肩をぽんぽんと叩いた。

「うちの契約スタッフさんになってくれたらしいから、これからもしょっちゅう会社来ますよ」

「え? ほんと。まじ嬉しいんだけど」

雛子はまた笑って、パソコンを立ち上げると撮影データの整理を始めた。早くまとめて、紘一に送らなくてはいけない。カラーグレーディングと呼ばれる色味の補正などはカメラマンの重要な仕事であり、センスが問われるところなのだ。それに、割と急ぎの案件でもあった。

 午前中一杯かかってデータの整理を終えると、雛子はメールをファイル便にして紘一に送信した。他のスタッフは皆ランチに出かけてしまっていて、もうオフィスには雛子だけしかいなかった。

お腹がぐうっと音を立てた。今朝はトーストを焼く時間もなく、レンジで温めたミルクを一杯飲んだだけで出てきてしまったのだ。

(お腹空いたな。どこにランチに行こう……)

「え……」

送信後、十秒もしないうちに紘一から返信があった。慌ててメールを開いた。

『仕事早い! K』

その返信を見て、雛子はくすりとした。紘一のほうが、よっぽど返信が早い。

 そのとき、オフィスの扉を開けて大きなバッグを抱えた紘一が現れた。

「え?」

雛子が目を丸くして見ていると、紘一が屈託のない大声で言った。

「ね、大島さん、昼飯まだでしょ? 行かない」

雛子は小さく首を振って微笑むと、席を立ち上がりながら「はい」と元気よく返事をした。

 二人は事務所近くの古びた定食屋に入った。昨日の話から、おしゃれなカフェ飯より、こういう店のほうが、紘一が喜びそうな気がしたからだ。といっても、客層はこのエリアのアパレル関係やデザイン、IT関係の人が多いのだが。

「うわ、こういうとこ大好き」

店に入るなり紘一が感嘆の声をあげた。

「大島さんは僕の好み丸分かりだなあ」

「そんなこと……昨日、少しお話しさせていただいて、勝手に推測しただけで」

雛子は大袈裟な紘一に少し照れて、カウンターに誘った。カウンターの上には副菜が数種類大皿に並んでいる。

「まじ美味そう。じゃあ、かぼちゃの煮付けと卵焼きときんぴらと、あと鯖の塩焼き定食で」

雛子は紘一の食の好みの一端が垣間見れたようで面白かった。雛子も鯖の塩焼き定食を頼み、ほうれん草のお浸しを注文した。

「あれだよね、同じもの食べると萌えるよね」

と、薄いほうじ茶を啜りながら紘一が言った。

「いや、昨日の昼も同じお弁当だったじゃない。今日もほぼ同じでしょ」

「え? あ……まあ、確かに」

「でしょ。人は同じものを食べると心が通う、というのが持論」

「へえ……」

すぐに注文したものがカウンターに並んだ。

二人は割り箸を同時に割ると、パクパクと食事を楽しんだ。

美味しい、美味しいと言いながら、ご飯をおかわりして食べる紘一を雛子は微笑ましい気持ちで見ていた。

(いっぱい食べる男の人って、なんかいいんだよなあ……)

 紘一の食べる速度は早いので、雛子も急いで食べた。それに気づいたのか、紘一が申し訳なさそうに言った。

「あ、ごめん。僕、食べるの早いから。気にしないでゆっくり食べてくださいね」

「え……」

「こんな仕事してるとさ、パッと食べる早飯の癖が染み付いちゃってさ。いつも女性陣には迷惑がられてて。デリカシーないって」

「いえ、そんな。私もどちらかというと早いですよ」

「そう? じゃあ、気にしなくていい?」

「です、です」

「よかったー」

紘一がほっとしたように笑った。

(そうか、だよね……紘一さんは、いろんな女の人と食事する機会がいくらでもあるんだから)

 雛子は茶碗を持ち直して、大口で白飯を口に運んだ。

 食事を終えて二人でオフィスに戻ると、先に戻っていた桜子がすかさず飛んできた。

「あ、紘一さん、お疲れ様です」

「あ、おはようございます」

紘一は快活に挨拶を返した。

「雛子、ちょっと……」

「なに?」

桜子は雛子のコートの腕を引っ張るようにして、コーヒーサーバーのある場所に連れて行った。コーヒーをカップに注ぎながら、桜子は小声で言った。

「なんで、紘一さんと、二人でいるのよ?」

「え……ちょうどデータ送信したら、返信来て。実は突然、会社に来ていて、昼飯まだかって言われて、それで……」

雛子の説明は事実なのだが、なんだか要領を得ない。

「で? ランチ一緒にしたの?」

「え? 割り勘だよ、ちゃんと。塩鯖だよ」

「そういうことじゃないでしょ」

桜子が咎めるようにして、雛子をつついた。その間、紘一は所在なさげに入り口に立っていた。

「あのー」

「はい!」

二人が同時に紘一を振り向いた。

「事務所のパソコンお借りしていいかな。カラーグレーディングやりたいんですけど」

「ああ……じゃあ、向こうの空いてるところの使ってください。今日は誰も使わないと思いますので」

「ほんと? 助かります。明日から、地方行くんで今日中にデータ仕上げたいんですよねー」

紘一は荷物をソファに置くと、早速仕事に取りかかった。

その日の午後は、すぐ後ろに紘一がいるので、雛子はなんだか気になって仕方なかった。というのも、桜子がやたらとお茶を淹れたり、クッキーを出してみたり、仕事を覗き込んだりと紘一を気にしている素振りを振りまくのだ。

(今日中に仕上げなくちゃいけないのに……気が散っちゃうじゃない)

かといって、桜子を咎めるのも気が引けた。誰を気に入ろうと桜子の自由なのだし、実際、桜子は今フリーなのだ。厚めの唇と愛嬌のある目元、すらりとした手足、センスのいいファッション……。桜子は案外、紘一と相性がいいかもしれない。

そのうち、紘一はヘッドフォンをして仕事に集中していた。なにか音楽でも聞いているのだろうと雛子は推測した。そういうふうにして作業するデザイナーやカメラマンを時々見てきた。

雛子はなるべく紘一を気にしないようにして、伝票整理や仕上げの進行表をチェックした。このプロダクトは、紘一の写真を元に、デザイナーがパンフレットやポスターなど統一したイメージでデザインしていくのだ。

やがて終業時間になった。……が、紘一の作業は終わらなかった。オフィスのメンバーも仕事の区切りがついた者から適宜帰っていった。

しばらく付き合ってくれていた桜子も、キリがないと見たのか、誰かと約束があるのかは言わなかったが、名残惜しそうに八時前に帰った。雛子は立場上、先に帰るわけにはいかない。紘一の作業が終わるのをじっと待つしかないのだ。

 紘一は画面に集中していて、雛子が残っていることも忘れているようだった。雛子は席から少し離れてマグカップからコーヒーを飲んだ。

紘一の横顔をそっと見た。

画面を見つめる目は真剣で、細かい色味の補正に集中しているようだった。

(へえ……ああいう目もするときあるんだな……)

撮影中も、休憩中も、今日お昼を一緒にしたときも、いつも紘一は笑っていた。笑顔の印象が強い人だった。

(個人作業のときは、変わるのね……)

雛子はふと空腹を感じて、腕時計を見た。八時半をとうに回っている。

(紘一さん、お腹空いてないかしら? でも、集中しているのに、腰折るのもな……)

 紘一が、ヘッドフォンを外し目を擦った。

「うう……」

「え?」

紘一が変な唸り声を上げたので、思わず雛子は目を見張った。

「……腹、減った……」

紘一が振り返り、雛子を見た。

「あ、聞こえちゃった?」

「え? はい。あの……クッキーとかならありますが……」

「んー、そういうんじゃなくて……」

「たとえば、何ですか?」

「ラーメン的な」

「あ、はい。コンビニでよければすぐに買ってきます」

「いや、もう終わるから、外に食べに行こう。最近、お気に入りの店があってさ」

「あ、はい」

と、反射的に雛子は返事してしまった。

 

 透の車は地下の駐車場に停めてあるという。

「表に回すから」

「じゃあ、私は事務所の鍵かけてから行きますね」

「OK」

 雛子がオフィスの前の道路に立っていると、紘一の大きな車が現れた。埃だらけの古い四輪駆動の赤い車だった。ルーフトップはクリーム色だ。

助手席の窓が自動で開いて、紘一が声をかけた。

「乗ってください」

「は、はい」

ドアを開くと、中はカメラ機材やら、キャンプ道具やらで、びっくりするほどごちゃごちゃだった。

「ごめんね、汚くて」

「あ、いえ」

「整理する時間なくて、ついつい、ねー」

紘一が屈託なく笑った。むしろそんなこと気にしていないのが当たり前のような口ぶりだった。

「かえって落ち着きますよ、きれいすぎたりする車は緊張するから苦手です」

雛子は半ば本気でそう言った。

「そう言ってくれると、助かるけど。さて、行きますか!」

エンジン音を響かせて、紘一の車が発信した。

明治通りは空いていたので、車は順調に走った。目指すラーメン店は三宿の外れにあるという。

「ラーメン好きなんですか?」

「好きだなあ。一杯千円以内で幸せにしてくれるんだから、ありがたいよ。職人が魂込めて作ってるしね」

「私も好きですよ、ラーメン」

「何系?」

「あ、そんな詳しくはないけど、美味しければ何系でも」

「そう、よかった。これから行くところは、淡麗系。スープが澄んでいて、麺が小麦の味がして、いい感じに細くてまっすぐでさ、なんかフォトジェニックなんだ」

「へえ……楽しみです」

二人は、今まで食べた美味しいラーメンの話をしながら、三宿を目指した。

紘一のお勧めのラーメンは旨味が乗った見た目も美しいラーメンだった。雛子はあまりに美味しくてスープまで飲み干した。空腹だったこともあるが、飲むのをやめられないくらい病みつきになる味だった。紘一は大盛りにした特大サイズの丼を完食していた。

「ごちそうさまでした。なんか、かえってすいません。すごく美味しかったです」

「いやいや、こちらこそ。遅くまで付き合わせちゃって……。女の子食事に誘うのにラーメンなんて、ぜんぜんアレなんだけど」

「そんな。私、ラーメン大好きです。ほんとすっごく美味しかったです」

「そう。今度はもっとちゃんとしたお店に連れていくね」

紘一があまりにさりげなく次回を誘うので、雛子は困惑した。ただのお愛想かもしれないのに、少し嬉しかった。

「はい……ありがとうございます」

「ただ、大島さんと食べるのなら、こういうのに最初はしたかったんだ。カッコつけたくなかったっていうか」

雛子は曖昧な笑みを浮かべた。あまり意味がわからなかった。

「洗車も掃除もしてない、いつもの車に乗せて、いつも食べてるものを一緒に食べたかった」

「はあ……」

「まあ、いいや。送るよ、どこだっけ?」

「え、いいです、いいです。一人で帰れますから。それに、明日、ロケで早いんですよね。ちゃんと寝ないと……」

「いや、このまま行っちゃうから。群馬で朝イチの山を撮るんだ。だから、大丈夫。ていうか、送らせて。……あの……もう少しだけ、大島さんと話したいんだ」

照れたように言う紘一は、自分でも似合わない言葉を言った自覚からか、少し目を伏せて笑った。

二人の後ろをカップルがラーメン店に入っていった。信号が変わって一斉に車が流れた。

雛子は一瞬どうしたものかと思ったが、ここで無理に断るのも不自然な気もして、

「じゃあ、近くの通り沿いまでお願いします」と、ごくふつうに言った。

紘一の顔がパッと明るくなった。

 車の中で、紘一は饒舌だった。最近、気に入っている音楽のこと、キャンプでの失敗話、配信で見た海外ドラマの話……話題は尽きることなくテンポ良く流れるようで、あっという間に雛子の住む世田谷の環状七号線のところまで来てしまった。

「あ……私、この辺で……」

「OK」

紘一は、雛子の示した辺りで車を停めた。

「大島さん……」

「はい?」

「いや……ロケから帰ったら、お土産持って会社に行きます」

「はい、お待ちしています。今日はご馳走様でした。あ、気をつけて運転してくださいね。いい写真が撮れますように」

雛子がそう言うと、紘一が嬉しそうに顔を上げた。

「いいなあ……」

「え?」

「いいよ。すごくいい」

「なにがですか?」

「ん? こういう会話がさ」

「そうですか?」

「うん。ホッとするよ。大島さんといつも一緒にいられる人が羨ましい」

「そんな。私なんか、なんの取り柄もありませんよ」

紘一が小さく首を振った。

「だとしたら、世の中のすべての女性は、もっとなんの取り柄もないよ」

「は?」

「いや、ごめん。意味わかんないこと言って。じゃあ、今日はありがとうございました。おかげでいいグレーディングできました。あとはデザイナーさんにお任せします」

「はい、伝えます。必ずいい仕事に仕上げますんで」

雛子はふざけて敬礼した。紘一も笑って同じポーズをした。

紘一の車がホーンを一つ短く鳴らして環状七号線を走り去った。

雛子はランプが見えなくなるまで見送ってから、環七沿いにしばらく歩き、路地を曲がってアパートに向かった。

今夜も、よく晴れていて寒かった。雲のない夜空に月がきれいに出ていた。


第二話 https://note.com/hanegi_hajime/n/n8c7cbc1dd79b
第三話
 https://note.com/hanegi_hajime/n/nadd09c64ce8a
第四話
 https://note.com/hanegi_hajime/n/nca6f01c93683
第五話
 https://note.com/hanegi_hajime/n/ndb9515398af4
第六話
 https://note.com/hanegi_hajime/n/nb6d650fda95c

#創作大賞2023 #お仕事小説部門

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