どぅわっほーい

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意味のあることを探さずに、普通のことに意味を見出したい

世の中のたいていのことに意味なんてない気がする。人生のなかでやらないといけないのは息を吸うこと、ご飯を食べること、トイレに行くこと、くらいな気がする。ほかはやれたらいいけど、最悪やんなくても何とかなる。仕事はしないでもなんとか生きていけるし、お風呂に入らないでもちょっと友達が減るくらいで生きるのに支障が出るかと言われたら微妙なラインかなと思う。 純粋に楽しんでやることってほとんど意味はない。というか意味は後付けするものだから今のところ意味はなくて、何年か経ってから振り返って

    • 誰か読む人はいるん?

      あれ? そもそも、だれかのんびりウェブサイトを読む人っている? 若い人はTikTok、YouTube short とか、短い動画を見る気がする。お年を召された方は、スマホやタブレットよりも書籍媒体を好む気がする。だとすると、誰がウェブサイト見てるん? 情報が欲しければ、検索すればどれだけでも出てくるからブログである必要性はないし、複雑な込み入ったことを調べたいとしてもChatGPT使えばいいよね。 面白い文章が読みたいのだとしたら数多くの有名作家がすばらしいエッセイを書い

      • 私たちは本当に読んでいるのか

        いま、文章を読んでいる。記事を読んでいる。が、本当に読んでいるのか。それは読んでいるに入るのか。 目の前を流れる文字に目を向けているだけで、何を意味しているかは理解していないのではないか。情報のインプットをする以前に、文字の画像情報のインプットしかできていないのではないか。 意味を理解していないのだから、そこから何か考えたりすることもないのではないか。今のところほぼすべての文章が疑問形だが、その疑問の羅列には意味があるのか。答えの先延ばしをしているだけではないか。

        • 世界との境目

          SNSは匿名だから何でも書けるとかいう人いるけど本当に匿名な人って全然いないよね。フォロワーの中には一人くらい知っている人がいるだろうし、全く無の状態からアカウントをスタートさせるなんてほぼほぼないから。 だとしたら、自分を知っている人っていう枠と、自分のことを知らない人っていう枠の二つの枠があるのかなあ。誰からも発言に関して責められたくないっていう意識と、誰かしらに認められたいっていう気持ちなのかもね。 別の話だけど、その人がどんな人かって知っている人はそんなにいないよ

        意味のあることを探さずに、普通のことに意味を見出したい

          奇をてらうことしかできないのならまだ二流なのか

          純粋な魅力だけで勝負できる才能ってうらやましい。M1グランプリとか見てても、意外に純粋王道漫才やってるコンビってすくなくて、キャラとか迫力とかで押しているコンビが多かったりするよね。 又吉直樹の「劇場」で、主人公が奇をてらった演劇を作るんですよ。奇をてらったって言い方は失礼だろうか。まあ、一般大衆向けじゃない玄人向けの作品を作るんです。堅苦しい職人気質の作品を作るんです。 そんな彼が、珍しく有名な劇団の演劇を見るんですけど、そこでいたく感動してしまうんですよ。それまでは王道

          奇をてらうことしかできないのならまだ二流なのか

          その文章には恥がある

          有名な人が書く文章と、我々一般庶民が書く文章って、同じようなこと言ってても全然印象違ったりするじゃないですか。有名な人が言ってたら素直に「なるほどー」って思えるけど、同じようなことをフツーの人が言ってたらなんか違う風に思えるとか。 あとは何だろうなあ。見るに堪えない文章ってあるよね。これもきっとそうなんだけど、フツーの人が頑張ってそれっぽいブログを書いてみました!みたいな文章。あれ、とんでもないブーメラン発言か。そうだなあ。胸が痛い。 それって何が違うんだろうって思ったわ

          その文章には恥がある

          なんでもないような

          誰にも相手にされていないようで、相手にされているのか、もしくは誰からも注目されていると感じているようで、見向きもされていないのか。 きっと誰でも自分のことしか見てないし、誰もほかの人なんて見てないよね。どーせ見向きもされていないんだから、自分だけでも周りを見てやるよって考えてる。あ、自分以外誰もやっていないことをすることで誰かに自分は特別だって気づいてほしいのか。ああ。結局自分のこと見てほしいんじゃん。 こういうことをだらだら話すのって持てないよなあ。ほかの人がこんなこと

          なんでもないような