我々はものを見ることができているのか

1.序

いつからかものを見るということができなくなった。こう言うと何を言っているのかさっぱりわからないだろうが、ものを見ることができなくなっているように感じる。無論、目が悪くて見えないとか、盲目だということではない。物体としてそこに存在している事実は受け入れている。が、見えていない。

幼いころはそんなことはなかった。目に映るものすべてに発見と感動があり、世界が明るく刺激に満ちていた。ただ小学校まで通学するだけの朝、通学路に指定されている道のアスファルトの割れ目に雑草が生えている。子供の安全を守ってくれている交通指導員さんが口うるさく注意してくる。遠目に見える兄の知り合いがちょっと怖い。そんな心が世界に対し随時反応してくるような無邪気で素直な動きがあった。

今ではそんな感動は覚えない。登校する道は通学路であり、それ以上でもそれ以下でもない。道の亀裂から草が生えるのは特段注目するポイントではないし、年上の人からの忠告は煩わしいだけだ。それをそうとして受け入れている。受け入れているだけで心の能動的な活動はない。


2.「見る」とは

「見る」という行動についてあらかじめ定義を与えておきたい。ここで述べる「見る」とは、物体が反射した光を視覚的刺激として認識するというようなものではなく、その刺激に対して能動的な精神の動きが自然と発生することを言う。

自分の家の真ん中に量販店で買ったありきたりなローテーブルがあり、その上には前の晩に食べた夜ご飯の食器がそのまま置いてあり、壁際には簡素なシングルベッドが置いてある、という状況を受け入れているという状態を「見る」というのではなく、当然そこにあると受け入れているものを視覚的刺激から自然とその存在を再認識して何らかの思考が開始されたりすることである。


3.「見る」と「知る」

では、なぜ、以前は「見えて」いたものが今では「見えなく」なってしまったのか。

その理由は「知ってしまった」からではないのか。そこにあるものが何か知っている。何から発生し、どんな名称で呼ばれ、人々がそれに対しどんなイメージを持っているか知っている。知ってしまうことで、自分なりに新しく発見する余地が失われてしまう。

目の前に存在しているものに対し、記憶の中からある名称を与え、カッコでくくり、それがどんなものであるかに関する能動的なアプローチをやめる。そのものから感じる印象や触感、自分の心の変化を探ることをやめ、以前は自然とできていたはずのものに対し自分なりの解釈を与えて自分のモノにするという作業を行わない。今まで知らなかったことを知るということはそういうことだと思う。

自分なりの解釈を与えてから、その解釈が社会的に認められているのかを後付けで確認するのはまだいい。問題は、自分の解釈をする以前から指導されて知ろうとすることである。指導されることに慣れると、情報は人から与えられるものであって、自分で作り出すものではないという誤った考えが染みついてしまう。どんな教育課程でも、そこで教師が教えているのはただの手段・素材であり、どんな目的のためにその知識を活用するかを考えることは教えられる側自身で考えなければならないのだ、ということを伝え続けるべきだと思う。


4.対策

知ることで、自然と見ることができなくなる。また、知らない状態から知っている状態になることは可能だが、その逆は不可能である。つまり、一度知ってしまったらもう以前の未知の存在に心が躍り、新しい解釈を与えるような「見えていた」世界には戻れない。

幼いころは新しく知ることは全面的な善として、やればやるだけいいことしかないような印象を覚えていたが、そろそろ学ぶことの弊害に目を向けなければならないのではないか。今まで純粋に素直に得られた感情が得られなくなり、空虚で厭世的な世界を生きることになりかねないのだ。

その壁を乗り越えるためのアプローチとして二つの道を提案する。

まず、既に知っているものに疑問を投げかけ、意識的に「見る」ことで自分の感性を取り戻す。もう一つのアプローチは、既知の世界は知っているものとしてカッコに入れたままにし、新しく未知の世界を「見」続ける。

前者は、自分の立ち位置は変化させずに、かけている色眼鏡の曇りを取り除き、世界の解像度を上げる、という内的アプローチである。後者は自分が積極的に新しいチャレンジを繰り返し世界の淵を少しずつ広げる、という外的アプローチである。

どちらのアプローチをとるにせよ、大事なことはしっかりと自分の意志で「見て」、能動的な精神の動きを観察することである。


5.まとめ

前半では、自分が果たしてものを見ることはできているのかに対し疑問を唱え、「見る」とはものに対し能動的な精神の動きがあることだと定めた。そして、「見えなくなった」原因として、知っていることが増えたことにより自分でものに対する考察をすることを怠ったためと思考を深めた。さらに、そんな状況を打破するために「既知の世界を自分なりに再定義する」内的方法と、「未知の世界を見続ける」外的方法を提案した。

「我々はものを見ることができているのか」という表題に関して、「我々はものを見ることができるのか」としなかった理由としては、「見る」ことは当然可能だが、それを普段行うことなく、先人たちが作り上げてきた情報体系に依存して能動的な活動を行っていない我々への問題意識があったからだ。つまり、この文章を通して「我々はものを見ることができていない。だから、ものを見ようという意識を明確に持とうではないか」という提案をさせていただいた次第である。

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