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背負った荷物はうまく下ろせないままだけど、私はこの道を歩いていく



嫌なことはちゃんと嫌だと言わないと、他人も自分も認識が歪んでしまう

 某SNSのプロフィール欄にこう書いている人がいて「それな」と思った。断じて私の創作ユーザーではないのだけど、勝手にお名前を載せるわけにもいかないので、詠み人知らずということでご了承いただきたい。

 私は、嫌なことを嫌だと伝えることで、かえって傷ついてきたことが多かったし(同時に傷つけてもきただろうし)、相手と絶縁した例も数えきれないほどあるけど、それならそれで、別れることがお互いのためだったんだろうと、最近になってようやく(いい意味で)諦めることができた。相手だろうが私だろうが、どちらかがつらい気持ちを押し殺して付き合う関係は健全ではないし、そもそも、嫌なことを飲み込む「我慢」というのは、他者も自分自身もともに尊重していないと考えるようになったのだ。
 自分にやさしくできない人が、他者にやさしさを与えることはできない。

 そして、前述の「認識が歪んでしまう」というのはその通りだと思う。嫌なことを嫌だと伝えないことで、どちらかが腑に落ちない状況であっても「これでいい」ということになってしまう。いいわけがないのに、これでいい、と言い聞かせ続ける関係性の構築に、果たして先はあるのだろうか。

 日常の中にある小さな紛争を解決することは、より大きな問題へ発展することを未然に防ぐことであると同時に、新しい価値観をつくり出せる最良のチャンスでもあると、私が学んだ非暴力トレーニングの先生は仰っていた。嫌だと感じる自分の気持ちを決して無視しないこと、そのような感情があることを適切に相手へ伝えること、その解決策としてどうしてほしいのかを丁寧に話すこと。私から相手へ、相手から私へ、ともに感情を受け渡していくことを蔑ろにしないコミュニケーションをめざしたい。



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 私が中学時代にいじめられていた話はこれまでにも何度も書いてきたけれど、私がこのことを拗らせた事の問題は、状況に対し適切な傾聴や対応がなかったことが一番なのかもしれないと思う。私はとても嫌だったしつらかったし悲しかった、そして、激しく腹も立った。けれど、私の感情に真正面から向き合ってくれた人は、私自身も含めて、たぶん、誰もいなかった。
 教師は中途半端に介入して放置し、母親には「自分で解決しなさい」と背を向けられ、深夜にウェブへ逃げることを覚えたために、父にはしょっちゅう怒られた。あのね、そりゃあ、しんどいよね。誰も理解してくれないのだもの。今ならあのころの私の頭を、そう言って撫でてあげるだろう。
 そして、当時、私をいじめていた子たちの感情とその理由についても、恐らくは同様のことが言えるのだ。彼女たちの中にもきっと何かがあったのだろう。自分自身に関する思索や、コミュニケーション能力が未発達であった私たちは全員、誰かにきちんと耳を傾けられたかったのではないか。

 私は、いつの間にかほどく弛みも見つからないほど複雑に絡んでしまった私の感情に、途方もないほどの時間と関係性を費やしてきたと思う。―― 一見治癒したように見えても、そこに根深い傷があることを忘れる日はなかったし、痛みが叫べば、私は無意識に傷を引っ掻いてしまっていた。瘡蓋を剥いで血を流す。そのたびに化膿し、醜く引き攣れていくものを、過去のことだといなして「痛くない」と私は見ないふりをしてきたのだけど。

 本当は、痛いと言えばよかった。悲しいと泣けばよかった。
 物語のなかを生きる私の感情たちは、いつだってそう言っていたのに、現実の私はうまくできないままで、私はその術を学ぶ知識すら持たなかった。


 嫌だと感じることは嫌でいい、と教わったときの私は、きっと安堵していたと思う。「私が我慢すればそれで済んだことではなかったのか」という破綻した思い出が、あまりにも自分のなかに多すぎたからだ。

 いじめも、両親との不和も、姉弟間の性差別も、友人たちとの行き違いも、恋愛も、セクシャルハラスメントやモラルハラスメントのようなものも――あるいは、その結果として患った病気ですらも。

 自らの「人間らしさ」を侵害されたときに湧き上がるどのような感情も抑圧する必要はない、と言われた。

 ただ、「嫌だ」と感じている自分を客観視すること、その感情を生みだしている理由(正確にはreasonではなくneeds)は何なのかを問い掛けること、それを解決するために相手へ願い出ること(orderではなくrequestする)――望ましい関係性を築くためのよりよい方策がある、日常のなかの小さな紛争を見逃さず、無為にすることもなく、そこから生み出せるコミュニケーションの形があるのだと学んだことで、私は少し、肩の力を抜くことができたような気がする。いまはまだ、私はファシリテーションやNVCそのものをうまくできるわけではないし、この解釈には誤りもあるとは思うけれども、一歩進んで二歩下がりながら、続けていきたい。

 きっと長い旅になる。がんばろう、私。



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2019年という年は、多くの人にとって「自分のルールを見直す」という難題にチャレンジした1年になったと思います。幸せを築いていくって、時に辛いのです。いらないものを捨てなければいけないし、他人の期待には応えなければいけない。さらに、2019年は多くの人が「このままの形ではちょっと頑張れないかもな」と、弱気や燃え尽きすらも感じた。でも、この上半期の占いを書いていてひとつ確信したことがあったのです。みんなが、2019年でやってきた苦労は2020年の上半期でちゃんと生きていく。2020年を生きていくために、あなたは「影」のほうからちゃんとつくっていった。先に苦労のほうをしておいた。だから、この上半期占いを読むときはどうか、みかんや甘いもの、飲み物など好物をおともに「よくやってきましたね。私」と自分を褒めながらぜひ読んでみてください。

 今年は、何年かぶりに(へたしたら十年以上ぶりくらいに)、私の人生における最低で最悪だった地獄のような三年間のことを、創作や勉強、人間関係、あらゆる場面で何かにつけてよく振り返った(楽しくはなかった)。奇しくもあのころ、私が私を投げ出さないためのよすがにしていた小野不由美さんの「十二国記」シリーズの本編が十八年ぶりに刊行されて、自分でも「そういう節目」なのだと感じたものだ。
 もし、これがしいたけ占いが指す「「影」のほう」であるなら、きっと私には私だけが歩いていける道があるのだろう。いいことは信じようと思う。温度の高いナルシスト、100℃の私になっていく。




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