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坐禅

初めまして。僧侶ですがクリニックに勤務して終末期のスピリチュアルペイン・苦悩に向き合う仕事をしています。逃避していた苦悩に患者と周りのひとびとが向き合い、統合性をより深く経験できるよう。

病気や障害を持った人の全人としての健康とは何か?「人間としての統合性(integrity)が脅かされたり、破壊されると苦悩が生じる。苦悩は脅威がなくなるか統合性が回復されるまで持続する。(Whole pserson care)」

2015年の春の話です。病院から家に帰ってきて、訪問診療が始まって4日目の夜にお亡くなりになりました。通常は亡くなられたら、すぐに訪問しますが、ご家族より一晩静かに過ごしたいということで、朝に訪問しました。息子さんとご家族で、お母様と最期の夜を過ごされました。

クリニックに僧侶がいるんですよね?私は既存の日本仏教は興味がないが、ブッダの生き方には興味がある。般若心経を唱えていただきたい。という話が私にまわってきました。

葬儀場に訪問。亡くなられたお母さん、息子さん、ご家族と初めて会いました。集まったご縁のある人と全員で、彼女について想いました。

彼女との出会いの中でのありふれた日常。
彼女との出会いの中での悲しみ
彼女との出会いの中での楽しみ
彼女との出会いの中での移ろい。

桜の木が蕾、花、散ると季節が巡るように、彼女の日常、悲しみ、楽しみ、喜びが巡りすぎていったこと。そして般若心経をお唱えして、香を焚きました。

その夜、息子さんよりショートメールをいただきました。
本日は有り難うございました。近親者には息苦しい程、記憶が駆け巡りました。特に私には子供の頃よりの記憶が走馬灯のように巡り意義深い一時でした。望んだ事とは言え余りにも母親に長く関わり元に戻すのは時間がかかりそうですがお陰さまで良いお別れが出来た事を感謝致します。
私はショートメールを返信しました。
お母さまご冥福をお祈りもうしあげます。ご家族皆さんの慈しみ悲しみ喜びはお母様と確かに在りました。ゆっくりとお母様とお休み下さい。合掌

4年前の出会いでした。そして2018年クリスマスの頃、私は一週間、禅寺にて坐禅・摂心に参加しました。

接心(せっしん)とは、攝(摂)心とも書き、散乱する心を一つに摂むることをいう。心によく気をつけること。 摂心不乱(せっしんふらん)などともいう。遺教経には「常当摂心在心」とある。禅宗においては、坐禅を修して、精神を一つの対象に集中させ散乱させないことである。禅宗では後々、特に一定の期間、昼夜を問わず絶え間なく坐禅をする修行をいうようになった。(wikipediaより)

朝2時に起きて夜の9時まで食事、トイレ、休憩を覗いて、坐ります。外の世界に気持ちを向けず、内側の世界と向き合います。禅堂にこもって4日目の夜、坐禅を終えて声をかけられました。

「ひょっとして木下さんですか?」
「私です。母の葬儀の際に般若心経を唱えていただきました。」
偶然の出会い。
「あれから、坐禅をするようになりました。」
「そうですか。あれから坐禅をしているんですね。」
4年前の出会いを思いだし、今の出会いに感謝しました。

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