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この子は置いていきます

 チラシの裏に、
「この子は置いていきます」
 と書いた母は、姉と顔を見合わせて笑った。
 西日差し込む夕方のことである。何だか楽しそうな母と姉を見ながら、
置いていかれるのが、自分なのだとわかった。私はこの社宅のアパートに、ひとり置いていかれる。

野菜を食べないから?
社宅の子供達に、仲間はずれにされるから?

 私は火がついたように泣いた。なんとしても、置いていかれたくはなかった。ここで父と二人きりで暮らすなど、想像ができない。

 それなのに母と姉はまだ笑っている。
 そして、
「さぁ、隠れよう」「早くしないと帰ってきちゃう」
「あなたがいると、バレちゃうから、ほらそこにいて」
 などと、言いながら、バタバタしていた。

 この日はエイプリールフール。
 私を置いて母と姉が出ていったと思わせて、父にひと泡吹かせようというのだ。4歳かそこらの子供だった私は、嘘をついていい日があるなんてわからない。ただ、そこにあるのは、私だけが置いていかれるという絶望だった。

 冗談なのかもしれない、でも本当なのかもしれない。

 何が何だかわからない私は、ただただ、泣きじゃくっていた。母がチラシの裏に書いた、父に宛てた手紙の内容を、私は未だに覚えている。

お父さんへ
もう私は疲れました。お姉ちゃんを連れて出ていきます。
この子は置いていきます。

 母は、本当に出て行きたかったのだろう。幼い子供を巻き込んで、こんな復讐をしたかったくらい、父と母の気持ちはすれ違っていた。

 私が覚えている一番最初の記憶は、布団の中から見た、父と母の不穏な夫婦げんかの場面だった。私が生まれた時、既に両親は不仲だった。

 中学生の頃、祖母に言われた。
「おじいちゃんは、病気で死ぬ前、私に言ってたのよ。オレが死んだら部屋が空くから、お母さんとお姉ちゃんを実家に返して、お父さんと離婚させろって。そうしようと思ってたけど、あなたが生まれたから離婚させられなかった」

 今、思えば祖母は、小さい時、あまり私を可愛がってくれなかった。その分、露骨に姉の方を可愛がっていた。その差があまりにも苦しくて、私はオルガンのある暗い部屋に走って行き、一人で声を出さずに泣いたことがある。

 祖母は、ただただ、姉が可愛かっただけなのかもしれない。でも、私には、その愛情の差の原因が、私が生まれたことで、母を離婚させることができなくなってしまったことと、無関係ではない気がした。

 私が生まれてきてしまったこと。
 そのせいで、母の自由を奪ったこと。

 私のせいではない。それは父と母の問題だ。頭ではわかっていても、ブスリと太い針が、胸に刺し込まれたような気がした。

 あの日のエイプリールフールの結末がどうだったか、全く記憶にない。

 ただ、その日から私は、母がトイレに立つだけで、私を置いて出ていったのだと勘違いし、泣くようになった。
「なんで、泣くの? お母さんここにいるでしょう」
 そう言ってトイレから出てくる母を見て、ホッとしてまた泣いた。

 中学生の頃、家族と話をしている時、何かのきっかけで、あのエイプリールフールの話題になったことがある。
「あー、あったねえ!」
 母がケタケタ笑う。
 私は少し真面目に、どれだけ辛かったか、あの日のことを未だに夢に見て、泣いて目覚めるのだということを話した。
 母の顔から笑顔が消えた。少し青ざめて、それからシクシクと泣き出した。
「そんなに苦しんでいたとは思わなかった」
 そして私に謝った。
 でももう、どうすることもできない。

 母は、自分の愛情を過信していたのかもしれない。自分の子供への愛は揺るぎなく大きいのだという過信。少し傷つけても、その愛でリカバリーできるという慢心。
 実際、私は母に愛されたと思う。
 でも心のどこかで、その愛に確信が持てないのは、冗談でも、私を置いていこうとしたからなのだ。

 一緒に暮らしていた時よりも、結婚をして、離れて暮らすようになってからの方が、あの出来事を思い出してしまう。実家に面倒なことが起こるたび、4歳の私の泣き声が、胸に響いてくる。
 私もいい年だ。いい加減、幼少の頃のことを、引っ張り出して、うだうだ言いたくはない。
 でも、そう思えば思うほど、泣いていた4歳の私の気持ちに寄り添える人間は、大人になった私しかいないのだと思ってしまう。

 その思いは間違っている。絶対に間違っている。手放したほうがいい感情だと、頭では理解している。それなのに、まだ私は、自分は置いていかれると絶望して泣く4歳の子供の頭を、
「大丈夫だよ」
 と言って、なでてあげないと気がすまないのだ。

 私はこの子を置いていけない。





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