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まぼろしのホッケ

 昭和59年11月3日文化の日のことである。
 当時、小学一年生だった私は、母とふたりで都内某区で行われたイベントに出掛けた。メイン会場である公園へ行ってみると、色づく銀杏の木の下には、たくさんのテントが並び、何か焼いたり揚げたりしたような香ばしい匂いが漂っている。どうやら日本各地の名産を売っているらしく、お店の人の掛け声が賑やかだった。

 食べ物に目がない母は、目を爛々と輝かせながら、美味しいものを見逃すまいと鼻息を荒くしている。そんな母に、私は小走りでついて行くのやっとであった。母の気合いの入った視線を察知したのか、お店のおじさんが声をかけてきた。

「奥さん! コレ美味しいから! 絶対に美味しいから食べてみてよ!」

 美味しいを連呼している。
 のっけから、随分とハードルを上げてくるおじさんである。
 おじさんの手には発泡スチロールの小皿、その上には何やら香ばしく焼けた魚と楊枝がのっている。おじさんはしきりに、これを食べてみてくれと母に訴えていた。

 おじさんから、絶対に損はさせないという意気込みを感じる。そのあまりの押しの強さに、母はおじさんから試食の皿を受け取った。そしてほぐした焼き魚に楊枝をぷすりと刺し、ぱくりとそれを口にしたのである。

 一瞬の沈黙ののち、母は目を見開いた。
 それはまるで、悟りでも開いたのかと思わせるほどの表情であった。母は見開いた目をそのままおじさんに向けると、

「おいしい!」

 と言った。おじさんはしてやったりといった顔で、
「でしょう!」
 と返すと、おじさんは視線を私に向けて、小皿を差し出した。
「お嬢ちゃんもどう?」

 私はどうしたらいいか戸惑った。幼い頃、祖母の家で魚の骨を喉に引っ掛けて以来、私は魚嫌いで通っていたからだ。しかも私は、母から「あなたは将来警察犬になれる」と言われるほど鼻が利くせいで、人一倍、魚の生臭さに敏感だったのである。

 私がもじもじしていると、
「これなら、絶対に大丈夫よ。食べてごらんなさい」
 母が言い放った。どうやら、何が何でも食べなければならないようだ。

 私はしぶしぶ小皿を受け取った。生臭くても、おじさんの目の前で吐き出すことはできない。緊張の一瞬。私は心の中で「エイヤ!」と掛け声をかけ、魚を口に含んだ。

 ほんのり温かい焼き魚が舌に触れる。生臭さはない。おそるおそる魚を噛むと、その身は口の中でほぐれ、濃厚な旨味が口の中に溢れかえった。
 私は母と同じように目を見開いた。

「おいしい!」

 驚きの旨さであった。おじさんが、試食片手にあれだけ「美味しい」を連呼するのも当然である。おじさんの上げたハードルが、はるか下方に見えるほど、その魚は想像を遥かに越えた美味しさだった。

 世の中にはこれほどまでに美味しい魚があったのか。今まで食べてきた魚はなんだったのか。私はこれまでこの魚のおいしさを知らずして、魚嫌いを名乗っていたのか。そんなことを思いながら、惜しみ惜しみ口に残った魚を噛み続けた。

 このとき、魚嫌いだった私を虜にしたのは、ホッケの開きであった。

 そのあと母はおじさんからホッケの開きを4枚ほど購入し、ホクホク顔で家に帰った。その日の夜は、当然ホッケを焼いた。家族四人で、うまいうまいと、猫のように魚に飛びついたのは、良い思い出である。

 そのせいか、今でもホッケは大好物である。
 夫婦で北海道を旅したときは、知床のお店でホッケを食べたし、北海道物産展に行って、上等な開きを買って帰ったこともある。その度にホッケの美味しさに頬が緩んだが、38年前、文化の日のイベントで食べたホッケには遠く及ばない。

 母もホッケを目にする度に、
「あのとき食べたホッケは美味しかった」
 と視線を遠くにやるほど、あのときのホッケは美味しかった。

 記憶というものは美化されるものだ。思い出も味わいのひとつとなって、より美味しいと感じるのかもしれない。そう思いはするが、あのホッケだけは、美化や思い出を取っ払っても、十二分に美味しく、誰が食べても、その味に目を見開くはずだと私は確信している。

 そう強く言うからには、是非ともまた、あのホッケを食べたいと思うのだが、あのときのホッケが、今どこのお店で売られているのか全くわからない。昭和59年、ネットもない時代である。買ったそのときに、このホッケがどこで手に入るのかをお店の人に訊き出さなければ、再び同じものを買うことはできない。

 人と人だけではなく、食べ物にも、こうした一期一会がある。

 北海道では、根ぼっけが幻のホッケと言われているそうだ。食べてみたら、きっと目を見開くほど美味しいに違いない。そう思いはするものの、やはり、昭和59年11月3日に試食で食べたあのホッケが、私にとって、幻のホッケなのである。




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