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白紙の答案用紙に回答し続ける思考。


”最後に選び取るのは自分” ということさえ理解していたら、どんな相談でも聴いてくれる人がいるうちは、あるいは誰かに聴いて欲しいと思ううちは、話して構わない。甘えて構わない。ただ、誰かが答えをくれるだろう、正解がもたらされるだろうという期待をしてはいけない


書くと簡単なことだ。当たり前だと誰もが思うだろう。しかしできていない人の、あまりに多いことよ。


そもそも、正解が一つという概念を適用すると矛盾が生じる事柄が多々存在する世界だ。つまりは、正解も不正解もないはずであるのに一喜一憂している。人間が複雑奇怪に創り上げる世界で、ただただ選択を繰り返して呼吸をし、歩き続けた先にあったのが ”幸福” の二文字だったなら、『あの時のあの選択は正解だったのだ』と、遡って正解の名をつけられる。それだけのこと。


何かに打ちひしがれて、無限に続くと思われるような奈落の底まで、落ちたのか落ちなかったのかさえもわからない時。偶然居合わせた人がかけてくれた言葉が、話を聴いてくれた友人が、黙って寄り添ってくれた家族が、思いがけず光をもたらしてくれることがある。こんなときは、『救われた』と思う。


『救われた』という感覚は大袈裟な表現をすれば、今にも決壊しそうな表面張力でギリギリを漂っている命には、必要なものだと思う。


人は一人では生きていけない。自分の足で立っていられる時もあれば、そうでない時もある。救うとは ”危ないところを助ける” の意であるから、他の誰かの手を借りなければ生きていけないときには当然、救いが必要なのである。本当に自分の力だけではどうにもならないときに『助けて』と言えることは、どんな人にも必要だと思う。


しかし。


『いっそ誰かに決めて欲しい、委ねてしまいたい。そう思う時がある』。こんなことを言う人に時々、出逢う。そう思う人もいるのだろう、と理解はできても、目の前に差し出された答案用紙に回答することを放棄してしまうというのは、カンニングして回答をすることよりも嫌悪感を憶える。はっきり書こうと思う。そういうタイプの人が好きになれない。生きるということに対する姿勢に腹が立つ。


正解を求めて何かに傾倒すること、何かに依存すること、何かを妄信することは恐ろしい。その対象(団体であれ個人であれ)が正解をくれると思い込んでいる、あるいはその対象そのものが正解であるという思想は、自分の命そのものに失礼な思想だ。人生を放棄しているのだから。


参考にするのは良い。ヒントをもらう、くらいの感覚なら良い。だが、正解なんてない。問いが降ってきたときから、降って来る前から、正解なんてどこにも存在しない。


あるのは延々と続く、白紙の答案用紙だけ。


マルを付けられることもバツをつけられることもなく、次から次へと白紙の答案用紙が突き付けられるだけ。


”生きる” とは、目の前にある白紙の答案用紙に回答し続けること。
そして、どこにもない正解を探すのではなく、自分が何を正解とし、選び取るのか。それだけ。


問いかけられる度に、目の前の答案用紙に自分なりの回答を埋めていく。それを繰り返して、繰り返して、人生は出来上がる。


正解なんてない。
誰も持っていない。



意見を求めるのは結構だ。考えがまとまるのなら誰かに話した方がいい。ただ傍にいて寄り添うことが必要なら声を上げよう。


しかし、正解は求めない。
どこにもないのだから。
誰も持っていないのだから。
決めるのは自分なのだから。










正解なんて、知るか。


『あんなこともあったね』
『あれは失敗だったかもしれない』
『まあまあ良かったんじゃない』
『やりきった』
『楽しかった』


あとで振り返ったときに、こんなことを言える答案用紙が出来上がっていたら、人生は ”正解” なのかもしれないが。


振り返っている暇があったら、次の答案用紙を埋めにかかる。








正解なんて、どこにもないんだから。
探すのはやめて、自分を生きてください。






flag *** hana




今日もありがとうございます♡






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