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言葉ースッキリさせてくれるもの、曖昧なもの

先月は、石徹白という集落に滞在しており、そこでは「人間は本来自分の頭や五感、第六感で考えて、お料理、遊び、生活する力を持っている力を持っている生き物」という事を大いに感じた。
(その時に感じたことの記事はこちら)

石徹白から帰ってきてから、人生の相棒と、お出かけやご飯に行く機会があった。色々なところに行ったが、某親子丼チェーンに行った時、入場料払ってから、天守閣の中は見れないと判明した名古屋城に行った時、死ぬほど人の多い長浜に行った時、今まで感じたことがないようなある一種の虚しさを感じていた。

相棒との関係性に問題があるのではない。相棒は、違う考えも楽しめるし、私に与えられた命、人生が続くかぎり、一緒にいたいとここまで思える人。(正直、まだ22年しか生きていない人生の中で、ここまで思える人に出会えたことがすごい。)


この世の中では、そこまで自分の頭で考えて遊ぼうとしなくても、
「お金」というものを媒介すれば、何でもコンテンツを楽しむことが出来る。

「死ぬほど渇望して食べたいか?」と問われると、
「はい」と言えないものであっても、
お腹がすいていたら、そこそこのクオリティのものを食べることが出来る。


そんな世の中便利だし、それによって沢山の人の雇用が生まれているだけではなく、沢山の人の胃袋も楽しい気持ちも満たすことが出来ていると考えると、そんなに悪くないと思う。

多分、私が虚しさを感じている背景の思いとして考えられるのは、
「自分の頭と体を使って遊んでいないのではないか」というのがあげられる。

まだ若いので、お金を使う遊びも楽しい。だけど、お金を使う遊びは、もう少し大人になってからできるので、少し勿体ない気がする。
例えば、おにぎりと水を家から持っていき、一日800円までしか使わないと決めて、散歩という旅をするなどを思いついた。

虚しさを感じてモヤモヤしている感覚と感情をなんとか言葉にして伝えようと思って、絞り出した言葉が上記の言葉だ。

けれど、絞り出した後に感じたのは、
「私がしてきた体験を相棒がしているわけではないし、第一同じ体験をしていたとしても感じることは違うから先月からずっと感じている感覚を伝えるのは少なくとも言葉では(絵、動画、書、俳句、その他のアートではどうなのかわからない)難しいのではないか」ということ。

「ニーチェの言葉Ⅱ」より


そんな時に、ニーチェの本の一節に出会った。
「言葉をどれだけ多く使っても全ては表現できない。言葉はただ、平均的なもの、中くらいのもの、伝達して大まかに中心の意味を捉えられる程度の者しか、相手に渡すことが出来ない」

私の今の感情はこれだ!!と直感的に感じた。

相棒に対してだけではない、ここのところ誰かに石徹白での出来事を話そうとするたびに、話し終わった後にはここでいうおぼつかない感触を感じて、モヤモヤしていた。


言葉ではすべてを表現できない

そうとは言え、思考のモヤモヤの中で自然ととどまる特徴の私にとって、モヤモヤが肥大化しすぎて何も手につかなくなったり、他の事が考えられなくなったりするときがよくある。

モヤモヤが肥大化しすぎて、言葉という形でとりあえず放出できるタイミングで、放出出来たときには、頭の中がすごくスッキリしている。
その瞬間、私は言葉に感謝している。


言葉は、「すべてを表現できない」ものでもあり、「頭の中をスッキリさせてくれるもの」でもある。

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