SF小説 三日間の箱庭
*おことわり
本作には自殺や殺人などの表現が含まれます。ご注意ください。
本作に登場する国、人物、会社などは全てフィクションです。
*ご案内
本作は約14万文字、ちょうど単行本1冊のボリュームで完結しています。本屋で1冊手に取ったと思って、お時間のあるときに読んでいただければ幸いです。
なお、読み易く編集した連載版も用意しています。よろしければどうぞ。
*あらすじ
パワハラに悩み、飛び降り自殺する女性。
いじめ殺人の被害者となった中学生。
ある秘密を解き明かそうとする科学者の集団。
そして彼らを取り囲む人たち。
彼らの運命は、繰り返す時の中いつしか絡み合い、結末の時を迎えます。
そのとき、彼らはどのようにそれぞれの運命を乗り越えるのでしょうか。
では、はじまります。
■プロローグ
5月28日 午前3時過ぎ。
「こんなに綺麗な星って、東京で見たことあったかな」
東京では珍しい、美しい星空。
それを私は見上げたまま。
瞬間、星空は私の視界を下から上に飛び去って行く。
都会に広がるおびただしい街の灯、ネオン、建物に刻まれた四角い灯り。
赤く、青く、白く飛び去り、もう見分けがつかない。
そして目に入る、光の洪水のように流れる車たち。
それらは全て光の記憶として私の瞼に刻まれて、その速度を上げていく。
そして訪れる暗黒。
恐怖はなかった。私は涙が溢れないように、ただ星空を見上げていただけ。ただ一歩を踏み出せば、私にできることはたったひとつだけになる。
それは、流れ行く光の種類を数えること。涙に滲んだ光たちを。
それだけ。
だったはず。
でもなぜ?
私はなぜ、またこの光たちを数えてるの?
何度も、何度も。
あぁ、これはきっと夢。
夢なのよ。
それにしてもなんてひどい。
悪夢。
■黒主来斗
5月28日、朝7時。
僕は目を覚ました。たくさんの夢を見ていたから、まだ夢の中のようだけど、どうやら違うようだ。
-まだ夢の中だったらいいのにな。
今日も学校に行かなきゃ。あいつらが待ってるから、僕が来るのを。
お金は用意できなかった。父さんも母さんも、もう気が付いている。
限界だ。
最初は財布から、次はカードで、親の目を盗んでは現金を手に入れる。
そんなの、続くわけない。
僕は苦いものが喉に張り付いているのを感じながら、時間を掛けて体を起こした。
行かなきゃもっとひどいことになる。あいつらは何するか分からないんだから。
でも、もう言おう。もうお金は無理だって。
あいつらにまた殴られるかもしれないけど、それできっと終わりだ。きっと、終わるよ。
来斗はそう考えながら、無意識のうちに親指の爪を噛んでいた。考え事をするときや緊張したときに出る癖だ。
小さい頃から親にはよく注意されている、悪い癖だった。
気がつけば7時半に近い時間になっていた。これからのことを考えすぎたようだ。目覚めてリビングに行くまでにずいぶん時間が掛かってしまった。
「おはよう」
母さんは目玉焼きとベーコンを焼いていた。いい香りだ。
「おはよ、朝はベーコンエッグだけど、パンにする?ご飯にする?」
食欲はなかった。この後学校で起こることを考えると、喉が詰まった。
「うん、牛乳が飲みたいな、あと、ベーコンエッグだけでいいよ」
「そう?うん、いいけど」
母さんは怪訝な顔をしたけど、それ以上の詮索はしなかった。
いくら朝でも、男子中学生が牛乳だけじゃ不自然だ。
僕は、焼きたてのベーコンエッグを冷たい牛乳で流し込んで、学校に行く準備を始めた。
-父さんはもう出掛けたのか。いつも早いからな。
ベーコンエッグは、美味しかった。
さぁ、学校に行かなくちゃ。
・
・
放課後、今日は一日あいつらの視線を感じていた。
休み時間のたびに4人で集まって、ニヤニヤしながら僕を見ている。
僕をいじめている4人組だ。
できることならこのまま帰りたい。
でも、そのときはやはり訪れる。
「おい、来斗!」
上村の声だ。いじめグループ4人の中では一番の下っ端。いつも3人の顔色を伺ってるヤツ。
僕がいなければ、いじめの対象はこいつだ、多分。
「ちょっと来いよ!」
抗うことはできなかった。付いていくしかない。
「今日は部活なしの日だろ?だから誰もいないんだ、体育館。だからさ、体育館の裏で大騒ぎしたって、だれも気が付かないんだよ」
上村がいやらしく笑いながら話しかけてくる。
-体育館か、裏で大騒ぎ?なにをつまんないことを。4人で僕のことを殴りたいだけなんだろ?
歩きながら僕は、そんなことを言う上村をとことんつまらないヤツだと感じていた。
体育館裏に着くと、地べたに3人が座り込んでいた。夜のコンビニによくいる連中のようだ。
武藤、重田、岡島、そして僕を呼びに来た上村、こいつらが僕を虐めている4人。
みんな小学校までは友達だった。
中学に入ると、まず武藤がぐれた。切れると暴れて手に負えない子供だったけど、その体が大きくなって、喧嘩が強くなって、そして恐れられて、自分が暴れれば誰も止められない。そう思い込んでいる。
重田と岡島は、武藤をうまく担ぎ上げてでかいツラしてる。まぁこのふたりはそれなりに強いけど。
上村は弱いから、3人に取り入って自らパシリに徹している。このグループに入ってさえいれば、他の不良連中もそうそう手を出してこないから。
そして僕は、中学で4人と距離を置いた。
あいつらも最初はそんな僕をいじるだけだった。中一の子供のじゃれ合いのようなもの。でも、2年になって変わった。
初めて金をせびられたのは、2年の夏休みの後、しばらくしてからだ。
“来斗、千円貸してくれよ、必ず返すからさ”、だったかな。
あいつらは当然返さない。それどころか僕は、言えば金を持ってくるやつだと思われたようだ。
あの千円を渡さなければ良かった。そう思うけど、もう遅い。
それから要求はエスカレートして、最近は1万、2万。親の財布から盗むにしても難しい額になってきた。そして、持って行かなければ殴られる。
いつも殴る役目は上村だ。3人はそれを、にやにやしながら見ている。
「顔は殴るなよ、腹だ腹」
「そうだぞ上村、あんまりダメージあると、殴ってるのがばれるからな」
いつもそう言う。嫌な連中だ。
だから何回かに分けて親の財布から金を盗んで、言われた額になったら渡す。そんなことをもう半年以上。
もう要求される額は、財布に入っているお金を盗んで揃えられる額ではなくなっていた。
それでカードを使った。つまり、もうすぐにばれる。いや、もう使用通知が親のスマホに届いているだろうから、もうばれている。
父さんも母さんも、僕のことをどうしようかと様子を見ているんだろう。
だから今日、この状況を断ち切るんだ。
勇気を出して、もう終わりだと、言うんだ。
・
・
最初は痛かった。腹を殴られ、蹴られ、口から苦いものが飛び出した。これで終わりのはず、いつもならそのはずだった。
武藤が言った。
「なんか被せろ」
上村がどこかからビニール袋を持ってきて、僕の頭に被せた。
武藤が更に言う。
「顔も殴れ」
冷たい言い方。
「お前らも殴れ」
重田と岡島が加わった。
そこからは痛みを感じなかった。感じるのは顔や頭に加わる衝撃だけ。
途中から衝撃が大きくなった。きっと武藤が殴ってるんだ。固い感覚もある。バットだろうか?
ひどく冷静に、僕はその衝撃の数と種類を考えていた。
でも、もう駄目だ。気が遠くなる。
もし生きていてこの後意識が戻っても、もう、なにも見えないだろう。
眼球が破裂しているからだ。
・
・
ドサッ、ドサッ、ドサッ。
朦朧とした意識の中で、僕の体や、足や、顔に何かの塊が放り投げられているのを感じた。
あぁ、僕は今、埋められているのか。いやに冷静に、僕は状況を理解した。苦しくはない。もうこれ以上感じるものはない。ただ口に、土だか泥だかが入るのがいやだった。でも、吐き出せない。
そして僕の意識は、完全に消えた。
・
・
たくさんの夢を見ていた。
でも今、僕は目を覚ましたようだ。
最後の夢は最悪、あいつらに殴られ、蹴られ、埋められる夢だ。あれが“死ぬ瞬間”なんだと確信できるような最悪の夢。ドサドサと体に被る、その重みまで覚えている。口に入る土や泥、小石。
最悪だ。
そのとき、部屋の外で足音が聞こえた。二人分の足音、父さんと母さんだ。足音がバタバタと騒がしく僕の部屋の前に来ると、何の前置きもなくドアが開いた。開くというより、蹴破る勢いだ。
「来斗!」
「来斗くん!!」
両親は僕の名前を叫んで、ベッド上で呆けている僕を抱きしめた。
父さんも母さんも泣きながら何か言っているが、ふたり同時で意味が分からない。
「ふたり一緒に喋ると聞き取れない!なんて言ってるの?」
「来斗!生きてるのか?本当に生きてる?」
「来斗くん!!夢なの?これは夢なの?生きてるの!?」
あれは夢じゃなかったのか?やっぱり僕は死んだ?
今は、僕が死んだという日の朝だ。
-そうか、そういうことか。
なぜか僕は、自分に起こったことを瞬間的に理解した。
3人でリビングに行くと、コンロの上のフライパンから煙が上がっている。母さんは慌ててコンロの火を消した。父さんの朝食だろう、ベーコンエッグは真っ黒に焦げていた。
出勤の恰好の父さんは、今日は仕事を休むと言う。
そして僕は、ふたりの話を聞いた。
父さんと母さんは、出勤の準備をしながら、朝食の準備をしながら、今朝見た恐ろしい夢の話をしたそうだ。
ふたりともそれを、それぞれが見た悪夢だと思っていたけれど、その夢はあまりに細かい点まで一致してしまった。
それでふたりは確信したそうだ。まだ来ていない今日、僕が死んだのだと。あまりに荒唐無稽だが、そう考えるしかなかったのだと。
ふたりは少し落ち着いて、僕が死んだ後の話をしてくれた。僕が知らない、未来の話だ。
今日の夜、帰らない僕を心配して、両親は警察に捜索願を出してくれていた。そして、僕が少なくない金額をどこかに持ち出していること、おそらくいじめを受けているのではないか、ということも警察に伝えていた。
そこで警察は、すぐに学校とその周辺の監視カメラを確認したそうだ。そこには、校内で体育館に向かう僕と上村の姿が記録されていた。
学校周辺の監視カメラでは、僕が学校を出た形跡がないことも確認できていた。ただずいぶんと遅い時間に、学校から出てくる4人の生徒が映っていたそうだ。
そして警察は直ちに校内を捜索し、僕を見つけた。
翌日、警察は監視カメラに映っていた4人、武藤、重田、岡島、上村を聴取した。
こんなとき、警察は4人をひとりひとり聴取するらしい。4人は口裏を合わせていたらしく、都合のいい言い訳をして無関係を装ったようだが、警察官の取り調べに中学生が耐えられるわけもなく、4人の話はすぐに矛盾をきたし、そこを突かれてあっけなく自供したそうだ。
特に、体育館裏に飛び散った血痕。5人分の足跡、近くのごみ箱から出てきたビニール袋。
土面に散った血痕は見えにくい。4人ともここで何かあったと疑われることすら考えていなかったようだ。だから「君たちの靴のメーカーって、○○?」とか「ゴミ箱からビニール袋が出てきてねぇ」といった話にことごとく顔色を変えたらしい。
-あたまの悪いあいつららしいや。
僕はそう思いながら、父さんに聞いてみた。
「それで、僕はどこで見つかったの?」
「ああ、体育館裏の先に、花壇や菜園に使う盛り土があるだろ?あそこに埋められていたんだ。あんなところ、すぐに掘られて発覚するのに」
父さんは苦々しい表情で言った。
-ほら、やっぱりあいつらはバカだ。
父さんは続けた。
「それでな、彼らは翌日、今日からすれば明後日だな、逮捕されたんだが・・」
そうか、よく分かった。あいつら僕をさんざんいたぶって、まだ息のある僕を土に埋めたんだ。バカな連中だ。でも、あんな連中がこの世にいるのって、許されるんだろうか?いや、許されるはずはない。じゃ、僕がやろう。そのために生き返ったんだろ?あいつらはまだ、僕を殺していない。そうだ、僕から行ってやらなくっちゃ。
僕はもう、父さんの話を聞いていなかった。
「父さん、僕、ちょっと疲れたし、休んでもいいかな?」
僕はさりげなく父さんの話を遮った。母さんも話したそうだったが、死んだと思った息子が生き返っているんだから、混乱のあまり訳の分からないことを言い出しそうだ。
父さんもそう思ったのか「そうだな、今日はゆっくり休みなさい。話の続きは起きてからだ」と言ってくれた。
僕が死んだ未来を過ごした両親も疲弊している。きっと二人とも安心して休むだろう。
でも僕に休む気なんかない。父さんと母さんが休んだら、ありったけの刃物を持って出掛けよう。
あいつらのところへ。
僕はしばらく部屋で時間をつぶし、リビングに下りて両親の様子を伺うと、やはり休んでいるようだ。
台所で探すと、すぐに数種類の包丁が見つかった。出刃包丁大小2本、柳葉の刺身包丁。母さんがしっかり料理をする人で助かったよ。
でもこの後、僕はこの包丁で人を殺すんだ。ごめんね、母さん。
包丁を肩掛けの学生カバンに入れ、制服に着替え、僕は普通に家を出た。
街の様子は僕が死んだ日の朝と変わらないように見える。でもちょっと目をやると、そこかしこで人が集まって何やら話し込んでいる。どんな話なのか容易に想像が付く、でもそんなこと今の僕には関係ないので、まっすぐ学校へ向かった。
学校は当然遅刻なんだけど、様子がずいぶん違っている。どうやら全校集会が開かれているようだ。誰に咎められることもなく、僕は学校に入り、教室に向かった。
教室には誰も居なかった。
-やっぱりか。
僕は何事もなかったように自分の席に座り、皆の帰りを待った。10分もすると廊下がざわつき始め、全校集会が終わったことが分かった。そしてすぐ同級生たちが入ってきたが、入るなり数名の女子が悲鳴を上げて逃げ出していった。
逃げなかった男子や女子は僕の顔を凝視して「来斗?そうか来斗、生きてるんだよな」と確認するように言った。
「何言ってんの?生きてるに決まってんじゃん。夢でも見たの?」
僕はとぼけた表情を作って応えた。
「ところでさ、武藤とか、知らない?」
僕の口から出た“武藤”という名前に、同級生はぎょっとした表情を見せたが、すぐ冷静を装うように「武藤か?重田とかも?」と聞き返してきた。
「そうそう!岡島と上村もね!」
僕も努めて落ち着いた表情で、あとふたりの名前を告げた。
「その4人なら生徒指導室だよ。多分この後、警察とか来ると思うんだけど、来斗、それがなんでか知ってる?」
「いや、知らない。あいつらにはお金貸してるからさ、そろそろ返してもらおうと思ってさ。そっか、生徒指導室か」
おそらく学校中が僕の事件、僕が殺されたことを知ってるんだ。そして今日の朝、みんな何事も起こっていない状態で目覚めた。だから全校集会で確かに起こったはずの殺人事件について確認し、当事者の4人は生徒指導室で事情聴取。警察だって、今はまだ何事も起こっていない“この事件”を知っているはずだ。だから学校には来るだろう。
-まずいな。
僕は心の中で呟くと「じゃ、ちょっと会ってくるわ」と、いかにも連中と親し気な口調で告げ、教室を出た。もちろん学生カバンを肩に下げて、だ。
-急がなきゃ、警察が来ればやっかいだ。その前にやらなきゃ。
僕は生徒指導室の前に立った。
ドアに耳を近づけ、中の様子を窺うと、4人の話し声がする。どうやら先生はいないようだ。
「・・・よね、死んだはず・・・」
小さい声だ。上村か?
「あぁ、確かに死んだよ。あれだけ殴ったんだ。最後は埋めたじゃないか」
少しはっきりした声、岡島だ。
「ちょっと!声が大きい!!先生が来てたらどうするの!」
ふん、重田だな。
「お前らさ、何言ってんの?俺ら、来斗なんて殺してなんかないじゃん。何心配してんだよ」
これは武藤だ。
「確かに俺らはあいつを殴った、埋めた、みたいな夢でも見たんじゃないか?だって、今いつだよ、あの日の朝じゃないか!」
「だってさ、来斗のやつ、学校に来てないんだよ?」
重田が応える。
「来斗だって、あの夢を思い出してビビってんだよ!学校に来れるわけないだろ?それにさ、警察が来たって何て言えばいいんだ?僕たちはこれから来斗を殺します、ってか?そんな馬鹿げたこと、警察もどうにもできない。いくらあのことを覚えていたとしてもだ。先生だってそうだったじゃないか」
武藤は僕を殺してからの時間を“夢”にしたいらしい。それも、関係者全員が見た壮大で馬鹿げた妄想だと。
僕は僕が死んでから、どれくらいの時間が過ぎて元の時間に戻ったのか知らない。まぁ確かに、こんな馬鹿げた現象をすぐに飲み込めと言われても、普通は無理だろう。
だけど、実際に殺された僕の感覚は違う。あのはっきりとした死の感触、目覚めてからの両親の様子、泣きながら話す内容。そしてこの学校の様子、なによりお前らのその会話が、この馬鹿げた現象を裏付けている。
それに、僕がビビってるってか?ビビるわけないだろ。お前らに対する心は、あの時すでに決まってるんだ。殴るだけで納めればよかったのに、やりすぎたんだよ、お前ら。
僕は努めて冷静を装って、生徒指導室のドアを開け、静かに入り、静かに閉めた。
あぁ、僕を見る4人の呆けた顔、幽霊に会った人みたい。面白いなぁ。あ、武藤だけはもう僕を睨みつけている。さすが、あとの3人とは違うや。
「ああ、武藤さ、さっき教室でさ、生徒指導室にみんないるって聞いたんで、来てみたよ。なんかやったの?」
僕は仮面のような笑顔を張り付けて武藤に近づいた。
「く、来んな!来斗、来んなおまえ、なんで来た!!」
さすがの武藤も動揺している。その眼には怒りと同時に恐怖もみえる。
「来んなってさぁ、今日の放課後、どうせ体育館裏に呼ぶんだろ?それに僕、お前らに金貸してるよね」
言いながら武藤との距離を詰める。
「ざけんな!金なんか返すわけないだろ!とにかく近づくな!!」
「へぇ、じゃ、これはいらないのかな?」
僕は学生カバンに手を突っ込んだ。武藤は本能的に危険を感じ取ったらしい、手近にあった椅子の背を掴んで、足を僕に向けた。さすが喧嘩慣れしている。それにこいつの親父は見たことがある。とてもまともとは思えない、近づきたくない種類の人間だ。つまり血筋ってやつか。
僕は学生カバンの中で包丁の柄を握りしめながら、更に距離を詰める。我慢しきれなかったのか、武藤は椅子を振り上げて僕の顔めがけて投げつけてきた。僕はその椅子をまともに受けた。椅子の足が頭に当たり出血したのが分かる。顔にも首にも肩にもかなりのダメージを受けた。
でもそれだけだ。
「ひどいじゃん、そんな力一杯椅子なんか投げつけたら、下手すれば死んじゃうよ?」
そう言いながら僕は、学生カバンから柳葉包丁を抜き出した。
「ひっ」
武藤が怯えた声を上げる。そうだろうね、椅子を投げつければ普通は誰でも怯むもんだよね。それが怯まず包丁出すんだもんね。
もう僕は、武藤の肩に手を掛けていた。
「まぁいいよ、死ななかったしさ」
そう言いながら僕は武藤の背後に回り込み、柳葉包丁を持った腕を武藤の首に回した。
柳葉は長い。その長い包丁を持った腕を首に回すと、その切っ先は僕の左頬を切り裂いた。でもそんなこと構わず、僕は腕を引いた。
何の躊躇もない。何の言葉もない。ただ引いた腕の先に握られた柳葉包丁は、武藤の首をぐるりと切り裂いていた。
ざぁ、と武藤の首から血が流れる。
きっと、切られたことにも気が付いてないんだよ?腕を引いたとき切っちゃった僕の頬を見てよ。これだと痛いんだ。切られたって、脳が認識するからね。
僕の頬から血がドクドクと流れ落ちる。でも武藤の首から流れる血は、それこそ“ざぁざぁ”と音がするようだ。
武藤はがっくりとうなだれて膝をついた。これで武藤は終わり。あと3人だ。
僕は思うんだよ。いじめっていうのは一人ではやらない。必ず複数だ。そしてその首謀者はひとり。そのひとりさえ潰してしまえば、あとの取り巻きなんておまけみたいなもんさ。
やっぱり、そのとおりだった。
武藤が死んでいく今この瞬間、重田も岡島もただ突っ立っている。いや、わずかに重田が動きそうだな。上村はどこかに逃げたかと思ったけど、机の下に潜り込んでガタガタ震えている。
次は重田だな。ところで、柳葉包丁はもうやめよう。刺すにしても傷が小さい。大きく切るにはコツがいる。ここはやはり、出刃か。
僕は学生カバンに手を突っ込んで、大きな出刃包丁の柄を掴んでいた。
「重田さ、僕に何したか、覚えてる?」
頬から血を流し、大量の返り血を浴びた僕は、普通の友達のような口調で重田に迫った。
「あっ、あぁ、あっ」
重田の口から出るのは怯えた嗚咽だけか。ちょっと喧嘩が強いんだけど、やっぱこいつ、ダメだ。
「あ、もういいや」
僕は重田の正面に歩み寄って、おもむろに包丁を突き刺した。
人間の内臓は筋肉や骨に守られてる。即死させるなら心臓だけど、肋骨が守ってるから相当上手く刃を入れないと、心臓には届かない。だからね、肝臓を狙うんだよ。肝臓は肋骨の下端の更に下だ。柔らかいし、突き刺せば大出血で致命傷さ。
でもちょっと困るのは、即死しないってことかな。
「がぁーっ!!」
出刃包丁を抜くと、やはり重田の腹は大出血している。腹を抱えて前のめりに倒れ込む重田に、僕は言ってあげた。
「大丈夫、すぐに気が遠くなって、痛くなくなるよ?」
僕の言葉を聞いて正気に戻ったのか、岡島が身を翻して逃げようとしている。逃がすもんか。すぐに岡島の肩を掴み、背中に出刃包丁を突き刺した。
「あ、あ、ぐぁっ!!」
岡島は悲鳴を上げたが、困った状況だ。背中の筋肉は強くて堅い。刃が通りにくいんだ。一発では致命傷にならない。
「ら、来斗、来斗、ゆるし、悪かった悪かった悪かったわ、わわわ」
今更謝ったって駄目さ。僕はなるべく少ない回数ですむように、内臓の位置を把握しながら刺し直した。それでもやはり、背中からでは難しい。致命傷の確信を得るまで、3回も刺さなきゃならなかった。
僕は自分の血と返り血でずぶぬれになった顔を拭い、上村に向き直った。上村はやはり、机の下で震えている。
「大丈夫、上村、心配すんなよ。お前に包丁は使わないから」
僕が言うと、上村は少し期待を込めた目線を僕に送った。
「おまえはね、殴り殺す」
上村の顔が恐怖に歪んだ。
「ごめんな上村、こないだの、正確には今日の放課後のことか、初めのうちがさ、とっても痛かったからさ」
上村の悲鳴が聞こえていたのは、ほんの最初のうちだけだった。
・
・
終わった、先生や警察が来る前に、僕を殺した4人を、みんな殺した。これであのとき、僕が感じた死の瞬間をあいつらも感じただろう。
「もうこれで十分、さ、仕上げだ」
僕はカバンに残った小さい出刃包丁を手に取ると、肋骨の間を正確に狙って、刃を滑り込ませた。
「心臓って、左だよな」
そんな馬鹿げたことをつぶやきながら、僕の意識は消えていった。
■黒主正平
正平が目を覚ましたのは昼過ぎだった。なぜこんなに眠ってしまったのか、息子を殺された悪夢のせいか、息子が生きていると安心したせいか。
「しかし、あの夢は長かった」
夜になっても帰ってこない来斗を心配して、警察に連絡したこと。
翌日の夕方、警察から連絡が入って職場である病院を早退し、聡子と一緒に来斗の遺体を確認したこと。
すぐに容疑者が特定されたこと。
来斗の友達と思っていたあの子たち。
いじめのことは分かっていた。金をせびられていることにも気付いていた。それなのに、息子を守ってやれなかった自分が情けない。それにも増して、自分の子供が誰かをいじめていると気づかない、あの親たちが憎い。
私は担当の刑事に頼み込んで、親たちの事情聴取を見せてもらった。マジックミラー越しに。
来斗に落ち度はない。悪いのは加害者だ。
しかしマスコミってやつは、なんで被害者に好奇の目を向ける?
容疑者が特定されてすぐ、あいつらは私らの周りに群がって、取材だと言いながら無礼な言葉を投げ付けてきた。
「お子さんがあんなことになって、どうお感じですか?」
「お子さんになにか変わった様子はなかったのですか?」
「気づかれないほど、お仕事が忙しかったと言うことですか?」
「親として、何か出来ることがあったと、思われませんか?」
「お子さんを殺害した犯人に、なにか言いたいことは!」
私が医者だからか?世間で言うところの「勝ち組」のようだからか?
マスコミの張り込みや玄関のチャイム押しは、夜も続いた。
被害者とその家族に人権はない、そう思えるほど無礼で無神経な質問攻め。無性に腹が立った。犯人たちにも、その親にも、マスコミにも、そして無力な自分にも。
記憶はそこまで。
そんなことを3日間、丸々経験したような夢。
だからこんなに疲れているのか。
隣のベッドで聡子も泥のように眠っている。もう昼過ぎだというのに、私と同じ様に心底疲れているんだ。きっと来斗もまだ、寝ているんだろう。
今日の朝、全身にびっしょり汗をかいて目覚めた。6時頃だった。聡子は少し前に目覚めて朝食の準備を始めていたが、やはり顔色が悪かった。
どうしたのか聞くと、恐ろしくリアルで、恐ろしく長い夢を見たと言う。
私たちはその夢の話をした。長い長い夢の話。息子が殺害され、犯人を知り、マスコミに追われる話。細部までぴったり同じだった。
私たちは来斗の部屋に走った。ベッドに来斗はいた。
来斗は生きていた。
生きている来斗の顔を見て、私たちはこれまで感じたことのない安堵感に包まれた。信じられなかったが、あの夢は現実にあったことだと思えた。
3人でリビングに降りると。あっと声を上げた聡子が慌ててキッチンに走り、煙を上げるフライパンの火を消した。
そしてその夢の話を来斗に教えて・・
そこまでが今日の朝のこと。
もう昼過ぎだ。さぁ、そろそろ起きだして、来斗と3人で何か食べよう、朝も食べ損ねたんだから。
そう思った時だった。けたたましい音が家中に響いた。玄関のチャイムが何度も押され、ドアが激しく叩かれているのだ。
「黒主さん、開けてくださいっ!!」
「警察です!! 黒主さんっ!」
何人かがドアを叩きながら叫んでいる。玄関の外からなのに、寝室にまで聞こえる。
-警察?なんで警察が?
私はあわてて聡子を起こし、ベッドから降りた。
「聡子、警察が来た。来斗を起こしてきなさい」
そう言って玄関に向かった。聡子は目をこすりながらうなずいた。玄関では相変わらずチャイムが押され、ドアが叩かれている。
「ちょっと待ってください」
私はそう言ってモニターを確認した。画面には3人の警察官が映っている。ひとりは私服、ふたりは制服だ。その私服警官を見て、私は仰天した。
「知ってる。この人は、安藤さんだ」
安藤は夢に出てきた刑事だった。来斗が殺害されたことを伝えてくれた刑事。犯人の親たちの事情聴取も見せてくれた。マスコミ対策もだ。安藤さん、信頼できる警察官だった。
しかしそれはすべて夢の中のことだ、実際に知ってるはずがない。それが、なぜ今ここにいる?
私はすぐに玄関を開けた。
安藤は私の顔を見るなりギョッとしている。
「まさかそんな、やっぱり黒主さんですね!」
そう言う安藤に私も同じ思いだった。
「安藤さん。いや、私たちはこれが初対面のはずですが、あなたは間違いなく安藤さん」
「そうです、安藤です。まさかこれも夢なのか、いやいや!その話は後で、とにかく黒主さんっ!来斗君が!!」
「来斗ですか?」
私はいぶかしげに応える。
「来斗なら部屋で休んでいますが」
そのとき、聡子が青ざめた顔で2階から降りてきた。
「あなた」
悪い予感がした。
「来斗がいないの」
・
・
家の中は家宅捜索で騒然としていた。私たちは安藤の話を聞いている。
恐ろしい話だった。聡子は私の横で泣き崩れている。
「黒主さん、これまで話したとおり、来斗君はあなた方が休んでいる間、ひとりで学校に行ったようです。そして4人の同級生を殺害した」
私は念を押すように言った。
「その同級生というのが、夢に出てきたあの4人、来斗を殺した4人なんですね?」
来斗をいじめていた4人、夢の中で来斗を殺した4人の顔が浮かんだ。
「そうです。そして使われた凶器は柳葉包丁など3本、鑑識の話では台所にその種類の包丁はない。しかし奥さんの話では、それらの包丁は無くなっているようだと」
「来斗がそれを持って学校に行った」
そうとしか思えなかった。
「そうです。それは間違いないでしょうね」
安藤は深くため息をついた。
来斗が4人もの人間を殺した。その4人は、夢で自分を殺した4人。
では、これも夢なのか?確かめなければ。
「安藤さんは、あの4人が来斗を殺した犯人だということをご存じですよね」
安藤は眉間に深いしわを作って俯いた。そして顔を上げて言った。
「はい、はっきりと覚えていますとも。しかし今はあれが夢だと思うしかない。そして、今のこの事態が現実だとしか言えません」
本当にそうなのか?頭が混乱する。とにかく来斗に会わなければ。
「私もこれが夢なのか現実なのか、もう分かりません。まず来斗に会わせてもらえませんか?」
安藤はその言葉を待っていたかのように、私たち夫婦に告げた。
「そのことなんですが、お二人ともよろしいですか?」
安藤は私たちの顔を交互に見て、ひと息置いて言った。
「来斗君は4人を殺害した後、自殺したものと思われます」
安藤は自殺した来斗の様子を説明している。
ふと安藤の顔が歪む。私の目がおかしいのか?安藤が何を言っているのか理解できない。私の耳がおかしいのか?ただ、小さい出刃包丁で自分の心臓を突いた、ということだけは分かった。
いつの間にか、泣き崩れていた聡子はなにかをつぶやいている。気が狂ってしまったかのように同じ言葉を、繰り返し繰り返し。
「私の包丁で、わたしのほうちょうで、わたしの、ほうちょうで・・」
「だめ、それはおかあさんの包丁なのよ、来斗、来斗!!」
「らいとーっ!だめよーっ!!!」
最後は絶叫だった。
悪夢でしかなかった。
・
・
翌日、私たち夫婦は朝から警察署で事情を聞かれ、ようやく帰宅を許されたのは昼を大分過ぎた頃だった。ハンドルが重い。聡子は助手席でぐったりとしている。寝ているようだ。
来斗の遺体は昨日の夕方確認している。
激しく取り乱した聡子を心配した安藤刑事から、遺体確認は私だけで、と言われていたが、聡子はどうしても行くと聞かなかった。息子の顔を見たかったのだろう。
意外なことに、聡子は来斗の遺体を見ても取り乱さなかった。ただぼんやりと遠くを見るような目で、ぶつぶつと何かを呟いていた。
来斗の遺体はきれいだった。夢で見た来斗の姿、殴られて変形した顔、潰れた両目、胸にも、腹にも残る暴力の跡。それとはまるで違う、左頬の浅い切り傷の他は、左胸に心臓を突いた傷がたったひとつ、何のためらいもなく左胸に包丁を突き立てた証拠だ。
-私が人の体のことなど教えなければ。
私の心を何とも言えない後悔がえぐった。
とにかく、これから来斗と来斗が殺したという4人の遺体は解剖されるのだ。あの夢で来斗がそうされたように。
今日の事情聴取で、聡子は自ら進んで質問に答えていた。来斗の普段の様子、優秀な成績、そして優しい性格、それに加え、あの4人にいじめられていたこと、金をせびられていたこと、来斗がいかに辛かったか、何としても伝えたい。そんな気持ちが痛いほど伝わってきた。
明日も事情聴取は続くだろう。そして、また新しい事実も聞かされるのだろう。来斗がひとりでどうやって4人を殺したのか、とかだ。
考えているうちに家が近づいてきた。我が家は大通りから何本か入った道沿いにある。最後の角を曲がると、数軒先が我が家だ。道はそれほど広くない。
そこに車が止まっていた。
パトカーではない。黒塗りの大きな車。その車は、我が家の駐車場を塞ぐように止まっている。
「そうか、あいつだ」
私は我が家から少し距離を置いて車を止めた。
私の車に気が付いたのか、その車からひと目でその筋と思われる連中が降りてきた。2人の風体は下っ端風、もうひとりは明らかに幹部といった面持ちだ。
「聡子、さとこ!車から降りちゃだめだぞ、何かあったら警察を呼んで」
寝ている聡子を揺り動かし、そう告げて私は車から降りた。3人はまっすぐ私に向かって歩いてくる。
「黒主さん」
幹部風が声を掛けてきた。
「武藤さん」
私も応えた。私はこの男を知っている。武藤雅史、来斗をいじめていた4人の主犯格、武藤弘志の父親だ。
「どういうことですかね、会うのは初めてのはずだが、私はあんたの顔を知っている。で、あんたの息子さん、うちのに殺されたよね。でもなんで今度は、あんたの息子にうちのが殺されてんの?」
安藤刑事と一緒だ、この男にも“あの記憶”がある。もう疑いようがない。あれは実際に起こったことなのだ。夢ではない。そして今、私たちは同じ日の違う時を過ごしている。
つまり、時間が戻っているんだ。
「武藤さん、あなたは来斗が、うちの息子があなたの息子さんたちに殺されたことを覚えていますね?」
「あぁ、そうなんだよ。うちのバカ息子がね、やっちゃいけないことをやった。でもおかしいだろ?うちの息子、今度は死んでるんだぜ?」
「はい、今回はうちの来斗がやったことです。でも、最初に来斗を殺したのはあなたの息子さんたちだ」
「分かんねぇな、だからよ、はっきり覚えてんだよ。あんたの息子を殺した弘志をぶん殴ったのも覚えてる。なのにだ、なんでこんなことになってる?」
初めてこの男を見たのは、警察の取調室だ。正確にはその隣の部屋で、マジックミラー越しに。
来斗を殺した4人の親たちだと言われた。その中で一際目立ったのが武藤だった。ひと目でその筋と分かる男だが、取り調べでは眉間に深いしわを作って、自分の息子がやったことは必ず償うと言っていた。その言葉に嘘はないと思える。そんな男だ。
「武藤さん、私も混乱しているんです。私の息子が今回やったことは現実です。しかし、その前にうちの子が殺されたことも現実としか思えない」
「そうなんだよな、でもな、今回あんたの息子が俺の息子や仲間、4人を殺したってのが紛れもない現実だよ」
武藤の声色に怖いものが混ざっているのを感じた。
「だからよ、俺が分かるような説明がないなら、俺もちょっと我慢できるか、分かんなくてね」
この男も混乱している。しかし、今説明しなければ、この男は危ない。
「あんたは見てないだろ?うちの息子、首の周りをぐるっと切られてんだぜ?首の周りを、ぐるりとな」
武藤は左手の親指を立て、右耳の下から左耳の下まで首をぐるりとなぞった。
「あれは素人の切り方じゃねぇ、あんたの息子、なんであんな切り方ができるんだ?あんた、ほんとに堅気か?」
武藤の目が釣り上がっている。
「武藤さん、うちの息子がそんな切り方をしたのは知りませんでした。でも、そうできる理由はあります」
「ほぉ、理由」
武藤の目が更に釣り上がる。
「武藤さん、私は、」
言いかけたとき、私の横を女が素早く通り過ぎた。
「聡子っ!!」
いつの間にか車を降りていた聡子が、武藤に掴み掛った。
「なんだおいっ!!」
「こいつ!!」
「おいっ!!引き剥がせ!!」
武藤の取り巻き2人が聡子の腕を掴み、武藤から引き離そうとしている。しかし聡子は恐ろしい力でそれに抗っている。
「聡子!やめるんだ!!」
私が叫んでも、聡子の耳には届いていないようだ。聡子は武藤にしがみついて叫んでいる。
「あんたのガキが!うちの来斗を!殴って、殴って、蹴って、蹴って!!目が、目が潰れて、土が、泥が、口の中に、くちのなかにぃー!!」
聡子の指が武藤の目に掛かっている。いや、爪が、目に入っている!!
「ぐぁーっ!目っ目がっ!!」
武藤が叫んだ。
「こいつっ!!」
取り巻きのひとりが聡子の腕を掴み、胴体に手を回して締め上げている。
「おらぁ!離せこいつ!!」
もうひとりは聡子の髪を両手で掴んで引きちぎろうとしている。ゆがんだ顔で、聡子が叫んだ。
「来斗は、来斗は2回死んだのよ!あんたのガキに殺されて、あんたのガキを殺してっ!そして自分で死んだっ!!」
鬼の形相だった。
「あんたのガキは、あいつらは、来斗を殺した後死んだのか!殴って、蹴って、埋めて、逃げて!捕まっても汚く言い訳してたんじゃないかっ!!!」
「許すもんか許すもんか許すもんか!ゆるすもんかーっ!!」
聡子の叫びと共に、武藤の目が潰れた。
その瞬間、武藤の手が、聡子の細い首を握り潰した。
叫び声はやみ、腕は垂れ下がり、細かく痙攣している。足元に染みが広がる。
聡子が失禁したのだ。
あぁ、聡子が死んだ。すぐに分かった。
私は医者だ。外科医だ。人はどうすれば死ぬのか、よく知っている。
一瞬で頸動脈と脛骨を潰されれば、脳に強大な圧力が加わって即死する。窒息じゃない。
首吊りと同じだ。
今、私の目の前には4人の人間がいる。ひとりは死んだ聡子。そして、聡子を殺した3人。
私の中で、何かが弾けた。
「聡子っ!あーっ!あーっ!!さとこっ!がぁーーっ!!!」
私の口から、信じられない程の声が出た。私は踵を返し、車に走った。
車にある、私が仕事に使うもの。あれさえあれば。
私は携帯用の医療鞄を開け、それを掴み、武藤達に向き直った。
私の手は、手術用のメスを握りしめていた。
そこから先は、あまり覚えていない。
武藤に向かって突っ込む私に、下っ端ふたりが左右から掴み掛ってきた、と思う。
ひとりの首元にメスを入れたのは覚えている。筋肉に沿って動かしたと思うが、どれくらい切れたか分からない。ただ血管を切った手応えはあった。
もうひとりが私の背後から腕を回していたようだから、その手首の動脈を切ったと思う。多分、両手とも。
そいつが私から離れて何か叫びながら懐に手を突っ込んでいる。血が飛び散っている。もちろんそいつのだ。
武藤が何かを叫んでいる。
血をまき散らしながら、そいつが懐から何かを出して私に向けた、と思ったら、私の腹と胸から熱いものが噴き出してきた。
痛くもなんともないが、気が遠くなってきた。
武藤はまだ叫んでいる。
「ツリガミ、やめろ!撃つな!!殺すなっ!!」
-あぁ、やっと聞こえた。武藤が言ってること。
-ははぁ、遅い。もう撃たれちゃったよ。武藤さん。
倒れる間際、遠くからこちらを見ている数人に気づいた。何かをこちらに向けている。
-はぁん、スマホか、ヤクザと医者が殺し合う動画が撮れたか。そりゃ楽しかったな。
朦朧とした意識の中、その数人にもう一度目がいった。
持っているのはスマホより大きいものだった。それに一人はマイクのようなものを持っている。
「あいつら・・・マスコミ?」
「前回、私たち夫婦を追い込んだ連中か。あいつらも覚えていて、ここに来たのか」
私の意識は、そこで途絶えた。
・
・
瞬間!胸と腹に衝撃を受けたと思った、同時に、誰かが叫んでいる映像が頭の中で爆発した。
「うゎっ!」
私は声を上げて身を起こした。体中が血だらけだと感じて、思わず両手で胸と腹をまさぐった。
「違う、血じゃない」
体中が汗でびっしょりだ。
午前3時20分過ぎ、覚えている、私はおそらく拳銃で撃たれた。つい先ほどのことだ。
しかしまたあの日、5月28日。やはり時間が戻っているのか。ということは、今日は3回目の5月28日ということになる。これまでの私はこのまま寝ていて、6時過ぎに起きていた。この時間に目覚めるのは初めてだ。
横にいる聡子を見ると、恐ろしい形相でうなされている。普通なら悪夢を見ていると思うところだが、それが間違いだということを、私はもう知っている。聡子は死んだのだ。喉を握りつぶされて。聡子が今見ているのは、その瞬間の光景だろう。きっと終わることのない、死ぬ瞬間の悪夢。それは現実に起こったことなのだ。
「聡子、さとこ!起きて!」
体を揺さぶって、まだうなされている聡子を起こした。
「あっ!あなた!!」
聡子は起きるなり喉を両手で押さえ、声を上げて私にしがみついてきた
「あなた!私生きてるの?あいつは?私はあいつを殺したの?」
聡子はあいつの、武藤の目を潰した。やはり聡子もはっきりと覚えているようだ。
「聡子、大丈夫。またあの日の朝に戻ったんだよ」
「あの日の朝?」
「そう、またあの日の朝なんだ。だから来斗も生きている。まだ何も起こってないんだ」
「そうなの?また夢の続きじゃないの?」
聡子は理解できないようだ。もちろん私も理解などできていない。時間が戻るなんて馬鹿げたこと、科学的じゃない。だが、これまでのことが夢じゃないことは確かだ。科学的かどうかはもうどうでもいい。とにかく時間は戻っているんだ。
「そうだね、そう思うよね、でも違うんだよ。今日はまたあの日、5月28日の朝なんだ。時間が戻ってるんだよ」
聡子は黙って私を見つめている。これまでのことを思い出せば思い出すほど混乱するはずだ。それをどうにか整理したい、そんな顔だ。
「そうだ」
聡子がおもむろに口を開いた。
「私はあいつに、武藤に掴みかかって、この手であいつの目を、あいつはどうしたの?私は?あの後、何があったの?」
私はすべてを聡子に話した。聡子が男3人を相手に一歩も引かなかったこと、武藤の目を潰し、そして武藤の手で殺されたこと。
妻を殺された自分は逆上し、武藤の部下のひとりを殺したかもしれないこと、もうひとりに拳銃で撃たれて死んだこと、そのひとりも、おそらく死んでいるだろうこと。
そして、一番大事な事実を聡子に告げた。
「君に目を潰されて、武藤は君を殺してしまったけど、あいつは最後まで叫んでいたんだよ。僕のことを、殺すな、と」
武藤は私たち夫婦を襲いに来たわけじゃなかった。話をしに来たんだ。私と武藤が話しているとき、聡子は車の中にいた。だから何を話していたか知らない。
「あいつは自分の息子が来斗を殺したことを覚えていたし、それを悔いていた。でも次は自分の息子が来斗に殺された。あいつは相当混乱していたよ」
聡子は黙って聞いている。
「あいつらは普通の社会とは違うところで生きてる連中だ。だから疑問に思ったんだろう。普通の中学生の来斗が、同じ中学生とはいえ4人を殺している。しかも、とても素人とは思えない殺し方だ」
「武藤は言ってたよ。あんた、本当に堅気か?って。そうだな、そう思うよな。来斗にあんなことができたのは、僕のせいなんだ。僕が人の体の仕組みを来斗に教えたんだ。来斗は医者に、僕と同じ外科医になりたいと言っていた。僕はそんな来斗に、人の体の内臓や血管の位置とか、その扱い方、一歩間違えば致命傷になる事を教えた。外科医の基本だからだよ。来斗が的確な致命傷を与える事ができたのは、その知識を使ったからだ。僕はそのことを武藤に説明しようとした」
「そのとき、君が武藤に・・」
そこまで話したとき、聡子の目からこぼれる大粒の涙に気付いた。
「私が悪いの?」
「だって、だってあいつの息子が先に、先に来斗を、来斗を殺したのよ?」
ぼろぼろと涙が落ちる。
「そうだね、許せなかったよね。君は悪くないよ」
私は聡子の肩を抱いて、できる限り優しく言った。
「さぁ、来斗を起こしに行こう。そして今朝は、久しぶりに一緒にいよう」
聡子は私の顔を見て言った。
「そうね、一緒に朝ご飯を食べましょう。それと」
言葉を続けた。
「ありがとう、あなた。私のために戦ってくれて」
私を見つめる聡子の目。今にも涙がこぼれそうだ。
「うん、でもさ、実はあんまり覚えてないんだよね」
私は笑った。聡子も笑った。
久しぶりに笑った気がした。
・
・
朝4時、私たち夫婦は来斗の部屋の前にいた。来斗を起こすためだ。
3時20分過ぎに目覚めたが、二人でこれまでのこととこれからのことを話し合うのに、ずいぶん時間を使ってしまった。とにかく今は、3人で時間を過ごそう。
私はドアをノックして声を掛けた。
「来斗、起きてるか?入るぞ」
返事はなかったが、そのままドアを開け、来斗が寝ているベッドに近づいた。
やはり来斗は寝ている。が、その表情は穏やかとはいえない。聡子のうなされ方ほどではないが、やはり悪夢を見ている顔だ。
私は来斗の両肩に手を置いて、やさしく揺すりながら話しかけた。
「来斗、らいと、もう大丈夫だぞ。もうその夢は見なくていいんだ。さぁ、目を覚まして」
「ん、うん、とうさん」
来斗はゆっくり目を開けて、私と、私の後ろから心配げに見ている聡子の顔を確認すると、急に泣き出した。
「とうさん!かあさん!ぼくは、ぼくはどうしたの?やっぱり生きてるの?」
「ああ、生きてる、生きてるぞ!さぁ、起きなさい。久しぶりに3人で朝ご飯を食べよう」
来斗はまだ流れる涙を拭っているが、大きく2回、うなずいた。
朝5時過ぎ。身支度を整えた聡子は、台所で朝食の準備をしている。ベーコンエッグだ。この光景を見るのは3回目になる。
私はベーコンエッグを焼く聡子の笑顔を確認して、来斗に聞いてみた。
「来斗、おまえはこれが3回目の5月28日の朝だって、分かってるな?」
来斗は少し考えて答えた。
「うん、分かってるよ。2回目の時は曖昧だった。夢かと思ったんだ。でもさ、とうさんとかあさんの様子を見て、夢じゃないって分かったよ。最初の今日、僕はあいつらに殺されたし、2回目の今日は、その時間が巻き戻ったんだって。絶対そうだって思った」
-やはり子供はこういったことをすぐに受け入れるのか、大人ではそうはいかないけどな。
そうは思ったが、3回目となれば大人の私だって受け入れる。
「そうか、それでおまえはあの子たち、自分を殺した4人に復讐した」
「うん、でも復讐とはちょっと違うかな。これまであいつらにされたことは許せなかったけど、それはもうどうでもよくて、あの瞬間をあいつらにも感じさせたくて」
「あの瞬間?」
「うん、死ぬ瞬間」
死ぬ瞬間。来斗の口から出た言葉を聞いて、私も納得した。そうだ、私も死んだんだ。その瞬間を私も知った。そして聡子も。
「よく分かるよ、来斗。とうさんもよく分かる。そしてな、かあさんも分かるはずだ」
「え?」
来斗はまだ、私たち夫婦と武藤たちが殺し合ったことを知らない。きちんと話して、今日これから起こるだろう事に対処しなければ。
「ふたりともご飯前よ!?そんな話やめて、さぁ!食べましょ!!」
聡子が焼きたてのベーコンエッグをテーブルに並べている。
ベーコンと白身の縁がカリカリに焼けたベーコンエッグが湯気を上げている。黄身は美しい半熟、確か有名なブランド卵だ。それにカラフルな野菜サラダ、しっかりトーストされたバゲットにバターが溶けて、そして淹れたてのコーヒー。
最初の朝、私はこの朝食を味わいもせず食べ、急いで仕事に出掛けた。来斗が食べたかどうかは分からない。そして2度目の朝は、ベーコンエッグが真っ黒に焦げていた。
うまそうな朝食、久しぶりに感じる。この感覚は。
来斗がつぶやいた。
「なんか、うれしいな」
朝の食卓を囲む家族。にこやかにコーヒーのおかわりを入れる妻。半熟の黄身をバゲットで掬うけど上手くいかずに手を汚す息子。口元にも黄身が付いている。いつまでも子供だなぁ、と軽口を叩く私。何も変わりはしない、いつもの我が家。
では、ない。
この数年、仕事の忙しさにかまけてこんな風に食事をしたことはなかった。
家のことは聡子にまかせていた。来斗のこともだ。
こんな家族の時間をもっと大切にしていれば、来斗のことも私がちゃんと見ていれば、あんなことにはならなかったのかもしれない。
そして長い長い、地獄のような3日間と少し。
その間に息子は2度死に、私も聡子も死んだ。
でも待てよ?もしかしたら、この3回目の3日間で、やり直せるんじゃないか?この3日間が何事もなく過ぎさえすれば。
私はコーヒーを飲みながら、そう考えていた。
-そうだ、これから起こることを、なんとしても防がねば。
私は、そう心に誓った。
■クロスライト
3回目の5月28日、午前5時過ぎ。
僕の目の前に、母さんの作った朝食が並べられていく。
焼き立てのベーコンエッグが、バターを塗られたバゲットが、新鮮で色鮮やかなサラダが、いい香りのコーヒーが。
「なんか、うれしいな」
こんなの何年ぶりだろう。目の前に父さんと母さんがいる。
おいしい、バゲットのカリッとした食感と半熟の黄身、大好きだ。
本当に嬉しかった。
あいつらにいじめられて、脅される毎日。こんな幸せな朝がもっとあれば、きっと違う選択もできたのかな。
-そうか、選択ならまだできる。
僕はそう考えていた。この繰り返す3日間。もう3回目だ。
これから何回繰り返すのか、僕には分からない。でもこの3日間のループがなければ、僕はただ死んでいたんだ。
このループのおかげで、今こうして幸せだ。
守りたい。この幸せを守りたい。
-そうだ、僕がやるんだ。この3日間を、守らなきゃ。
「とうさん」
僕は半分かじったバゲットを皿に置いて、コーヒーを片手に何か考え事をしているような父さんに話しかけた。
父さんはハッとした表情で僕の方に向き直った。
「なんだい?」
落ち着いた口調だ。
「あのさ、今日、これからの事なんだけど」
父さんは深くうなずいた。どうやら同じことを考えていたようだ。
「とうさんは、この後どうするつもり?」
もう5時半をとうに回っている。これまでの3日間から考えると、警察がまず僕を捕まえに来るだろう。でも、僕は何もしていない。まだ。
それに、もうあいつらを殺す気もない。僕はただ、この3日間の幸せを守れればいいんだ。それさえ分かれば、警察だって僕を逮捕できるわけはない。2回目のあいつらだって、逮捕されていなかったんだから。
僕は、父さんにそのことを伝えたかった。
父さんは僕の目をまっすぐに見ながら、意を決したように話し出した。
「来斗、その事なんだけど、これからのことを考えるには、お前が知らない事を教えておかなきゃならない。2度目の3日間のこと、お前が自殺してからの話だ」
父さんの話は、僕の胸に突き刺さった。
僕のために、母さんがあの武藤の父親に挑みかかったこと。母さんは小柄で力は強くない。とても優しくて、父さんが忙しいことにも愚痴ひとつ言わず、父さんは立派な仕事をしていると、いつも言っていた。
その母さんがあの男に、殺された。
そして父さんは、武藤の部下らしい2人を殺したらしいこと。それがはっきり分からないのは、ひとりが拳銃を持ち出し、撃たれて死んでしまったからだということ。
父さんは温厚な人だ。見た目は痩せているし、人を殺せるようにはとても見えない。でも、父さんは外科医なんだ。何時間も掛かる手術に耐える体力と気力がある。そう言えば、体力と集中力を鍛えるには合気道が一番だって、よく言っていた。それに、人を生かす知識は、殺す知識でもある。それは僕が一番よく知っている。
父さんの知識を使って、人を殺したから。
そこまで話して、父さんは一番大事なことだから、しっかり聞きなさい、と僕に念押しした。
「いいか来斗、あの武藤という男、母さんを殺してしまった男だけど、父さんには悪い奴だと思えないんだ。最初のとき、あの男は自分の息子がしたことを必ず償うと言っていた。2度目はこの家まで来て、さっき話したようなことになってしまったが、父さんがあの男と話し合おうとした矢先、母さんが」
「かあさんが?」
それまで目を伏せながら話を聞いていた母さんは、口元を押さえながら立ち上がり、リビングから出て行った。
「逆上した母さんが、武藤の目を潰したんだ。それで武藤は母さんを殺してしまった。それを見た父さんは、もう何が何だか分からなくなって」
「武藤の部下を殺して、撃たれた」
「そうだ。でもな、武藤は最後まで叫んでたんだよ。父さんを殺すなって」
「でも、でもさ、結局あいつの親父はかあさんを殺してるし、なんであんなのが!悪い奴に決まってる!!」
僕は父さんの話を遮って叫んだ。ドアの向こうで母さんが泣いているのが分かった。
「そうだ、そうだな、そう思うよな。この悲惨な事態を最初に起こしたのはあの男の息子だからな。だから来斗、そこから後は、お前も、母さんも、父さんも、自分が殺されて、身内を殺されて逆上してしまった。でもな、あの男、武藤だけなんだよ。父さんたちと話をしに来たのは」
そこまで聞いて、僕の心にある思いが芽生えた。
-そうか、殺されたから殺す。それはループになる。永遠に殺し合うループだ。世界中で起きる。間違いない。それを断ち切るのは・・・
「だから、この3日間の最初、今日が一番重要なんだよ。きっと警察は来るだろう。もう来ているのかもしれない。そして武藤、あの男は来る。だから今回はしっかりと話をしようと思うんだ。武藤は大けがだけど死んでない。私たち夫婦は殺された側だからね」
僕はまだ考えていた。
「そして、この3日間を何事もなく過ごしたい。お前と、母さんと、父さんの3人で。それが父さんの考えだ」
父さんの考えはよく分かった。でも、でもきっとそれでは、足りない。
-きっと今回も同じようなことになる。そしてそれは・・・
僕は確信していた。それは予知でも予言でもない。でも、今は言わない。
今回僕が何をすべきか、もう決めた。
「分かったよ、とうさん、僕も同じような事を考えてた。とうさんの話を聞いてよく分かった」
「そうか来斗、じゃあ、今回は父さんと一緒に行こう!」
父さんは自分を奮い立たせるように言うと、僕の頭をくしゃくしゃにした。
嬉しそうだった。
-ごめんね、とうさん、それでも僕は準備しておくよ。ごめんね。
午前6時半。
父さんと母さん、そして僕は、身支度を整えて玄関を出た。太陽はとっくに昇っている。
道路に出ると、向こうに数名の集団が見えた。機材を持っている。カメラ、マイク、女性がふたりと男性が3人。マスコミだ。
父さんは、その集団を見ながら言った。
「あいつら、最初の3日間の最後の日、お前を殺した4人が特定された途端に取材に来たんだ。とんでもない連中だ。被害者の事なんて少しも考えていない。もっとも、父さんにも反省する点があったけどな」
「2回目は?」
「2回目もいたぞ?あいつら、武藤たちと父さんたちの殺し合いを遠巻きに撮ってたよ」
「そうなんだ」
僕はこちらをチラチラと見ながら何か盛んにしゃべっているマスコミの連中を見ながら、内心喜んでいた。
-マスコミか、映像のプロだ。しっかり撮ってもらおう。都合がいいや。
辺りを見回すが、予想した警察はいなかった。パトカーにぐるりと囲まれていることも予想していたんだけど。
すると、路地を曲がってこちらに向かって来る大きな車が目に入った。
「警察?じゃ、ないな。あれは武藤の車だ」
父さんはこちらに近づく車を見ながら唇を噛み締めていた。母さんは震えている。きっと前回、ここで起こったことを思い出しているんだ。
「来斗、気をつけろ。前回は3人だったが、今回何人乗っているか分からない」
「うん」
車は僕たちの側で停車した。
マスコミがここぞと近づいてくる。父さんが悪く言うのも分かる、この人たちは、人の不幸が好きなんだ。
車のドアが開いた。運転席の後ろから武藤が降りてきた。運転席と助手席からは若い男。父さんの顔が強ばる。
「来斗、運転席から出てきた男、あれが父さんを撃った男だ。確かツリガミといったか。撃たれる前に両手の動脈を切った。助手席の男は頸動脈を切ったはずだ。多分二人とも死んでる」
父さんの言うとおり、若い二人は父さんの顔を見るなり怯えた表情を見せた。車にはもうひとり乗っているようだが、まだ降りてこない。
3人は、僕たちの前で立ち止まり、先に武藤が口を開いた。
「黒主さん、奥さん、それに来斗君、生きてますね」
「はい、そちらのお二人も」
父さんも同様に応える。母さんはさすがに武藤を見ることができない。
「あの後、私は後悔しました。あんな状況とはいえ、奥さんを殺してしまった。奥さん、申し訳ない」
意外だった。武藤はいきなり僕たちをどうにかするんだと思っていた。それに、父さんが殺したという二人、自分たちを殺した相手が目の前にいるんだから、復讐しようとするのが普通だろう。でもこの二人はそうしない。武藤がいるからかもしれないが、その武藤が父さんと母さんに頭を下げているんだ。気に入らないはずだよ。
「おい、お前たちも」
武藤がうながすと、若い二人も頭を下げた。
「私らも、奥さんのことを引き剥がそうとしてひどい扱いをしました。ご主人があんなことをするのも分かります。それにしてもご主人は強かった。私らはあっという間に負けたし、私は思わず拳銃を抜いてしまって、あなたを死なせてしまった。本当に申し訳ありませんでした」
なんということだろう、僕はこの場でまた殺し合いが始まると思っていた。父さんの言うとおり、武藤は悪い男ではなかったのか。
二人が頭を上げると、武藤が口を開いた。
「ところで黒主さん、こないだの続きなんですけどね」
武藤の口調に怖いものが混ざる。しかしそれは一瞬だった。
「私、あの後黒主さんのことをよく調べたんですよ。私はあなたに、堅気か?と聞いたはずです。もしあなたがその筋の人間なら、私が一番先に暴れていたでしょうね」
-その筋?それはあんただろ?
僕は心の中でつぶやいたが、父さんは武藤の正体に気づいていた。
「武藤さん、あなた、警察官ですね?」
「えぇ、そうです。警視庁組織犯罪対策部、通称マル暴と呼ばれている部署です」
「やっぱりそうですか、最初の事情聴取から他の親たちとは違う感じがしていました。もちろん警察官だとは思いませんでしたけどね」
「それはそうでしょう、私も仕事柄こんな格好ですから」
武藤は苦笑いを浮かべ言葉を続けた。
「しかし、なぜあなたに堅気かどうか聞いたか、それは来斗君があまりにも手慣れていたからです。その、人を・・」
「人を殺すことに」
父さんは武藤が言い淀んだ言葉を引き継いだ。
「そうです。普通の中学生にあんなことができるなんて、信じられなかった。もちろん私の息子がやったことも信じられない。しかしあれはただの、くそガキの悪行です。でも来斗君のそれは、その道のプロの仕業だった。だから、もしかしたら親が極道で、来斗君はその準構成員ではないかと、疑ったんです」
-もし本当にそうだったら、あいつらはとんでもない相手をいじめていたことになるよ?
僕はまた心の中でつぶやいたが、あいつらは結局とんでもない相手をいじめていたんだと気づいて、ちょっと可笑しくなった。
「でもあなたは外科医だった。私の考えは間違っていたようですが、それでも疑問は残る。なぜあなたたち親子はあんなに強いんです?」
武藤の横で、若い二人の警察官は興味津々のようだ。
「私たちは強いわけではありませんよ。ただ、人を生かすのが仕事の私は、どうすれば人が死んでしまうのかも、よく知っているんです。例えば、臓器の位置や、血管の位置。手術で失敗できないことをあえてやるとどうなるか、ということです」
「では、来斗君は?」
「来斗は小さい頃から私の仕事に憧れていました。外科医になりたいんです。それは今も同じなんですよ。ですから私は、来斗が小さい頃から“人の体の仕組み”を教えてきました。それと、こうなると人は死んでしまうから、絶対に失敗しないように、とも」
「なるほど、それであれほど的確な致命傷を与えることができた、ということですか。しかし黒主さん、あなたの動きはどうなんです?あの、人の動きを読むような動き、あれは」
「あぁ、外科医は意外とハードな仕事で、体力も精神力も並では駄目なんですよ。それで私、合気道を少々」
「合気道を、少々、ですか」
武藤は合気道と聞いて”そんなまさか”というような顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「分かりました。お話ありがとうございました」
「ところで武藤さん、車の中にもうひとりおられるようですが?」
「あぁ、もし話がこじれたら出てきてもらおうと思っていたんですけどね」
武藤はそう言うと車に向き直り、何か合図を送った。助手席の後ろのドアが開く。
「安藤さん」
父さんがつぶやいた。
「あなたや来斗君のことを知るために、この件を最初から知っている安藤さんに話を聞いたんですよ。そして今日も、念のため来てもらった次第で」
安藤刑事は僕たちに歩み寄って、全員の顔を見渡した。
「黒主さん、奥さん、来斗君、大変な3日間を過ごしたねぇ、しかも何回も。武藤さんも、自分の息子さんの不始末に悩んで、その息子さんも、そして前回のこと、大変な3日間でしたなぁ」
僕はこの人のことを知らない。でもなぜかこの人の口調は安心する。
「来斗、この人は最初から私たちの面倒をみてくれた刑事さんだよ、マスコミの取材からも守ってもらったんだ」
父さんもこの人を信頼しているようだ。
「さぁ、もう終わりましょう。ひどい思いはもうしたくない。あそこで私たちを撮ってるマスコミさんにも、もう終わりですよって、言ってあげましょう」
「もう終わりって、安藤さん、ここまでの3日間の繰り返しで、武藤さんも私たちも、大きな罪を犯しています。それは、どうなるんでしょう?」
父さんの言うことももっともだ。安藤は静かに言った。
「黒主さん、今何時でしょう?」
「え?もうすぐ7時半、くらいですね」
父さんは腕時計を見ながら答えた。
「えぇ、7時半、まだなんにも起こっていないんですよ。なんにもです。違いますか?」
その通りだった。事件なんて何も起こっていないんだ。2回目の3日間でもそうだった。
「それにね黒主さん、日本中で、いや、世界中で同じようなことが起こっています。そんな状況で過去の3日間に起こったことを裁くとしたら、いったい誰が裁くんです?」
「そうか、その通りかもしれません」
父さんは少し俯いて、意を決したように顔を上げた。
「今の私の願いはひとつだけ。この3日間が何事もなく過ぎて、誰も死なない日々を過ごすことなんです。世界中でこんなことが起こっているとしたら、なおさら」
「全く、その通りですね」
安藤刑事も深くうなずいた。
「さて!じゃあマスコミさんにもご退場願いましょうか!」
父さんと安藤刑事、そして武藤刑事は、マスコミの方に向き直った。
-僕の予想は外れた?確信と思ったのに?
-あの二人の若い刑事が暴走するはずだった。でもしなかった。
-いや、違う。まだ足りない。まだピースは揃っていない。
僕がそう思ったとき、路地に一台の乗用車が進入してきた。目線を送った瞬間、その車は僕たちに向かって猛然とスピードを上げた。
「避けろ!!」
誰かが叫んだ。車はマスコミの連中を避け、父さんたちを避け、僕と母さんに突進してくる。
狙いは、僕だ。
「来斗、らいと!母さんと逃げろ!家に入れ!そいつら、あの3人の父親だ!!」
父さんが叫ぶ。
母さんはここまでずっと黙っていた。でも、最初の緊張や恐れは薄れたようで、父さんと武藤のやりとりを寸分漏らさず聞こうとしていた。
その母さんは今、恐怖に顔をゆがめ、一歩も動けずにいる。
-やっぱり来た!確信はやはり確信だった!!
僕は心の中で叫んだが、このままでは僕も母さんも殺される。
「かあさん!!」
僕は母さんの手を強く引くと、家に向かって踵を返した。しかしもう車は背後に迫っている。
突然、僕は背中を激しく突かれた。前につんのめって転んだ。その拍子に母さんが目に入った。
母さんは車のボンネットに乗っていた。その目は僕を見ていた。
“らいと”
母さんの唇が、そう動いたように見えた。
次の瞬間、車は母さんをボンネットに乗せたまま路地の塀に突っ込んだ。
「あ、あ、あ」
言葉にならなかった。母さんはもう、動かなかった。
「さとこ!!」
父さんが走ってくる。武藤と安藤、若い二人の刑事もだ。
車から3人の男が降りてきた。手にはバットや鉄パイプ、バールを握っている。岡島、重田、上村の父親だった。3人は血走った目を見開いている。
「ううぉあーー!!」
「がああーー!!」
「このガキー!!」
3人はそれぞれ奇声を上げながら、僕に襲いかかってきた。僕は体制を整え、すばやく後ろに下がる。
-かあさん、残念だけど、またすぐに会えるよ。でも、ありがとう。僕を守ってくれて。
僕は母さんに感謝していた。さっきやられていればもう計画は終わりだったからだ。
父さんたちが3人を取り囲む。武藤が叫んだ。
「岡島さん、重田さん、上村さん!やめるんだ!もう話は終わった。これ以上続ける必要がどこにあるっ!!」
上村の父親がそれに応える。
「何言ってる!俺の息子はあれから人と喋らなくなったんだ!!代わりにずっとなんかと喋ってる!くそ、くそっ!気が狂ったんだよっ!このガキが俺の息子を殴り殺したからだ!!」
岡島と重田の父親も叫ぶ。
「あんたはもう、こいつらを殺したんだろ?それで満足したんだろ!?」
「俺たちはまだなんだ。今度は俺たちが満足する番なんだよ!! 」
武藤が若い二人の刑事に小声で告げる。
「ツリガミ、ヤマオカ、いいか?銃を使っていい、でも、殺すなよ?」
ふたりは小さくうなずいた。
-駄目だ、銃なんか使っちゃ駄目なんだ。僕がやらなきゃ。
僕は声を張り上げて大人たちを制した。
「この人たちは僕に用事があるんです!まかせてください!殺しませんから!!」
「舐めるな、このガキ!!普通には死なせんぞ!」
上村の父親が吠える。
僕は隠していたカッターナイフを取り出し、刃を1cmほど出して構えた。
「は?なんだそれは、そんなもんで大人3人を相手にする気か?」
僕は応えなかった。僕を止める父さんたちの声にも応えなかった。
すぐに動いた。まずバールを持っている上村の父親。バールは殺傷能力が高くて危険だからだ。
でも、重いバールを扱うにはかなりの腕力がいる。そこが狙い目だ。
上村の父親がバールを振り上げる。やっぱり、遅い。
僕はその瞬間、両腕の隙間にカッターを差し込み、右手首に刃を差し入れた。カッターの刃を1cmにしたのはこのためだ。長いとピンポイントに狙えない。しかも、長いと刃が折れる。
僕のカッターナイフは、上村の父親の右手首動脈を完全に断ち切っていた。
「あーあぁーー」
右手首から脈を打って血が流れ出る。上村の父親は情けない声を上げて傷を押さえ、止血しようとしている。
-止まるもんか、そこは動脈だ。ほっとけば死ぬけど、即死はしないから。
次は重田の父親だ。要領は同じだけど、こっちは鉄パイプ。バールよりは軽い。僕は狙いを付けて懐に飛び込んだ。鉄パイプの一撃を食らうけど、相手の懐で受けるなら衝撃は軽いはず。
懐に飛び込むとすぐ背中に衝撃を受けた。だけど思った通りだ。軽い。
その瞬間、僕はカッターを顎の下に潜らせ、頸動脈に向けて動かした。
-頸動脈を切断してしまえば助からない。でも血管を掠るくらいの傷なら出血だけですむ。相当な出血ではあるけど、その方が目立つ。
僕の考えは正しかった。重田の父親は慌てて首を押さえるが、指の隙間から血が噴き出す。顔が青白い。反面、僕は返り血で真っ赤だ。
最後は岡島の父親。もう怯えた顔で後ずさりしている。逃がさない。僕を殺しに来たんだろ?
僕は岡島の父親に近づくと、おもむろに左手首動脈を切った。
これは簡単だった。戦意がないんだから。
父さんも、武藤刑事も、安藤刑事も、何が起こったのか理解できないまま僕を見つめていた。
「とうさん」
父さんは呆然としている。目の前で再び妻を失い、息子が悪魔のような所業。ショックを受けているんだろう。
「とうさんっ!!」
「あ!ら、らいと、来斗!お前なんてこと」
「大丈夫、殺してない。とうさん、あの人たち助けてあげて!」
父さんは我に返ると、すぐ自分の車に走り、携帯している医療鞄を持ってきた。僕はそれを確かめると、道路にうずくまっている3人に近づいた。
「おじさんたち、あれ見なよ」
僕が指差す先には、車と塀に挟まれた、母さんの遺体があった。
「今すぐおじさんたちを殺したっていいんだ。でも殺さない。この3日間を苦しんで生きて、次の3日間で、かあさんに謝ってね」
「それとさ、とうさんが今からおじさんたちを助けてくれる。とうさんは外科医なんだ。この3日間を生かしてくれるんだから、後でお礼してね」
「あ、あとね、僕にもさ、次の3日間で謝ってね。許してあげるから」
僕は3人にそう告げると、立ち尽くしている武藤刑事たちの横を通り過ぎ、マスコミの方に向かって歩いた。
なるべくゆっくりと、返り血を受けて真っ赤に染まった僕の顔がよく見えるように。
カメラは僕を捉えている。その横で女性が大声でわめき散らしている。リポーターだろう。
「・・ます!!こっちに歩いて来ます!凶器を持っているようです!まだ少年ですが、その顔は返り血を浴びて真っ赤になっています!!一体何が起こったのでしょうか!」
-そうそう、もっと僕を映して。あ、あの女の人、スマホを僕に向けてるな。それでいいんだ。
僕はマスコミのカメラの前に立った。
「スマホの人!!」
カメラの後方でスマホを構えていた女性がビクッと体を震わせる。
「カメラの横に来て、僕をしっかり撮ってください!マイクの人はもっと僕に近づけて、僕の声を逃さず録音してください!」
スマホの女性が慌ててカメラの横に立つ。リポーターは相変わらず訳の分からないことをわめき散らしている。
「リポーターっ!!」
「は!今少年が私に声を掛けました。一体何を言うのでしょうか!!少年はカメラと共にスマホとマイクを・・」
「うるさい!黙れっ!!」
「は、はぃぃ」
リポーターは一瞬で黙った。おそらくスタジオやプロデューサーからリポートを続けろって指示が飛んでいるはずだ。
-ふんっ、できるもんか、現場は大変なんだよ。
僕はカメラとスマホのレンズを見据え、できる限りの声を上げた。
「僕の名前は、黒主来斗です。皆さんは、ずっと僕たちのことを撮影していましたね?先ほど話し合いをしていたのは、僕の父と警察の武藤刑事、僕たちは最初の3日間と次の3日間で殺し合いをしました。それは皆さんもよく覚えていますね?」
「その人たちが3回目の今日、和解しました。最初に殺されたのは僕、僕も僕を殺した人たちを殺しました。そして僕の父も人を殺して、殺されました。そのとき、警察官の武藤さんも、僕の母を殺しています」
「その家族が、和解したんです。分かりますか?殺されて、殺して、それは死のループを作ります。それが永遠に続くとしたら、どうですか?」
「もし殺し合いのループを断ち切れたなら、幸せになると思いませんか?」
「断ち切れるはずがない、そう思いますか?」
「断ち切れるんです。その理由は、この3日間が続くから」
「死ぬことはもう、ないんです。だったら殺すことも無意味」
「あれを見てください。車と塀に挟まれている、あれは僕の母親です。優しい普通のおかあさん。でも母は、あの3人に殺されました。あの3人は、僕を最初に殺した人たちの、父親です」
「あの人たちは僕を殺しに来て、母を殺したんです。でも、僕はあの人たちを殺しませんでした。ただ裁きを与えただけです。あの人たちは、僕の父によって救われるでしょう。自分の妻を殺した人たちを、僕の父は助けます。なぜなら、父は医者だから」
「見ましたね!殺されたら殺す、この死のループは断ち切ることができるんです!!」
僕は一息の間を置いて、少し声を落とした。
「僕はここでひとつ、予言をします。この世界のことです。もうすぐ、明日か、今日か、次の瞬間か、この世界は滅亡します。人と人の殺し合いはすぐに大きな波紋となって、国と国との殺し合いになるんです」
「世界は滅亡します!!間違いなく、地球人類のほとんどが死んでしまうでしょう。あなたも、あなたも、あなたも、そして、あなたもです!」
僕はマスコミのスタッフを指差し、最後にカメラに人差し指を向けた。
「でも、次の3日間でみんな元に戻ります。それはもう皆さん、知っているでしょう?」
「そのとき、僕の言葉を思い出してください。死のループは断ち切れるんです」
「裁きと、許しによって!!」
僕は、リポーターに顔を向けた。
「リポーターさん、あるいはディレクター、プロデューサーさん、今撮った動画を、すぐに世界に向けて発信してください。できるだけ多くの人に届くように、言語も翻訳して、いいですか?お願いしましたよ」
リポーターの女性は、僕の顔を見ながら何度もうなずいた。
「では約束の印に、僕の覚悟もお見せします」
僕は右手に握ったカッターナイフの刃をいっぱいに伸ばし、なんの躊躇もなく、自分の心臓に突き立てた。
一瞬で霞む意識があるうちに、もう一言添えた。
「僕の名前は、クロスライト。また3日後、同じ時間に」
リポーターの悲鳴が、聞こえた気がした。
僕の意識は消えた。
クロスライトという名が全世界に轟くのに、そう時間は掛からなかった。
■セカイガオワルヒ
3回目の5月28日、来斗は命を賭したパフォーマンスを世界に配信するよう、テレビ取材班に託した。しかしその日、来斗の動画は配信されなかった。
取材班の番組プロデューサーが配信を止めたのだ。
ニュースとは名ばかりの情報バラエティー番組プロデューサーにとって、来斗の演説はこれ以上ないほどのスクープ映像だった。これを小出しにすれば、どの番組でも高視聴率を取れる。それは間違いない。たった3日間でも、局のエースプロデューサーになれる。なにしろライバルプロデューサーみんながあの映像を切れ端でも欲しがるのだから。
それに、次の3日間もあそこに行って、黒主来斗を独占的に取材すれば、もっと、もっと。
そんなちっぽけな野心だった。
プロデューサーの名前は、小鉢拓実といった。
3回目の5月29日、朝、テレビニッポン。
「小鉢さん、この映像、すごいですよ」
来斗のパフォーマンスは、確かに恐ろしい求心力を持っていた。
「昨日の午前中から少しずつ出してるんですけど、視聴者の反応がものすごくて、リアルタイムも動画配信もダントツトップですよ。サイトには“早く全部見せろ”って、DMもすごくて」
「そうだろぉ?世間の皆様はなぁ、この3日間がいつまで繰り返すのかぁ~とかさ、科学者が訳のわかんない理屈をこねるのを必死んなって見てぇ、分かったふりするしかなかったんだけどさぁ、そんなん分かるわけないだろぉ?ホントはさぁ~、皆様こんな映像に飢えてたわけよぉ」
小鉢は得意満面でディレクターの肩を叩いた。
-しかしすげぇネタを掴んだもんだ。あの中学生いじめ殺人、あれに食い付いてホント良かったぜ。俺はこれでトップP!局での立場も安泰安泰っと!!
自然と口元が緩むのを止められなかった。よだれを垂らす勢いだ。
しかし、小鉢のそんな殿様気分も長続きはしなかった。
ドンッ、ドンドンドンッ!!
激しくドアがノックされ、小鉢の応えを待たずに開け放たれた。
「小鉢さん!大変たいへん!!」
「こむちゃん、どしたのそんな慌ててさ」
飛び込んできたのはアシスタントプロデューサーの小室だった。小脇にタブレットを抱えている。
「とにかーく!これ見てください、これこれ!!」
小室は抱えていたタブレットを小鉢の目の前に差し出した。そこには、黒主来斗が映っていた。
「なぁー!なにこれ!!だれ?これ流したの、だれ!?」
黒主来斗の命を使ったパフォーマンス。それが最初から最後まで、カッターナイフを自らの胸に刺し、クロスライトと叫んで崩れ落ちるまで、全てが公開されていた。
「これスマホのヤツですよ。あいつあいつ!ADのしほりちゃん!板野しほり!!」
「はぁ?板野?だってあいつのスマホ、押さえたはずじゃん?」
「いや小鉢さん、そんなん隙をみてSNSに上げちゃうとか、まんまクラウドに上がるようになってたらアウトでしょ!?」
「あそっか!で?板野は?すぐ連れてきて!!こりゃ訴訟もんだよ?」
-やばいやばいやばい!板野しほり!あぁのぉヤぁロぉー、俺の安泰がぁ、俺のエースPがぁ!!
「いや、それが実は、板野は昨日の昼から行方不明っていうか、こんなご時世なんで、会社もぜんぜん把握してなくって」
「なんだよぉ~、そんじゃぁ俺ら、なぁ~んもできないってことかぁ?」
「そうなんですよねぇ、それとこの動画、アップが今日の朝5時なんすよ、今9時でしょ?」
「で?」
「で?って、再生回数やばくないですか?」
小室はそう言うと、動画を一時停止した。
「は?はち、86933回?」
「どこ見てるんすか、8693.3ですよ。8693.3万回!!」
「はっせん、まんかい」
「そうですよ、約8700万回!!たったの4時間で!それにここだけじゃなくって、あっちこっちのSNSで拡散されてますよ。こりゃもう止めるとか止めないとかっていう話じゃないっす」
小鉢は天を仰いだ。
-くっそ~このままじゃ済まさん!い~た~のぉ~、ぶち殺してやる!!
「こむちゃん!ちょっと総務に掛け合って、板野の住所、聞いてきて!!」「は?なにするつもりですか?」
「自宅に乗り込んでぶちのめしてやる!!いなきゃいないで、部屋ぐちゃぐちゃにしてやる!!どうせ明日が過ぎりゃ元どおり!!」
3回目の5月29日、11時20分。
小室が運転する車の後部座席に小鉢はいた。板野の自宅は東京都郊外、東村山市にあった。埼玉県境にほど近い東村山市は、都心からかなり時間が掛かる。
「あ~忌々しい、再生回数がどんどん伸びてる。世界中で見られてるって事?大体、なんでご丁寧に英語の字幕なんか付いてんの?」
「あぁ、板野ってまだADですけど、かなりデキるヤツみたいですよ?帰国子女で超一流大学卒、きっとあいつが翻訳して編集したんでしょ?優秀ですよねぇ」
「こむちゃ~ん、人ごとみたいに言わないでよぉ」
「いや小鉢さん、英語どころかもう各国語に翻訳されて、吹き替え版までありますよ?」
「ほぉんとだぁ~、ますます忌々しい!!」
「それより小鉢さん、もうすぐ着きますよ」
板野の自宅は、多摩湖のそばにあった。西武園にも近い、かなり大きな一軒家だ。
「こりゃ~実家ってことか、かくれんぼにはもってこいだな」
小鉢は車を降り、玄関のチャイムを鳴らした。きっと板野は家の中でモニターを見ているはずだ。
「いたのさぁ~ん、しほりさんおられませんかぁ?会社の上司なんですけどぉ~」
小鉢にとって、この手の突撃はお手のものだった。若い頃から叩き込まれた取材という名の嫌がらせ。相手がどんな心境だろうと、相手にどう思われようと関係なく、何時間でもチャイムを押し、丁寧な言葉でプレッシャーを掛ける。それこそ相手が怒りにまかせて出てくればしめたものだ。
「しほりさぁ~ん、いるんでしょ~?出てきて説明してくださいよ~、じゃないと、法的に出るとこ出てもいいんですよぉ~?」
嘘だった。この3日間の繰り返しがいつまで続くか分からないが、裁判を起こしても時間が過ぎれば3日前に戻ってしまう。裁判など無駄なのだ。
-出てこい出てこい、ぶちのめしてやるからさぁ~
何十回目のチャイムだろうか、それを押そうとしたとき、反応があった。
「小鉢プロデューサー、板野です」
「おぉ!やっぱりいたねぇ~、板野しほりさん、出てきてもらえるかな~、で、なんであんなことしたのか、説明してくれると嬉しいなぁ」
「出ません。後ろで父が見ています。このまま話をさせてもらいます」
「いやぁ~おとうさんかぁ、一緒に出てきてもらってもいいんですよぉ?」
「小鉢さん、ですか、娘は出て行きません。出来ればお帰りいただきたいのですが、そうもいかないようなので、このままどうぞお話しください」
-ちっ!おとうさまのご登場か。仕方ない。
小鉢はとりあえず話を進めることにした。
「はいはい、分かりま~し~たっ。じゃぁ板野さん、どうしてあんなことをしたんでしょうか?」
「あんなこと、と言いますと?」
板野は逆に質問してきた。ADとはいえ、さすがこんな状況には慣れている。
「いやいや、とぼけても無駄ですよ?あの動画、あなたのスマホのものでしょ?」
「ですから、あの動画とは?」
「またまたぁ、あのとき局のカメラが撮った映像は流出しようがないんだから、あなたがスマホで撮った動画を流出させなきゃ、誰が出すのかなぁ?」
「そんなこと身に覚えがありません。あの動画って言うのも、そもそも私のスマホを奪うように持って行ったのはあなたじゃないですか。しかもロックまで外させて。もしかして、それを利用してあなたが流出させたんじゃないですか?」
小鉢の後ろで小室が笑いを噛み殺していた。
-あの小鉢さんが劣勢!おもろ!!
「いやいやそれはねぇ、そんなことないじゃない。俺があの動画を晒してなんの得があるのぉ?」
「あなたは視聴率のためなら何でもする人だと理解しています。動画が話題になればなるほど視聴率は上がるはず。私のスマホを奪ったのも、あの映像を独占したかっただけでしょ?私は自分のスマホの動画を見てすらいないんだから、これ以上やるとパワハラと脅迫で訴えますよ?出るとこに出れば、あなた、絶対負けますから」
小鉢はこめかみに血管が浮かぶのを感じた。同時に、インターホンのレンズに拳を打ち付けた。
-わぁ、やべぇ、小鉢さん切れちゃった。ピンポン壊れてないかなぁ。
「パワハラだぁ?てめぇ、この小娘!お前がやったに決まってんだろ!!」
相手を煽るはずが自分が煽られた。こんなに腹が立つのか。小鉢は初めて取材相手の気持ちを知った。
「出て来いこのアマ!!じゃなきゃこの扉ぶち破っても・・」
小鉢は言葉を切った。スマホがけたたましく鳴っている。
「はぁ?じぇ、Jアラート」
スマホから音声が流れる。
「ミサイル発射、ミサイル発射、北K国からただいまミサイルが発射されました・・・」
小室のスマホも、当たり前のように無機質な合成音声を流し続けた。
「て、テレビ、板野テレビ点けろ!Jアラートだ!!うちの局映せ、で、状況教えろ!小室!車のテレビ!うちと違うチャンネルにしろ!!」
小鉢は腐ってもテレビマンだった。
「小鉢さん、やばいです!北K国のミサイル、短距離か中距離か、長距離弾道、ICBMか、何も分からないって言ってます!分からないって事は、複数撃ってる可能性!!」
小室は国営放送を見ながら叫んだ。
「うちの局は緊急放送に切り替わってます!複数着弾の可能性!すぐ頑丈な建物に入るように、避難するように、Jアラート対象は北海道、関東、近畿、九州!!ほぼ全国!玄関開けます!すぐ中に入ってください!」
板野の叫び声がインターホンから響く。
小鉢は天を仰いだ。
「いや板野、悪かったな。もういい、もういいんだよ。俺だ、俺があの映像を独り占めしようとしたのが悪かった。あの子供の、いや、黒主来斗の言ったとおりだった」
「迎撃失敗!!一部ミサイルが着弾!!」
小室が叫んでいる。
小鉢は東村山の東方、都心方向に閃光を見た。空には飛行機雲のような軌跡が残っている。そしてむくむくと立ち上がるそれは、キノコ雲。
「小鉢さん、テレビが、電波が落ちました」
小室の声が小さくなる。
「もうテレビは映ってません!小鉢さん!小室さん、早く中に!!」
インターホンから板野の声が響く。いやに遠く感じた。
「本当にもういいんだ、板野、ありがとな。それより地下室かなんかあったら、すぐ入れよ?」
小鉢の目は、もうひとつの閃光を頭上に捉えていた。
・
・
北K国、首都。
3回目の5月29日、午前10時。大規模核攻撃の前。
豪華な装飾に彩られた広い会議場に、総書記以下閣僚が集合していた。
「チャン科学担当!」
「は!将軍様」
「この現象の原因はまだ掴めないのか?」
総書記の言葉は静かなプレッシャーを含んでいる。
「は、はぁ、未だその原因は分かりません。なぜか約3日間で時間が戻ってしまうのですが」
「そんなことはもう分かっている!私は原因と対策を聞いているのだ!!」
「は!申し訳ありません」
-そんな、たった数日の研究でこんな現象の原因が分かるか!それに対策だと?アメリカだって無理だ!!そんなことも分からんのか、このボンボンが!!
チャン科学相は心の中で毒づいた。
「シン警衛担当!」
「は、はい!将軍様」
「民衆の様子はどうなっているのか?」
「は、2回目の3日間では我が国全土で個人的な殺し合いが始まり、治安部隊も投入しましたが、治安部隊の中でやはり殺し合いが始まり、収拾は不可能な状態となりました」
「あの最後の日には私の公邸にまで人民が押し寄せた。あの者たちはどうした」
「はい、先ほど申しましたとおり、治安部隊も機能しませんでしたので非常に危険な状態にはなりましたが、将軍様親衛隊の手によって全て鎮圧しております」
「そうか」
「そして3回目の今、人民は個人的な殺し合いをやめ、数百人単位での蜂起を計画しているようです。また、そのような集団は数十確認されております」
「数百人が数十?それは確かか?」
「はい、人民に紛れている党の間諜による報告です。間違いはないかと」
「これは防げるのか?」
「い、いえ、なんとも」
総書記は苦虫を噛み潰したような表情で、小刻みに体を揺すっている。
「チョ外務担当!C亜国は!主席はどう対処している?」
「はい、C亜国は我が国よりも悪い状況です。2回目ですぐに国民が騒ぎ出し、大規模な反体制デモに発展。抑圧されていた少数民族も大規模デモを敢行し、治安部隊と衝突。政府は戒厳令を発して軍を投入し、反体制デモを中心に鎮圧。しかし南部港湾都市で更に大きなデモが発生、C亜国本土でも軍の投入に反感した国民が蜂起、党対国民という、前代未聞の内戦状態となりました。内戦と申しましても、ほぼ軍による虐殺です」
総書記は目を瞑って聞いている。
「3回目の今回は、虐殺された国民たちがより計画的、統率的に行動し、2日目の今日、一気に国家を転覆する勢いです」
「だから」
「だから?」
「だからっ!主席はどう対処しているのか!と聞いているのだ!!」
チョ外務担当は身をすくめた。
「はい、主席の意向は我々にも伝わっておりません。ただC亜国外務省筋によると、国家転覆という危機的状況に、外国からの介入も報告されていると、そこで、外国勢力に対する全面報復攻撃が予想される、とのことで」
「外国の介入?外国勢力?」
「はい、我が国ではネットの情報が拡散することはありませんし、C亜国でも情報統制はなされているのですが、C亜国国内で、あるいは世界中で拡散されている映像があると、それは巧妙な外国勢のプロパガンダではないかと言われております」
「どんなものだ?」
「はい、こちらに」
それは、黒主来斗の動画だった。
「これは、日本人か」
「はい、これは本日早朝に配信されておりまして、世界中に拡散しています。C亜国でも規制をかいくぐりながら拡散していると。民衆はこの子供の訴えに共感して、裁きを与えるのだ、裁きがなければ許しはないのだ、と」
「この内容、我が国の言語に吹き替えされているのか?」
「はい、すでに各国語バージョンがございます」
総書記はその内容に慄然とした。殺し合い、死のループ、そして裁きと許し。我が国で裁かれるのはいったい誰だ?人民を苦しめたものか?人民の心に燃える憎悪は誰に向かう?
「この子供が人民を扇動し、国家転覆まで成し遂げる、と?」
「はい、その国家動乱に乗じて外国が介入してくるのだ、という考えです」
総書記は考えた。我が国では国外の情報を徹底して規制している。この映像が拡散するはずはない。だがそれでも暴動は起こった。もし、我が国でもこの映像が規制をくぐって拡散し始めているとしたら、今回の人民の、計画的で統率がとれた行動も腑に落ちる。そしてC亜国は我が国よりも悪い状況だ。主席の政権は倒れる。それが外国の陰謀で?
C亜国が倒れれば我が国も、我が国もだ。我が国が倒れる?違う、私が倒される!人民に、外国に、もしかしたらここにも間諜がいるかもしれない。
-私が、死ぬ?殺される?
-だめだ、だめだ、だめだだめだだめだ!!
「ライトクロス」
総書記は黒主来斗の英語表記を口にした。
「先に、殺す」
総書記は、全面的な核攻撃を指示した。
日本に対して。
・
・
北K国の独裁者の暴発は、C亜国、R帝国の独裁者にも火をつけた。C亜国はもちろん、R帝国国内も同様の状況に陥っていたのだ。
R帝国大統領は、北K国暴発の一報を知るとすぐ、全面核戦争の指示を出した。
「西側がすぐ報復する。我々もやる!徹底的だ、徹底的に!」
「アメリカ本土にICBM、EUには巡航、短、中、全ての核戦力で即時圧倒、重爆撃機用意!あれを出せ!世界最大、最強の核、ツァーリボンバ!」
「ICBMのトドメに、ワシントンに落とす!R帝国だけは残る、残るぞ!!」
世界の頂点に君臨する自らの姿を、R帝国大統領は思い描いていた。
C亜国主席も決断した。
「周辺各国に核ミサイルの雨を降らせよ。党を攻撃している国民には、通常兵器で思い知らせよ」
C亜国の主席は、自国民にも攻撃を仕掛けた。
北K国の暴発をきっかけとして、東京を始めとする主要都市は火の海となり、更にC亜国、R帝国の核ミサイルによって、日本は壊滅した。
自衛隊による迎撃も一部ミサイルの撃墜に止まり失敗、核戦力を持たない在日米軍も反撃かなわず壊滅、アメリカ本土、世界各国の基地に展開している部隊、太平洋艦隊が応戦した。
次に、EU、イギリス、インドも参戦し、R帝国、C亜国、北K国を徹底的に叩いた。
世界核大戦、それは3回目の5月29日に起こり、30日に終わった。
その日は地球人類、最初の滅亡の日となった。
・
・
4回目の5月28日、テレビニッポン。
「うぉっ!!」
午前3時20分過ぎ。小鉢は局の編集室で目覚めた。
ディレクターチェアでふんぞり返っていた小鉢は、衝撃で後ろにひっくり返った。
「あったったー!!」
小鉢はしたたか打った腰をさすりながら起き上がり、すぐにインターホンの受話器を握った。
「おい!集合だ!モーニングブレッド出演者スタッフ全員集合させろ!すぐに!!」
自分の情報番組のスタッフルームにそう告げると、小鉢は受話器を叩き付けるように置いた。と、思い出したようにもう一度受話器を取り上げて、叫んだ。
「板野!!板野を絶対逃がすな!スタッフルームから出すなよ!!」
小鉢はもう一度受話器を叩き付けて、スタッフルームに走った。
モーニングブレッドのスタッフは揃っていた。もちろん板野もいる。小鉢は躊躇せず、板野の前まで進んだ。
「板野」
板野しほりは俯いて黙っている。そんな板野の前で、小鉢は頭を下げた。
「あぁ、板野、悪かったなぁ、お前の家まで押し掛けて、あんな無茶なことして」
板野は顔を上げ、精一杯の虚勢を張った。
「そうです!あれはれっきとしたパワハラ行為です!あの取材の後、プロデューサーは私のスマホを奪い取りました。その時決めたんです。私、ここを辞めるって」
「あぁ、そうだったんだな、それで実家にいたのか。本当に悪かったよ。しかしだ、どうやってあの動画、ネットに上げたんだ?」
小鉢はそのこと自体もう気にしていなかった。もう全て終わったことだ。もう一度始まるのだが。
「だから、私ではありません!!」
板野は毅然として答えた。
「あぁ?ホントに板野じゃないの?だってさぁ、こむちゃんがさぁ・・」
小室APは身を縮め、こっそり部屋を出て行こうとしている。
「こぉ~むぅ~ろぉ~~!!」
「あ、すんません!何の証拠もありません!!」
板野が動画を流出させた。それは何の根拠もない、AP小室の思い込みだった。
「はぁ、板野じゃないのかよぉ、別にもうそれでも良かったんだけどさぁ」
小鉢のその言葉を聞いて、スタッフたちの後ろで小さく手を上げる人物がいた。
「さくらちゃん?」
リポーターの神木さくらだった。
「さくらちゃん、あんたなの?流出させた犯人」
神木さくらは手を上げながらうなずいた。
「どうやってさ、どうやってあの映像を」
神木さくらは、あの日のことを話し出した。
「わたし、あの日のリポートで黒主来斗に怒鳴られて、ちょっと目が覚めたんです。それからあの子が話すひとつひとつの言葉が全部胸に刺さっちゃって。そして、あの子が言ったんです。僕のこの動画を、すぐに発信しろって、世界に向けて。言葉も翻訳してくれって、私、黒主来斗にお願いされたんですよ」
-お願いって、そういやそんなこと言ってたな。
小鉢は来斗の言葉を思い出していた。
「そして局に帰ってきたら、しほりちゃんのスマホが取り上げられたって聞いて、私、すぐに編集室に行って、映像をメディアにコピーしたんです。やっちゃいけないことだけど、私、お願いされたから」
「それと、黒主来斗はこうも言いました。また3日後、同じ時間にって。私たち、すぐに行かなきゃならないんじゃ・・」
小鉢は神木の話を遮って言った。
「そうなんだよ!!また行くんだよ、あいつのとこに!俺は見た。天が裂けるのを、頭上に太陽ができるところを!建物の中にいたお前らは知らないだろうけど」
その通りだった。ほとんどのスタッフは局の中にいて、その光景を知らない。ただ、地獄をみたのはスタッフたちも同じだった。
「小鉢さん、俺たちは局内にいて最初の攻撃をなんとか凌いだんです。ただ局内でも火災が起こって、電気は非常用が動いたんでなんとかなったんですけど、大怪我したヤツも多くて。でも、辛うじて残ったローカル局ネットワークで各地の情報を集めたヤツもいたんです。さっきまでそいつらの話を聞いてました。でも次の攻撃で局ビルも持たなくて、どうにかビルの外に出られたと思ったら、その後もミサイルが続いて、結局全員が死んだんですよ」
「そうか、そうか、お前らも大変だったんだなぁ。そのあたり、もうちょっと分かるヤツ探して連れて来い、それから行くぞ!万全の取材体制で、次の攻撃はもっと早いはずだ。すぐ行くぞ!」
「あそこにですか」
「決まってる!クロスライト様のところだよ!!」
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4回目の5月28日、朝5時半。
小鉢は黒主家の前に立ち、インターホンを鳴らした。小鉢の後ろには番組スタッフが総出で待機している。まだカメラは回していない。リポーターの神木さくら、ADの板野しほりも、もちろん一緒だった。
「黒主さん、テレビニッポンの小鉢と申します。最初の頃から取材させていただいている者です。あのときは本当に失礼な取材態度で、お詫びのしようもございません」
小鉢はフェイクではない、真に謝罪の意を込めてインターホンに語りかけた。黒主家のリビングでは、正平と来斗がインターホンから流れる小鉢の声に耳を傾けていた。
前回の5月28日、聡子は2度目の死を経験した。しかしそれは来斗を守るためのもので、無意味なものではなかった。もちろん最初の死も来斗のためであったから、後悔はしていなかった。
今日の朝、いつものように3時20分過ぎに目が覚め、聡子は自分が死んでからのことを聞いていた。
来斗が自分を殺した3人に重傷を負わせ、正平がそれを治療したこと。来斗がマスコミを利用して世界に向けたメッセージを発信し、それが世界に大きな影響を与えたこと。その中で来斗はまた、自分の心臓を一突きして息絶えたこと。それらがすべて、来斗の考えであったこと。正平自身も、翌日の核ミサイルで命を落としたこと。
来斗も、自分が予言したとおりのことが起こったのだと正平に聞かされた。来斗は満足げに微笑んでいた。
-来斗くん、笑ってるわ。また家族全員が死んだのに。
我が子はどうかしてしまった、と聡子は思った。同時に、我が子にはもっと先が見えているようにも思えた。
-私も、もっと先のことが知りたい。そのためには。
聡子は正平も知らない時間の事を知ろうと思った。そしてそれを知るには、このマスコミに聞くのが一番だと思えた。
聡子は正平と来斗に黙って玄関に向かい、そしてドアの鍵を開けた。
「かあさん、あれ?かあさんは?」
玄関が開いたことに気付いた正平と来斗も、急いで玄関に向かった。
「来斗の母の、聡子です」
「あぁ!来斗君のお母様!!」
小鉢は膝に鼻がつくほど頭を下げた。
「あの最初のとき、本当に申し訳ありませんでした!!謝罪いたします!」
聡子に続いて、正平、来斗と玄関に出た。誠心誠意を絵に描いたような小鉢の謝罪に、二人は顔を見合わせ、そして決めた。
「小鉢さん、そして皆さん、中へどうぞ、リビングで話しましょう」
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黒主家のリビングはそう広くなかった。
テーブルを挟んで黒主家の三人と小鉢、小室が座った。その後ろにカメラとマイクがセットされ、神木さくらと板野しほりはその横に立っていた。そしてその後ろでは、技術系スタッフが入念にネット配信の準備をしている。
正平は自分が核ミサイルで命を落としたときのことを思い出していた。鳴り響くJアラート、正平は前日からリビングに安置していた聡子と来斗の亡骸を見つめていたが、いつまでもやまないJアラートにようやく気付き、リビングの窓際に向かい、カーテンを開けた。その瞬間、正平の意識は途絶え、今日の朝になっていた。
そこから先の出来事を、目の前の小鉢が語っている。小鉢自身も外に出ていたため、第一波のミサイル攻撃で死んだようだということ。その後のことは、あの日辛うじて生き残ったテレビニッポンのローカル局ネットワークを通じて集めた情報や、今日の朝、やはり各ローカル局に連絡して集めた情報だそうだ。
東京のテレビニッポンビルは第二波の攻撃で完全に破壊された。第一波はJアラートのとおり北K国からの攻撃。これは東京と各地方の主要都市を狙ったもので、半分ほどは撃墜に成功したそうだ。しかし第二波はほとんどすべてが着弾した。そこで局のローカルネットワークは崩壊したが、小さなローカル局はまだ生きていて、第三波を経験している。
その第三波は、第一波、第二波を大きく上回る規模で、威力も桁違いだったようだ。例えるなら、長野に落ちた一発が、本州全域を壊滅させるような威力。どこに落ちたか分からないのに、突然音もなく空が裂け、それから恐ろしい威力の衝撃波が襲ってきた、そして今日になっていた、というローカル局員が多数いたそうだ。それらの話を総合すると、第二波はC亜国、第三波はR帝国の核攻撃ではないか、という結論だった。
「自衛隊は、米軍はどうしたんでしょう?」
正平の発した素朴な質問は、愚問だった。もちろんどちらも壊滅した。それは明らかだ。ここまでの大規模核攻撃は、アメリカも想定していなかっただろう。
「いや、そりゃ壊滅でしょ、でなきゃ」
小鉢は言いかけてやめた。”でなきゃ、全滅なんてしてないでしょ?”
これも愚問だからだ。
「それよりも、おそらくアメリカの太平洋艦隊やEUなんかが報復してると思いますよ?それこそ三国とも日本と同じ状況じゃないでしょうかね。あ、北K国はともかく、R帝国もC亜国も広いから生き残った人がたくさんいて、逆に地獄をみたんじゃないでしょうかね、最後の一日の、そのまた最後まで」
正平はだまってうなずいた。
「それでです、もう時間がありません。もう次の瞬間にも、各国が先制攻撃をするんじゃないかと思うんですよ!どうです?ライトクロス様」
小鉢はわざわざネット上に拡散している来斗の名前を使った。
「そのとおりです小鉢さん、もう時間がない。すぐに配信を始めましょう」
「よし、ライトクロス様の言質を得た!ネットいいか?照明ライト様照らせ!マイク、カメラ向けろ!始めるぞ、さくらちゃん、しほりちゃん、頼んだ!各サイトに同時ライブ配信開始!!」
世界のサーバーに、ライトクロスが降臨した。
黒主家のリビング、ソファの真ん中に座る来斗の両側に、さくらとしほりが座っている。
まずさくらが口を開いた。
「クロスライト様のお話です」
さくらの役目は進行だ。即座に、しほりの指がキーボードの上を舞う。
「世界の皆さん、おはようございます。あるいはこんにちは、あるいはこんばんは。クロスライトです。今日本時間、朝の7時です。僕は前回、またこの時間に、と言いましたが、1時間ほど早くお会いすることになりました」
しほりが来斗の言葉を聞き取り、同時に英語に翻訳してテキストをかぶせる。これで世界中に伝わる。
「その理由は、もう今、この瞬間にも、また核ミサイルが世界中を飛び交うだろうから」
「クロスライト様、前回の予言は当たりましたね」
「はい、僕の予言のようなものは当たりました。いかがでしたか?死ぬ瞬間は、想像していたものと違いましたか?」
「花畑や光の世界や川を渡る光景をイメージしていましたが、何もありませんでした」
「何もなかったでしょう。暗黒、そして覚醒、それだけです。世界の宗教で言われているような死後の世界は、無い。世界のみながそれを知ってしまいました。でも、私たちは生きていた記憶を持って覚醒しています。だから自分を殺した相手、虐げた相手をよく覚えているはず。その相手は恐れるはずです。誰を?」
「それは、誰でしょうか?」
さくらが受ける。
「それは、あなたをです!」
来斗はカメラを指さした。
「あなたを殺したから、相手はあなたに殺されると思う。だから、もしあなたが相手を殺さなくても、相手はまた、あなたを殺しに来る」
さくらが補足する。
「例えば私を殺した犯人がいたとして、時間が戻った後、私がその犯人に復讐しようがしまいが、犯人は私の復讐を恐れて、また私を殺しに来る、ということですね?」
「さくらさん、そのとおりです。とても分かりやすく言ってもらった」
「クロスライト様、では、私たちはどうすればよろしいのでしょうか?」
「裁きが必要なのです。そのような行いを行った者は、必ず厳罰を受けなければならないのです」
「でも、もし私なら、私を殺した相手にそんな罰を与えられるか、自信がありません」
さくらのそんな心配に、来斗が応える。
「それをさくらさんが行う必要はありません。僕の言葉を理解した人たちが、さくらさんの代わりに裁きを与えてくれるでしょう。そして裁きが下ったら、許しましょう」
来斗はひと言ひと言の間を更に取り、言葉の力を強めた。
「今すべきことは、この巨大な死のループの切断です」
「与えましょう!裁きを!!」
「この死のループの根源たる者たちに!」
「この惨状を招いた、独裁者たちに!!」
「さぁ、もうすぐまた、核ミサイルが飛んできます」
「この言葉を聞いた人たち、あえて核の炎をその身に受けてください。あえてその衝撃に身を晒してください」
「そしてすぐに!目を覚ますんです!」
その言葉を聞いていたかのように、リビングにある全てのスマホがけたたましく鳴り出した。
Jアラートだった。
「来ました。皆さん、世界はまた終わります。次の最初の日、この時間にまた、お会いしましょう」
「僕の名前は、クロスライト」
しほりの指がキーボードを舞う。彼女が最後に打ち込んだ文字。
“My name is Light of Cross”
“十字の光”という意味を持つ名前。後にそれは、更に重要な意味を持つことになる。
2度目の破滅は、1度目より早く訪れ、そして徹底的だった。
最初からR帝国が撃った。同時にC亜国、北K国も撃った。迎撃のしようがない。
実はR帝国より早く、アメリカ始め西側諸国が核ミサイルを発射していた。先制攻撃だった。特にツァーリボンバを首都に落とされたアメリカは、攻撃を躊躇しなかった。
2度目の世界核大戦。
それは4回目の5月28日に起こり、そして終わった。
その日は地球人類、2度目の最後の日となった。
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5回目の5月28日、午前3時20分過ぎ。
「うがっ!!」
小鉢は局の編集室で目覚めた。
ディレクターチェアでふんぞり返っていた小鉢は、衝撃で後ろにひっくり返った。
「あったったー!!」
小鉢はしたたか打った腰をさすりながら起き上がり、すぐにインターホンの受話器を握った。
「おい!集合だ!モーニングブレッド出演者スタッフ、全員集合させろ!すぐ行くぞ!!」
「もう了解ですよ、ここにいる全員が」
受話器から冷静な声が聞こえてきた。板野だった。
「お、おぅ、しほりちゃんじゃない、じゃ、すぐ行くからな!分かってんな!ディー!」
-あ~いったぁ~、なんで俺っていっつもチェアでふんぞり返ってんだ?俺って馬鹿なのか?
小鉢は痛む腰をさすりながらスタッフルームに走った。
「小鉢さん私のこと、Dだって」
受話器を置いたしほりは、横にいたさくらに驚きの目線を向けた。
「へぇ~、腐っても鯛って言うじゃない?小鉢さんだって鯛なのよ、ホントはね」
「まだ腐ってる、かもよ~?」
横から誰かが口を挟んだ。和やかな笑いがスタッフルームを包んだ。
「なにが腐ってるって?」
小鉢が飛び込んできた。
「すぐ行くって言ったろ!もう行くぞ、すぐ行くぞ、ライト様のところに!!」
スタッフルームに緊張が走った。
「今度はもっと早く、世界が終わる!!」
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5回目の5月28日、午前5時、黒主家。
私と来斗は、テーブルに着いて朝食を待っていた。
「さ、朝ご飯食べて、準備しましょ!」
聡子は張り切ってベーコンエッグを並べている。不思議なものだが、こう何度もベーコンエッグが続くと飽きてくる。確か、朝食にベーコンエッグは久しぶりだったはずなんだが。
「あのさ、聡子、そろそろ最初の朝ご飯、別のものにしないか?」
「あっ!そうね!じゃ今からでも別のにする?あの人たちの朝ご飯も作ってるから、それをあなたと来斗に」
「あ、うん、いや、次からでいいからさ」
「そう?あの人たちもお腹すかせてくるだろうから、すぐに食べさせてあげないとね!じゃ、ベーコンエッグ、今朝はこれで我慢してね」
-まさかなぁ、聡子がマスコミの連中の朝飯を準備するなんて。
私は苦笑いしながら思った。
聡子のテンションは高い。3時20分過ぎに目覚めてすぐ、聡子が私に言った言葉が”来斗を起こしてすぐに配信しましょ!私のSNSに!”だった。
聡子が言うには、最初の核攻撃、次の核攻撃、どんどん早くなっていくと。
それはそうだ。西側諸国、そしてそれに対抗する諸国、どちらも先制攻撃を狙うんだから、回を重ねるごとに早くなるのは当たり前のことだ。結局、ミサイル発射の準備がどれだけ早いかに掛かってくる。
だから、来斗がネットに登場する時間は早いほどいい。来斗もそれに同意した。そしてつい先ほど、来斗の最新動画が世界に配信されたところだ。
普通の主婦が世界を動かすインフルエンサーになる。それは普通の人誰しもが夢見るものだろう。聡子にはそれができた。テンションが高いのも許してやらなければ。
「でも、さっきの来斗くんの話、すごかったわぁ、私、初めてみんなと一緒に死んだから、全部知ってて目覚めたのは初めてだもんね!もう、感動しちゃったわぁ」
息子を失って、半狂乱でヤクザみたいな男に立ち向かい、次は息子をみずからの命を捨てて守った女が、今はこれほどに浮かれている。
「女って、分からん」
私のつぶやきは、幸い聡子に聞こえてはいなかった。
タブレットの中、聡子のSNSで来斗は、これからすべきことを堂々と世界に訴えている。
「皆さん、また少し早くお会いすることになりました。クロスライトです。今回、こんなに早くお話しするのは、きっと今、世界各国で先制核攻撃の準備が進んでいるだろうから、です。今、時間が戻ってから20分ほどしか経っていません。早ければあと数時間でまた世界は滅亡します。準備は無駄です。逃げても無駄です。皆さんに出来ることはありません。ですが、ある人たちには出来ることがあります。何も出来ない世界中の人たちに代わって、核ミサイルを撃つ者たちに、裁きを与えることが出来る人。分かりますか?」
来斗は一呼吸置いた。
「あなたです!」
「あなたにお願いしているんです!!」
来斗は聡子が掲げるスマホのレンズを指差した。
「もうすぐテレビ局の人たちが来るでしょう。そのときまだ、ミサイルが飛んできていなければお話ししましょう」
「僕の名前は、クロスライト」
わずかな時間の動画だが、その再生回数はみるみる伸びている。それに、あっという間に各国語に翻訳、編集されて拡散されている。
聡子は自分の朝食に手も付けず、ご満悦でタブレットに見入っている。
その時、玄関のチャイムが押され、インターホンに小鉢が映った。
「は~い!」
聡子は嬉しそうに玄関に走った。いちばん最初の3日間、あんなに苦しめられた相手なのに。まったく、女って分からない。
「奥さぁ~ん、このライト様の動画、奥さんがアップしたんですかぁ?」
小鉢がシャケおにぎりを頬張りながら聡子に問い掛ける。
「そうなんです、できるだけ早い方がいいかなって」
「ですよねぇ、ライト様のお言葉ですからねぇ、しかしお上手ですなぁ」
「ほほほ、そうかしら?」
「それにま~たこのシャケおにぎりが、美味いこと!!」
「おほほ!そうかしら?もうひとついかが?」
二人のやりとりはまるで古くからの友人のように親しげだ。来斗のメッセージを切っ掛けにしてこんなことになるとは。
だが小鉢の言うとおり、この動画はよく出来ていた。世界中で見られている。その証拠に、聡子のSNSは各国語のメッセージで溢れている。中にはアンチ的なメッセージもあるが、そのユーザーはあっという間に攻撃され、埋没してしまう。
一方、この動画に共感したユーザーたちは口々に来斗を礼賛し、一種のコミュニティを形成し始めていた。そこでの来斗は、すでに教祖的な扱いだ。
「じゃ、もう準備は済んでますから、ライト様、もう一度よろしいですか?」
「はい、お願いします」
小鉢らはさすがにプロだった。ライティング、多数のメディアへの同時配信機材、そして進行、同時翻訳、メンバーは前回と同じ。だからこそ準備はあっという間に終わる。
「では、どうぞ!!」
まず、さくらが来斗の降臨を告げる。
「世界の皆様、クロスライト様です」
来斗は一礼して話を始める。
「皆さん、今日は2度目のご挨拶です。先ほどの話、もう皆さんに届いているようで僕も嬉しい気持ちです。では、続きをお話ししましょう」
しほりの指がキーボードの上を舞い、同時翻訳をこなす。技術スタッフはそのテキストを的確に動画に載せていく。前回よりも、より完璧な仕事ぶりだった。
「ライト様、先ほどの動画では誰かにメッセージを送っておられました。いったい誰に送られたのですか?」
台本は一切ないが、さくらの質問は的確だった。
「はい、先ほどお願いした人たち、それは、各国首脳側近の皆さんです」
「側近、と言いますと?」
「例えば、日本のような民主国家でしたら政権与党内の実力者になります。首相にもの申せる人、ですね」
「アメリカなどもそうでしょうか」
「大統領が絶対的権力を持っているアメリカなら、やはり副大統領や与党の実力者、軍を統括している人がいいでしょう。しかし問題は」
「問題は、なんでしょうか?」
「独裁国家です。独裁者が支配している国。そういう国では、独裁者は我が身の保身のためなら国民の犠牲もいとわない。だからこその独裁者なんです」
「そういう国では独裁者を止める人がいない、ということでしょうか」
「いえ、そういうことではありません。私が先ほどお願いした人たちというのは、その独裁国家の人たちなんです」
「民主国家は大丈夫、と?」
「はい、民主国家の場合、すでにこの状況が無意味なものだと気づいているはずです。しかし独裁者は自分のことしか考えませんから、止められない。結果、その相手をするために民主国家もミサイルを撃たざるを得ない。まさに、死のループです」
「なるほど」
「しかし、それは断ち切ることができると、申し上げました。その証拠もお見せしましたね」
「そして今、それができるのは、独裁者の側にいる、あなたです!!」
来斗は語気を強め、レンズの向こうにいる誰かを指さした。
「あなたの力が必要なんです!」
「今回は無理かもしれません。しかし次の3日間、時間が戻った瞬間にあなたが動けば、このループは止まる!」
「止めましょう、僕と一緒に!独裁者に裁きを!そして許しを、クロスライトと共に!!」
来斗がそう言った瞬間、Jアラートがけたたましく鳴りだした。
5回目の5月28日、朝6時半。
世界の終わり、3度目の始まりだった。
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6回目の5月28日、北K国、午前3時20分過ぎ。
総書記はいつものようにベッドの中で目覚めた。
-どうせすぐにベッド脇の電話が鳴り、無能どもが今日の指示を請うてくる。最初の核攻撃の口火を切ったのは私、世界で最も早く決断したのが私なのだ。2度目、3度目は遅れをとったが、それでも我が国はもう、れっきとした世界の核保有国だ。
-それに世界を巻き込んだ全面核戦争でも、私はずっと死んでいない。たった数日間、家族とシェルターに籠もればいいだけの話だ。つまりこの3日間が続く限り、私は世界の指導者であり続けるのだ。
総書記はそう考えていた。
-それにしても4度目のミサイルは先陣を切りたいが、お伺いの電話はどうした?私の命令なしに動いているのか?あの無能どもが?
午前4時を回った頃、しびれを切らした総書記がベッドから身を起こしたとき、いきなりドアが開いた。
「何事だ!シン警衛担当、人民の蜂起か?!」
「いえ、そうではありません将軍、あなたはこれから、拘束されます」
総書記は耳を疑った。
「な、なに?お前が私を拘束?そんなことができるものか!親衛隊、親衛隊は!!」
総書記は傍らの電話を掴んだ。
「無駄です。将軍、親衛隊は自身の手で国民を虐殺したことを悔いているのです。もうあなたの親衛隊ではありません」
「ぐ、軍はどうしたのだ!私の人民軍は、パク軍事担当は!」
「将軍、軍の忠誠はとっくの昔に無くなっております。あなたの支離滅裂な方針に従っていたのは、ひとえに密告され、処罰されたくないから。それに愚かな核戦争の口火を切って、自分たちを地獄の業火に突き落としたあなたのことなど。いつクーデターが起こってもおかしくなかったのですよ」
総書記は言葉を失った。
開け放たれたドアの向こうから、チョ外務担当が入ってきた。
「おぉ、チョ外務担当!これをどうにかしろ!こんなことC亜国が、主席が黙っていないぞ!」
チョ外務担当は、無表情に告げた。
「C亜国はもう終わりです。ご存じでしょう?C亜国は、自国民に向けてミサイルを放ったのです。外国勢力ではなく自国民に、です。先ほどC亜国外務省筋と連絡が取れました。C亜国では時間が戻った瞬間に発生した民衆の大規模蜂起と閣内の謀反、自国民を殺害した罪に耐えかねた軍の一部がクーデターを決行、命令系統は寸断され機能を失い、政権は倒れました」
「な、なんだと・・ではR帝国、R帝国の大統領はどうなのだ!!」
「我が国とC亜国の情報はすでに西側に渡っています。おそらく今回は、全世界とR帝国の核戦争になるでしょう。今回は我々もR帝国に撃ちます。世界はもう一度終わりますが、その次から、核戦争は二度と起こりません。世界の滅亡は4回で終わりです」
「なぜだ!なぜそんなことが言える!!」
「裁きを与えるからです。あなたも裁きを受けるのです。あなたも一度、核の炎にその身を晒すと良いでしょう。そして許されるのです。次の3日間で。良かったですね」
「なにを言う、それではまるで」
「えぇそうです、ライトクロス様の、予言どおりに」
「お前たちみんな、そうなのか」
総書記の側近たち、いや、元側近たちは、その問いに応えなかった。
チョ外務担当は小脇にタブレットを抱えている。そのディスプレイには、黒主来斗の姿が映し出されている。
6回目の5月28日、4度目の核戦争の始まりの朝、3時40分に配信された黒主来斗の動画は、英語にも翻訳されず拡散していた。
チョ外務担当は、日本語が堪能だった。
4度目の核戦争後、R帝国は消滅し、世界も甚大な被害を受けたが、今回は生き残った国も多かった。そしてそれらの国々のネットには、来斗の声がこだましていた。
「さぁ!今こそ独裁者に裁きを、そして許そう。次の3日間で!僕の名前は、クロスライト」
朝3時40分配信の動画、それは黒主家のリビングで聡子が撮った、2度目の動画だった。
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7回目の5月28日が始まるとすぐ、C亜国、北K国の独裁者は拘束され、R帝国の独裁者は、国軍と民間軍事会社のクーデターで殺害された。
核戦争は起こらなかった。もう核の炎で世界が焼き尽くされることはないのだ。
世界は喜びに打ち震えた。
そして世界が次に求めたのは、世界核大戦という死のループを断ち切ったクロスライトの言葉だった。
ネットはクロスライトの登場を今か今かと待つユーザーたちで埋め尽くされている。
それぞれがそれぞれのSNS上で、これから来斗が語るだろう予言を予想して、白熱の議論を展開していた。
「ライトクロス、次は何を予言するのか!世界の支配者になるのか?」
「支配者になどなるはずがない、独裁者を裁いたではないか、それは矛盾している」
「私がライトクロスなら、この3日間のループを終わらせてやる」
「神の力か?できるわけがない。ライトクロスはただの子供だ」
「そもそもあれは何者なんだ?日本人の子供ってだけで何も分からない」
世界はクロスライト、ライトクロス、ふたつの名前を持つ日本人の登場を待ち焦がれていた。
7回目の5月28日、午前8時半、黒主家のリビング。
いつものように、小鉢を始めとした撮影スタッフは手際よく機材をセッティングし、来斗と打ち合わせをしていた。今回も聡子は起き抜けに、自身3度目になる来斗の動画を撮ろうとしたが、それは正平が止めた。
前回聡子が撮った2度目の動画が、最後の核戦争の運命を左右する決め手になったのは事実だが、もう必要ないのだ。
6回目の3日間に起こった最後の核戦争は、R帝国対世界の様相となり、R帝国は消滅した。
その間際、R帝国は自分を裏切ったC亜国、北K国、そして仇敵アメリカに核ミサイルを撃ち込んでいる。そのため日本の被害は通常兵器によるもので、限定的だった。
6回目の3日間、黒主家はその全てを生きた。家族全員が3日間とも揃っているのは初めての事だった。正平は生まれて初めてと思える幸せに包まれた。
黒主家の傍らには必ず小鉢たちがいた。カメラは常に回っていたが、その様子をテレビで流すわけでも、ネットにアップするわけでもなかった。ただ、幸せそうな黒主家の、黒主来斗の姿を見ていたい、それだけのようだ。
どうせ撮った映像は3日経てば消えてしまう。しかし、小鉢たちの記憶には残るのだ。
そして今回、7回目の朝。
「さくらちゃん、しほりちゃん、準備オッケー?」
ふたりは無言でうなずく。
「ライト様、準備はよろしいですか?」
小鉢の確認に、来斗は笑顔で応える。
これまではぶっつけ本番だったが、今回はしっかり打ち合わせも出来てる。簡単だが台本もある。ライト様が話す内容もばっちりオッケーだ。これでまた、世界を驚かす。
小鉢のジャーナリスト魂が震えた。
「5!4!3!」
2と1は指で伝え、来斗に向かって手のひらを上にして突き出した。
「世界の皆様、クロスライト様のお話です」
朗々と響くさくらの声は、それだけで視聴者を惹き付ける。
「ライト様、今回、ついに核戦争は回避されました。ライト様の予言が当たったのです。いかがお考えですか?」
「はい、忌まわしい地獄の光景を見ることはもうなくなりました。でも僕は、予言が当たったとは思っていないんです」
「それは、どういう?」
「皆さんが直感しやすいように“予言”という言葉を使いましたが、正確には予測です。繰り返す3日間のループ、世界中の人々が引き継がれるその記憶の中で、まるで3日間という箱に閉じ込められたようです。だとすると、こんな人はこう考える、こう行動する、そう考えたんです」
さくらは少し慌てた風で、小鉢に目線を送った。
-小鉢P、打ち合わせと違います。
さくらの目はそう言っていた。
-むぅ、だが続けるしかない、ライト様にはお考えがあるんだろう。
小鉢は身振り手振りで考えを伝えた。さくらは小鉢の意図を理解した
「こんな人、とはどういう人でしょうか?」
「はい、例えば“僕を最初に殺した人たち”のような」
「ライト様を、最初に殺した人たち、ですか」
打ち合わせでは、核戦争を回避した喜びを世界と分かち合い、そこに導いたクロスライトという存在、それを改めて世界に示す。そしてライト様の側近である我々の存在も明かす。そういうストーリーだった。それを丸ごと書き換える。それもアドリブで。
-ライト様のお考えとは、どんなものなのか。
小鉢のジャーナリスト魂は逆にそそられる。興味津々に来斗を見つめた。
来斗は始めに、自分が同級生4人に殺されたことを語った。日々の暮らしの中で、どれほど苦しかったか、父母を裏切る自分の存在が、いかに小さいものだったか、切々と語った。
それを聞いている聡子は、涙を拭くティッシュペーパーがなくて困っていた。さくらがすかさず厚手のハンカチを渡す。そんな場面もカメラは押さえ、配信にのせる。
「そして二度目の5月28日、僕は彼らを殺しました。この手で」
来斗はカメラに向かって両手を差し出した。そして続ける。
「彼らが憎かったから?それは憎かった。でも、殺した理由はそれじゃない。復讐ではないんです。僕が彼らを殺した理由、それは、“死の瞬間の共有”です」
来斗は、いつか父に話したことを、そして初めて世界に登場したときのことを、目の前のカメラに向けて話しはじめた。
「僕は僕を殺した彼らと、死の瞬間を共有したかった。こういうものだと知って欲しかったんです。人は誰だって死後の世界を想像する。皆さんもそうでしょう。僕は、初めてカメラの前で予言のようなものを語ったとき、自ら命を絶って見せました。僕がその世界をすでに知っていることを、分かって欲しかったからです」
「そして、皆さんの大部分も、もう知っていますね?それも何回も」
「前にも誰かに聞いたことがあります。その世界に花畑はありましたか?光の世界は見えましたか?川は渡りましたか?」
さくらはその”誰か”が自分のことだと気が付いた。
「ライト様、それは私です。死の瞬間の後、何もありませんでした。ただ暗黒になって、そして目覚めた」
「そのとおりです。昔からの宗教観で語られてきたことは、救いを求める人の心が見せた幻、死後には何もありません」
「僕は思いました。その世界を知ってしまい、そしてまた生を得ている。運命を変えるチャンスを与えられたのだと、思いました」
「ライト様の運命、それは、死から学び、そして皆を生かす、ということでしょうか」
さくらの言葉は、意外な重さを持っていた。
「そのとおりかもしれませんね。死から学ぶ。それができた僕は、幸運だったのでしょう」
「ただ僕には、皆さんを生かす、などという大きな力はありません。この3日間が何回繰り返すのかだって、僕には分からないんです。でも、この3日間のループがなければ、僕はただ死んでいました。そしてこのループのおかげで、今こうして幸せだ。皆さんもそうではありませんか?」
「僕は守りたい。この幸せを守りたい。つまり、この3日間を守りたいんです」
さくらが応える。
「ライト様は、結局そのお考えの元、皆を生かしておられます。あなたが言った予言と、あなたが示した道によって」
「さくらさん、先ほども言いました。予言ではありません。僕を殺した人たちの行動、その後のこと、それを考えれば分かるんです。人と人の殺し合いは世界中で起こった。人の集合である国も巨大な人と考えれば、死のループが始まるのは必然で、確信だったんです。僕はそれを分かりやすく“予言”と言っただけ。ただ、国同士の殺し合いが始まってしまえば、そこから抜け出すのは容易くありません。ピースが揃わなければ不可能と言ってもいい」
「僕が入った死のループから抜け出すとき、僕の父が重要な役割を果たしました。皆さんも見たでしょう?僕が自ら命を絶った日、僕の母を車で轢き殺した相手、つまり自分の妻を殺した相手を父は助けたのです。そんな父と同じように、国と国の殺し合いの中でも僕の考えを理解して、その役割を果たす人が必ず出てくると、これも確信、そして必然でした」
「ライト様、先ほどから確信、必然とおっしゃっています。それが実現することを、予言というんだと、私は思います。いかがでしょう?」
「さくらさん、やはり確信は確信です。予知能力でもなんでもありません。ただ、今この時を迎えられたのは、僕が確信していた、独裁者を止めた方々が現れたことです。止めたのは僕ではありません。世界中で僕の代わりに死のループを止めた皆さんに、僕は最大の賛辞を送ります」
「ライト様、なんと言っていいのか、私は言葉がありません。今この時があるのは、やはりライト様のおかげだと感じてしまいます」
「それをどう解釈するか、それはこの映像を見ている、世界の皆さんにお任せしましょう」
「ありがとうございます。この映像は様々なチャンネルで世界同時配信しています。この映像をご覧の皆様、どうぞお考えをお教えください。ライト様はそれに応える努力を惜しみません。では、1時間後にまた、お会いしましょう」
さくらが流れを一端切って、動画を閉めた。これは台本通りであった。
「ライト様、お疲れ様でした。少しお休みください」
そう言うさくらに、来斗は少しはにかんで見せた。
「さくらさん、僕は大丈夫ですよ?それよりさくらさんの方が疲れたんじゃないですか?僕が台本にないことを突然言い出すから」
小鉢が割り込む。
「いや、さくらちゃん良かったよ。ライト様の話にばっちり乗ってた。台本通りよりよっぽど伝わったよ!ライト様、よっぽどさくらちゃん、神木のことを信頼されてるようで」
「え?小鉢さんのことも信頼してますよ?もう」
来斗は少しおどけて見せた。
「あっはっは!参ったなぁ、もう」
小鉢は更に大げさにおどけて見せた。
来斗は笑顔で続ける。
「ただ、さくらさんのことは一番最初の時、”リポーターうるさい!”って怒鳴っちゃった手前申し訳なくて。それにあのときの動画を世に出してくれたの、さくらさんでしょ?」
「あ、そんなこと、いや、はいぃ」
しどろもどろのさくらを置いて、小鉢が続ける。
「で、少し休憩しますが、次に何をお話しされますか?」
来斗は少し考えて、言った。
「はい、次の話は、今、すぐにやって欲しいことにしましょう」
小鉢とさくらは顔を見合わせた。
「よっぽど台本がお嫌いなんですね」
さくらが言った。
「はい、まぁ」
来斗はにっこりと笑った。
「世界の皆様、クロスライト様のお話です」
1時間後、世界のネットに再び来斗が降臨した。
「先ほどのライト様のお話に世界中から反響がありました。それに対するお話はサイト上でお伝えすることにしています。それではライト様、お願いします」
来斗はさくらに向かって軽く会釈し、カメラを向いた。
「皆さんは今、世界の様々な場所で、そして時間に、この映像をご覧になっていることでしょう。もう核ミサイルは飛んできてませんよね?」
来斗は少し砕けた口調で話し始め、すぐ声に力を込めた。
「では皆さん、世界中で今この瞬間、泣いている人たちがいれば、僕の代わりに助けてくださいませんか!」
「今、戦争をしている兵士の皆さん、あなたたちです!あなたたちこそが次の英雄です!僕には何も出来ないのだから!」
「もう核ミサイルは飛んできません。核戦争を止めた英雄たちのように、あなたも英雄になるんです!目の前の敵はもう敵ではありません」
「あなたの目の前に傷ついた子供はいませんか?あなたが傷つけてしまった敵はいませんか?家族を失って、泣いている人たちはいませんか?そんな人たちを、あなたが救ってください!」
「もしかしたら、今回のあなたは反撃を受けて殺されるかもしれない。でもすぐに時間は戻る!もう知っているでしょう?死のループを断ち切るんです!あなたの目の前の!」
来斗は切々と訴えた。時間が戻る瞬間まで、何年にも渡る、あるいは千年にも渡る戦争をしている国々は、世界中にあったのだ。
そして来斗が次に訴えたのは、世界のソーシャルワーカーだった。
「次に、各国の警察、消防、国を支えるために働いている皆さん、そして医療に携わる皆さん、心ある方々にお願いします。この3日間、その力を、皆さんの力を、泣いている人たちの笑顔のために使ってもらえませんか?」
「そのためなら、国も越えましょう。人種も、言葉も、全てを越えて、あなたたちの力を使って下さい。そして世界中の皆さん、そうした行動に賞賛と支援をお願いします」
「この3日間を、幸せに過ごしましょう。誰も泣かない、飢えない世界が始まったのです」
「教育者の皆さんにもお願いします。今、全ての人類にとって学習がなによりも大事なんです。理由は簡単です。この3日間で覚えたことは、次の3日間に持って行ける唯一のものなのですから」
さくらは大きくうなずいている。
「ライト様、つまり、この3日間は決して無駄な時間ではない、ということですね?」
「そうです。この3日間を死のループにするのは愚行。でもその愚行を犯さないのであれば、人類はその知性を永遠に向上させるチャンスを得たのかもしれません」
「しかしライト様、たった3日間の繰り返しなのですから、ライト様のお考えを理解せず、無法を働くものも多いのでは?」
来斗もうなずいた。
「そのとおりです。世界のほとんどの皆さんは、この3日間を幸せに暮らし、永遠の安寧を得たいと思うはず。でも、そうではない人も間違いなくいるでしょう」
「ところでさくらさんは、なぜ人を殺してはいけないのだと思いますか?」
来斗は唐突に問いかけた。
「は、はい、それは法律で決まっているとか、でも、戦争なら殺せと言われます。矛盾ですね」
さくらの瞳は色々な答えを探すように細かく動いた。
「ふふふ、困ってしまいますよね、そんな当たり前のことを、と」
来斗は微笑みながら続けた。
「なぜ人を殺してはいけないのか?その答えは、人間が集団で生きる生物だから、です」
さくらは意外な顔で来斗を見つめる。
「すみません。分かりにくいですよね。人は集団で生きる生物、だから人にはそれぞれ役割があって、集団の中で役立っている。それに、学習してその知識と能力を高めることができる、地球で唯一の生物です」
「そ、そうですね」
さくらはまだ腑に落ちていない。
「人間はそうして高めた知識と能力を、次の世代に引き継いで文明を作ってきました。長い時間を使って、人類全て、ひとりひとりが、です」
来斗はさくらの目を見ながら語る。
「そんな人間の可能性を、誰かが勝手に断ち切っていいはずはない」
さくらの瞳が輝いた。
「ライト様、分かりました!人が人を殺してはならない、それは人間という生物の本能そのものなんですね!!」
「そうです。人が人を殺す、その行為はまさに、集団で生きる人類全体の生存を危うくするものなんです」
「そして今、世界中の皆さんに大事なことをお伝えします!」
来斗の言葉に再び力が宿る。
「この3日間、いえ、これからの3日間、人を殺す人、悪いことをする人、たった3日間の幸せを壊す人、厳罰を受けてください。そうです皆さん、そのような人に厳罰を与えましょう」
来斗は言い放った。
「それが、クロスライトの裁きです!!」
少し力を抜いて、続ける。
「そして許しましょう。次の3日間で」
「4日目はないんです!それなら、幸せの3日間を作りましょう。僕と一緒に!!」
「僕は、皆さんと共に歩む幸せを望みます」
「ではまたお会いしましょう、次の3日間の最初の日に」
「僕の名前は、クロスライト」
撮影を終え、立ち上がる来斗に小鉢が駆け寄る。
「ライト様、すごいですよ!もう!!わたしゃ感激しました!人を殺しちゃいけない理由なんて、おまわりさんが捕まえに来るからって言ってたお袋を引っぱたいてやりたいですよ!」
「あはは、小鉢さんだめですよ?お母さんを叩いたら、お母さん泣いちゃうでしょ?」
「いやいやライト様、うちのお袋なんか引っぱたいたって泣いたりするもんですか、逆に俺がやられちゃう」
「だから小鉢さん、そういうことが駄目なんですって」
さくらが笑いながら受ける。
「小鉢さんと小鉢さんのお母さんって、仲がいいんですね」
来斗の言葉に、リビングは柔らかな空気に包まれた。
「それよりライト様、すごいことになってます」
同時翻訳をしていたしほりが、PCの画面を見つめながら来斗に呼びかけた。
「日本はもちろんなんですけど、世界中からものすごい数の反響です。質問も多くて、このメンバーじゃチェックできません。中には各国の政府機関や各宗教団体の代表からのものもあるようです。早急に対処しないと」
来斗は少し考えて小鉢に向き直った。
「小鉢さん、これ、コメントを整理する人たちが必要ですね。それと、その人たちはAIに詳しい人がいいと思います。僕の話とコメントを結びつけて分析してもらえるような」
「あぁ、もちろんですとも!この小鉢のコネクションを使って、テレビニッポンの総力で、超強力チームを編成します!!番組の制作会社にはいるんすよ、優秀なのが!このプロジェクトに関われるんなら、みんな喜んで集まります!」
小鉢は一気にまくしたて、小室AP始め数名のスタッフに指示を出した。そして来斗に向き直ると少し申し訳なさそうな顔で言った。
「それでライト様、このコメントとかに対するお答えとか、ライト様のコメントとか、これまでの経過とか番組にしたいんですが、いいですか?」
小鉢の提案は来斗にとっても良いものだった。日本を代表するメディアがバックに付いてくれる。これほど強力なものはない。
「もちろんですよ小鉢さん。小鉢さんが言うなら僕もお願いしたいです。いえ、全面的に小鉢さんにお願いします」
「うっひょー!ありがとうございます!!やたっ!オレ、エースPになります!!」
小鉢は文字通り飛び上がって喜んだ。
・
・
この日の夜、テレビニッポンは緊急特別番組として、世界中から集まった反響や質問への答え、そして、来斗の呼び掛けに応じて傷ついた人々を助けた兵士たちのエピソード、助けられた人々のエピソードを放送する。
番組には名だたる学者や各分野のコメンテーター、更に日本政府の要人も参加することになった。
そして放送直前、番組プロデューサーを務める小鉢は興奮を隠しきれない様子で番組MCに指示を出す。
「ライブ放送まで後1分!世界にも同時配信するからそのつもりで、それに森田ちゃん!ライト様は台本守らないからさ、よろしくね!」
「はぁ~い、オッケーでぇ~す」
-な~にが森田ちゃん、だよ。小鉢のヤツ態度でかいなぁ。それにライト様って、なに?
森田正和のMCは超一流と名高い。この番組は最初の三日間から始まる長大な内容のため、決まっていたのは大まかな進行順だけでほとんどがぶっつけ本番だった。それに中継で出演する黒主来斗が台本に沿わない話をすることも想定しなければならない。しかし森田自身も台本を守らないことで有名なので、黒主来斗には打ってつけだとこの番組のMCを任されている。それだけに小鉢のような普通のプロデューサーに指名されたことと、ただの子供の相手をさせられることに不満もあった。
-まぁ素人の子供だ、アドリブでちょいちょいといじって、後はVとナレでまとめりゃいいんでしょ?
小鉢のカウントダウンが始まる。それに合わせてディレクターが指を折る。3本、2本、1本。
「きんきゅーとくばん!!ライトクロスのしんじつぅー!!」
そこからの数時間は、森田のMC史始まって以来の特別な時間となった。
まず番組では、最初の三日間に起こった黒主来斗殺害事件が再現VTRを交えて紹介された。もちろん犯人の情報は伏せられている。あくまで黒主来斗という人物の成り立ちを説明するためのものだったからだ。しかし放送と同時に犯人たち4人の個人情報が続々とネットに晒され、それぞれへの殺害予告や実際にそれぞれの家の画像をアップして襲撃者を募る者まで現れた。
森田はコメンテーターにそのような行為を諫める発言を求め、森田自身もカメラに向かって自制を呼び掛けて必死にその流れを止めようとしたが、無駄だった。
「おばっちゃん!どうすんのこれ!もう収拾付かないよ?襲撃始まっちゃうよ?俺もう無理だよ!」
児童心理学の専門家が発言している間、森田は小鉢に番組の中断を求めた。しかし小鉢は冷静だった。
”森田ちゃん落ち着いてよ。今しゃべってる心理学者の話切っちゃっていいからさ、ライト様いくよ?カメラ来たらすぐ、ライト様降臨です!って、ヨロシク!!”
インカムから聞こえる小鉢の声は余裕しゃくしゃくだ。
-ヨロシク!っておい!小鉢!くそっ!!
森田は心の中で毒づいたが、ここは小鉢に従うしかない。
「先生!子供の心理状態によっては集団的な暴力に走ることがある!よぉ~く分かりました!ここで緊急です!黒主来斗様の降臨です」
画面にオンラインで繋がった来斗が映し出されると、すぐにネットの反応が変わった。
それまで多かった日本語のコメントを外国語のコメントが覆う。
-なんだよこれ、あんだけあった日本語コメントがもうポツポツだよ
日本語のコメントも相変わらず多いのだが、世界中の言語で送られてくるコメントに埋もれてしまったのだ。
-これがライトクロスの力、か。
森田は来斗の影響力に舌を巻きながらも平静を装った。
「えっと黒主くん?いや、黒主来斗様、ここまで最初の三日間の出来事をお伝えしてきたんですけども~」
来斗は森田を無視し、その発言を遮って視聴者を一喝した。
「僕を殺した人たちはもう裁きを受けた!僕自身が裁いて、もう許したんだ!それをまた襲撃など、やめなさい!!」
一呼吸置いて来斗は続ける。
「もしそれでもやろうとするならば、僕が許した彼らをまた殺すというのなら、次はあなた自身が裁かれる。あなたのそばにいる、その愚行を、死のループを、僕の代わりに止める人たちに!」
番組の分析チームは続々と集まるコメントをAIで分析し、危険なコメントをはじき出していた。
「小鉢P、襲撃だの殺害だのっていう日本語コメント、ほぼ消えました!!」
“森田ちゃん聞いた?もう安心だよ?じゃちょっとだけライト様と話してよ”
インカムから小鉢の声が聞こえたが、森田の関心はもう黒主来斗にしか向いていない。
-おいおい一発かよ!やばい、やばいよこの子供、黒主来斗、いや、様づけで呼ぶんだったな。
「え~黒主来斗様、最初の三日間の話だけでこの反響です。どう思いますか?」
「はい、世界中の人たちが殺し合う未来を僕は望んでいません。ですからこの番組が進んで、また同じようなことになるかもしれませんけど、そのときは森田さん、今僕が言ったことを代弁してください。お願いします」
森田には思わぬ申し出だった。
-俺を、超一流芸能人、芸能界の大御所と言われて久しいこの俺を、自分のスポークスマンにするつもりか?
-おもしろいじゃないの、どうせ閉ざされた三日間、思いっきりやらせてもらおう。
森田の芸能人魂が、エンターテインメントが騒ぎ出す。
「え~ぇいいですよ?私なんかで良ければ、喜んであなたのスピーカーをさせてもらいましょ」
来斗は図らずも、優秀なタレントを味方につけることに成功した。
番組はその後、核戦争による世界の滅亡、そして復活、黒主来斗がライトクロスと呼ばれ、核戦争を終わらせ、人々に救済を与える存在として世界に影響を及ぼしていることに触れ、多岐にわたる分析を加えて終盤を迎えていた。来斗はそのコーナーごとに姿を見せ、それぞれの場面で世界に伝えるべき事を語った。
その時々に、森田が絶妙なMCで来斗を引き立てる。しかしなによりも各分野の専門家や政治家とのやり取りにも臆さず、自身に起こったこととその考えを包み隠さず語る来斗の姿は、世界中の反響を呼んだ。
森田のインカムに小鉢の声が響く。
“森田ちゃん、コメントの中にさ、宗教団体からの誘いが多くなってんのよ。世界中のだよ?最後の方でさ、ライト様を繋ぐから、その辺掘り下げてくんない?”
森田は小さくうなずいた。
「ここで黒主来斗様に繋ぎます。ライト様!!」
「はい」
画面に来斗が映し出された。
「番組へのコメントに世界中の宗教団体からコメントがあるそうなんですよ。どうもライト様を自分の宗教団体に勧誘したいような、そこんとこいかがです?」
来斗はしばし考えて語り出した。
「僕は、クロスライトは皆さんが信じている神や宗教を否定しません。信じることは生きていくのに必要ですから。それどころか皆さんにはこれまで以上に信じる宗教、神を信仰して欲しいと思います。だから、僕がどこかの宗教団体に属することはありませんし、僕自身が教祖や神になることもありません」
「それはライト様自身が宗教を起こす訳ではない、ということですか?」
「はい、僕はただの人間ですから。予言なんかも出来はしませんし。でも、僕の考えを理解して協調してもらえるのなら、こんなに嬉しいことはないんです」
「そうすると、どの宗教の人でも、ライト様の考えに協調してもらえるのならそれでいい、と?」
「そのとおりです」
「じゃあライト様、ライト様の考えの、どのあたりに特に協調してもらいたいんですか?」
「そうですね、この3日間が全てなのだから、皆が幸せになりましょう、というところですね」
「う~ん、幸せとは、具体的にはどうですか?」
「たった3日間ですが、この間に経験したことや学んだことは次の3日間に引き継がれるんです。だから、皆がそれを平等に得られること。満ち足りた3日間を続けて、そして精神的に成長していく、そういうことだと思います」
「しかし、たった3日間でも食べ物や水や、インフラを維持する人たちが必要でしょ?その人たちは幸せなんでしょうかね?」
「はい、自分の役割を全うして世界の安定に貢献する。僕はそういう人たちがもっとも尊い存在だと思っています」
「世界の役に立ってるっていう、自己肯定感で幸せ、ですか?」
「そのとおりです。そんな人たちのおかげで何不自由ない3日間を送ることができるとすれば、どんな賞賛の言葉を投げかけても足りないと、僕は思います」
森田は高揚感で震えていた。
今、自分と黒主来斗のやり取りを世界中が見ている。そして自分は、今後この子供を支える一人になる。世界中に賞賛されながら。
-おんもしれ、小鉢がこの子に入れ込む気持ちが分かったよ。
「では最後の質問にします。ライト様、その3日間を幸せに過ごす権利を侵せば、どのようになるのでしょう?」
「はい、これはもう皆さんお分かりでしょう。世界を焼き尽くした独裁者たちは、これからも時間が戻るたびに拘束されるでしょう。拘束しなくても何も出来ないでしょうが、それでもまだ許されていません。同じように、今この瞬間、誰かが誰かの命を奪うならば、その誰かは即座に厳罰を受けるべきです。それは僕の考えに協調してくれている人たちによって」
「幸せに過ごす権利を侵すことが、何よりも重い罪だ、ということですね?」
「はい、そのとおりです」
「この3日間の幸せこそ、全てだと?」
「そうです。4日目は、ないのですから」
森田は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。
「ありがとうございました、クロスライト様。では、次の3日間でまたお会いしましょう!!」
「はい、森田さん、お会いできて良かった」
森田の長いキャリアに残る数時間は、終わった。
それからも続く3日間、テレビニッポンは1日目の朝と3日目の夜、時間が戻る瞬間まで、クロスライトの番組を独占的に放送する。
プロデューサーはもちろん小鉢拓実、MCは常に森田正和だった。
各メディアで世界中に同時配信されるその番組によって、来斗は熱狂的な支持を得て、数ある宗教の教義にもその考え方が浸透していった。
来斗の考えに共感した者たちは、時間が戻った瞬間、即座に世界的組織を立ち上げる。そこには世界中から情報と物資と人材が集まる。そして3日間、彼らはライトクロスの意思に沿った行動に徹するのだ。
その組織は、いつしかこう呼ばれるようになっていた。
-Closs of Lights Movement-
略してCLM。そして通称は“クラム”。
果てしない3日間の中で、来斗は神になっていった。
それは来斗の意思では、なかったが。
■久高麻理子
3年前、東大を卒業して誰もが知る大企業に就職した私は、誰からもうらやまれたわ。でもホントはね、私の方がうらやましかった。みんなの事が。
会社で良かったのは最初の1年だけ。重要な部署に配置されたし、自分でも誇らしかった。早朝出勤も残業も、時には泊まり込みの激務もこの部署なら当たり前と思えたし、それをこなす体力もあった。
私は小さい頃からずっと空手をやっている。学校で部活に入ったことはないけど、ずっと道場で。大学に入っても続けていたから、体力はもちろん精神力にも自信があったわ。
でも、駄目だった。
東大を出た?空手が強い?そんなものなんの役にも立たないって、思い知らされた。
大好きな友人たち、競い合って認めあったライバルたち、厳しいけど優しい師範、私に好意的な人たちばかり。
そして大事な、大事な両親。
私はずっと、人に恵まれていたんだ。
そのことに気づかされたのは、あの上司が赴任してすぐ。
武田課長。
あの人は私を認めない。いえ、きっと認めているからこそ、あの人は私を否定する。私を妬んでいるんだ。
入社3年目の私は、商品開発チームのチーフに抜擢されていた。でも、私のチームが出す企画はことごとく却下。それなのに、とてもよく似たアイディアの企画が、別のチームから出て通る。
抗議しても、それはあの人の怒りを煽るだけ。そして私はみんなが見ている中、延々と叱られる。
「お前のチームは優秀だ、俺は分かってるんだぞ?お前が足を引っ張っているってことを」
「こんな程度の企画を出して、お前本当に東大か?何かの間違いじゃないのか?それとも東大には、空手推薦とかあるのか?」
「3年目でチームリーダーなんて、無理に決まってるだろ。前の課長はよほど無能なんだな。それともあいつとお前、なんかあるのか?」
「お前のチームだけどうして仕事が遅いんだ?他のチームを見ろ、残業は少ないのに、出てくる企画はいい、お前のチームは、って言うか、お前、頭使ってるのか?」
「女が空手なんかやってるから、いいアイディアが出ないんだよ。脳みそまで筋肉になってんじゃないのか?もしかして、親もそうか?」
「そうなんだよ、チームが停滞してるすべての原因は、無能だからじゃないのか?お前がさ」
「お・ま・え・が・・・だよ」
下品極まりない言葉、私の人格を否定する言葉、私の大切なものを破壊する言葉。ひとつひとつが刃になって、私の心を切り裂いた。
心も切られれば血を流すんだ。
体と同じ、血まみれになるんだ。
そんなことを私は知らなかった。
私はずっと人に恵まれていた。だから私の心は優しい人の優しい言葉にしか触れていない。
だからなんだ、この言葉の暴力に耐えられなかったのは。
「久高チーフ、あんなの気にしちゃいけない。大丈夫!私はあなたより年上なんだから、なんでも相談してください」
私はチームの最年少だった。そんな私を気遣って年長のメンバーが声を掛けてくれる。
でも、そんな優しい言葉も届かないほど、私の心は傷ついている。
ごめんなさい。あなたの言葉はあんなに優しかったのに、私の頭の中にはあの男がいたの。
武田課長。
いつの間にか頭の中を支配した武田の顔が、言葉が、頭の中でぐるぐると回っていたの。
ぐるぐるぐるぐる。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
そして私は、このビルの屋上に立っていた。
職場のあるフロアからここまで、どうやって来たのか全然覚えていない。
気が付いたときにはここにいて、満天の星空を見上げていた。
東の空はほんの少し白んでいて、もうすぐ太陽が昇るのに。
「こんなに綺麗な星って、東京で見たことあったかな」
涙が溢れそうになった。
そして私は、星空を見上げながら、虚空に足を踏み出した。
間違いなく。
なのに、私の足先がコンクリートの角を離れるその瞬間から、ずっとずっと見ている。私の体が、地面に落ちるまでの光たちを。
もう何回見たの?あと何回見ればいいの?
あぁ、私は、終わりのない夢に囚われたんだ。
あぁ、いつ終わるの?
この夢は。
それにしても、なんてひどい。
悪夢。
うんうん、最初の頃はそう思ったわよ。最初の頃だけね。
あ~ぁあ、もう何度目なのか、数えたくもないし、数えたとしても覚えられない。
美しい夜空?瞼をよぎる光たち?もう飽きたわ。
これ、悪夢なんかじゃないわ。
信じられないけど、時間が戻ってるのよ。
私がビルの屋上を蹴った瞬間から地面に落ちるその瞬間まで、約5秒。
そして即座に時間は戻る。
もう何回も何回も落ちたから間違いないわ。
このビルは30階建て、私の会社のフロアは26階。
落下時の加速度を考えるとぉ~
5秒の間に何かできることはある?
時間が戻った瞬間、私のつま先はまだビルの屋上にあるわ。
少しだけ力を入れることはできるはず。
でも、何をするための力?どの方向にどうやって入れればいい?
ほら、ここまでで、もう10回以上落ちたわ。
5秒の間に考えられることなんてほんのちょっとなんだもの。
ほら、もう2回落ちた。
でも、前回は上手くいった。右足の親指に力を入れるのよ。
そして体を捻じる。落ちる方向が、足からになったわ。
後は顔の向き。ビルの方向に向くの。
難しい、どの方向に力を入れればいいの?
こっち?
違う、こっちに捻じればいい?
あぁ、ひねるの?
どうやって?
あ、上手くいった。高飛び込みやトランポリンの要領なのね。
顔がビルの窓を向いた。さっきまで私がいたフロアの窓。
私はちょうど、会社の窓の前を通り過ぎていたのね。
みんな、びっくりしたろうなぁ。
喜屋武さんが見えた!
私に優しい言葉を掛けてくれた先輩。
同郷だからいつも私を気に掛けてくれたのに、もっと頼ればよかった。
喜屋武さんの向かいに、私のデスクがあるの。
今日の仕事は朝まで掛かりそうだったわ。
でも仕事は終わりそうもなくて、もう耐えられなくて。
横を見ると、なぜか武田がいぎたなくいびきをかいていて。
それが私を待ち受ける悪魔のようで、耐えられなくて。
みんなに黙って、席を立ってしまった。
ああ、喜屋武さんごめんなさい。
できればひと言謝りたい。
喜屋武さん、こっち、こっちを向いて!
これからずっと、こんな風に落ちるわ。
そしてずっと、喜屋武さんを見るわ。
だから喜屋武さん、私に気付いて!
気付いて!喜屋武さん!!
■喜屋武尚巴
「あれ?久高チーフは?」
「あ、いませんね、いつからかな?ちょっと分かりません」
チームのひとりに声を掛けたが、久高の行き先は分からなかった。
「そうか、まぁ、そのうち戻ってくるか!さぁもうちょい頑張ろう!」
そうは言ってみたものの、チーフがどこに行ったのか気に掛かる。
俺は深くため息をついた。
昨日から続く作業。武田課長に押し付けられた、ほとんど不可能な企画書の作成。朝までに仕上がるかどうか分からないが、ともかく全力でやるしかなかった。でなければ、また久高チーフが怒鳴られる。みんなの前でこれ見よがしに、ねちねちと、終わったかと思えばまた何かを穿り出して、延々と叱る、怒鳴る。
久高は俺にとって自慢の後輩なんだ。同じ沖縄出身だし、俺が地元の大学を出てこの会社に就職できたのはラッキーだったが、あいつは東大卒。優秀だし、今は同じ主任だが、あいつは間違いなく出世するだろう。
それに、あいつは空手をやってる。あいつには言ってないが、俺も琉球空手の有段者だ。どこか通じるものがある。
本当に自慢の後輩なんだよ。
それをあの武田の野郎、久高ばっかり目の敵にしやがる。チームもその煽りを食ってるが、それでも俺らの怒りの矛先は武田だ。
それにしても武田め、他のチームは昨日のうちに帰ったのに、あいつだけ残ってやがる。もちろん仕事なんてしてない。椅子にふんぞり返って寝てるだけだ。朝一番に俺らを、いや、久高を虐めたいだけなんだろう。
「くそ、必ず見返してやる、うちのチームの優秀さを、久高の能力の高さを、あいつに認めさせるんだ」
いびきをかいている武田を横目で見ながら小さな声で呟いた瞬間、窓の外を何かが通り過ぎた。
そして数時間後、俺たちは屋上から女性が飛び降りたことを知った。
久高チーフは、帰ってこなかった。
5月28日、午前3時過ぎ。久高麻理子は自殺した。
俺たちの誰も、久高の通夜や葬儀に出席できなかった。いや、久高の親族が会社関係者の出席を拒んだんだ。殺人的な勤務状況やパワハラの噂を知った親族にとって、それは当然のことだったろう。
もちろん、社内でも武田のパワハラは問題視された。人事部の監査はもちろん、警察の事情聴取まで入ったものの、俺たちが武田の処分を知ることはなかった。
それどころか武田に対する調査も、何もかも問題視されなくなった。
時間が戻るからだ。
なんてことだろう。俺たちはあれ以来3日毎に、久高が落ちていくのを見なければならない。いや、時間が戻った瞬間チームの全員が下を向くから、見ることはないのだが。
今日も窓の外を久高が落ちていく。
あぁ、なんてことだろう。
悪夢かよ。
だが、何度繰り返したか分からないその日、いつものように下を向いた俺は、ちらりと窓に目をやってしまった。そして気が付いた。
時間が戻った瞬間から数秒後、目の端に白いものがふたつ見えたんだ。
「今のは、手のひら?」
しかしそれを確かめるために、俺はまた、“次の瞬間”を待たなければならなかった。
そして3日後のその瞬間、俺は顔をしっかりと窓に向け、目を見開いた
そこに見えたのは、俺に向かって両手を突き出した久高麻理子だった。
久高の目は、はっきりと俺を見ていた。
俺の目は、久高の唇が動くのを捉えた。
「たすけて」
久高はそう言っているように見えた。
久高麻理子は頭から落ちたはずだ。それが足から落ちている。それに、窓に向かって手を伸ばしている。
そうか、久高は何回も何回も落ちながら、助かる術を探して、実行していたんだ。
そして俺に、助けを求めている。
「そうか、そうだったのか」
俺の心に、可愛い後輩の心に初めて触れたという思いが芽生えた。
「必ず助ける」
俺は決心した。
次に時間が戻った瞬間、俺はひとりで動いた。
すばやく窓に駆け寄り、正拳を窓ガラスに打ち込んだ。
「どぅえいっ!!!」
裂ぱくの気合を込めた正拳のはずだったが、ビルのガラスは思ったより強かった。
「硬い!割れんっ!!」
瞬間、落ちていく久高麻理子と目が合った。久高の目は、嬉しそうに笑っていた。
「喜屋武さん!どうしたんですか!」
「なにやってるんです!」
「チーフが!久高チーフっ!!」
久高チームのメンバーたちが口々に叫ぶ。
「久高っ!くそっ、くそっ!!」
咆哮がフロアにこだました。メンバーの叫びをかき消すほどに。
そしてこの3日間にやるべきこと、俺たち久高チームのプロジェクトは決まった。
①窓ガラスをどう打ち破るか
②屋上から落ちて来る久高麻理子をどうやって受け止めるか
である。
・
・
「このビルの窓ガラスは強化ガラスなのか?」
俺は誰ともなく聞いた。
「いえ、違うようです。ただ、普通のガラスよりは強い、倍強度ってやつみたいです」
佐久間真一が応える。
「倍?強度が倍か、俺の正拳じゃダメだった。でも、強化ガラスってわけじゃないんだな?」
「そうですね、強化ガラスだと相当な強さですよ、車のフロントガラスみたいなもんで」
「なるほど、フロントガラスよりは弱い、か。じゃ道具を使えば割れるな!」
「でも喜屋武さん、あの瞬間に使える道具なんて、ないでしょ?」
伊藤彩が割って入った。
「そうだよね、ドライバーだのなんだの、準備できればいいのにね」
佐久間も伊藤に同意する。
「いや佐久間、ドライバーとかそんな小さな道具じゃガラスに穴が開くだけだろ?窓全体を割らなきゃ駄目なんだよ」
穴だけでは久高を助けられない。俺はそう考えていた。
「そうか、じゃ、椅子ですか?」
「佐久間分かってるじゃないか、椅子をぶん投げるぞ」
「いや喜屋武さん、離れたところから椅子を投げたってガラスは割れませんよ。すぐそばで叩きつける勢いでぶん投げなきゃ」
佐久間の言うことももっともだが、それでも倍強度ガラスを破るのは容易ではないはず。しかし佐久間はなぜか自信ありげだ。
「うん、そうだな、確かにそうだが、佐久間、自信あるのか?」
「ん~、100%かって言われるとちょっと、でも俺、高校大学とラグビー部だったんすよ、まぁその辺はちょっと自信あり、って事で」
意外だった。細身に見える佐久間が元ラガーマンか。
「おぉ!じゃ、おまえがまず全速力で窓に走ってそこの椅子を掴んで窓ガラスに叩き付ける。失敗できないからな、窓ガラスを完全に破壊する勢いでやるんだぞ」
「はいっ!任せてください!完全にぶっ壊してやりますよ、こんなガラス!!」
佐久間がいつになく頼もしい。そこに伊藤が割って入る。
「え~、でもそんなことしたら、ガラスは割れても下の人が危ないんじゃ、それに椅子も落ちるんでしょ?」
それももっともだ、だが心配はない。
「伊藤~、あんな時間にそうそう人なんかいないよ。しかもだ、あの瞬間に人が落ちてくるってみんな知ってるから、近くにいてもすぐ逃げてるよ」
「あ、そうですね。あっ!でもでも、椅子がチーフにぶつかっちゃったら?」
「それはあるかも、どうですか?喜屋武さん」
伊藤の発言にまた佐久間が同意する。
「うん、俺が窓に走って正拳を入れたとき、まだ久高は来てなかった。割れなかった瞬間目が合ったんだよ、だから間違いない」
「ていうことは今の計画なら、久高チーフが通り過ぎるのは窓ガラスが割れた直後、ってことになりますね」
「あぁ、そうなるな。勝負はおそらく3秒以内、か?」
久高を救う計画は着々と進んでいるように思えたが、そこにひとりが口を挟んだ。
「だから椅子を叩き付けるだかぶん投げるだか、と?」
それまで話を聞いているだけだった新田理央だった。
「そう、誰かが椅子をぶん投げる。じゃないと間に合わないんだよ。そして割れた瞬間、俺が」
「喜屋武さんが素手でチーフを掴む、と?」
また新田だ。
「おいおい新田、いちいちなんだ?この案はダメか?」
どこか引っかかる物言いの新田に、俺は少し苛立ちを覚えながら聞いた。
「いえそうじゃなくて、その計画ではちょっと足りないかな?と。私、こんなの持ってるんですけど」
そう言う新田が机の下から取り出した物を見て、全員の目が点になった。
「それ、え?玉網?」
玉網と言ったのは俺だったが、新田はそれを否定するように、ぶんぶんと首を横に振った。
「釣りに使う玉網じゃないのか?」
「喜屋武さん違いますよ。これはランディングネットです。東京湾のシーバスで使うんですけど、メーター級も来るからこんなに大きいんですよ」
「それを玉網っていうんだろ!ん~、まあいい、で?お前はなんで会社にそんなもん持ってきてるんだ?」
「あ、私、ショアとかオフショアのシーバスゲームが好きで、会社の帰りにちょっとベイショアとか、オフショアでストラクチャ周りとかの船に乗ったりするんですよ。もっとも最近は全然行けてなくて、とってもストレスですけど」
「いや、その難しい釣り用語は置いといて、なんで会社に持ってきてるんだ?って聞いてるの」
「駄目でしたか?」
「いや!駄目じゃないんだけど!!」
「ロッドもリールも、ルアーもありますよ?リールはステラです。8万円です。見ます?」
「あ~!もういいや!!」
作戦は決まった。時間が戻った瞬間、まず佐久間が窓に走り、手近の椅子を渾身の力で叩き付け、ガラスを破壊する。
佐久間と同時に、俺と新田が窓に走る。新田はもちろんネットを持って、そして俺が窓際でネットを受け取り、外に差し出す。
新田と伊藤は俺が久高と一緒に落ちないように、後ろから俺を引っ張る。
佐久間は俺の横について、ネットに引っ掛かった久高を一緒に引っ張り上げる。
完璧だ。
次に時間が戻ったとき、久高も戻ってくる。そんときは、そうだな。
まず武田を殴ろう。
・
・
それからの時間、俺たちは会社のフロアに入り浸り、更に入念な打ち合わせとシミュレーションを繰り返してその時を待った。
このループが始まってから、会社はもう本来の機能を果たしていなかったから、社員はいつでも会社に出入りできた。会社に来なくなったやつも多かったし、3日間のうちにどれだけ面白い広告や企画を打ち上げられるかを生きがいにしているやつも同じくらい多かった。
その中でも俺たち久高チームのモチベーションは最高だ。
久高チーフを救うことはもちろんだが、それがどれほどの人たちにインパクトを与えるか、想像もできない。
繰り返す3日間に閉じ込められて、変えられないと思った運命は、実は変えられる。それを知った人たちは次の瞬間、どんな行動を起こすんだろう。
ともあれ、まずは久高チーフのご両親の顔が目に浮かぶ。
久高の両親、俺はまだ泣き顔しか見たことないんだ。喜ぶだろうなぁ。
「よしっ!絶対に助けるぞ!!」
言葉に自然と気合いがこもる。無言でうなずく皆の顔にも緊張がみなぎっている。
5月30日、午後23時56分、あと数分で時間が戻る。
フロアには俺たち久高チームだけ。全員が自分の席について、その瞬間を待った。戻る瞬間と戻った瞬間、同じ位置にいればイメージしやすい。即座に動けるからだ。
佐久間は入念に椅子から飛び出す準備をしている。戻った瞬間は居眠りしてたような気もするが、きっと大丈夫だろう。ともかく、おまえが窓を破ってくれなきゃ始まらない。頼むぞ!
新田は机の下に手を入れて、ランディングネットの感触を確かめている。まさかスズキじゃなくて人間を掬うことになるとはね。それより部下の趣味も把握してないとは、俺も駄目な上司だなぁ。
伊藤はあまりやることがないけど、やっぱり緊張しているな。しかし、久高を受け止めるには俺だけの力では難しいだろう。しっかり俺を引っ張ってくれよ!
そして俺は、とにかく転ばないようにしよう。
もし佐久間の窓ガラス破壊が失敗しても、体ごと突っ込んでやる。
うん、転んじゃ駄目だ。
23時59分55秒。
俺は皆の顔を見渡した。
「頼むぞみんな!」
瞬間!!
「戻った!!」
佐久間の声を合図に、俺は新田と共に椅子を蹴った。当然俺の方が早い。
新田はランディングネットのグリップを俺に向けている。
「喜屋武さん!!」
新田が叫ぶ。
「うまいぞ新田!!」
新田の口元が誇らしげに緩む。
俺はネットのグリップを掴むと窓に突進した。
そんな俺より一足早く、佐久間が窓際に突進している。右手はすでにオフィスチェアの背もたれを掴み、走る勢いをそのまま伝えて窓ガラスにぶち込んだ。オフィスチェアの脚部は重い。佐久間はその重さと自分の脚力を利用したんだ。そこに鍛えられた腕力が加わる。
グァッシャーーン!!!
窓ガラスは粉々に砕け、オフィスチェアは闇に消えた。
「見事!!」
俺は一声叫ぶと間髪入れず窓の外にネットを差し出した。
「?」
「久高は?」
思った瞬間、巨大な力がネットをへし曲げた。一瞬のことなのに、時間がゆっくりと流れているように感じたのか。
「うがぁっ!!お、重い!!」
両手で掴んだネットのグリップが抜けそうだ。しかし今は、自分の握力とネットの強度を信じるしかない。俺の後ろでは新田と伊藤が必死に俺を引っ張ってくれている。一瞬の荷重には耐えた。よし!次は片手を離し、久高を掴むんだ。
そこで初めて、俺は久高の顔を見た。
久高は、ネットを胸に抱きかかえるように捕まえている。
顔はまっすぐ俺に向けられている。そしてその目も、まっすぐに俺の目を見つめていた。
俺は右手を伸ばし、久高の左腕を掴んだ。
「掴んだ!佐久間っ!!!」
俺は左手も離し、久高の左腕を両手で掴んだ。ランディングネットが虚空に消える。すぐに横から佐久間の手が伸び、久高の右腕を掴んだ。
佐久間は窓から上半身を乗り出している。今にも落ちそうだが、伊藤が後ろで佐久間のズボンを掴んで引っ張っている。
「伊藤!グッジョブ!!」
なぜか佐久間が嬉しそうだ。伊藤を褒めたのに。
「佐久間!伊藤!新田!いいか、引っ張るぞ!!!」
「ほほいっ!」
「佐久間君がんばって!!」
「お?おうっ!まかせろ伊藤ちゃん!!」
もう大丈夫だ。
久高チーフが、久高麻理子が、帰ってきた。
・
・
俺と佐久間に引き上げられた久高は、窓際にへたり込んでいた。伊藤と新田が久高の顔をウェットティッシュで拭いてやっている。
久高の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「みんな、みんな、ごめん、ごめんね」
久高は何度も何度も皆に謝った。溢れる涙を何度も拭いてやっている伊藤と新田の顔も、涙でぐしゃぐしゃだ。
「伊藤、新田、もういいだろ。お前たちも顔を拭け」
俺の言葉に、伊藤と新田は顔を見合わせて、ぐしゃぐしゃの顔で笑いあった。それを見る佐久間も感無量の表情だ。そんな佐久間に、久高が声を掛ける。
「佐久間君、私さっき、窓から椅子が飛び出すのを見たよ?」
「あ、それオレっす」
さりげなくチャラい佐久間の言い様に、皆の顔がほころんだ。
「それから大きな網が突き出されて、ちょうど私の胸に当たったから、必死で掴んだの」
「あ、それは喜屋武さんっす」
「喜屋武さん、この前はゲンコツだったのに?」
やっぱり見ていたのか。正拳突きで窓ガラスに敗北した俺は、苦笑いするしかなかった。
「久高チーフ、いや、久高麻里子」
声を掛けた俺を久高は見上げた。
「おかえり」
久高の目から、また涙が溢れてきた。
「ただいま、喜屋武先輩、でも」
「なんだ?」
「私を掴まえたとき、うがっ!重い!!って言いましたよね。あれ、セクハラです」
その言葉を聞いて、全員が顔を見合わせた。そして、笑いが弾けた。
「さて!久高チーフ、今なにしたい?」
俺はちょっと思わせぶりな目線をフロアの奥にやり、久高に問いかけた。
「そうですねぇ、やっちゃいますか」
「おう、やるか」
俺は久高を立たせ、二人並んでフロアの奥にふんぞり返っている武田の前に進んだ。
「武田課長」
久高が話しかける。
「あ、あ~ぁ、久高君、よ、良かったねぇ~、助かって」
しどろもどろの武田の言葉には応えず、久高は語気を強めて言い放った。
「この、パワハラ野郎っ!!!」
同時に久高は腰を落とし、力を溜めて渾身の正拳を武田の顔面に放った。
「っつえーーいっ!!」
裂ぱくの気合と共に放たれた正拳は、武田の鼻面すれすれで止まった。
「業務を放棄したこと、ここにお詫びいたしますわ」
久高の顔が、目が、輝いている。死んだ魚のようだった久高麻理子は、もういない。
「さてと」
俺も口を開く。
「後輩の不始末の責任は、先輩も負うってことで」
俺はすっと腰を落とし、一瞬で気を溜め、そして解き放った。
「どぉりゃーーっ!!」
久高の気合を超える魂魄の一撃は、やはり武田の鼻面すれすれで止まった。武田はあんぐりと口を開け、白目を剥いてよだれを垂らしている。
「俺たちが当てると、死ぬからな」
「そうですね」
俺と久高は顔を見合わせ、笑いあった。
ふと、久高が声を上げた。
「おれたちがって、それに喜屋武さん今の型、空手やるんですか?」
「あぁ、話してなかったな。俺な、琉球空手やってんの、5段」
「はぁ」
久高がため息を漏らす。
「なんだよ」
「それで窓ガラスに正拳ですか、しかも破れないなんて、恥ずかしい」
「はぁ?なんだよそれ」
俺は呆れたように言ってみたが、久高は俺の顔をまともに見てくれなかった。そして久高は、なぜか慌てて言葉を繋ぐ。
「そ、それで私、落ちながらずっと思ってたんですけど、この世界の時間って、戻ってます?」
この後、俺たちは久高に、この世界のことを教えることになった。久高が落ち続けている間に起こったことだ。
この世界の時間は約3日間続き、また同じ時間に戻ってしまう。それをもう数百回繰り返していること、この世界は何回か核戦争で滅亡していて、メンバー全員が死ぬか瀕死の状態になったこと、そして、こんな世界で人間が生きる目的は、この3日間を幸せに生きることだけで、それを教義にした宗教のようなものもあること等々。
「ほんと!あの北K国の変な頭の奴!ぼんぼんミサイル撃ってくるんですよ?もう、私ったら3回も死んじゃったんです。もう、とっても熱かったんです!」
とんでもない出来事も、新田が言うとあまり真剣味がなく、みな苦笑いしている。
「しかし今の世界を動かしてるのって、あの宗教みたいなのだよね。クラムっての?」
佐久間の言葉に伊藤が続く。
「そうみたいですね、クロスオブライツ・ムーブメント、通称クラムって呼ばれてて、これまでの既存の宗教もそのクラムの考え方を取り入れてて」
佐久間も続く。
「そうなんだよね。とにかくこの3日間を平和に、みんなが平等に過ごすことが全てで何より価値のあることだって。だからそれを支えてくれる労働者が最も優れた人であって、みんなが感謝しなくちゃならないって、でも犯罪者は」
「そう、犯罪者は即死刑とか4日目は存在しないから考えちゃ駄目とか、ちょっと過激で、怖い」
伊藤の言葉を受けて、新田が話し出した。
「私なんて立ち入り禁止の港でシーバス釣ってたら、いきなり後ろから海に突き落とされたんです。その人無表情で、“ここは立ち入り禁止だクラムの裁きを与える”って、溺れそうな私に棒読みイントネーションで言うんです。もう怖くて。ライジャケ着ててよかった~」
新田の話には、やはりみな微妙な表情だ。しかしクラムが世界中に強い影響力を持っているのは事実だし、その発端が日本で起こった殺人事件で、だから人を殺す行為が認められているということもよく知られている。確かに怖いし、不気味だった。
「みんな、なんだかすごいことになってたんだ、私、ずっと落ちてるだけだったから」
久高が申し訳なさそうにつぶやく。
「おいおい久高、何言ってんだ?それも十分大変じゃないか。それにな、これからお前は3日ごとに助けられるんだからな?次もちゃんと俺を向いて落ちろよ?」
俺の言葉に、久高の顔がパッと赤くなる。怒ったのか?
時間はもう、朝6時になろうとしていた。
「そうだ久高」
「なんですか?」
俺は大事なことを思い出した。もうすぐ起こることを久高に教えておかなければ。
「そろそろな、お前の両親が来るんだよ。お前を引き取りにな」
「え?」
「時間が戻った瞬間にお前は落ちるから、もうみんなが分かってて、救急車も警察も来ないんだ。もちろん遺体を放置なんてしないんだけど、それでお前の両親が、娘は私たちが連れて帰る、って、いつも泣きながらな。で、お前の家は青梅市だろ?車で来るんだよ。で、到着するのがそろそろってことだ。でな?」
俺は少し間を置いた。
「今日、今回、お前は遺体じゃない」
「っ!!」
久高は息をのんで目を見開いた。その瞳はすでに潤んでいる。
「とうさん、かあさん」
久高がそうつぶやいたとき、廊下が騒がしいことに気がついた。誰かが大声で争っているようだ。
「おまえか、おまえらかっ!娘をどこにやった?これまでずっといたんだ!ずっとだ!おまえらはまだ娘と、麻理子と俺たちを苦しめるのか!!」
男性の叫び声と同時に女性の鳴き声も聞こえる。
久高麻理子の両親だった。
ふたりの声に気付いた久高は弾かれるように立ち上がり、廊下に飛び出していった。そして、俺たちも後を追って走り出す。
廊下の先には、ビルの警備員ともみ合う夫婦の姿があった。
「とうさん!!かあさん!!」
久高が叫んだ。
不意に娘の声を聞いた久高の父は、警備員の腕を掴んだまま久高の顔を凝視している。久高の母は両手で口を押さえ、何かを必死に堪えている。
「ま、り、まりこか?なんで?どうしてそこにいる?」
久高の父はまるで見てはいけないものを見たかのように目をしばたかせていたが、ようやく娘が生きている現実を理解したのか、久高に向かって2、3歩歩み寄り、立ち止まった。
「麻理子おまえ、生きてるのか?生きてるんだな?」
その両目にはみるみる涙が溢れ、頬を伝っていた。
久高の母はその言葉に反応するように、娘に向かって走り寄っていた。
「まりちゃん、まりちゃんなのね!あぁ、神様!!」
久高の父も娘の元に駆け寄った。
久高麻理子は父母の懐に抱かれていた。その目にもやはり涙が溢れ、頬を濡らしていた。
俺たちは、長い長い時を超えて再会した親子を遠巻きに見ながら、感慨にふけっていた。
「俺たちは、やったな」
伊藤と新田は泣いている。ふと見ると、佐久間も男泣きに泣いていた。
「俺たちは、やった」
自然と大きな声が出た。誇らしかった。
その声が聞こえたのか、久高の父親が顔を上げ、俺たちを見た。
「あ、あなた方は?」
その問いには、久高が応えた。
「お父さん、この人たちは私の同僚なの。私を助けてくれたのは、この人たちよ」
「なんて?どうやってな?」
久高の父の口から、俺の耳に馴染みのある訛りが聞こえる。
「それはね、お父さん、あの人に直接聞いた方がいいわ」
久高はそう言うと、俺の方を向き直った。
「喜屋武さん、父の長政です。こちらは母の昌子。どうやったのか、教えていただけますか?」
「はっさ!きゃん!?喜屋武てな?」
久高の父がさも驚いたという声を上げた。
「あんたは、うちなーんちゅね?どこのシマね?」
「あ~、はい、イチマンですけど、イチマンのキャン」
沖縄では、生まれた土地や住んでいる場所のことを“シマ”という。俺の生まれは沖縄本島南部の糸満市喜屋武地区、名字も喜屋武だが生まれも喜屋武だ。
「はぁ、イトマンチュね、こっちはタマグスクよ」
訛り全開の父親と俺に、久高が顔を赤くして叫んだ。
「なんねふたりとも、はじかさ~だよ!もう!」
しかし、そう言う久高も訛り全開だ。
「ははは!久高、お前も訛ってるぞ!それも思いっきりな!!」
娘を指差しながら大笑いする俺を見て、久高の父は何かを決めたように立ち上がり、居住まいを正して言った。
「いや、失礼しました。喜屋武さん、麻理子の父の長政です。さ、昌子もご挨拶しなさい」
長政に促され、昌子も涙を拭いながら立ち上がって頭を下げた。
「喜屋武さん、それから皆さん、本当に、本当にありがとうございました。麻理子が生きているなんて、こんな奇跡があるなんて、ほんとに、ほんと・・」
昌子はまた涙を流して言葉に詰まっている。
その後、久高チームの面々が自己紹介し、それぞれが久高麻理子救出でどんな役割を担ったかを両親に話した。
「で、ですね!やっぱりこの作戦において一番の功労者は、ランディングネットを持っていたこの私、釣りガール新田里央ではないかと!」
「いやいやいや!この俊足と怪力!ラガーマン佐久間真一ではないかと思いますよ!?おとうさん!おかあさん!!」
「私は!私はなんだか影が薄かったようなんですけど、でもでも!思いっきり引っ張りました!佐久間君のお尻、思いっきりです!佐久間君のお尻担当、伊藤彩です!!」
自分たちがどうやって久高を助けたか、最後の方はみんな変なテンションになっていたが、それが長政と昌子の笑顔を誘って、いい感じだ。
「みんなありがと、でもね、私は覚えてるの。一番最初に私に気がついてくれた人の顔、そして、一番最初に窓ガラスを破ろうとしてくれた人の顔」
久高は笑顔で俺の顔を見上げている。
「喜屋武さん、ありがとう」
「おいおい、誰か一人でもいなかったら無理だったかもよ?なぁ、みんな」
俺は少し照れくさくて、皆の顔を見渡した。
「はぁ、まぁそれはそうですけど、あの正拳突きを見せられなかったら、久高チーフを助けられるかも~なんて、思いませんでしたよ」
佐久間が言う。
「ほんと、あのときの喜屋武さん、堅い!割れん!!って、でも、あれが始まりね」
伊藤も佐久間に同調する。
新田もニヤニヤしながらうなずく。
「あのとき、折れてましたよね、手の骨」
「おまえ新田!余計なこと言うな!!」
俺の耳が熱くなっている。まったく恥ずかしい。
そんな俺たちを見ながら、長政が笑顔で話し掛けてきた。
「喜屋武さん、いや、尚巴くん。よく分かりました。麻理子は本当にいい同僚に恵まれていたようだ。上司のあいつ以外」
そして、意を決したように言葉を続けた。
「尚巴くん、君は、独身だろうか?」
あまりに意外な問いに、俺はどう答えるか一瞬考えてしまったが、ここは嘘をつく必要もない。
「あ、はい、独身ですけど」
「そうね!?麻理子お前、尚巴くんと結婚せんか?尚巴くん、どうね!?昌子は、いいな!」
「えぇえぇ、この方なら私はもうなにも」
昌子もうれしそうに笑顔でうなずいている。
「はぁ?」
「は?」
俺と久高、二人同時に声を上げた。
「いやいやいや、それはいくらなんでも急な、いや、急なと言うか、ち、ちゃんと順序みたいな、なんかがあるんじゃないかと」
俺の口からは、まったく意味不明な言い訳しか出てこない。
「それは普通はそうさ、でもさ、お前たちはもう、運命さ!!」
長政は一歩も譲らず、運命などという、普段は滅多に聞かない単語まで持ち出して俺に迫る。
「で、麻理子、お前はどうね?」
「そうですよ、久高の気持ちが一番大事!そりゃ~久高だって、なぁ」
そう言って俺は久高の顔を見た。
久高は、久高麻理子は赤い顔をして微笑んでいる。こ、これは?
「麻理子はいいみたいよ?どうね、尚巴くん!うちの娘、もらわんね!!」
「っく、くぅ~~~」
そこに伊藤が割って入った。
「いいんじゃないですかぁ?お似合いですよぉ~?」
変な抑揚だ。それに、ニヤニヤすんな。
「運命と言えば運命。これから3日ごとに助け、助けられるふたり、そして深まる愛、ス・テ・キ」
新田、ステキという言葉はお前には似合わん。
「喜屋武さん!断る理由ってあります?ずっと前から彼女いねぇ彼女欲しいって言ってたじゃないですか」
佐久間、余計なことを。
「それに喜屋武さん、こんな世界ですよ?喜屋武さんと久高チーフ、ふたりを見守る3日間、俺たちにくださいよ」
「佐久間君、いいこと言う~、ホントそうですよ喜屋武さん、久高チーフ!」
伊藤の言葉に佐久間がこれ以上ない笑顔を返す。
「おとうさん、おかあさん、もう一押しです!ホシはもうすぐ落ちます!頑張って!!」
なに訳の分かんないことを、新田!!
「新田さんありがとう!さぁ~尚巴くん、もう決断しようね!」
あぁ、どうすればいい?俺に断る理由はない。でも久高は、そうだ、久高はホントはどうなんだ?
「く、久高、お前はいいのか?黙って微笑んでるだけじゃ分からんぞ?」
「あら喜屋武先輩、後輩に判断を委ねるなんて先輩らしくもない。そういうの、先輩としてどうかと思いますよ?お手本を見せていただきたいですわ」
久高は頬を赤らめながら、精一杯の虚勢を張っているようだ。
「あぁ、そうだな、俺、おまえの先輩だもんな」
もう、覚悟しよう。うん、覚悟した!
「久高麻理子、俺はお前の夫になる覚悟をした。お前は俺の嫁になる覚悟、あるか?」
「もちろん!」
即答だ。長政と昌子が、抱き合って喜んでいる。
「はっさよ!娘が帰ってきたと思ったら、すぐに婿ができたさ!!今日の午後便で、沖縄に飛ぼうね!みんなも来てね!絶対よ?!」
「え!僕たちも、ですか?」
佐久間が慌てて口を挟んだが、長政は全員の顔を見回して言い切った。
「当たり前さ!!なんで娘の命の恩人たちを結婚式に呼ばんわけ?今日は忙しくなるさ~ね!!」
佐久間も伊藤も新田も顔を見合わせていたが、心は決まったようだ。
「はい!では喜んで!!」
長政と昌子は満面の笑み。
これまで何百回、娘との辛い時間を過ごした父母の喜びは想像に難くない。皆それが分かっている。もちろん俺も。
なんということか。久高麻理子を助けたその日、俺たち久高チームは沖縄に飛ぶ。俺と麻理子の結婚式だ。
俺の両親にも言わなくちゃ、嫁が来るぞって。
長い長い3日間は、まだ始まったばかり。そしてまだまだ終わらない。
あっぎじゃびよ~!
■浜比嘉青雲
5月28日、朝3時20分過ぎ、いつもの時間に目が覚める。
顔も洗わず、すぐにPCを起動する。そして前回の計算結果、分析結果をデータベースに入力していく。
3日間のループ。この現象の謎を解き明かそうとする研究ユニットを集めた世界的コミュニティがある。理論物理学者、浜比嘉青雲はそのメンバーだった。
今、データベースに入力しているのは、青雲の頭の中に写真のように保存された前回の計算、分析結果だ。
世界中から続々とデータが入力され、空っぽだったデータベースはあっという間に復旧していく。それでも次の計算が可能になるのに、あと数時間は掛かるだろう。
「俺のような特殊な人間も、世界にはごまんといるわけさ」
青雲は誰に言うでもなくつぶやいた。
「でもまぁ、瞬間記憶と同時に理論物理学界のエースっていえば、俺くらいだけどよ」
青雲はいつものように自分を鼓舞した。もちろん自分が理論物理学のエースとか、権威などとは思っていない。しかし、何百回と繰り返すこの作業の中で、自分のモチベーションを保つのは並大抵ではなかった。
「どれどれ、竹山さんや藤間君、もうPCの前かな?それともタブレット持って朝飯かな?」
青雲が全てのデータを入力し終えたのは、朝7時過ぎだった。
「よし、オンライン会議の通知を出すか」
青雲がメンバーに通知を出そうとしたその時、廊下を走って来る足音が聞こえた。ドタドタと慌てている様子に、青雲は驚いてドアに顔を向けた。
「榛名か、こんな早く、まだ朝飯を持ってくる時間じゃないぞ?」
青雲たち研究チームは、3日間ほとんど寝ることもなく計算、分析している。だから青雲の妻、榛名は毎度この部屋に食事を持ってきて、済めば下げるという3日間を過ごす。もちろんそういう時間以外は自由だから榛名自身も納得しているし、なにより誰にも出来ないような仕事をする夫のことを尊敬していた。
その榛名がこの時間に来るのは、この現象が始まってすぐの頃、数回だけだった。
-珍しいな、最初の頃はあのことがあったから、榛名を慰めるので精一杯だったが。
青雲がそう思った時、ノックもなしにドアが開いた。
「青雲さん!」
開いたと同時に榛名が叫んだ。榛名は夫のことを名前で呼んでいる。
「大変よ青雲さん!生きてる、生きてるのよ!!」
「な、なんねいきなり、生きてるって、なんね?」
「まりこ!まりこが生きてるの!!」
「ま?」
青雲は榛名の言うことが聞き取れず、返事は間が抜けていた。
「ま・り・こ!!」
榛名はその名前をひと文字づつ区切って青雲に伝える。
「まりこって、麻理子ちゃんか?」
「そう!麻理子がね、麻理子が生きてるのよ!!」
「はっ?だって麻理子ちゃんはビルから」
「だから助かったんだって!麻理子ちゃんの同僚の人たちが助けてくれたんだって!!」
「はっさ!どうやってな?麻理子ちゃんは時間が戻る瞬間に飛んでたろ?どうすればそんなことになる?」
「わたしも分からない、詳しく聞いてないのよ、まだ。でもね、でも、生きてるんだって!」
誰しもが無理だと思った運命の改変。それが可能になるとしたら、ほんの少しの可能性を積み重ねていった結果だろう。そうすれば不可能も可能になるのか。素晴らしいことだ。青雲は科学者らしい想像を頭に巡らせ、榛名に向き直った。
「それはすごいことだ。この何百回のループで麻理子ちゃんは必ず死んでいた。でもそれは、変えることができる可能性を含んだものだったんだな」
「もう、なに学者みたいな事を言ってるの?」
「いやオレ学者」
「そんなことよりね!」
話を聞かない榛名に少々呆れながら、青雲は話を聞くことにした。
「そんなことより?」
「麻理子ね、結婚するんだって!!」
「は?け、けっこんて?」
「そうよ、けっこん!!」
「なんかそれは!いきなり助かった麻理子ちゃんが、いきなり結婚ね?誰とね?」
「うん、なんかね、助けてくれた同僚のひとりなんだって、その人が沖縄出身で、すぐに話が決まって、今日結婚式ってよ?」
「うりひゃー!なんかそれは!したらオレ、今日は休まんといけんさ!」
「そんなこと当たり前でしょ?かわいい姪っ子の結婚式よ?」
「はっさ、そうだね!すぐにユニットに通知入れる!!今回は計算せんよって!」
「お願いね、今日の午後には到着するって、で、夜には結婚式、玉城でやりたいって!それで長政にぃにぃからさ、あなたに段取りお願いしたいってよ?」
「あいた!長政にぃにぃからな?じゃあすぐに式場手配せんと!それにここは恩納村だからな、すぐに準備せんと、俺らが間に合わんさ!」
「私も!すぐに着物準備しなくっちゃ!あなたもちゃんとした格好してよ?礼服出しておくから!麻理子の結婚式、夢にまで見た結婚式っ!!」
榛名はもう天にも昇る心地だ。
久高麻理子の父親、長政は榛名の兄だった。つまり、麻理子は榛名の姪にあたる。そして子供のいない浜比嘉夫妻にとって、麻理子は実の娘のようにかわいい存在だった。
その麻理子は、この3日間が始まる瞬間その命を落とす。どうにもならないと思った。そしてもう何百回、それは決まったことだと諦めていた。それが覆る。
青雲は早速研究ユニットのオンライン会議に通知を入れた。
リーダーの竹山教授を始め、メンバーから祝福の通知が入った。もっとも、全員のメッセージの最後には、同じような言葉が並んでいたが。
「3日後に計算結果を覚えてくださいね、ちゃんとですよ!」
「もうそろそろ終わりだからって油断しないで!覚えてもらわないと困ります」
「計算結果忘れるくらい呑んじゃ駄目ですよ?大詰めなんだから!」
-はいはい、分かりましたよ~
姪っ子の結婚を邪魔されたくはなかったが、膨大な計算結果を頭に詰め込め込むまでが自分の仕事だと、青雲はよく分かっていた。
パタリとPCを閉じたその顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
・
・
5月28日、午後3時、那覇空港到着ロビーに麻理子とその家族、そして尚巴たちの姿があった。午前中のうちに各自準備を済ませ、昼過ぎの沖縄便に飛び乗ったのだ。
「すごいなぁ、飛行機代って、ただなのね!普通なら何十万円もかかるのに!!」
麻理子が驚きの声を上げた。
「そうなんですよ~、でも飛行機代だけじゃないですよ?もうお金は意味がないんです。み~んなただなんです。だって、いくらお金を稼いでも時間が戻ればおんなじですもん」
そう話す伊藤に新田が続く。
「久高チーフ、例えばですね、チーフがアマゾンの奥地にがんばって釣りに行くとしますよ?アマゾンではでっかいピラルクを釣っちゃいました。じゃ、チーフはどうやって帰ってきます?」
「え?ピラルクってなに?それにアマゾンってどうやって行くのかも分かんないけど、日本に帰るのは飛行機じゃないの?」
「ブッブー!正解は、時間が戻れば元の場所!!ってことです。あと、ピラルクは世界最大の淡水魚です。3mになります」
新田は伊藤や麻理子より年上だが、精神年齢は10代のようだ。
「だから旅行が趣味の人なんか最高なんですよ?3日間の間ならどこに行ってもいいんです!飛行機もただ!ホテルもただ!帰りは時間が戻るのを待つだけ!!」
「そんな、じゃあパイロットさんとかCAさんとか、ホテルの人たちはどうなんです?お給料もないんでしょ?」
そこに佐久間が割り込んだ。
「久高チーフ、つまり、仕事をしたい人はしていいんすよ。で、遊びたい人は遊べばいい。だから、仕事をしてくれてる人って、この世界では一番尊い人たちって賞賛されるんす。それが生きがいって言うか、お金じゃないっていうか」
「うん、佐久間の言うとおり、この世界の価値観っていうのは、自分がこうありたいって思えばそうしていい、ってことなんですよ」
佐久間の言葉を継いだ尚巴に、長政が言う。
「なんね尚巴!嫁に向かってなんで敬語ね!麻理子もなんか言いなさい!」
「そうね、尚巴さん、私に敬語は必要ありませんから。それとみんな?私もう久高麻理子じゃないわよ?喜屋武麻理子なの」
「あ!いや、そうか、そうだよな!ま・まりこ」
「はい!」
尚巴と麻理子を中心に笑顔が広がった。そのとき、ロビーに一際大きな声が響く。
「しょうは!尚巴!!こっちこっち!」
「お!おとう!おかあ!!」
喜屋武尚巴の両親がそこにいた。
「お義父さん、お義母さん、これが俺の両親、清作と愛子です」
尚巴は長政と昌子に両親を紹介すると、麻理子の手を握って自分の横に立たせた。
「おとう、おかあ、これが俺の嫁、麻理子。そしてこちらがそのご両親、長政さんと昌子さん」
尚巴の両親と麻理子の両親はお互いの手を握り合った。
「まさかやぁ、尚巴はこんなで東京に行って、時間もこんなだし、もう嫁は諦めてたんですけどねぇ、こんな綺麗な娘さんをねぇ」
「いやいやこちらこそ、麻理子の件はご存じでしょう。私たちこそ、まさか娘が生きているなんて、それにこんな立派な婿ができるなんて、もうこれは、運命さぁね!」
放っておけばいくらでも話し込みそうな父二人を、愛子が止めた。
「あい!おとう!!駐車場はただじゃないよ!マイクロバスなんだからさ!高いよ!」
「おぉそうね?じゃあ皆さん、式場まで行きますよ!!」
清作が皆を先導する。スキップでも踏みそうな父に、尚巴が声を掛けた。
「おとう、式場って、もう決まってるの?どこな?」
「麻理子ちゃんの叔父さん、青雲さんが全部手配してくれてるさ!麻理子ちゃんの生まり島、玉城の百之伽藍よ!」
皆を乗せたマイクロバスは、国道331号を南下する。
駐車場代は、もちろん無料だった。
・
・
5月28日、午後6時、6月を控えた沖縄の夕暮れは遅い。日の入りは午後7時過ぎ。うっすらと赤みを増していく空を受けて、麻理子の白いウェディングドレスも薄い朱に染まっていた。
麻理子の右手には尚巴が寄り添い、海をバックにふたりは佇む。
リゾートホテル・百之伽藍の専属カメラマンとコーディネーターがふたりに声を掛ける。
「麻理子さん、こちらを向いて、少し太陽がまぶしいですけど。尚巴さん、麻理子さんの手をとって、麻理子さんの横顔を見つめる感じで・・・そうそう!いいですねぇ!」
そう言っている間にもシャッター音は鳴り続け、ふたりのベストショットを探っていく。
コーディネーターは感慨深げに二人を見つめる。
百之伽藍でのウェディングは久しぶりだった。この現象が始まって最初の頃は結婚式を挙げるカップルもいたが、最近はない。だからこそか、百之伽藍のスタッフにも力が入っている。
披露宴のオファーが入ったのは今日の昼前だ。そこで聞いたふたりの馴れ初めは驚愕だった。この現象が始まって今日の朝まで、新婦はビルから落ち続けていた。それを新郎が助けたのだという。
“このウェディングには全力を注ぐ!いいかね、最高のサービスを!百之伽藍の誇りに掛けて!このウェディングを記憶に残すんだ!”
ホテルの総支配人はそう言った。もちろん無料だ。どうせあと二日ちょっと過ぎれば全てが元通りになるのだから。しかし、元通りにならないものもある。コーディネーターは言葉に力を込めた。
「また時間が戻ったとしても、おふたりのこの時間、この記憶は永遠です。どうぞ最高の笑顔を私どもにも分けていただきたい。あなた方を永遠に忘れないように」
最初はぎこちなかった尚巴と麻理子も、衣装合わせから撮影に至るわずかな間にすっかり打ち解けていた。寄り添うふたりの姿は、夕焼けのビーチによく映えた。
百之伽藍に着いたのは午後4時過ぎだが、おおまかな段取りは全て麻理子の叔父の青雲とその妻の榛名が整えていた。だからマイクロバスを降りてすぐ、新郎新婦は別室に通され、衣装合わせからビーチでのウェディングフォトに臨んでいる。
ふたり以外の親族一同は結婚式会場にいて、すでに親族紹介を終えている。ふたりが戻ればすぐに結婚式、そして披露宴となる。
披露宴会場には急遽連絡を受けた新郎新婦の友人らが沖縄中から集まり、さながら巨大な同窓会か合コンの様相だった。
沖縄の披露宴では開会前から乾杯が始まるのが普通だが、この披露宴は彼らにとっても特別だった。特に麻理子の同級生や友人たちは、この知らせに驚き、そして喜んだ。
そんな中に、麻理子のチームメンバーは座っていた。
「ねぇ、もうみんなビールとか飲んでるけど、いいのかなぁ。ほら、あっちでも、こっちでも」
伊藤は辺りを見回しながら佐久間に話し掛けた。
「ん?うん、なんかね、沖縄ではそうなんだって。ほら、ギャルソンがビールを持って回ってるし、あ、こっちに来た」
伊藤たちのテーブルにギャルソンが近づいてくる。トレイには数本のビールが立っていた。
「お飲み物はいかがなさいますか?ビール以外でもお好みのものをどうぞ」
「えっと、じゃ、ビールを」
「あ、ワインってありますか?」
佐久間を制して新田が割り込んだ。
「えぇございます。ではまずビールを、ワインは少々お待ちくださいませ」
「あ、おつまみとかはないんですか?」
新田には遠慮という概念がない。
「はい、通常ですとお飲み物だけなんですが、チーズの盛り合わせくらいなら可能でございます」
「あ、あと、今日の披露宴のお料理って、どんな」
新田の質問は続く。しかしこれは皆気になっていたところだった。
「えぇ、本日は急に入った披露宴なので、通常の披露宴メニューはございません。ですが本日、シェフ一同張り切っておりまして、厨房の食材全てを最良の料理法で最高の一皿に仕上げる、と申しておりました。ですから私も何が出るのか全く把握していないのです。とにかく、楽しみになさってください」
新田の口元が緩む。いや、全員の口元が緩んでいた。
・
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5月28日、午後7時半、披露宴会場。
「この良き日にお集まりの皆様、わたくし、本日の披露宴の司会を務めさせていただきます、久高まりんと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
会場に拍手が巻き起こった。久高まりんは沖縄で知らない人はいない有名タレントだった。拍手と指笛の中、久高まりんは新郎新婦の結婚を報告する。
「まず、喜屋武尚巴さまと久高麻理子さまのご結婚が滞りなく済みましたことを、皆様にご報告いたします。お気づきでしょう、新婦のお名前はわたくしと、とてもよく似ておりました。それが今は喜屋武麻理子さま。未だ独身のわたくしの少し残念な気持ち、お分かりでしょうか?」
会場は更に大きな歓声に包まれる。
「皆様ご承知のとおり、この世界は3日間を繰り返しています。わたくしも、ほんの先ほどこのお話をいただきました。ですからこの披露宴も、もうぶっつけ本番打ち合わせなし!私の司会もどんどんエスカレートするからさ!みんな付いてきてね!!」
テレビやラジオで見聞きする久高まりんそのままの声と笑顔。更に大きくなる歓声。
「では!新郎新婦のご入場です!!」
会場の照明が落とされ、レーザー光線が飛び交う中、中央の扉が開き、尚巴と麻理子が入場してきた。少し緊張の面持ちのふたりだが、盛り上がる会場の雰囲気にすっかり安心したように笑みを浮かべ、深々とお辞儀して会場を進む。
「さぁ!披露宴を開会します!!乾杯の音頭も友人挨拶も余興もなにもかも決まっていません!乾杯の音頭!やりたいひとー!!」
久高まりんの呼び掛けに応え、10数名が手を上げた。
「じゃ!新郎新婦が席に付くまでに、じゃんけん大会!始め!!」
お祭り騒ぎの披露宴が、始まった。
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5月28日、午後10時、披露宴はまだ終わりが見えなかった。
百之伽藍のプライドを掛けた披露宴。料理はすべてシェフ一同の手になるもので、出来上がった順にテーブルに並ぶ。熱いものは熱く、冷たいものは冷たいまま。テーブルごとに料理の種類が違うため、各テーブルでシェアが始まり、それが親交を深め、更に盛り上がりを呼ぶ。
「すごい、すごい披露宴だね」
佐久間は隣に座る伊藤に声を掛けた。
「ホント、沖縄の披露宴はすごいって聞いたことあるけど、これはもっとすごいのよね、きっと」
「そうだよね、みんな今日この話を聞いて集まってる人ばっかりだから、親族はもちろんだけど、友達の盛り上がりがすごいよね」
「やっぱり、チーフが生きてるって事が大きいのよね」
「うん、だってそうだよね。死んだと思って諦めてた友達が、今ウェディングドレスを着て笑ってる。これで盛り上がらない訳がないよな」
そう話す佐久間の耳元に、グラスを持った手が突き出された。
「えっと、麻理子の同僚の方たちですよね!麻理子の友人の宇那志由美っていいます」
「え?うなし、さん?」
「はい!うなしゆみです、ゆーみーって呼んでください!」
「え、えっと、ゆーみー?」
「はい!佐久間さん、ですね!麻理子を助けていただいて、ありがとうございます!!」
名前はテーブルのカードを見たのだろう。それぞれが自分で書いたカードだ。
由美の声に釣られたのか、麻理子の友人と尚巴の友人も集まってきた。手に手にビールとグラスを持っている。
「ゆーみー!なんね?尚巴と麻理子さんの同僚ね?尚巴がお世話になってます!!えっと、佐久間さん、伊藤さん?それに新田さん?」
尚巴と麻理子の友人たちはすでに打ち解け、まるで同級生の雰囲気だ。その輪に佐久間たち3人も取り込まれ、佐久間は麻理子の友人たち女性陣が繰り出すお酌攻撃に少々酔ってしまっていた。
ふと横を見ると、伊藤も新田も尚巴の友人たちに囲まれて、やはり少々酔っている。ふたりとも尚巴の昔話で盛り上がる男性陣に囲まれてまんざらでもなさそうだ。
「ちょっと、すみません」
佐久間は女性陣に断りを入れてすっと立ち上がり、伊藤の横に立つと肩に手を置いた。
伊藤は少し驚いた表情で佐久間の顔を見上げる。
「尚巴さんの友人の皆さん、伊藤って、かわいいでしょ?」
佐久間は意を決した。
「ぼく!伊藤が好きです!ずっと前から好きだったんです!!」
尚巴の友人たちは少しぽかんとしていたが、ひとりが我に返ったように叫んだ。
「いいね、佐久間さん、男だね!めでたい!お祝いしよう!!」
他の友人たちも続く。
「はっさみよー!伊藤さん気に入ったのにさ!でも!おめでとう!!」
「しにくやしい!もう佐久間さん、飲ます!!」
そんな声を聞いている伊藤の瞳はまん丸だ。
「伊藤彩さん、乾杯、してくれる?」
伊藤は一度だけうなずいて、グラスを手に取った。
この3日間の最初の日、もうひとつのカップルが生まれた。
その後、新田がモテにモテたのは言うまでもない。
・
・
「さぁ皆さん!私はこんなに盛り上がる披露宴は初めてよ!でもさ、やっぱり絶対必要なお約束って、あるよね~?」
久高まりんが披露宴会場を煽る。
「それは、なにかな~?」
会場から裸踊りやらカチャーシーやら賑やかしの余興の声が上がる。
「ちっがうさ!それもうやったし!カチャーシーは最後だし!新婦友人代表挨拶も泣けたでしょ?新郎友人代表はいまいちだったけどさ!」
久高まりんの司会は容赦ない。
「披露宴のお約束、それは、新婦の手紙です!!」
即座に声が上がる。
「新郎の手紙わや!」
「新郎はね、最後の挨拶よ!」
新郎新婦の両親が壇上に上がり、尚巴と麻理子がその前に進む。もちろん、その手には何も持っていない。
麻理子が両親に語り掛けた。子供の頃のこと、公務員の父の転勤であちこち行ったけど、それは楽しい思い出であること、空手に出会って良かったという思い、そして、この3日間の繰り返しで数え切れない悲しみを与えてしまったこと。
「お父さん、お母さん、また明後日に私はビルから飛び降りてるの。でもね、私の旦那様が助けてくれるのよ?これからずっと。だからね、私は今、幸せを感じてるの。本当にごめんなさい。そして、ありがとう。大好きなお父さん、お母さん」
長政は天井の照明を見上げ、麻理子の顔を見ることができない。昌子はただ涙が流れるまま、ハンカチを鼻に当て、何度も何度もうなずいている。
久高まりんはその様子をしっかりと確かめ、声を上げた。
「感動をありがとう!麻理子!では続いて、新郎の挨拶です!」
尚巴も涙をこらえていたが、久高まりんの言葉に押され、胸を張って客席に向かった。
「列席していただいた皆様、ありがとうございます。来てくれたみんな、ありがとう。麻理子の話で十分だから、俺は長くは話しません。とにかく、おとう、おかあ、これが俺の嫁、尊敬できる人柄で頭がいい、空手をやってるから夫婦喧嘩はちょっとこわい、そして明後日すぎたら、また天から降ってくる。でも、お義父さん、お義母さん、心配はいりません。俺が、俺の嫁を助けます。これからもずっと、ずっと。なぁ!みんなっ!!」
尚巴が拳を天に突き上げる。
「おぉー!!」
「は、はい!!」
「ほぇ、ほいっ!!」
佐久間と伊藤、そして新田も、その拳を天に突き上げた。
満場の拍手が、尚巴と麻理子と、麻理子のチームを包んだ。
久高まりんが声を上げる。
「尚巴ありがとう!それでは皆様!カチャーシーカチャーシー、カチャーシー!!」
披露宴会場に唐船どーいが高らかに流れ、誰もが踊り、そして酔いしれた。喜屋武尚巴と麻理子の、長い長い1日が終わろうとしていた。
・
・
5月29日、午前0時半。
披露宴を終え、尚巴と麻理子、そしてふたりの親族は控え室に集まっていた。佐久間たち3人は、当然のように新郎新婦の友人たちの二次会に拉致されていた。3人とも午前の便で東京に帰るというが、この調子では午後便になるだろう。
尚巴と麻理子はもう一泊することになっている。先祖への報告、つまり墓参りや親族一同での会食が予定されていたからだ。
「ふぅ、尚巴くん、麻理子ちゃん、お疲れ様」
ふたりに声を掛けてきたのは、浜比嘉青雲だった。
「叔父さん、今日は本当にありがとう、叔父さんが全部やってくれたんでしょ?」
「あぁ、いいんだよそんなこと、いや、むしろやんなきゃな、叔父さん榛名に殺されちゃうよ」
青雲は肩をすくめて妻の榛名の姿を探した。運良くそばにはいないようだ。
「しかし尚巴くんの挨拶には恐れ入った。これからずっと、ずっと助けるって、なんとも頼もしい婿さんだ。いや、もっと早くふたりはこうなるべきだったな!」
今度は尚巴が肩をすくめる番だった。
「いやぁ、浜比嘉さん、麻理子はホントに出来る別格の幹部候補だったんで、俺みたいな落ちこぼれが話し掛けることも難しいっていうか」
「何言ってるの?尚巴さん、私はずっと前から尚巴さんのことが気になってました!」
「ホントか?全然分からなかったぞ?そうか、東大卒の麻理子が琉大卒の俺のことをなぁ」
「えぇ、だって私の直近の上司じゃない、一応」
「一応?なんかそれ!琉大を舐めてもらっちゃ困るぞ?」
「琉大の壁なんか、私は舐めたことありません」
「物理的にじゃないわ!!」
アルコールが残る二人の他愛ない会話を微笑みながら見ていた青雲だったが、思いついたように話し出した。
「そうだ、二人とも、これからずっと続く3日間の話なんだけどな、それはもう、どうしようもないって思ってるだろ?」
尚巴と麻理子は揃って青雲の顔を見る。
「浜比嘉さん、もちろん二人とも4日目があればって思ってます。でもそれはやっぱり、なぁ?」
「えぇ、叔父さん、私は明日の夜中にまた時間が戻って空中にいるのよ?どうしようもないって思ってるわ。こうして助けてもらって結婚までできた。それで十分だと思わなくちゃならないのに、もし4日目があるならって、そしたらふたりの子供もって、思っちゃう」
青雲は深くうなずいた。
「そうだろう、僕たち夫婦には子供が出来なかったけど、やはり欲しかった。だから麻理子ちゃんは僕たちの子供みたいに思えるんだよ」
青雲はふたりを見つめながら話を続ける。
「だからね、二人には教えておくよ。叔父さんの仕事は知っているかな?」
「理論物理学者、現代物理学会のエース、だった?」
「ははは、エースは冗談だが、叔父さんは物理学者で、この3日間の現象を研究しているんだ。それでな、実はユニットのひとりが画期的な理論を思いついてな、この3日間のループを破れるかもしれないんだよ」
青雲の言葉に、ふたりは息を呑んだ。
「この事はまだ絶対に公表できない。分かるだろ?世界はもう、この3日間の中だけで動いている。利害関係だって生まれてる。あの宗教みたいなヤツとかな」
「クロスオブライツ・ムーブメント、クラムですね」
「そう、だから二人とも、この事は絶対に漏らしちゃ駄目だ。でもな、これを二人に教えるって事は、尚巴くん、麻理子の救出を失敗しないで欲しい、ってことなんだよ。つまりな、この実験をする事を世界に公表するタイミングが、その3日間の初日に戻った瞬間だって事なんだ。でないと実験が成功して4日目に行けたとき、3日間のうちに色んなとこに行ってしまった人や、何かの理由で死んでしまった人がそのままになるだろ?同じ事でな?もし時間が戻った瞬間に落ちる麻理子ちゃんの救出に失敗していたら?」
尚巴と麻理子は顔を見合わせた。
「そうか、新田なんかアマゾンに行ったって言ってたからな。時間が戻らなきゃ新田はアマゾンに行きっぱなしになる。もし麻理子の救出に失敗したループが最後の3日間なら、もう麻理子を助けるチャンスは、ない」
尚巴は緊張に震えた。
「なによ尚巴さん、そんな顔して。私を助ける自信がないの?」
「いや」
尚巴の腹は据わった。
「必ず助けるさ。でももし、もしも一瞬遅れてやばいってときは」
「やばいってときは?」
「俺も飛んで麻理子を捕まえる。そして麻理子だけは助けるよ。俺が下になればいい」
麻理子は青ざめた。
「駄目!!そんなことは!」
「ならないさ、絶対。その覚悟が出来たってだけだ」
麻理子は何も言わず、尚巴の胸に顔をうずめて、泣いた。
尚巴は青雲を向いて言った。
「浜比嘉さん、俺たちにこのことを教えてくれるって事は、研究はもう完成してるってことですか?」
青雲は少し俯いたが、尚巴の目をまっすぐ見直した。
「ああ!3日間をあと何回かできっとな!びっくりするぞ?」
その言葉に、尚巴は力強くうなずいた。
・
・
5月30日の夜、時間が戻る直前。
尚巴と麻理子、そして佐久間、伊藤、新田の5人と、彼らの行動に感化された数名が会社のフロアに集まっていた。メインで動くのは久高チームの4名、他はトラブルに備えてサポートしてくれる。麻理子を捕まえた尚巴と佐久間を支えるのに、伊藤と新田だけでは力不足だったから、ありがたい申し出だった。
尚巴が皆に声を掛けた。
「みんな、集まってくれてありがとう。時間が戻ったらどうせみんなここにいるんだけど、やっぱりあらかじめここで構えていた方がいいと思うんだ。イメージがしやすいしな。それに麻理子も」
「はい、私はここに立つわ」
麻理子は自分が通り過ぎる窓際に立った。あとわずかで麻理子は掻き消え、この窓の外を落ちていくのだ。
「みんな、いいな!あと5秒!!」
そして時間が戻る瞬間、麻理子が叫んだ。
「助けて!あなた!」
麻理子の姿が消えた。
「戻った!!」
佐久間が叫んだ。同時に尚巴が窓に突進する。
「助ける!おまえ!」
尚巴が叫んだ。
今回も、久高チームは麻理子を助け出した。人数が増えた分、窓ガラスを割って麻理子を捕まえてしまえば、引き上げるのも容易だった。
「はぁ、はぁ」
麻理子は青白い顔をしていたが、少し微笑んでいた。
「ぷぷぷっ!!」
突然、新田が吹き出した。
「喜屋武さんったら、助けるおまえー!だって!!」
暗かったフロアに、明るい笑い声が響いた。
■藤間綾子
5月28日、午前7時、藤間のマンション。
「今日は学会だったわ」
藤間はいつもより少し早くベッドを降り、その代わり、いつもよりゆっくりと朝食を摂っていた。
そうだ、5月28日、この日は学会だったんだ。
この日まで、宇宙論、相対性理論、量子論など世界中の理論物理学者は、急激に発達する観測技術がもたらした観測結果と自身が考案した新理論を検証し、更に発展させてきた。
時間と空間の関係を宇宙の暗闇から引きずり出したのは、天才アルバート・アインシュタインだ。その理論は、宇宙のすべてを美しく記述するものと思われた。しかし、同時期に提唱された量子論は相対性理論に対し、ミクロの世界の難問を突き付ける。
相対性理論では超ミクロの世界で物理法則が破綻することを説明できない。それはすなわち、相対性理論ではこの宇宙の成り立ちを説明できない、ということなのだ。
だからもう何十年も、理論物理学者はこの二つを統合し、この宇宙をミクロの成り立ちからマクロの最後まで完全に記述できる理論の解明に取り組んでいる。
でも、もういいの。
最初の5月28日、あの日の学会はつまらなかった。日本国内の学会だったし、顕著な発見はもちろん、斬新なアイディアも提唱されない。でも、そんなことはもういいのよ。
どうせ今日も“あの日”なんだから。
私たちは、すでに何百回もあの日から始まる3日間を繰り返している。そしてこれから何十万、何百万、何千万回繰り返すのか分からない。分からないから私たち理論物理学者は、その秘密を解き明かさなければならない。でなければ、私たちの存在意義などないのだから。
今日、5月28日の午前3時22分42秒がスタートだ。そしてそれから約3日後、正確には68時間37分17秒後、5月30日の午後23時59分59秒に時間はスタートに戻る。
どちらの時間も1秒以下の数十桁まで正確に分かっている。いつも同じ。
5月31日は、来ない。
最初の3日間はみな普通の生活を送った。次の3日間はみな夢を見たんだと思った。それはそうだ、まさかすでに時空の狭間に囚われているなど、誰も考えはしないわ。
でも、最初の3日で悲惨な最後を遂げた人々は違った。殺される苦しさを、凌辱の瞬間を、すべて覚えているのだ。そして時が戻る。
世界中で復讐劇が繰り広げられた。時が戻った瞬間、その人たちは自分を殺した者の元に走った。殺される前に殺せ、だ。
そして次の3日間、世界は混乱を極めた。時が戻るたびに殺した相手を殺し、次は自分が殺され、また相手を殺す。地獄のような死の3日間が永遠に続くと思われたわ。
でも、その地獄は意外な結末を迎える。
3回目の5月29日、世界に幾人かいる独裁者のひとりが核戦争の口火を切り、世界を破滅させたのだ。地球を核の炎が覆った瞬間を、全地球人が見たわ。そして次に、国家規模で復讐劇が起こった。撃たれる前に撃て、個人の復讐劇と同じ。
しかし、それもすべてが無駄なことだと、何回目かの世界滅亡の後、ようやく人類は気づいた。そんなこと、意味がないのだ。世界の超大国どうしが核を撃ち合おうと、どこかの国が自制し、どこかの国が世界を征服しようと、すべてが元に戻る。
殺し合いは無意味。この3日間の幸せこそ全て。
世界中の人々にそれを気づかせたのが、クロスライトという子供だった。
彼は言った。
「世界の人々が平等に、助けよう、泣く子がいないように。この3日間を幸せに過ごそう。それこそが全て、4日目は、ない」
これが世界の合言葉になった。
『Closs of Lights Movement』通称クラムの誕生だ。
今では時間が戻った瞬間に、飢餓や紛争地帯に食料と医療が送られる。世界中で泣いていた子供たちに笑顔が戻った。
戦争をするものは、もはやいない。貨幣はその価値を失い、全世界の人々が、この3日間を幸せに過ごすことだけを考えた。
そして世界は、この3日間の幸せを支えるために働いてくれている人たちを称賛した。働いて役に立つこと、それが幸せだと考える人も多かったし、世界中のクラムがその人たちを支援していることも大きな要因だった。
でも私たちは、そんな宗教めいた活動とは無縁だった。私たちは自身の存在を賭けて、この現象の秘密を解き明かさなければ。
「さぁ、そろそろだわ」
そうつぶやいた藤間の前で、タブレットが通知音を鳴らす。オンライン会議の知らせだ。
藤間は慣れた手つきで会議に参加した。
「藤間君、今日は遅いじゃないか、東大は今日休みだったか?」
この冗談は前にも聞いたことがある。京大の竹山教授だ。
竹山明、日本の理論物理学をリードする人物。年齢的にも人間的にも、私たちのリーダーと呼べる人だ。
この会議には、世界中の理論物理学者や数学者、天文学者が参加している。世界各国でユニットが組まれ、それぞれがこの現象について仮説を立て、推論し、計算している。そしてそれを検証するユニット、記憶するユニット、3日間の始まりにその成果が全てのユニットに提示され、また同じ作業を進めていく。
果てしない作業だし、報われることはないのかもしれない。それでも私たちを突き動かすのは、科学者としての信念だけ。私たちには国も人種も性別も、年齢すら関係ない。ただ真実を追い求めるだけなんだ。
『Belief of Scientists Community』
その言葉の意味は、科学者たちの信念、略称BSC。
それが私たちの名前だ。
「おせぇなぁ。もう世界中から前回の計算結果が届いてるぞ?俺もとっくに送信済みだけどよ」
沖縄科技大の浜比嘉教授も声を掛けてきた。陽気な人だ。話していると楽しくなる。
この現象が始まって世界が混乱から立ち直った後、BSCは自然に発生した。その仕組みもそれぞれの得意分野で整理統合され、強力な頭脳集団として機能している。特に重要なのは、一般的にサヴァン症候群と呼ばれる症状を持つメンバーたち。流れる風景や床に散らばるヘアピンの数などを写真のように瞬間記憶できる。このメンバーたちが我々の導き出す数式を記憶し、時間が戻れば瞬時に再現してくれる。恐ろしく優秀なメモリー。
この能力者がいなければ我々の活動は成り立たない。そして、我々のユニットにもその能力を持つ人物がいる。
浜比嘉青雲教授だ。
「ふたりとも、まいったなぁ、これでも今日は少し早く起きてたんですよ?まぁ、朝ご飯はゆっくり食べてましたけど」
私は起き抜けで寝癖の髪を手ぐしで解きながら応えた。これから3日間、ほとんど休憩なしで計算の日々なんだ。身なりにはあんまり興味がない私だけど、本当はシャワーも浴びたかったな。
「おいおい、世界中の頭脳が結集しないと、この問題は解けないんだぞ?大体3日間計算しても、その結果をデータとして残せないんだから、我々の頭脳ひとつひとつがCPUで、メモリーなんだ。それに世界中の計算結果が同じになるとも限らんのだ。だから計算結果の正当性も検証しなきゃならん。そこで選ばれた結果が次の3日間に引き継がれるんだから、君の頭ひとつだって、自分のもんだと思うなよ?」
「はいはい、ご説ごもっともです。ただね竹山教授、その話、もう百回目くらいですよ?」
そしてこんなやり取りも百回目か。私は少し笑顔になっていた。
そこに浜比嘉教授が割って入った。
「そうだな、これから何千回あんたらのやり取りを聞くかと思うとたまらんから、ちょっとこれまでのことを整理しないか?」
いい提案だった。今この瞬間も、世界中で次の3日間への計算が進んでいる。このユニットでも、現時点で10名以上が計算している。
私たち3人が抜けても、後で彼らの計算を確認して参加しても遅くないし、それよりこの現象とこれまでの計算結果を検証して整理してみるのも悪くないわ。
「そうですね浜比嘉さん、竹山教授もどうですか?」
「む、う~ん、頭みっつ分か、真面目に計算してる誰かから文句が出そうだが、まぁいい!で、どう整理する?」
とりあえず私が先陣を切った。
「まず、このタイムリープが起こるのがこれから約3日後で、その時間は小数点数十桁までいつも正確で、戻ってくる時間も同様だということですね。それで私たちはこの3日間に“何が起こっているのか”、あるいは、“何が起こり得るのか”を考えて計算をしています」
「そうだな、何が起こり得るのか。宇宙規模で考えれば、巨大なエネルギー現象の類い、超新星爆発やガンマ線バースターの誕生、超巨大ブラックホールの衝突、くらいかな」
浜比嘉教授だ。
竹山教授が応える。
「はっきり言って、我々の太陽系ではこの3日間、何も起こらない。天文物理学者のユニットが詳細に調べてるからな。3日間で調べられる限界は太陽系の周辺までだし、遠くの星や銀河を見たって無意味だからな。でもまぁ、宇宙全体の規模なら当然起こってるだろう。それも間違いなく。そもそも我々が観測できる宇宙の範囲は限られているから、その外で超巨大エネルギー現象が起こっている可能性は、そりゃ100%だろう」
私も竹山教授に同意する。
「地球の3日間という時間は、宇宙規模で考えれば一瞬にも満たない、誤差のようなものでしょうね。1日の絶対時間が地球よりずっと長い惑星なんて、それこそ数え切れないほどあるでしょうからなおさら。では、その一瞬にも満たない時間に宇宙のどこかで起きた超巨大エネルギー現象がこのタイムリープ現象を引き起こした、というストーリーがやはり一番強いでしょうか?」
「いや藤間君、巨大エネルギー現象が起こった確率はまず100%だが、それが時間の巻き戻しを起こした原因というのは早計だね。そんな現象は宇宙規模なら常に起こっているし、そもそも我々がタイムリープするのに必要なエネルギー量はとっくに計算済みで、そしてどの計算結果も、これまで知られている現象ではエネルギーが足りないことを示している」
「つまりこのタイムリープが実際に起こったということは、これまで知られていないエネルギー現象が発生した、ということになりますね?」
「そう、だから今、そのようなエネルギー現象とはどのようなものかを世界中の学者が計算中、ということだね」
そこに浜比嘉教授が入る。
「しかし竹山さん、その方向性の計算では、もしそんな現象を理論的に説明できたとしても、“理論的には解明できましたが、もうどうにもなりません”と世界に宣言するようなもんですよね」
「その通り、宇宙全体を記述できる計算式を完成させ、この現象を理解したとして、人類の知性はそこで終わりだ。そこから後はない」
「もちろん分かってはいるんですが、結局どうにもならないことを今やることに意味があるのか、そんな疑問も生まれてきますよ」
「そうだな浜比嘉君、謎を解き明かしたとしてもどうにもならない。でも、その答えを突き詰めるのが我々物理学者だろ?」
「あーくそ!どうにもならんのかなぁ!タイムスリップでもタイムリープでもいいけどさ、4日目に行きたいもんだなぁ!」
浜比嘉教授が苛ついているのはすぐ分かった。そもそも“理論的に整理”と言い出したところでこの結末は分かっていたんだ。私と竹山教授は、浜比嘉教授に付き合った、というところか。でも今の浜比嘉教授の発言には、どこか引っ掛かるものを感じる。
-なんだろう?この違和感。
-タイプスリップ?タイムリープ?
-私たちはどこからどこにスリップとかリープしてるの?
-だとしたら、おかしいわ。
しばし考えて、閃いた。
「浜比嘉さん今、タイムスリップとかタイムリープって言いましたよね!」
「あぁ、言ったな、藤間君だって言ってたじゃないか、さっき」
「そう、私も言いました。でもよく映画とかで出てくるタイムスリップとかタイムリープって、局所的な現象ですよね。自分だけがリープしてて次の日に行けない、とか、自分だけが時間軸をスリップしてどこかの時間軸に出現する、とか」
「藤間君、今更なんだ?実際に我々がタイムリープしてるっていう現象に基づいてこれまで計算してきたんじゃないか」
「はい竹山教授、そのとおりです。私たちは私たちだけがタイムリープする現象を計算してきましたが、その前提自体が間違いなんじゃないかと。例えば映画やアニメのストーリーでは、主人公や一部の人しか記憶を維持してないんじゃないですか?」
「うん、そうだな、確かにそうだ。こないだ見たアニメもそうだった」
浜比嘉教授の口からアニメという単語が出てちょっと驚いた。浜比嘉さんもアニメ見るんだな。私も好きだ。こないだ見たタイムリープものって言うことは、あれかしら?いや、今はそんなことどうでもいい。
「あ、はい、そうですね。でもこの現象って違いますよね、私には記憶が残ってます。前の3日間の、それどころかこれまですべての3日間の記憶が。そして皆さんも、というか、世界中の人たちの記憶が残っている。だからこの3日間計算して、それを覚えて、次の3日間に計算結果を繋いでいる。でも時間が戻っているというならば、本来すべての記憶もリセットされていて、時間が戻ったことにすら気づかないはずです。ということは、私たちの記憶や意識を基準にすると時間は戻ってるんじゃなくて、流れてるってことじゃないですか?それは物理学的に考えられる本来のタイムリープではなく、つまり」
「過去へのタイムトラベルか!!」
私の話を遮って竹山教授が叫んだ。思わぬ大声に、教授自身が目を丸くしている。
「そうです!過去へのタイムトラベル!私たちはこれまで、局所的に時間が少し戻ってしまう現象を計算していましたが、もしかして、宇宙全体が強制的にタイムトラベルをしてしまう、そんな現象を考える必要があるんじゃないでしょうか?例えば・・」
「例えば?」
浜比嘉教授が待ちきれないと急かした。
「宇宙全体がワームホールに呑まれた。そして一瞬の過去に吐き出された。それは宇宙規模なら誤差とも言える一瞬だけど、地球時間ではそれが、約3日間」
私は馬鹿げたアイディアを口にした。
「なるほど、どうせタイムスリップにしろなんにしろ、宇宙全体のエネルギーが必要なんだ。だとしたら局所的な現象じゃなく、宇宙全体がどうにかなってしまう現象を考えた方がいい。そうか、なるほど」
私としては意外だったが、竹山教授が興味を示した。
「いいじゃねぇか、宇宙全体ワームホール!おもしれぇ!!」
浜比嘉教授の口が悪くなった。乗ってきた証拠だ。
「よし、その方向で計算してみよう!この3日間、我々3人のチームでだ。そこで成果があれば、世界に発表する!」
竹山教授が叫んだ。しかし、このユニットに参加しているのは私たち3人だけではないのだ。竹山教授のこの発言が他のメンバーから猛烈なブーイングを受けたのはもちろんである。
やれやれ、竹山教授も“我々3人”なんて言わなければね、あんなに謝らなくてもよかったのに。
結局、私たち3人を中心としてこの仮説をまとめることにユニットのメンバーは合意してくれた。そして私たち以外のメンバーはそれぞれの役割を分担し“その現象”の理論的解明に必要な仮説を立て、必要なエネルギー量を計算し始めた。
その作業はもちろん3日間で終わるはずもなかった。
ともあれ、面白くなってきたわ。
・
・
宇宙全体がワームホールに呑まれる。そして約3日間のタイムトラベル。
このアイディアを元に計算を始めてもう10サイクル。感覚的には約1ヶ月が過ぎた。
私のこのアイディアは新しい理論を求めていた研究者たちにインスピレーションを与えたらしく、1サイクル毎に発表される私たちの報告は世界中の研究者に検証され、認められ、そして新たな研究ユニットを集めていた。
研究は飛躍的に進んだ。もちろん、世界中から集まる理論、計算をまとめ、中心的に活動するのは私たちのユニットだ。
そして私たちはついに、ある結論に辿りついた。“その現象”の正体と、それを回避する方法に関するものだ。
キーワードは“ワームホール”、“3日間”、“その現象に必要なエネルギー量”、そして“トンネル効果”と“量子ゆらぎ”。
しかし難問も残っていた。それは、なぜ意識や記憶だけが継続するのか、という問題だった。
「う~ん、確かに時間は戻っている。物理的な現象は戻った瞬間から3日間、常に何も変わりはない。我々が何をしようと、3日経てば強制的に戻される。物理的に戻るから我々も歳をとらない。死んだものすら生き返る。しかしなぜ、記憶や意識だけは時間的に連続なのか」
竹山教授が唸った。
「脳も物理的な物質だからな。これが3日前に戻るなら意識もすべてリセットされるはずだ。つまり記憶など残らない」
浜比嘉教授も続いた。
意識は脳の電気信号が生み出す産物だ。そして意識の蓄積である記憶は脳の中にある。これは脳の新皮質や旧皮質の研究からも明らかになっている。今考えていることには新皮質が関与し、そして記憶され、旧皮質には生物としての記憶と言える本能が記憶されている。物理的な物質としての脳が3日戻れば、記憶も3日前までのものしかないはずなのだ。だとすれば本来、時間が戻っていることに誰も気づかない。まるで迷っていることすら気づかない特上の迷路で永遠に堂々巡りだ。しかも迷路の出口は、ない。
「あ~分からん!!これがオカルトならアカシックレコードに書き込まれてなんとかかんとかって、説明にもならん説明でいいんだはずよ!」
浜比嘉教授の言葉尻に沖縄の方言が混ざっている。不謹慎だけど、ちょっと面白いわ。
「アカシックレコードなんて、浜比嘉さん、オカルトマニアなんですか?」
私はちょっとおどけて聞いてみた。
「ん?いやいや分からんぞ?この世には、科学で説明できない摩訶不思議な出来事があるぅ~ってな!大体今がそうじゃないか?」
浜比嘉教授は私の質問におどけて答え、がははと笑った。私は浜比嘉教授の豪快な笑い声につられて笑顔になっていた。それに確かにそうだ。今まさに、私たちが直面しているのがその、摩訶不思議な出来事じゃないか。
-こんなとき、この人の言うことは意外と確信を突いているのよね。
そう思ったとき、私の頭の中で再び閃くものがあった。
意識と記憶は時間的に連続している。では、引き継がれる意識と記憶はどこに保存されてるの?アカシックレコードに?物理的には説明できないものに?
昔の哲学者はこう言っている。
“我思う、故に我あり”
自分が意識するからこそ自分がある証明なのだ、ということだ。だから自分が死ねば意識も消滅するというのは哲学的に理解されている概念だ。ところが人類は民族宗教に関係なく、虫の知らせだの死後の世界だの生まれ変わりだの、そしてアカシックレコードだのっていう伝承を持っている。なぜ?
もし意識が脳内ではなく、別の次元との情報のやりとりだったとしたら、どう?
人類の歴史の中、誰かがなにかの理由で別の次元を覗くことがあって、それが伝承や迷信の元だったとしたら?
私たちが解明しつつある“この現象”は紛れもなく物理現象だ。でも同時に全人類が、ううん、全宇宙の知的生命体が直面する、おそらく初めての現象だ。
死んで消滅すると思われていた意識や記憶が、別の次元との情報交換によるものだとしたら、3日間の時間を飛び越えて継承される可能性は、ある?
この世界ではほとんどの人類が死後の世界を経験した。それはただの暗黒だった。だから死後の世界は存在しないと皆が思った。でも、それこそが間違いだとしたら?
-死後の世界は別の次元にある。そしてそこに、全てが保存されているとしたら、意識とは、記憶とは、なに?
「竹山教授、浜比嘉さん、ちょっと聞いてもらえますか?」
「どうした?藤間君」
竹山教授が応える。
「なんだ?またインスピレーションだかアイディアだかが爆発したか?」
浜比嘉教授は興味津々だ。
私は今、宇宙全体ワームホールと同じくらいの馬鹿げたアイディアを、もう一度話そうとしていた。
理論上はこうだ。
私たちはもちろん、この物理世界に存在する全ての物質は、重力に支配されている。重力とは、突き詰めれば質量そのもので、宇宙のエネルギーそのものとも言える。
そしてもうひとつ絶対的なのは、光の速度だ。光には重さ、質量がない。だから宇宙の支配者たる重力の影響を受けない。光速がこの物理世界の最高速である理由だ。
重力そのものの力はとても弱い。重力同様なじみの深い電磁気力とは比べ物にならないくらいに。物理世界を支配する力なのに、なぜそれほど重力は弱いのか?
その理由は、この宇宙がブレーンだという理論で説明できる。宇宙は多次元時空に浮かぶブレーン、つまり薄い膜の集まりだという考えだ。
それぞれのブレーンは次元が違うから物質のやりとりはできない。しかし、重力だけがブレーン間を伝播できる。つまり重力は多次元のブレーンを行き来するから、ひとつのブレーン上では弱い。
ここだ。重力は“多次元宇宙を構成する多次元のブレーンの間を行き来できる”んだ。では、私たちの意識はどうだろう?
脳内に生まれ、蓄積されていると思われている“この意識”は、重力に支配されてる?支配されていないとすれば、宇宙の絶対速度である光と同様ではないか?
では光のような特殊性が、意識にもあるのでは?
私は頭の中でアイディアを整理して、ふたりに話し始めた。
「いいですか?私たちの意識も重力と同様、ブレーンを超えるのではないか?それどころか、私たちの意識が存在するためのブレーンが存在しているのでは?だからこの現象を超えて、私たちの意識は継続している」
「いやそれは・・・」
竹山教授は何か言いかけてやめた。
浜比嘉教授の口はポカンと開いている。
「いや、うん、そうか、否定できない。いやそれどころか理論上可能だ。量子コンピュータの動作理論でも同じような理論が提唱されている」
しばらく間を置いて、竹山教授がこのアイディアを受け入れた。
「がはは!また面白れぇことを!!」
浜比嘉教授はもう完全に同意だ。
「それなら意識連続の謎も解ける!それによ、多次元のブレーンがこのエネルギー現象で衝突してたらどうよ?この次元だけで計算してたエネルギー量の問題も解けるさぁ!!」
浜比嘉教授の口がまた悪くなっていた。方言まで混ざっている。
異なる二人の表情を見ながら、私は苦笑するしかなかった。
・
・
意識連続の謎は、ブレーン宇宙論と重力論の応用で解ける。
最初のアイディア同様、このアイディアも世界中の研究者によって検証され計算されつくした。
“宇宙全体を呑むワームホール”そして“意識と重力とブレーン宇宙の関係”
この二つのインスピレーションは、世界中の頭脳の方向性を変えた。
そして更に多くの3日間の後、世界のユニットの中心で研究を進めた私たちは、ついに誰も考えつかなかった理論に辿りついた。
「いよいよですな、藤間さん」
浜比嘉教授がモニターの中から声を掛けてきた。
「はい、いよいよです。でも、これからですよ?浜比嘉さんの力が本当に発揮されるのは」
「分かってますとも!今日、ようやく我々の研究結果と4日目への希望を世界に表明できる。これで私の姪っ子たちも・・」
浜比嘉教授の声が詰まった。彼の姪は時間が戻った瞬間に亡くなってしまうのだ。絶望的と思われた彼女の運命だが、彼女は同僚に助けられ、そして結婚し、4日目を切望している。そんな話を聞いたのは、何回か前の3日間だった。
“姪が、姪っ子が助かってその、け、結婚するって!もう研究結果もほとんどできてるだろ?だからさ、今回の計算は不参加で!!”
顔を真っ赤にしてそう言う浜比嘉教授の顔、今でも思い出される。
「そう、姪っ子さんたちのためにもあなたの力が、能力が必要なんです。やりましょう!」
「おう!!まかせろ!」
この3日間の初日、私たちBSCは“その現象の正体”を世界に発表する。それにはこの迷路に囚われた理由と、迷路を抜け出す方法も含まれている。
今日は“世界が揺らぐ日”だわ。
・
・
5月28日、午後1時に始まったBSCの会見は、もう4時間を過ぎていた。発表された内容に対して集まった記者たちの理解が追いつかず、質問が多すぎるのだ。
会見は当然世界同時配信、同時通訳だった。
今もアメリカの記者が食い下がっている。
「プロフェッサータケヤマ、もう一度説明して欲しいんです。私にも、いや世界の人たちが分かるように、どうしてこの3日間は繰り返すのか」
もう説明するのも4度目だが、この会見は重要だ。世界中の人たちに理解して欲しい。なにしろこれからの世界がどうなるのか、それを左右する内容だからだ。竹山教授が私に目配せしている。途中で代わってくれと言っているようだ。私は軽くうなずいた。
「では、もう一度説明します。ごくごく簡単に申し上げると、我々の地球ではなく、全宇宙が5月30日23時59分59秒から約3日間の過去へ、タイムトラベルをしているのです」
「そこです。タイムスリップとかタイムリープとか言い方はいろいろあると思うのですが?」
「あえてタイムトラベル、時間旅行という言葉を使っているのは、私たち全員の意識や記憶が時間的に連続しているからです。SFや漫画で描かれるタイムトラベルと違うのは、私たちの体などの物理的な物質が3日前の状態に戻るということ、そして宇宙全体が同じ現象に見舞われている、ということでしょう」
「では、宇宙全体が3日間戻ってしまう、その原理とは」
「そこはこの理論を最初に見い出した、藤間教授にお願いしたい」
私と竹山教授は目を合わせ、お互い軽くうなずいた。
「東京大学の藤間です。竹山教授に代わりまして、ご説明します。この理論は難解で、我々もその構築には多くの時間を使いました。ですから出来る限り簡単に、直感的に分かっていただけるような説明にします」
アメリカ人記者はうなずきながら聞いている。
「まず、宇宙がひとつではない、ということを理解してください。お互いに認知できないけれども、我々の宇宙以外に、違う物理法則に支配された宇宙が他にもある、ということです」
私はひとつひとつの文章を区切りながら、分かりやすく話すよう心がけた。
「そしてこの3日間の現象を起こすためには、我々の宇宙全体のエネルギーだけでは足りない、ということ」
「つまりこの3日間の現象は、他の宇宙との干渉によって生じたエネルギー、これまでの物理学では理解できなかったエネルギーによって起こされた、と結論しています」
「では、なぜ他の宇宙と干渉してしまったのでしょうか?」
アメリカ人記者が質問を挟む。
「それは計算の結果、5月28日の午前3時22分42秒から5月30日の午後23時59分59秒まで、この宇宙で“何も起こらなかったから”となりました」
「何も起こらないのに、なぜこの現象が?」
「もっともな疑問です。しかし、この宇宙で約3日間何も起こらないというのは、本来あり得ない、非常識極まりないことなんです。我々の尺度の3日間というのは宇宙の尺度から見れば一瞬のそのまた一瞬にもならない、誤差に等しい時間です。それでもこの宇宙では、そのわずかな時間の中で超巨大エネルギー現象、例えば超新星爆発、ガンマ線バースター、ブラックホールの衝突などが起こっています。我々の宇宙でこのような現象が3日間全く起こらない確率は、限りなくゼロに近いんです。なにしろ宇宙は“見える宇宙”、つまり我々人類が観測できる限界である138億光年の、その遙か彼方まで広がっていますから。すると超巨大エネルギー現象で解放されるはずだったエネルギーが解放されない、つまり溜まっていく時間ができることになります。また、宇宙はダークエネルギーで膨張していることは知られていますけど、常にどこからか供給されるダークエネルギーも溜まっていくことになります。それが臨界を超えてしまい、他の宇宙との干渉の切っ掛けになった。可能性としては非常に低い現象ですが、この宇宙が生まれた切っ掛けである量子論のトンネル効果で説明できます。
そして臨界を超えたエネルギーを持った我々の宇宙は暴走し、もうひとつの宇宙と干渉する。これも確率は限りなくゼロに近い。それでもトンネル効果はその可能性を排除しません」
「そのトンネル効果では、可能性ゼロということがない?」
「はい、例えばあなた、今椅子に座っていますね。そのあなたが突然椅子をすり抜け、地面をすり抜け、地球の中心に落ちていく。そんなことが起こるとしたら?」
「いやそんなこと、起こるわけがない」
「そうですね、しかし量子論のトンネル効果によるとその可能性がゼロではないのです。起こりえるのです。同じような超低確率な現象がこの宇宙で起こった。その結果生まれたのが」
「宇宙を呑み込むワームホール」
アメリカ人記者が受けた。
「そうです。ふたつの、あるいはそれ以上のブレーン宇宙が干渉し、そのエネルギーによって、これまでの計算では極微の存在でしかなかったワームホールが宇宙を呑み込むほどのマクロサイズになった。そしてそのワームホールの出口が、エネルギーの滞留が始まった5月28日の午前3時22分42秒に繋がった」
「だから毎回同じ時間に戻る、そしてまた何も起こらないから宇宙の衝突が起きてワームホールができて、また同じ時間に、ということですね」
「そのとおりです。この約3日間の間に何も起こらないから、必ずエネルギーが臨界を超える。ということですね」
「だから、我々人類が何らかのエネルギー現象を起こせば、何も起こらない状態ではなくなる、という説明でした」
「そうです。その方法については安全保障上の問題でここでは申し上げられない、ということはご承知ください」
アメリカ人記者はタブレットを操作しながら眉をひそめる。
「しかし、人類ごときが作れるエネルギー現象が全宇宙に影響を与えるとは、とても思えません」
「おっしゃることはよく理解できます。しかし考えてみてください。太平洋にたったコップ1杯の真水を入れたとしても、間違いなく太平洋は薄まるのですよ?これは疑いようのないことです」
「では、世界のどこでそれが実行されるのか、それはいかがです?」
「いや、これについては申し上げられない」
「それはなぜでしょうか」
「それは我々科学者がお答えする範疇にありません。各国政府の然るべき部署にお問い合わせ願いたい」
アメリカ人記者はさすがに折れたが、質問はまだ続いた。
「では最後に、記憶と意識が継続する理論について、私の理解では、私自身が今考えていることというのは、脳内と別の次元が繋がっていて、その次元に保存されるから、ということでよろしいですか?」
「はい、そのとおりです。とても分かりやすく言っていただきました」
「でもそれはとても受け入れられない。それでは原理的に、テレパシーも可能になる」
「テレパシーが可能かどうかは別問題です。しかし、量子コンピュータはご存じでしょう?量子論の“量子の重ね合わせ”と“量子もつれ”という現象を利用していますが、実は超高速並列演算が可能になる理論はまだ確立していないんです。特に“量子もつれ”については光速を超える情報伝達が予想されています。量子コンピュータの超高速並列演算は、これらの現象が関係して別次元で計算されているとすれば説明が付く、という仮説もあるんです」
「つまり、意識や記憶も量子論の作用だと」
「そう考えていただいていいと思います」
アメリカ人記者はようやく納得したようだ。いや、これ以上説明を求めても、これ以上簡単にならない、と思ったのか。どちらにしても、この記者のおかげで会見を見ている世界の人たちも、ある程度理解してくれたのだと思いたい。
「最後に!最後にもうひとつだけ」
これ以上は出てこないけど、もっと理解を深めてくれればそれに越したことはないわ。
「どうぞ」
「この現象を解明するために、あるいはこの現象から抜け出すことができるとすれば、もっとも大事な点は、なんでしょう?」
この質問は意外だった。しかも、とても簡単だ。
「インスピレーションの展開が必要だったのはもちろんですが、それ以上にこの研究を支えてくれた必要不可欠の存在が、メモリーとして機能してくれた人々の存在です」
「それは、どんな?」
「一般的にサヴァン症候群と呼ばれる瞬間記憶の能力を持つ人たちです。この人たちがいなければ研究自体不可能だったでしょう。そして、これからこの現象を終わらせるにも、この人たちの存在は不可欠です」
「ここに、その能力者は」
「はい、そこに、沖縄科学技術大学の浜比嘉教授です」
「浜比嘉です」
沖縄からオンラインで参加している浜比嘉教授が、モニターの中で頭を下げた。
「あなたがこのプロジェクトの最重要人物、ということなのですね?」
「いやいや、学問の劇的な進化っていうのはやはり突き抜けたアイディアがもたらすんですよ。その点私は駄目ですね!がっはっは!!」
-相変わらず豪快な人だ。でもそこが頼もしい。
私は信頼の目線を浜比嘉教授に向けた。
「ではどのような理由で最重要なのでしょうか?」
アメリカ人記者は容赦なく質問を浴びせる。
「あ~それはですね、先ほど藤間教授が言われたように、私には瞬間記憶の能力があるわけです。すると、このプロジェクトの最終段階で、これまでの計算結果や分析結果に基づいた多数のパラメータを装置に・・」
「あっと、浜比嘉教授!もうその辺で」
喋りすぎる浜比嘉教授を竹山教授が止めた。
「おっとっと、ですな!!はい、これ以上は安全保障上の理由とかなんとかってヤツで、申し訳ない!!」
アメリカ人記者も浜比嘉教授のキャラクターには苦笑いの様子だった。
「分かりました。浜比嘉教授、とにかくあなたは最重要だ」
結局、会見は5時間を超えた。
この迷路から脱出する。永遠の迷路を壊す。
その理論を、その方法を、理解できてもできなくても、世界が震えたのは間違いないわ。
気付くと、私の手も震えていた。
■クラムシェル
5月28日、午後6時半。
「ら、ライト様見ましたか!?さっきのBSCって連中の記者会見!!」
黒主家のリビングに小鉢が駆け込んできた。
「小鉢さん、もちろんです。テレビもネットもあの会見を流してました。今も内容を切り取った動画が拡散されてますからね」
来斗は慌てた様子の小鉢を落ち着かせるように、微笑みながら応えた。
「どうなんですかね、あの内容、BSCって科学者の集会?全く理解できませんでしたけど。今日の朝もライト様が世界に向けてお話されたばっかりなのに4日目があるなんて、本当なんですかね。もし4日目があるなんてことになったら、ライト様の教えが正面から否定されちまう」
小鉢の言うとおりだった。来斗はこれまで一貫して3日間を幸せに生きることを説いてきた。4日目はない、諦めるのだと。しかし4日目があるとなれば、人はまた未来を夢見るだろう。他人よりも幸せな未来、自分だけは豊かな未来。貨幣は価値を取り戻し、また人は金のために生きるようになる。世界のどこかで子供が泣こうと、誰かが死のうと無関係。きっとそうなる。
「小鉢さん、今日これから放送、できますか?」
「お!やりますかライト様!もちろんですよ!!じゃ、森田ちゃんにも連絡しますから、準備が出来たらすぐに!じゃあ局まで行きましょう!」
小鉢は待機しているスタッフに声を掛け、車を用意させながらスマホを耳に当てている。
-小鉢さんは森田さんを呼んでいるんだな。
-母さんが慌てて準備してるな。付いてくるつもりだな。
-父さんは、腕組みして何か考えているようだ。
-ADさんが走ってくる。もう車が用意できたのか。
-僕の周りの大人たちが僕を中心に動く、そんな光景が当たり前になってしまった。
-でも、これが大事なわけじゃない。
テレビ局に着くまでの間、世界のクラムがどう動くのか、来斗はそればかりを考えていた。
・
・
5月28日、午後7時59分。
テレビニッポンのスタジオにはMCの森田正和の姿があった。森田は一貫して来斗の番組のMCを担当し、世界で高い評価を得ている。
番組開始まで1分を切るところで、スタジオに小鉢の声が響く。
「森田ちゃん!いつものように頼むよ!さくらちゃん、あと20秒、しほりちゃん翻訳いいね!科学者のみなさ~ん、カメラ見てくださいね~、じゃ!今日も行こうか!」
小鉢のカウントダウン。
5から後はディレクターが指を折る。3本、2本、1本。
「きんきゅーとくばんっ!!4日目はあるのかー!!」
この日の番組はいつもと違い、タレントの他に3名の科学者がコメンテーターとして呼ばれていた。BSCの会見で明かされた繰り返す3日間の原因、そして示された4日目への可能性を検証するためだ。しかしその顔ぶれはもちろん会見のメンバーではなく、BSCにも参加していなかった。いわゆるタレント科学者もいる。
森田のMCで、科学者たちの議論が白熱していた。
「え~鈴木教授、ではこの宇宙がワームホールに呑まれるなんてことは考えられない、と?」
「えぇえぇ、もちろんですよ!ワームホールが時間軸上の2点に繋がれば理論上タイムトラベルは可能、しかしそれには莫大なエネルギーが必要なんです、宇宙全体をすりつぶしても足りない、しかも宇宙全体がタイムトラベル?はっ!馬鹿げてる、不可能不可能!!」
顔を真っ赤にして怒鳴る鈴木教授だが、それに御手洗教授が噛みついた。テレビの科学番組でお馴染みのタレント学者だ。
「では鈴木さんは、この現象がどのような理論で起こっているのか、どうお考えですか?」
「なに?君は失礼だな。人に聞く前に自分の考えはどうなんだ?」
「いや、私もあなたも、あのBSCっていうコミュニティのことは知っていたじゃないですか。でも参加はしていない。というか私たちのレベルでは参加させてもらえないんですよ。あの人たちが、世界のあのレベルの人たちが言うことなら、私は正しいのではないかと思ってますよ?」
「な、なにを言ってるんだ?では君は自分では何も考えずにあの連中の言うことを丸呑みするつもりか?恥を知りなさい!」
「いや私だって科学者の端くれです。あの会見の内容を聞いて納得できるところがあった、ということですよ。これまで私だっていろいろと考えました。しかし、お恥ずかしい話、仮説すら思いつかなかった。だから聞いてるんです。鈴木教授のお考えは?」
「君はとことん失礼な男だな!あんな馬鹿げた理論、私は認めない!」
-ははぁ、こりゃ鈴木さんはだめだ、な~んも出てこねぇ、こっから先は御手洗さんでいくか。それと・・
森田は声が大きいだけの鈴木に見切りを付けた。
「いやいやいや、これは白熱ですねぇ、では御手洗教授はやはり、この宇宙がその、ワームホールに呑まれる説に賛成!ってことですね?では下井教授はいかがです?」
森田はここまで黙って話を聞いているだけの下井に話を振った。今日集めた3名の中では最も優秀だそうだ。
「えぇ、私は御手洗さんと同じ考えです。地球時間で約3日間、全宇宙でなにも起こらないという状況からのエネルギー飽和は全く考えつきませんでしたよ。ただ、超巨大エネルギー現象としてホワイトホールの発生はどうかな?と思っていましたから、なにも考えていなかったわけではないですけどね」
下井は意味ありげに横の鈴木を見る。鈴木は唇を噛み締めて俯くだけだ。
御手洗が続く。
「なるほど!それBSCの理論にも応用できますね!ホワイトホールが出来ていればエネルギーがどこからかこの宇宙に流入する、そして飽和する!」
「ええ、そうかもしれません。でもエネルギー飽和っていうアイディア自体、僕にはなかったなぁ。それにBSCの理論ではホワイトホールも発生していないのが前提ですからね」
御手洗と下井の見解は一致していた。
-なるほど、こりゃ御手洗さんと下井さんだな。
森田の腹は決まった。
「ではでは!次に4日目への可能性はいかがですか?人類がなんらかのエネルギー現象をっていう話でしたが、御手洗さん」
「う~ん、これは難しいですね。人類が作れるエネルギー現象っていうと、高エネルギー加速器を使ってなにかする、っていうことですか」
「なにを言ってるんだ、また馬鹿げた事を!陽子だの電子だのをぶつけるだけの装置で何ができる!4日目なんてないんだよ!!」
いきなり割り込んだ鈴木教授を無視して、森田が話を進める。
「ほう、高エネルギーなんとか?それは今日の会見では出ませんでしたねぇ、下井さんいかがですか?」
下井は御手洗の発言にうなずきながら森田を見る。
「うん、これも御手洗教授のおっしゃるとおりかもしれません。あの会見で藤間教授が“太平洋にコップ1杯の真水”って例を挙げていましたね。全くそのとおりで、太平洋にコップ1杯の真水を入れて、太平洋全体をよくかき混ぜてコップ1杯の海水を汲むと、そのコップの中には先に入れた真水の分子が必ず入るんですよ、必ずです」
さも当然の事と言いたげな下井に対して、森田はまだよく分かっていない表情だ。
「つまり?どういうことでしょ?」
御手洗が話を繋いだ。
「つまり、人類が起こすとても小さなエネルギー現象も、一滴の水の波紋として全宇宙に広がる。それが3日間のループを抜ける決め手になるのか分かりませんが、その影響が皆無であるはずはない、ということです」
下井が更に繋ぐ。
「そのとおりです。そもそも約3日間、全宇宙で巨大なエネルギー現象が起こらないこともゼロに限りなく近い確率です。そこにブレーン宇宙の衝突というのは更に低確率でしょう。どちらもトンネル効果なくしてあり得ない現象です。つまり、そんな低確率の現象なら、ごくわずかな、それこそゼロに近いエネルギーの揺らぎでも、現象の発生を防げる可能性が出てきます。そしてその確率は、おそらく前のふたつが起こる確率よりはるかに高い」
-4日目に行く可能性は、高い?
森田は目を見開いた。
「そ、その確率って、どのくらいなんでしょう?」
思わず声が上ずる。森田の問いには御手洗が答えた。
「う~ん、森田さん、下井教授がおっしゃってたのは、このループを起こした原因が、超が100個ぐらい付くほどの低確率の、しかも二つの現象によるものだとすれば、ということなんですよ。あくまで私のイメージですが、本当に超低確率の二つの現象が原因だとすると、それを阻害する要素がほんの少しでもあるのなら・・」
「あるのなら?」
森田は答えを急いた。
「この3日間のループが止まる可能性は、ほとんど100%ではないかと」
バンッ!!
“100%”、御手洗がそう言った瞬間、テーブルを激しく叩く音が響いた。鈴木だった。
「ふんっ!なにが100%だ。馬鹿馬鹿しい!私は失礼するっ!!」
鈴木は声を荒げて席を立とうとするが、森田は無視した。
「4日目への可能性は100パーセントッ!かもしれないっ!!ではここでテレビの前の皆様、配信でご覧の皆様!お待たせいたしました!ライトクロス様の降臨です!!」
立ち上がっていた鈴木は、ライトクロスと聞いて慌てた様子で席に戻った。スタジオの照明が落ち、登場した来斗をスポットライトが照らす。
ゆっくりと席に着く来斗を鈴木は目で追った。
まず森田が口を開く。
「ライト様、これまでの内容は聞かれたと思いますが、いかがですか?御手洗教授と下井教授は4日目の可能性を100%とおっしゃっていますが?」
来斗は穏やかな口調で話し始めた。
「はい、僕は科学者ではありませんからなんとも言えないのですが、今日の会見と先ほどから先生方が言われていることは、そうであればいいな、という感じでしょうか」
「そうであればいい、とは?」
「はい、僕はこの3日間の繰り返しは永遠に続くのだと思っています。でももし4日目があるとすれば、それはまともな、正常なことなので・・」
「いやいやライト様大丈夫です!100%などと誰も言っておりません!この現象の原因だって、言われているようなものとは限らない。私の考えですが、これは神の、神の御業ではないかと思うのです!!ご安心ください、3日間は永遠です!エ・イ・エ・ンなのです!!」
鈴木が猛烈に口を挟んできた。
「ちょちょっ、鈴木教授、今はライト様がお話し中ですから。見ている人たちが怒りますよ?」
森田がとりなす。来斗は少し苦笑いで続けた。
「そうですね。僕を見てくれている人たちはクラムの皆さんでしょうね。では、クラムの皆さんにお話ししたいと思います。森田さん、よろしいですか?」
森田は無言でうなずく。
「世界のクラムの皆さん、ライトクロスです。いつも世界中の子供たちを救っていただき、ありがとうございます。世界の人たちが皆さんに感謝しています。そんな皆さんに、僕からメッセージを送ります。僕は今日の科学者の皆さんの会見を見て、もし4日目があるなら、そうであった方がいいと思いました。それが自然だからです。でも、こうも考えています。この3日間が終わり4日目を迎えた朝、世界はこれまでどおりだろうか?と」
来斗は一息ついた。そして続ける。
「今、世界は皆さんのおかげで幸せに包まれています。戦争は無くなり、飢える子供もいなくなりました。でも最初は不幸でした。僕と僕の家族は殺し合いを経験しています。皆さんもそうでしょう。それから核戦争。世界中の人々が一握りの独裁者のために一度は死ぬか、瀕死の重傷を負うか、3日間の地獄を経験しましたね?」
「僕は、それこそが人間の本性だと思うんです。もし4日目に行けたとして、そして普通の生活が戻ったとして、世界はどうなるんでしょう?これまでどおりでしょうか?」
「僕は、世界は再び人間のエゴに包まれ、独裁者が生まれ、戦争が始まり、子供たちが飢えて泣く。そんな世界に逆戻りするのでは、と思っているんです」
「世界のクラムの皆さんは、そのときどんな行動を取るんでしょうか?」
「僕は皆さんを人類の希望だと思っています。ですから・・」
来斗がそこまで話したとき、突然鈴木が立ち上がり、マイクを奪った。
「そうだ!我々クラムシェルは4日目を望まない!!ライト様の言うとおりだ、これをもって我々は行動するっ!」
「うおっ!警備員さん!コイツつまみ出して、早くっ!!」
森田が叫ぶ。すぐに警備員ふたりが走ってきた。鈴木はそれに構わず叫び続ける。
「世界のクラムシェル!俺たちは貝殻だ、俺たちがクラムの中で一番硬いんだ!!今日の会見で見たな?浜比嘉だ、あいつが最重要人物だ。あいつがいなければこの実験はできない。いいか?浜比嘉だ、あいつの顔を覚えろ!!沖縄にいるぞ!そして4日目は、無いっ!!」
鈴木は警備員に両腕を掴まれ、スタジオから引きずり出されるまで叫んでいた。来斗は青ざめた表情で立ち尽くしている。
「いやぁ、鈴木教授はクラムのメンバーでしたか。クラムの中には過激な連中もいると聞いたことがありますが、それがクラムシェル?貝殻って言ってましたねぇ。あいつがそうでしたかぁ」
森田は誰にともなくそう言うと、来斗に向かって声を掛けた。
「ライト様、大丈夫ですか?お話はどうしますか?」
“森田ちゃん!ライト様大丈夫?話せそう?CM行くか?”
インカムで小鉢が叫んでいる。焦っているのがよく分かる。
-分かってるって、小鉢、焦んなよって。
「ライト様、クラムのメンバーに言いたいことは、さっきので終わりですか?鈴木教授が叫んでいたことについて、どう思いますか?」
来斗は森田の声にハッとした。
「あ、すいません森田さん。まさかこんな風になるとは思いませんでした。話を続けてもいいですか?」
-さっすがライト様、やっぱただの子供じゃねぇ、すげぇおんもしれぇ。
「もちろんです。ではどうぞ!」
森田に促されると来斗は背筋を伸ばし、カメラを向いた。
「世界のクラムの皆さん、今の人はクラムの極端な人たち、クラムシェルと呼ばれている人でした。でも僕は、あの人が言うような犯罪的行為を認めません。皆さんはすでに知っているでしょう?犯罪者は裁かれるんです。犯罪者のすぐそばにいる皆さんによって、です。それは、この3日間を幸せに生きるために必要なことでした。そんな世界を実現した皆さんを、僕は人類の希望だと思っています。その理由は、もし4日目に進んで未来を生きることになっても、人類の幸せのために生きた皆さんは、もう誰にも戦争を起こさせないだろう、理不尽な貧困を放ってはおかないだろう、病気の子供たちを、お腹を空かせた子供たちを泣き顔のままにしないだろう。そう思うからです。皆さんは、新しい人類の生き方を体現する存在なのです」
来斗は更に力を込めて言った。
「願わくば、クラムシェルと呼ばれている皆さんにも僕の考えを理解して欲しい。僕と一緒に、人類の未来を見つめて欲しい」
ふぅっと息をつく。
「これが僕の、クロスライトから皆さんへの、新たな希望のメッセージです」
来斗は森田の顔を見た。もう終わりです、という意味だ。
“森田ちゃんオッケー!!ライト様ここまで!”
インカムから聞こえる小鉢の声は明るい。
「ライト様ありがとうございます!いやぁ、わたしゃ感動しましたよ!クラムには過激な連中もいる、あいつが、鈴木が言ってたクラムシェルってのがそうなんですね!でもだ、大方のクラムは人類の希望!よっく分かりました」
来斗は微笑みを浮かべると、ぺこりと頭を下げてスタジオを後にした。
「では皆さん、今のライト様のお話について、いかがですか?」
番組はその後、来斗の提示した新しい人類の未来について、そして過激派“クラムシェル”について、科学者とタレントのコメントを織り交ぜながら進行し、大きな盛り上がりの中、終わった。
森田は満足感に包まれていたが、ふと足下に目を落とすとつぶやいた。
「しかしライト様、あのメッセージだけでクラムシェルの連中、過激な連中は納得、するのかねぇ」
森田の胸は不安感にも包まれていた。
・
・
5月29日未明、東京都某所会議室。
コツッコツッと二人分の足音がして、ドアが開いた。
「あ、本間課長、こんな時間においでいただいて、ありがとうございます。さ、どうぞお席へ」
警視庁公安部の遠山部長が席を立って迎えた。会議室には遠山の他、すでに数名が席に着いている。
本間正臣は警察庁キャリア、公には情報整理課という冴えない部署の課長だが、内実は国際テロリストの情報収集と分析を専門とする特殊チームのトップだ。
「いや遠山部長、大丈夫ですよ。この3日間が始まって以来、我々警察は暇になりましたからね、こんな風に呼び出されるのも久しぶりです。あ、いや、5月27日にも呼び出されてたな、なぁ?」
「はい課長、5月27日にも呼び出されていました。日付的には一昨日ですけど、もうずいぶん前に思えますね」
本間と一緒に部屋に入った相沢が応えた。相沢は本間の部下だ。
「ところで遠山部長、今日はあの件ですね?」
本間の口調が変わる。遠山の顔が引き締まる。
「ええ、昨日のBSCなる科学者集団の会見で4日目の可能性が示された件、更にそのメンバーである浜比嘉教授に対するクラムシェルなる集団からの襲撃予告の件です。では、時系列にまとめてありますので、ご覧ください。では君、頼む」
会議室の大型モニターに映像が映し出される。
「本間課長もご存じのとおり、BSCは5サイクル前、つまり約2週間前に政府に対してその研究成果を開示し、日本とアメリカ、EUが共同で運用している超高エネルギーハドロン粒子加速器の使用を申請してきました。この加速器の存在は現在も伏せられている機密度高、極秘の案件です」
「あぁ、それは存じています。すでに官邸筋からブリーフィングを受けていますので」
「はい、課長がご存じなのはもちろん承知しておりますが、この案件にBSCのメンバーの浜比嘉教授が携わっていたことは?」
本間は思わず身を乗り出した。
「あの男が?」
「ええ、浜比嘉教授はBSCに参加して重要な役割を担う一方、この現象が始まる前は極秘の国際プロジェクトであるこの加速器の設計、運用に携わっていました。それと、同じくBSCの竹山、藤間両教授も政府の要請を受けてこのプロジェクトに携わっています。それだけBSCのメンバーが優秀だということでしょう」
「うむ、なるほど繋がりましたよ。昨日の会見、浜比嘉教授はパラメータを装置にとか口走って止められていました。それですね?」
遠山は部下にスライドを進めさせた。そこには世界中から集められた百数十名の科学者や技術者、そして日本人数名、外国人数名の写真、経歴が次々に表示されている。遠山が話を続ける。
「ええ、このプロジェクトにはコンピュータや電気、電子など多分野にわたる多くの科学者や技術者が参加しています。そして日本の理論物理学者でこのプロジェクトに招聘されているのはBSCの3名のみです。他はアメリカ、EUのやはり理論物理学の権威数名が参加しているわけですが、昨年、すでに加速器自体は完成し、試験運用を重ねている段階でした。そこに・・」
「この3日間の繰り返し、ですか」
「そうです。そして4日目に進む実験のためこの装置を使う。その最重要人物が」
「浜比嘉青雲」
「その通りです」
遠山の指示でスライドが進む。そこにはBSCから送られたデータ、そしてこの加速器を用いた実験の詳細が記されている。4日目に進むための実験だ。遠山の説明と共に、大まかな技術的解説は警察の技官が担当していたが、技術的知見のある技官をもってすら、その説明は難解だった。
「これは、私にはとても理解できないが、膨大なデータの入力と、パラメータの設定も必要だということか」
「お分かりいただけましたか。超高エネルギーハドロン粒子加速器の運用には非常に高度な操作と共に、膨大なデータとパラメータの設定が必要なようです。とても普通の人間には覚えられない。天才物理学者と言えど、です。ですが普通であればデータもパラメータもコンピュータに記録しておけばいい」
「しかしそれは、出来ない相談ですね」
「ええ、機械的記録は3日間しか維持できない。しかもこの装置は日本にある。そして日本に瞬間記憶の理論物理学者は、浜比嘉教授以外にいません」
「そうか、それでクラムの過激派、クラムシェルは浜比嘉教授を狙うのか。実験を行う上での最重要人物だから」
「そうです。そしてクラムシェルについては、我々警視庁も全容を把握しきれておりません。先のテレビ番組で暴れた鈴木、あれは確かにクラムシェルと言ってもいいのでしょうが、全くの小物です。これが今現在判明しているメンバーですが、はっきり申し上げて、これ以外のメンバーがどこにどれくらい潜伏しているのか、見当が付きません」
遠山はスライドに映る数名の写真を指しながら説明を続ける。
「そこで、本間課長のチームのお力をお借りしたいと」
本間は両手で膝を“パンッ”と叩くと立ち上がった。
「もちろんですとも!それは我々の本業です。相沢君、すぐ全国に指示。各個機動班を組んで出動命令を出すように。あと、沖縄は単独、九州と中国、近畿のチームは混成で、指揮は近畿にまかせる。情報伝達体制は長官をトップに必要に応じて総理官邸まで、いいな」
「はっ!」
「では遠山部長、今日の朝からクラムシェルの情報が入ってきますから、首都警備はよろしくお願いします」
“即断即決か、さすがに速い”
遠山は本間のスピードに舌を巻いていた。しかし東京の警備で遅れを取るわけにはいかない。
「お任せください。いただいた情報は有効に使わせていただきます。それと・・」
「それと?」
「ご存じのとおり東京にはクラムの教祖的存在、黒主来斗がおります。今回の件で、彼が浜比嘉教授襲撃に加担する、あるいは指示を出すようには見えません。もしクラムシェルと敵対するようなら、彼の警護も必要です。しかしながら、やはりクラムのトップは彼なのです。監視対象であることに変わりはありません」
「なるほど」
「そこで彼、黒主来斗と最初から縁があり、彼を最もよく知る刑事ふたりを付けたいと思うのです。安藤刑事、それと武藤刑事です」
それまで発言していなかった2名が立ち上がる。
「安藤です」
「武藤です」
遠山が続ける。
「この2名には、課長のチームから直接情報をいただきたいのです。2名は黒主来斗と一緒に行動しますから、情報を最も役立ててくれるでしょう」
「ほぉ、黒主来斗と行動を共に、おふたりが。ほぉ」
ふたりを見る本間の目が光った。
「承知した。では安藤さん、武藤さん、相沢課長補佐に今回の任務についてのブリーフィングを受けてください。相沢君、後で私も行く。まずアウトラインだ。頼むぞ」
「はっ!ではおふたりとも、私と一緒に来てください」
ふたりが近づくと、相沢は歩きながら小声で告げた。
「課長も来るそうです。きっと特殊任務ですよ?うらやましい」
安藤と武藤は叩き上げの警察官だった。そのふたりが警察中枢の情報に触れ、世界を揺るがす事案に巻き込まれる。
全ては、黒主来斗から始まっていた。
■ヒムカ計画
超高エネルギーハドロン粒子加速器。それは、1周が数十kmにも及ぶパイプを超低温に冷やし、超伝導状態を作りだしたパイプの中で、光速に限りなく近い速度に加速したハドロン粒子を衝突させる巨大な装置だ。現在、世界最高性能のハドロン粒子加速器は、フランス・スイス国境に建造されているセレンである。1周約30kmのセレンは100m以上の地下に建造され、粒子が衝突して生み出される最大エネルギー量は13兆電子ボルトとされている。
しかし、セレンが世界最高性能とは、すでに表向きだった。
真の世界最高性能ハドロン粒子加速器は、日本にある。
九州、宮崎。その中央に位置する西都市と国富町。神話の里と呼ばれるこの地にほど近い山々の地下に、その加速器は建造されていた。
直径20km、1周60kmを超える巨大加速器は、日本とアメリカ、EUによる国際プロジェクトとして建造、運用されている。しかしこの巨大プロジェクトは、その存在はおろか計画すらも公表されていない、極秘のプロジェクトだった。
極秘の理由、それはセレンが建造された際、怪しい宗教やオカルト団体だけでなく、一部の科学者からも激しい抗議活動が起こったからだ。抗議の内容は、セレンが高エネルギー実験を行う過程で、ブラックホールを誕生させてしまうかも、そして地球はブラックホールに呑み込まれるかも、という疑念だった。
セレンが発生させる最大エネルギー量、13兆電子ボルトならば、確かに極微のブラックホール生成も可能だが、計算上地球を呑み込む事態になることは考えられず、実際そのような結果にはなっていない。だが、日本の加速器の最大エネルギー量はセレンを遙かに上回る。公表すればセレンの時とは比べものにならないほどの反対、抗議活動が起こるのは必至だった。それによって計画を止めるわけにはいかない。
だが、極秘の理由はそれだけではなかった。この加速器による実験の成果は計り知れないものになると予想されている。それこそ世界のエネルギー事情を一変させてしまうほどのものだ。そして日本、アメリカ、EUはその成果を優先的に得ようとした。だから国際的に一番目立たない日本に加速器を建造したのだ。
その超高エネルギーハドロン粒子加速器のプロジェクトは、“ヒムカ”と名付けられた。
ヒムカ、“太陽に向かう地“という意味だ。
5月29日、朝9時。
藤間たちのユニットでは、昨日の会見と夜の番組のことをオンラインで話し合っていた。
「いやまずかった、やはりまずかったよ、浜比嘉君」
竹山が頭を掻きながら左右に振っている。
「多数のパラメータを装置に、って言い掛けたろ?あれでちょっとでも物理に明るい人間なら“ああ、粒子加速器かな”って思ってしまう」
藤間が口を挟む。
「いえ竹山教授、私です。私のミスです。あの記者の質問に、つい浜比嘉教授の名前を出してしまった。あれさえなければ浜比嘉教授が質問を受けることもなかったんですから」
「いやいやおふたりさん、あんまり気にしなさんな!終わったことは仕方ない。時間は戻らないんだから。おっと!時間は戻るんだが記憶があるからまずいのか!がっはっは!!」
狙われている当人、浜比嘉青雲の笑い声に、竹山も藤間も表情を緩める。
「とにかく!あの鈴木ってのが俺の名前を叫んじまったのが悪い!あいつのせいで今も家の周りはお巡りさんだらけよ」
「浜比嘉さん、それはいいことでしょ?」
「そうだぞ浜比嘉君、家にいれば安全、ってことだ」
「でもですよ?俺が家にいるんじゃ実験できないでしょ?装置には俺が直接データやなんかを入れなきゃなんないんだから。それに入力にはかなりの時間が必要だし、その検証も必要なんだから、俺だけでも28日のうちにヒムカに行かなきゃ」
「そうだなぁ、我々や他の職員が入力できればいいんだが、オンラインで君の言うとおり入力するのでは遅いし、間違いも起こるだろうから。入力したデータを送ってもらうにしろ、複雑すぎてどこに設定するのか、直接見てやらないとなぁ」
「えぇ、浜比嘉さんの頭の中にある写真を印刷でも出来ればいいんでしょうけどね」
「お!藤間くん面白いこと言うじゃない!この理論を実用化すると、そういうことも可能だぞ?」
「本当ですね!そう考えると、この理論の展開次第では本当にテレパシーも可能になる」
「それも距離関係なしのな!やっぱこの理論、すげぇなぁ」
「まぁふたりとも、今はそんなこと不可能なんだから、やはり浜比嘉君には来てもらうしかないってことだ。どうだ?浜比嘉君、予行演習ってことで、今日昼からでも集合してみないか?ヒムカの手前、宮崎空港まで。我々も行こうじゃないか、藤間君。そして次の28日の朝、世界に発信する内容を3人で突き合せてみるんだ。いいだろう?」
「うん、いいですね、それ。3人で顔を合わせるのも5月初めの試験運用以来だから、もうずいぶん経ってますもの」
「おお、そうだな!じゃあ今夜は日向灘の海の幸で、一杯!!」
竹山、藤間、浜比嘉の3人は、5月29日の夕方、宮崎空港で落ち合う約束をして、オンライン会議を抜けた。
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・
「マルタイに動き、1号車、2号車はマルタイの前後に配置、目的地は那覇空港」
5月29日、午後2時。浜比嘉の車はその前後を沖縄県警の警護車に挟まれ、那覇空港へと向かった。
「H、家を出発。P2台」
浜比嘉の家は恩納村の国道58号沿いにある。そこはリゾートホテルが建ち並ぶ、沖縄屈指の観光地でもあった。そのホテルの一室から双眼鏡で浜比嘉邸を見張る男がいる。浜比嘉邸に張り付いていたのは警察だけではなかったのだ。
男は無線機に状況を報告し、そして息をついた。
「とりあえず俺の仕事はここまで。次は自動車の連中か」
浜比嘉の車は石川インターで沖縄自動車道に乗り、南下を続ける。相変わらず警護車2台が張り付いているが、浜比嘉の車列を追い越す車両や、浜比嘉の車列に追い越される車両の中にも、浜比嘉を監視する者たちはいた。
「H、沖縄南インターを通過。P変わらず。ナンバー32」
「ナンバー14が追尾する。未着ナンバーはH前後の距離を保て」
一度浜比嘉の車列に接触した車は、二度と近寄ってこなかった。警護車の警察官に気づかれないためだ。クラムシェルの追跡監視部隊だった。
「こちらゼロ、全ナンバーズ、HはAPに向かう模様。ナンバー21とナンバー40がAPまで追尾、AP手前で離脱」
「ナンバー21オーケー」
「ナンバー40オーケー」
「こちらゼロ、AP1からAP10はHの行き先を確認し、同乗しろ」
「APオールオーケー」
沖縄県警本部屋上。
「田尾さん、144メガ帯アンカバー認知状況と記録データを送信します」
「よしチェックした。全国にデータ送信。私のサインで本庁速報作成、送信しろ」
「了解」
警察庁情報整理課、略して情整の要員は、県警本部屋上に陣取ってクラムシェルが連絡用に使う電波を傍受していた。
彼らの任務は、テロリストが活動に使用する電波を探すこと、そしてその活動を事前に察知することにある。その任務の特殊性から要員の練度は高く、通信傍受とその翻訳、分析技術に長けていた。
「しかしまぁクラムシェルの連中って、こいつら一般人なんだろ?ホントにそうなのか?この追尾の連携、手慣れ過ぎじゃないか?」
「確かに田尾さんの言うとおりですね。この通話内容からだと浜比嘉教授の動向は自宅から那覇空港まで完全に把握されています。高度に訓練されたような動き、これ、報告しておいた方がいいんじゃないですか?」
「あぁ、これはコメントに入れといた方がいいな。万にひとつってこともある」
チームの指揮官である田尾主任は早速コメントを作り、本庁に宛てて送信した。内容はこうだ。
・対象の電波は無線機改造によるもの。
・追尾連携に高度なスキルあり。
・那覇空港に対象が潜伏、少なくとも10名。
・浜比嘉教授到着後に同便チケットを入手する者に注意。
・以上から対象は一般人ではないものと推定。対象を構成する組織の候補、国際テロリスト集団、自衛隊、米軍。
田尾主任が送信したコメントは、大きな波紋を呼んでいた。
東京都某所会議室。
「クラムシェルの通信傍受は成功しています。全国各地で捉えていますが、やはり浜比嘉教授のいる沖縄と黒主来斗のいる東京で活動が活発化しています。また、全国のクラムシェルが集結するとの情報も、未確認ですが入っています」
情整、相沢補佐の説明に耳を傾けるのは、警察庁長官、警視総監を始めとする警察トップの幹部たちだった。
「浜比嘉教授にあっては、本日午後の航空機で那覇から宮崎に飛び、BSCの主要メンバーと打ち合わせの模様です。クラムシェルはその動きを追って、ヒムカの場所を特定する可能性があります」
「それはまずいぞ、連中がヒムカの存在に気づけば次の3日間で先手を取られる。なにしろ宮崎にもいるだろ、クラムシェルが」
「そのとおりだ。それとこの報告にあるとおり、クラムシェルは一般人ではないようだ。防衛省上がりか、米軍関係者か、それとも某国工作員か」
「それはある。普通のクラムにもそういう関係者はいるし、警察官でも有り得るからな」
警視庁の遠山が声を上げる。
「お言葉ですが、それを前提とすれば、警備体制の構築が不可能になります。身内を信じなければ隊の結束は保てません。ましてや同じ釜の飯を食った仲間を裏切るとは、到底」
「うむ、そうだな。あくまで普通のクラムの話だ。クラムシェルのことではないよ」
そこで情整の本間課長がまとめに入った。
「では、浜比嘉教授の宮崎行きは沖縄県警に指示を出して空港で押さえましょう。東京の藤間教授、京都の竹山教授も同様に。それと、浜比嘉教授の自宅から那覇空港まででかなりのクラムシェル要員が絞れました。またこの動きと連動する各地の情報も入っています。これらは今後の動向次第で押さえることにしましょう。防衛省などとの情報共有はこちらから繋いでおきます。長官、これでよろしいでしょうか?」
警察庁長官は大きくうなずいた。
5月29日、午後3時、那覇空港。
那覇空港ロビーに着いた浜比嘉は、発券のためカウンターの列に並んでいた。浜比嘉の後ろにもすでに数名が並んでいる。そこに制服警官が近づき、声を掛けてきた。
「浜比嘉教授、申し訳ありませんが、こちらへ」
「お?おまわりさん?なんでしょう」
訝しげな顔をする浜比嘉だったが、言われることには察しが付いていた。
「豊見城警察署のシンガキ巡査部長です。私も詳しいことは聞いていないのですが、教授のご搭乗を止めるように言われています。それと、ご自宅までお送りするように、とも」
「あいた~、やっぱそうですか!もう私の車は帰ってますからね。しかしここに来るのにも県警の方が付いてたんですがねぇ」
「はい、そこは管轄が違いますから何とも言えませんが、上からの指示ですので」
-この人も仕事なんだから、しょうがないか。
そう思った浜比嘉の頭に、竹山と藤間の顔が浮かんだ。
「じゃ、ちょっと待ってくださいよ?合流する予定だった人がいるもんで」
スマホを取り出そうとする浜比嘉だったが、これも警官に止められた。
「あぁ、それも聞いています。そのお二人も教授と同じように止められていますから、連絡しないように、とのことでした」
「むむ、そうでしたか。日本警察は優秀ですなぁ。しかし残念!!今夜は美味い魚と地鶏で美味い焼酎を飲むはずだったんだが、“木挽”とか、知ってます?」
浜比嘉はつい楽しみにしていた酒宴のことを口走ってしまった。
その時、静かに発券の列を離れた女がいたことに、浜比嘉も警官も気付かなかった。
5月29日、夜。
「竹山さん、藤間君、今日は全く残念だった!ホント」
「いやまぁ残念ではあるが、確かに軽率だったよ。私が言い出しっぺだからな、謝らなきゃなぁ」
「竹山教授、私だってホイホイ同調しちゃったんだから、同罪です。すみません」
浜比嘉と竹山、藤間の3人は、次の5月28日に発表する内容をオンラインで突き合せていた。もっとも内容については既に細部まで決まっていたから、簡単な段取りの確認だけなのだが、ついにここまで来たという充足感と、これから起こりうる事の重大性に3人とも緊張していた。だからこそ3人で顔を合わせ、酒でも飲みながら話そう、ということなのだが、浜比嘉が狙われていることや、ヒムカが機密事項であることを考えれば、やはり軽率であったことに間違いはない。
「まぁとにかくだ、次の28日、日本時間の朝5時に発表するんだから、実験は30日に実施するってな。これは全世界同時発表、我々の配信と同時に各国の首脳が発表することになっている。我々の責任は重大だぞ」
そう語る竹山に浜比嘉が応える。
「竹山さん、そう力まなくても大丈夫ですよ。俺たちが伝えるのは30日にやるってことだけ。あとは各国の政府が上手くやりますって!それよりも、実験自体がコケないようにしなくっちゃ」
「そうですよ竹山教授、私たちの本当の役目は無事に実験を終えること。今回この3日間を破れるかどうかは別にして、世界初の試みなんだから、失敗すればまた計算してやり直せばいい。それよりも、世界のどこにあるのかも分からなかったヒムカの場所が知られること。その方が重大かもしれません」
「いや藤間君、ヒムカがどこにあるかは言わなくてもいいんじゃないか?実験には関係ないことだ。粛々と進めればいい」
「そうだよな、竹山さんの言うとおりだ。俺らが警察の保護の元集結しさえすればいいんだ」
「そう、ですね。そうですね!では次の28日朝5時に、浜比嘉さんは起きたらすぐに空港に向かってくださいよ?」
「おう!なにしろチャーター機だからな!俺が来るまで待っててくれるさ!ふたりもな!」
3人は互いにうなずきながらオンライン会議を終了した。
そして日本時間5月30日の夜、次の3日間の初日、日本時間5月28日午前5時に実験の詳細を発表する、というアナウンスが、全世界に向けて流された。
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5月28日、午前4時、ハイアーク&ホテルズ・トーキョー。
警視庁が用意したホテルの会場には、すでにマスコミ各社が詰めかけ、それぞれライブ放送を始めていた。竹山は京都からオンラインで参加し、会場では藤間と東京在住のBSCメンバー、そしてヒムカを主管する文部科学省の官僚が対応することになっていた。
そして5時、予定どおり会見が始まった。
3日間のループを破る理論と実験の概要については、先に行われた会見の内容と大差なかった。そして今、その実験がこの3日間の中で行われることが正式に表明されていた。
「・・ということであります。ですからこの発表の後、日本政府も正式に国民の皆様にお願いいたしますし、世界各国の政府も同様に、各国民の皆様にお願いをいたします。つまり、実験成功の暁には、4日目に国民の皆様が無事に行けますよう、この3日間の活動は慎重にお願いしたい、ということなのであります」
司会も務める文科省の官僚がいかにも官僚らしい堅い言葉で締めた。
即座にマスコミ各社の質問が飛ぶ。
「藤間教授!今の発表では理論的な説明の繰り返しでしたが、具体的にどこで実験を行うのでしょう?また、成功の確率はいかがでしょうか!」
藤間はできる限り丁寧な言葉で応える。
「どこで、どのように、誰が行うのかも含め、私からは発言を控えさせていただきます。できましたら、この後文部科学省のご担当者にご質問いただければと思います。また、成功確率ですが、何パーセントなのか、ということははっきり申し上げることができません」
「テレビニッポンです!先日弊社の番組の中で“成功の確率はほぼ100%では”というような科学者の発言もありましたが、いかがですか!」
モニター上で竹山が応える。
「あれは、ふたつの非常に低確率な現象が重なって起きたことを前提にしています。もちろん私どもの理論もそのように考えておりますし、この実験で生ずるわずかなエネルギー現象がそのどちらかに影響することを期待しています。ただ、100%とはとても言えません。それが現状です」
アメリカ人記者が手を上げた。
「浜比嘉教授は、最重要人物の浜比嘉教授は今どこに?」
これには文科省の官僚が応える。
「それについてはお答えできません。この後も質問はお控えください」
その後、壇上の藤間とモニター上の竹山に対し、マスコミ各社が競って質問を投げ掛けるが、その内容はどれも似たようなものであった。会見を主管する文科省の官僚が締めに掛かる。
「各社の記者の皆さん、この実験が非常に重大な結果をもたらすことはご理解いただけたと思います。故にこれは、国家の安全保障上の問題と捉えていただきたいのです。ですから、この実験をどこで行うのかなど、これ以上のご質問にはお答えできかねます。ひとえに、この3日間を慎重に、取り返しがつかないことにならないようにお過ごしいただきたい。実験が成功すれば時間はもう戻らないのです。それでは、会見を終了させていただきます」
半ば強引な幕引きであった。
記者たちが上げる抗議の声の中、会見は終了した。
「ふぅ、やっぱり楽ではなかったわね」
藤間は会見場を出て廊下を走っていた。羽田では宮崎行きのチャーター機が待っているからだ。
「確かに、我々では竹山さんや藤間さんのようには答えられませんでしたよ」
会見に同席したBSCのメンバーも走っている。彼らを警護するSPたちも同様だ。
「竹山教授も伊丹空港に向かってるわ。とにかく急ぎましょう、ヒムカへ」
BSCは、宮崎に集結する。
決戦の地だ。
■攻防戦
5月28日、午前8時、那覇空港。
浜比嘉は前回と同様、沖縄県警の警護の元、那覇空港に到着していた。前回と違うのは、搭乗券を取る必要がなく、VIP用の通路を使っているということだ。
「うん、これならクラムシェルの連中も手出しできねぇな!安心安心!」
浜比嘉は隣を歩く警官にねぎらいの意味も込めて声を掛けた。
「はい、我々も宮崎空港までご一緒しますし、そこからは宮崎県警が引き継ぎますから、どうぞご安心ください」
「うん!ありがとう!」
浜比嘉の声は明るかった。
5月28日、午前8時、沖縄県警本部屋上。
「おかしい、クラムシェルの連中、まったく動いてない。那覇空港までクラムシェルの追尾ゼロ、空港内の動きも認知ゼロ」
前回クラムシェルが使用した周波数を傍受していた田尾がつぶやく。
「おい青山、他の電波はどうだ?怪しいのはないか?」
田尾が部下の青山に声を掛ける。
「いえ!まったくありません。こないだはかなりの通信量でしたから、あれば逃しませんけど」
「ああ、やっぱりおかしい。ここから考えられる状況は、ふたつか」
青山が先んじて応える。
「ひとつは、クラムシェルが浜比嘉教授襲撃を諦めた」
「ああ、そしてもうひとつ」
「もうひとつは?」
田尾が言葉に力を込める。
「浜比嘉教授がどこに行くか、やつらは既に知っている」
青山が言葉を失う。
「よし!本庁繋げ!今押さえてる全国のクラムシェルの状況を確認する!」
青山の指がコンソールを跳ねた。
午前9時、東京都某所会議室。情整トップ、本間の声が響く。
「情報収集状況まとめ、相沢君!リポート!!」
指示を受けた相沢は即席のプレゼンテーションを展開し、ぶっつけの報告に臨んだ。
「・・以上のように、東京以南でクラムシェル要員の活動が活発化しています。東京は黒主来斗の関連と思われますが、それ以外の地方、名古屋、大阪、福岡など、特に大都市圏のクラムシェルの動きに共通点がみられます」
「共通点とは?」
警察庁長官が先を促す。
「収集した情報を元に洗い出したクラムシェル要員を追尾した結果、主要メンバーが率いる部隊とみられる集団が、南下しております」
「南下?」
「はい、福岡の動きから、目的地は宮崎と推定しています」
「なんだと!」
警視総監が声を上げる。
「教授たちの目的地が、ヒムカの所在地が漏れていると言うのか?」
「はい、沖縄の情報収集部隊からの速報で、浜比嘉教授の追尾がゼロであるとご報告しました。これは、クラムシェルが陸路で宮崎に集結しているからではないかと推定しています」
「沖縄だと空路か海路か、どちらにせよ動いた時点で押さえるのは容易い、沖縄のクラムシェルに宮崎集結は難しいということか。それが分かっているから、動かない」
「そう推定できます」
すかさず本間が具申する。
「東京はまず黒主来斗のマークを厳とし、すぐに九州各県に機動隊出動の通達を!警視庁には精鋭部隊の宮崎投入を具申いたします!長官、総監!!よろしいですね!」
警察庁長官、警視総監、日本警察のトップが揃ってうなずいた。
「相沢君!関係各係に情報共有!あのふたりの刑事にもだ。黒主来斗に張り付いている」
「はっ!直ちに!!」
日本警察とクラムシェル、闘いの第一幕が幕を開けた。
5月28日、午前10時半、宮崎市内。
浜比嘉を乗せた宮崎県警の警護車は、空港を出るとバイパスを経て国道10号線を北上していた。そして警護車の数キロ圏内に、情整の情報収集部隊が展開していた。車両による遊動部隊である。そのうちの1台がクラムシェルの通話を捉えていた。
「有馬さん、これでしょ?沖縄と近い周波数の、このピーク」
「あ~ん?そうだなぁ、やっぱアンカバーか。芸のない連中だわ」
電波のピーク電力が表示されたモニターを眺めながら、有馬が傍受を開始する。
「オッケービンゴ!!沖縄とおんなじ隠語使ってやがる。これに間違いない。山田車に共有!固定部隊に本庁報告依頼出せ」
宮崎県警本部に拠点を構えた情整固定部隊は有馬車の報告を受け、送られた情報を分析する。
「沖縄より通話量が極端に少ないが、Hという隠語が共通している。間違いないな。警護車からの報告では、追尾している不審車両は見当たらないようだ。距離を置いているのか、一端警護車を止めて、通話の変化を見よう」
情整部隊長の木本が県警に指示を伝える。
「警護1了解、最寄り駐車場に入ります」
警護車が休憩を装ってコンビニの駐車場に入り、わずかな時間停車する。
「通話認知!内容“Hストップ”、警護車の停車を伝えている模様。今通り過ぎたヤツがそうだ!」
「警護1了解、容疑車両視認しました。グレーのマツヤマCx3、4名乗車、ナンバー不明」
「有馬車了解、先行山田車、了解か?」
「山田車了解、マツヤマCx3、グレー、後方より接近中。あ、停車しました!ナンバー宮崎500せ****」
-上手くいった、だが沖縄の状況を考えればクラムシェルの追尾が1台とは考えられない。簡単すぎる。
木本の頭に疑念が膨らんだ。
「沿線各員に指示をお願いします!警護車の前後で停車中の車両、私の合図で動き出した車両をマーク!」
木本の指示は県警が配置した覆面パトカーと沿線に配置された警護要員に伝えられた。
山田車から報告が入る。
「Cx3の通話認知!内容は“ウェイト”のみ」
-やはりか。よし!
「警護車、移動開始!警護要員は私の合図を待て!」
山田車の報告。
「通話認知、内容!“Hムーブ”のみ!」
「今だ!動き出した車両をマーク!」
木本の作戦によって、新たに5台の不審車両があぶり出された。マツヤマCx3を含め6台である。木本は宮崎県警警備部長に、クラムシェルの制圧を申し出た。
「部長、警護車は西都市に向かっていますが、このまま追尾させるわけにはいきません。最終目的地を知られるからです。それに、この6台のクラムシェルがどこで仕掛けてくるか分かりませんし、追尾の他に襲撃部隊の存在も考えなければ。それと、宮崎に向かっているクラムシェルも、各県警機動隊に宮崎入りを阻止するよう指示をお願いします」
「分かった。すぐ各県警に連絡しよう。それと、この6台の制圧地点は、国道10号から分岐する、ここだ」
制圧地点は、北上する国道10号と西都市に向かう国道219号との分岐点の手前に決まった。あらかじめ近辺に配置されていた宮崎県警機動隊が向かい、対象車両を待ち受ける。
そこに、マツヤマCx3が近づいてきた。
道路を封鎖する機動隊車両に気付いたのか、Cx3はスピードを落とす。
有馬車から緊急情報の報告が入った。
「通話認知!緊急緊急!!対象は銃火器所持、戦闘を開始する模様!!」
木本が叫ぶ。
「情報共有!対象は銃火器所持、銃撃戦に備え!!」
情報は瞬時に警護車と機動隊に伝わる。機動隊隊長は銃器の使用を許可、機動隊員は盾を構え、腰を落として身構えた。Cx3がスピードを上げる。助手席から自動小銃が突き出され、隊員に向かって乱射してきた。正面から突破する考えだ。隊員たちも銃撃で応戦するが、突っ込んでくる車には敵わない。
「前列待避!装甲車両前へ!!」
隊長が叫ぶと同時に前列隊員が退き、装甲車がCx3の行く手に立ち塞がった。状況を理解したのか、Cx3はドリフト音を轟かせながら装甲車に平行して止まり、車を後続する警護車に向けた。警護車に突っ込む意図が見て取れた。
「各員発砲を許可!警護車に向かわせるな!!」
機動隊員の銃撃でCx3の後部ガラスは割れ、そこから自動小銃の乱射が始まった。
山田車が更に情報を捉えた。即座に報告が入る。
「通話認知!Cx3とは別の車と推定!全車で警護車を包囲、銃撃する模様!!」
警護車に、Cx3含め6台のクラムシェルが迫っている。
「装甲車2台回頭!警護車に向かえ!!」
-だめだ、間に合わん!!
隊長がそう思った瞬間だった。頭上に轟音を響かせて、自衛隊輸送ヘリが現れた。
「あれは、新田原基地からか、自衛隊、来てくれたのか」
輸送ヘリは轟音と爆風でクラムシェルを威嚇し、更にヘリの開口部から射撃している。
「総員!ヘリの着陸を援護、一斉射撃!!」
輸送ヘリからの射撃と機動隊の一斉射撃でクラムシェルの6台はそれ以上警護車に近づくことが出来ない。その隙に輸送ヘリはクラムシェルと警護車の近傍に着陸した。
輸送ヘリの胴体が開き、そこから走り出してきた部隊は即座に精確な射撃でクラムシェルの車両を撃ち抜く。その制服は警視庁精鋭部隊、SATだ。上空からの射撃もSATによるものだった。
自衛隊は日本を守る最後の砦と言える。しかしその備えは常に災害と外国の脅威に対するもので、国内の治安維持は警察の仕事だった。だからこそ、クラムの過激派案件にも自衛隊は関与できない。しかし、警察官の輸送だけならば可能。
防衛省トップの決断だった。
クラムシェルの車両からも銃撃が続く。SATに劣らぬ精確な射撃だった。やはりクラムシェルの要員にその道のプロが関与していることは間違いない。だが、SATと機動隊に囲まれては、いくらクラムシェルが手練れでも勝ち目はなかった。6台の車が警護車を囲んではいるが、防戦一方だ。
「くそっ!くそっ!!お前ら援護しろ!!」
クラムシェルのひとりが銃撃の隙を突いて車に乗り込み、アクセルを踏み込むと警護車の横っ腹に突っ込んだ。衝撃で警護車のバックドアが開く。
「開いた!誰か突っ込め!!浜比嘉を殺せ!!」
運転席から叫ぶ声に押され、ふたりのクラムシェルがわずかに開いたバックドアの隙間から銃を乱射する。しかしふたりはSATにとって格好の的になった。
「あー!あーー!!」
車で警護車に突っ込んだ男は仲間が撃たれるのを目の当たりにし、逆上して運転席から飛び出した。そして警護車のドアに銃撃を加え、こじ開ける。
「はーまーひーがーーっ!!」
そこに、浜比嘉の姿はなかった。
「は?なんで?なんで浜比嘉いない?」
警護車は、浜比嘉を乗せているように偽装していたのだ。
浜比嘉に背格好の似た警察官まで用意して。
「俺たちは、最初から騙されていたのか」
男は銃を下ろし、天を仰いだ。
後ろを見ると、仲間たちはすでにSATと機動隊に囲まれている。
攻防戦第一幕は、幕を閉じた。
5月28日、午後16時、宮崎空港。
駐車場に1台の観光バスが停車していた。浜比嘉青雲の姿がその車中にあった。そして傍らには、喜屋武尚巴と麻理子が座っている。更に5名の宮崎県警警察官、そして安藤刑事と武藤刑事。最後部の座席にはふたりのクラムに挟まれて、黒主来斗がいた。
観光バスのそばにはマイクロバスが2台、1台にはテレビニッポンの小鉢プロデューサーを始め、来斗を最初から取材しているメンバー全員が乗っていた。
もう1台には、観光バスの2名と同様、黒主来斗が信頼するクラムの精鋭が乗っている。そのメンバーには自衛官や警察官、学生もいたが、共通しているのは全員格闘技経験者ということだ。黒主来斗の護衛である。
時は一端、5月28日の午前10時頃に遡る。
黒主来斗の自宅前に、喜屋武尚巴と麻理子は立っていた。
「麻理子、俺たちはこの黒主来斗という子供と面識も何もない。そんな子に何を言ったって聞いてもらえないだろう。それでも、行くんだよな」
「当たり前でしょ?さっき叔父さんとも電話で話をしたじゃない。叔父さんは今宮崎だけど、クラムの過激派に命を狙われてるから、身代わりを立てて自分は違うルートを走るんだって、それでもどこで襲われるか分からないからって、だから叔父さんに言われたでしょ?絶対麻理子を落とすなって」
「ああ、そうだな。叔父さんに何かあればこの実験はできない。つまりまた時間は戻る」
それでも黒主来斗にどうやって話を通すか分からないふたりは、あれこれ思案していて、後ろから近づく男たちに気付かなかった。
「あ~、ちょっといいですか?」
驚いて振り返ると、そこには小太りの中年男性、そして見るからに凶暴そうな大柄の男が立っていた。
「え?あなたたちは?」
尚巴の質問には答えず、小太りの中年が続ける。
「ちょっとね、小耳に挟んでしまったんですが、誰が身代わりを立てて別ルートなんですか?もしかして、浜比嘉っていう大学の先生?それと、実験ができない、時間が戻る、とも聞こえましたが」
その口調は柔らかで優しげではあったが、質問に答えざるを得ない迫力も混じっていた。それに浜比嘉のことを知っている。
「え?ええ、実は私たち夫婦はその浜比嘉教授の縁者で、妻が姪なんです。それで先ほど電話で話をしまして、宮崎にいることや狙われていること、それに別ルートで目的地に行くことを聞いたんですよ」
「ほぉ、で、実験のことは?」
「んん、それはちょっと難しいんですが、しばらく前の3日間に教授本人から聞いたんです。この3日間を破る実験をすると。ある事情を抱えた僕たちに、そのことを話してくれたんです」
-やれやれ、浜比嘉教授、このふたりにはほとんど喋ってるじゃないか。
安藤は少し呆れて、更に質問する。
「それで、なぜここに?」
「それは」
尚巴の言葉を麻理子が引き継いだ。
「だって、黒主来斗が首謀者なんでしょ?3日間がすべてで4日目はない!なんて言ってるんだから。私たちは彼に叔父の襲撃をやめてもらいたくて来たんです!!」
「わっはっはっは!!」
それまで黙って聞いていた凶暴な大柄が笑い出した。
「いやあ失礼!しかし勇敢な奥様だ。ご主人、大変じゃないですか?」
「え、ま、まぁ」
「あなた、なに言ってるわけ?」
「ご、ごめん」
若いふたりを前に、小太りと凶暴は思わず頬を緩めた。
「いや、本当に失礼しました。私たちは警視庁の警察官です。こちらは安藤刑事、私は武藤と言います」
「え?刑事さん?私てっきりヤクザ・・」
「おい!麻理子!!」
「はっはっは、いいんですよ。こんな見た目ですからね。実は私たち、黒主来斗と縁がありまして、一応警護という形でここに来たんです。ですけどね、黒主来斗はクラムの教祖的存在というだけで、クラムの過激な連中、クラムシェルって言うんですが、そいつらとは全く無関係なんですよ」
「え?じゃあ黒主来斗に襲撃を止める力はない、ということですか?」
「いや、そうは言っていません。先ほども言いました、彼は教祖的なんです。ですから、彼が然るべき場所で然るべき時に声を上げれば、大方のクラムは、過激派のクラムシェルと言えど、ある程度は話を聞くはずなんですよ」
「然るべき場所、それって」
「ええ、浜比嘉教授のいる宮崎です。それで、これからあるルートの航空機で宮崎まで飛ぶんですがね?」
麻理子が即座に反応する。
「私たちも連れてって!ください!!」
驚くほど大きい麻理子の声に武藤は言葉を止めたが、安藤をちらりと見やると話を続けた。
「ええ、浜比嘉教授がそこまで話したあなた方であれば、連れて行くのもやぶさかではない。それどころか、私たちの立場では本来、あなた方を拘束しなくちゃならないんですから。ねえ、安藤さん」
武藤の横で安藤もうなずいている。
「俺たちを拘束?ですか?」
尚巴が疑問の声を上げる。
「ええ!なんせあなた方おふたりは、国家機密をご存知だ」
今度は尚巴と麻理子が目を見合わせる番だった。
「まぁとにかく!黒主来斗君にもこの話をしなきゃならない。それにこの家には、いつもいるんですよ。黒主来斗にべったりと」
「え、なに?なにがですか?」
「マスコミっていう、バケもんが」
5月28日、11時前、黒主家のリビング。
安藤と武藤はここまでの経緯を来斗に話していた。ふたりには既に宮崎の状況も入ってきている。浜比嘉が乗っていると偽装された警護車がクラムシェルに追跡を受けているとのことだった。
安藤が来斗に説明している。
「来斗君、今後の状況なんだが、おそらく警察とクラムシェルは銃撃戦になるだろうね。すでに警視庁の特殊チームが宮崎に飛んでいるんだが、間に合うかどうか分からないんだよ。それで浜比嘉教授は、別のルートで目的地を目指すということだ」
「僕がそれに同行して、クラムの動きを止める。そういうことですね?」
安藤に応える来斗に、武藤が話を繋いだ。
「あぁそうだ。クラムシェルの層は厚い。一度の失敗で諦めるとも思えん。宮崎にはすでに各県のクラムシェルが入り込んでいるようだしな。そしてこの計画は、安藤さんと私に任されてる。警察上層部も知らない、ある部署から渡された特殊任務なんだよ。なにしろ私たちは君を最初から知っている。そして警察内で君の力を一番認めているのは、私たちだからね」
「それで、浜比嘉教授のご親戚も同行する、ということですか?」
来斗が尚巴と麻理子に目線を送る。
「う~ん、このおふたりははっきり言って偶然なんだが、このふたりがいることで浜比嘉教授も相当安心するんじゃないかなぁ」
「でも、とっても危険ですよ?僕も危険ですけど、僕にはクラムの仲間がいます。彼らは強いです。でもクラムシェルもすごく強い。おふたりは、危ないんじゃないですか?」
来斗は目線を落とし、親指の爪を噛んだ。ふたりを本気で心配して緊張している証拠だ。だがすぐに噛むのをやめ、ポケットから取り出した小さなヤスリで爪を整える。
自分たちに対する来斗の心配に気付いた麻理子が、言葉に力を込める。
「大丈夫よ来斗君!私、空手6段、それと私、死ぬベテランなの」
「俺、琉球空手5段、って言うか、麻理子俺より段位が上?」
「あら、言ってなかった?」
「くぅ~、空手じゃ先輩かぁ」
こんな時でも普通なふたりの会話に、皆の顔がほころぶ。
「へぇ、おふたりとも空手強いんですね!それに、おふたりがいれば浜比嘉教授もきっと安心なんだろうな。死ぬベテランってよく分かんないけど」
ヤスリをポケットに仕舞いながら、来斗が声を上げた。
そんな来斗を見つめ、安藤が優しい口調で問い掛ける。
「どうだろうか、来斗君、さっき話した計画で、宮崎に行くというのは」
「ええ、そうですね」
来斗は自分の後ろにいる小鉢たちに目をやった。小鉢は悶えるように身をよじっている。
「僕が選んだクラムのメンバーと、小鉢さんたちが一緒なら」
「やたっ!ライト様さすが!!さくらちゃん、しほりちゃん、行くぞ宮崎!!準備だ準備!」
「よし、決まりですな。では、世界への配信は小鉢さんたちにお願いしますよ!」
安藤と武藤は最初から、小鉢たちマスコミを利用するつもりだったのだ。
「では、我々も準備と行きますか!」
安藤が腰を上げる。
「ええ、では今日の朝SATを飛ばした方々に、もう一機お願いしましょうか!」
武藤も声を上げた。
■攻防戦、第二幕
5月28日、午後16時、宮崎空港の駐車場。
「しかし麻理子ちゃんたちが来てくれるとは思わなかった。でも大丈夫ね?危険なんだよ?」
浜比嘉は麻理子を心配しているが、麻理子はそんなことお構いなしだ。
「大丈夫よ叔父さん!私これでも空手6段よ?尚巴さんは5段だけど。それよりね、私たちがここまで来れたのは、武藤さんたちのお陰なの。警視庁の人たちを運んだ自衛隊の飛行機をもう1機飛ばしてくれたんだから!」
苦笑いの尚巴が言う。
「麻理子、あれは俺たちのためじゃないぞ?俺たちはあくまで叔父さんのそばに付き添う役目!主役は黒主君じゃないか」
「尚巴君、それにしたって僕のために黒主君の家まで直談判しに行ってくれたんだろ?それがこの結果に繋がった。因果ってやつだ。結果には必ず原因がある。理論物理学の基本だ」
「やだ、叔父さん学者さんみたい」
「む、むぅ?」
浜比嘉たちの話を聞いていた武藤が口を挟む。
「教授、おふたりに来てもらうと決めたのは安藤さんと私なんですよ。この作戦は元々警察庁の立案で、その実行を我々が任されていた。大規模な警護体制ではないからこそ敵を欺ける。そのためには身内すら、警察幹部すらこの計画はご存じないんです。そこになぜか色々と知ってる姪御さんご夫婦が現れた。置いてくるわけにもいかないんですよね。情報漏洩には1ミリの隙も許されない、ってことで」
「はぁ~、なるほどそういうことでしたか。たはっ!こりゃ俺のせい!!」
浜比嘉は麻理子たちを巻き込んだ原因が他ならぬ自分だと悟って、額をパチン!っと叩いた。
「しかし、おふたりが揃って空手の達人っていうのは出来すぎですけどね」
武藤が笑った。話に安藤も加わる。
「ところで麻理子さん、私はあなたを知っているようなんだが、私の顔に見覚えはありますか?」
麻理子は首をかしげながら、まだ言っていなかった事実を話した。
「実は私、時間が戻る瞬間にビルの屋上から飛び降りてたんです。だからこれまで何百回も死んでるんです。もしかして、最初に死んだとき・・」
「あっ!あの飛び降りのお嬢さん!!あの最初の日、私は当直明けで現場に急行したんですよ。あの日は黒主君の事件もあったから、そのまま1日中仕事だった。それから私は黒主君の事件に付きっきりだったから・・・そうですか、あのお嬢さんが、あなた」
武藤が”そんなまさか”、という顔で声を上げる。
「しかし女性とはいえ、ビルから落ちる大人ですよ?誰がどうやって助けたんです?」
武藤の疑問は当然だった。
「あ、それは俺が」
尚巴は麻理子を助けるに至った経緯と、それからずっと助け続けていることを話した。
「つまり、今日の朝も彼女を助けて、ここにいるんですよ」
武藤と安藤が顔を見合わせる。
「そ、それは・・何というか」
「そりゃすごい、あなた方ふたりは見た目以上に信頼できる。間違いないですよ!安藤さん!!」
言葉を失う安藤に対して、武藤は最大の賛辞をふたりに送った。
「よし!ではそろそろ行きましょう、ヒムカへ!」
武藤の声を合図に、バスは宮崎空港駐車場を出た。
車中、安藤がここまでの経緯を説明している。
「午前中、浜比嘉教授の警護を装った部隊は国道10号を北上し、西都方面へ分岐する前に追尾していたクラムシェル20数名と接触、銃撃戦になりました。これは機動隊とSATが制圧に成功しています。その後警護車はヒムカに向かっていますから、クラムシェルがすでに襲撃を諦めている、という可能性も否定はできません」
浜比嘉が問い掛ける。
「では、もし私が普通に乗っていても、無事にヒムカに入れた?」
「いえ」
安藤の声が重いものを含んだ。
「クラムシェルの銃撃で警護車は大きなダメージを受け、車内での乱射で警官2名が重傷です。そのことはもちろん秘匿されていますから、教授は生きているとクラムシェルは思っているでしょう。ですから一歩間違えば」
「そうでしたか、その人たち、大丈夫ですよね」
「それはもちろん!警察官は鍛えてますからね!!」
力強い安藤の言葉に、浜比嘉はホッとする。
「ただ気になるのは、追尾と襲撃を同じ連中がやったってことです。つまり、襲撃部隊がいなかったということ。クラムシェルの組織は中々に大きいですから、襲撃部隊の不在は不自然。更に宮崎県外からも入ってきていると思った方がいいんですよ。つまり、午前中は襲撃部隊そのものが間に合っていなかった可能性もあるんです」
「なるほど、宮崎県外、鹿児島とか、熊本とか?福岡だってそうですね」
「陸路の場合ならそうです。それと、各地から航空機で入ってる可能性もある。まぁ航空機で大人数は目立つので、ごく少数が宮崎入りして別動隊と合流、ってとこでしょうけど」
バスは国道と県道を乗り継ぎ、大回りしながら西都に向かっている。土地勘のない県外のクラムシェルは追尾できないという判断からだ。
「とにかく、クラムシェルはまだヒムカの存在や場所を知らないんです。だから今回、なんとしても教授を秘密裏にヒムカまで送り届けたい。場所が割れていると最悪の場合、教授ではなく、ヒムカの直接襲撃ということも起こり得ますから」
「他のBSCのメンバーはどうなんでしょう?」
浜比嘉のもっともな疑問には安藤が答える。
「もちろん厳重に秘匿された行動を取っていただいています。もう宮崎入りされていますが、浜比嘉教授はその、教授にしか出来ないお仕事がありますよね?後のメンバーは教授のお仕事の後でもいい、ということです」
「はぁ、つまりヒムカに向かう日時は、実験開始に間に合えばいい、ということか」
浜比嘉のつぶやきに安藤が応える。
「まぁ、実際は30日の朝までに、ということになるでしょうか」
膨大なデータとパラメータの入力手順を踏めるのは浜比嘉だけだ。そしてその入力の検証には、多くの時間が必要だった。
「しかし不思議だ。クラムはなんで宮崎のこと知ってたんでしょうねぇ」
浜比嘉のこのつぶやきには、武藤が応えた。
「それは、クラムシェルの情報収集能力も大したもんだってことですよ。例えば那覇空港で・・」
「武藤さん、それ以上は、もういいでしょ」
安藤はそれとなく、武藤の言葉を切った。
那覇空港で浜比嘉が口走った焼酎の銘柄を、豊見城警察署の警官が覚えていたのだ。それをクラムシェルに聞かれた。それが情報漏洩の原因だと警察は分析していた。
とにかく浜比嘉にいらぬ心配をさせてはならない、それほどに浜比嘉は重要な存在だった。
“ピピッ”
そのとき、武藤と安藤が付けているイヤホンに情報が入った。情整から支給された専用の端末からだ。ふたりは顔を見合わせ、うなずいた。
「皆さん、情報が入りました。これまでと違う暗号を使う部隊を確認した、とのことです。何かあれば、必ず私たちの指示に従ってください!」
攻防戦第二幕の幕開けを告げる合図だった。
後部座席に座る黒主来斗は、安藤たちと浜比嘉の話を聞きながら車窓を眺めていた。
-ヒムカか、そんなものがあったんだ。そんな可能性があるのなら、僕は・・・
4日目の可能性。そんなものがあると知っていたら、自分はあんなことを、3日間が全てとか、そんな考えを持っただろうか?来斗はそのことばかり考えていた。無意識に親指の爪を噛む。
-まただ、ついやっちゃう。
悪い癖だと思いながら、来斗はヤスリを取り出して爪を整えた。ぼんやりと外を眺める。その瞳には、車窓を流れる宮崎の景色が映っている。
窓の外には山々が連なり、広大な平野と共に宮崎の県土の大きさをうかがわせる。そして次々とバスを追い抜いていくツーリングの車列。のどかな田園風景の中、風を切って走るバイクは、かっこ良かった。
-高校生になったら免許を取って、乗りたかったな、バイク。
クラムの中心、教祖としてのライトクロスの顔は、ただの中学生、黒主来斗に戻っていた。
「そろそろです!皆さんご準備を!」
運転席の警官が声を張る。車窓には田畑が広がり、その奥は山々が連なる。どこにでもありそうな田舎の景色だ。そして見えてきたのは、これもどこにでもありそうな役所然とした建物。大きさはあるが、平凡だ。ただ、その平凡さに似合わない巨大な電動門扉が異様だった。
3台は門扉の前に停車した。観光バスは門扉に向かって停まり、2台のマイクロバスは道路にはみ出して停まっている。
門扉を施設内の職員が開けることはない。開けられるのはキーを持っている人物だけだった。
「浜比嘉教授、お願いします」
安藤に促され、浜比嘉は胸の内ポケットからワイヤレスキーを取り出した。キーには生体認証が掛かっている。
浜比嘉がキーのボタンに手を掛け、観光バスの全員に緊張が走ったその瞬間だった。
ズドォーーンッ!!
轟音と共に大型オートバイがバス前方のドアを突き破った。運転席の警官はバイクの前輪の下敷きになっている。もう走行は不可能だった。
オートバイから降りた男は、ヘルメット以外にもプロテクターを付けているようだ。肩や胸が異様に膨らんでいる。男は通路に立ち、手には拳銃のようなものを構えている。同乗している警官2名が前に出て応戦した。車内に銃声が轟く。男の胸や腹に命中しているが、やはり防弾性能を持っているようだ。男は倒れない。一方、男の銃弾もバスの座席に阻まれて当たらなかった。残りの警官2名も銃撃に加わる。
「武藤刑事!教授を外に!!」
警官が応戦しながら叫ぶ。
「よし!安藤さん、一緒に!!」
安藤が身を呈して浜比嘉をかばう。武藤はバス中央のドアをこじ開けようとするが、運転席からの操作なしでは上手く開かない。
「武藤さん!!俺も!」
尚巴が武藤に加勢する。ドアは軋みながら開いた。安藤、武藤に囲まれながら浜比嘉は外に逃れた。続いて尚巴と麻理子が、そして来斗がクラムのふたりにかばわれながら外に出る。
その来斗の目に、数十台のバイクが映った。
-先回り?違う、これはさっき追い越していったツーリングの連中だ。ということは、後ろからも来る!
バスから4名の警官が降りてきた。車中の銃撃戦は終わっている。
「君たち大丈夫か!男は!?」
武藤が叫ぶ。
「は!足を狙って無力化しました!運転の警官も救助、重傷ですが命に別状なし!我々が前面に出ます!教授と一緒に後ろへ!!」
「分かった!頼む!!」
4名の宮崎県警警察官がその身を盾にするように展開した。その後ろを武藤と浜比嘉が動く。
「教授!門扉、門扉を開けてください!!」
武藤の叫びに応え、浜比嘉はキーを高々と掲げてスイッチを押した。電動門扉が軋みながら開き始める。
「3台行け!門を破壊しろ!!」
クラムシェルのひとりが叫んだ。同時に大型バイク3台が電動門扉に突っ込む。バイクが門扉の格子を破壊する瞬間、運転していた男たちはバイクを捨ててアスファルトを転がった。そしてすぐに立ち上がると、武藤と安藤に迫る。
どうやら銃武装していたのはバスの男だけのようだが、襲ってくる相手に対し、浜比嘉をかばう武藤は拳銃で応戦できない。武藤は浜比嘉を守ってその体に覆い被さる。
男のひとりが武藤の背中に一撃を加えようとしたその時、安藤の放った銃弾が男の首元を貫いた。胴体は弾が通らないからだ。かと言って手足では攻撃を防げない。穏健な安藤にとっては苦渋の決断だった。
男が後ろに吹っ飛ぶ。だがその後ろから更にふたりが追撃する。
「安藤さん!ひとり任せる!!」
叫んだのは尚巴だった。武藤に掴みかかろうとする男の手を掴み、自らの懐に呼び込むと、強烈な左裏拳を顔面に打ち込んだ。男の鼻が折れ、血しぶきが舞う。男が膝をつく。
「尚巴さん!!」
いつの間にか間合いを詰めた麻理子が、左足を軸にした強烈な回し蹴りを男の後頭部に見舞う。男は白目を剥いて昏倒した。見ると、残りのひとりに安藤が銃撃を加えているが、制圧できていない。やはり頭や首に当てるのは至難だった。
「安藤さん、ストップ!」
尚巴が叫び、男の懐に入ると掌底で顎を砕いた。更に麻理子が強烈な蹴りで男の膝裏靱帯を破壊する。男はもう動けない。
「麻理子!さすが6段!!」
「尚巴さんもやるわね!5段なのに!」
武藤の下でその光景を目の当たりにした浜比嘉は、武藤に言った。
「武藤さん、あの子たち連れてきてくれて、ありがと」
「どういたしまして」
武藤の口元がぐいっと吊り上がったが、笑う間もなく次の攻撃が来た。
大型バイクが突っ込んでくる。2台!
前面の警官4名は、後ろのクラムシェルを押さえるのに手一杯だ。突っ込んでくるバイクは狙えない。
武藤は体を起こし、浜比嘉を自分の背中にかばいながら拳銃を構える。その横に安藤も並んだ。
「安藤さん、今だ!!肩から上を狙って!」
ふたりは同時に銃撃を始めるが、バイクを盾にして運転する人間を狙うのは難しい。
「安藤さん、一台に集中!右だ!!」
武藤と安藤は一台に銃撃を集中した。銃弾はバイクのタイヤを貫きバランスを奪った。バイクは転倒し、男が地面を転がる。
尚巴と麻理子は浜比嘉を守る武藤の横に付いた。ふたりの銃撃を避けて残る一台が迫る。
一閃、尚巴は半歩スライドしてバイクを避け、体重の乗った正拳を男の側頭に叩き込んだ。コントロールを失ったバイクは暴走して縁石に衝突する。バイクは激しく損傷し、エンジン付近から煙を噴いている。乗っていた男は動かない。
銃撃で転がった男が立ち上がって襲いかかってくる。武藤が身構えるが、その前に素早く入った麻理子が男の足を払う。男は再び転がるが次の瞬間、男の後頭部に麻理子の回し蹴りが決まった。男の頭がアスファルトに跳ねた。
「ふぅ」
武藤が息をつく。そしてひと言。
「君たちを連れてきて、本当に良かったよ」
今度こそ、武藤は笑っていた。
クラムシェルの襲撃は一時収まり、両者は膠着していた。電動門扉は動かず、浜比嘉が入るにはごくわずかに開いた隙間を通るしかない。だがその瞬間は格好の標的だ。情報では、おとりの警護車を襲撃したクラムシェルは自動小銃で武装していたらしい。
-バスの男は拳銃だった。こいつら銃を持ってないのか?ってことは、こいつらは主力ではない?
-そうか、だから4名の警官隊でも押さえられるし、突っ込んでくるヤツはバイクで特攻か。
-しかし銃を絶対持ってないって確証はない。切り札に温存してるのかも。
-それなら応援が来るまで、そこまで持たせれば。
思案する武藤の目の前に数名が歩み出る。その歩みには迷いがなかった。
黒主来斗と、護衛のクラムだった。
「黒主君、危ないぞ!後ろに下がって!」
声を掛ける武藤に、護衛のひとりが応えた。
「大丈夫です。彼らもクラムなんです。ライトクロス様を傷つけることはありませんよ。私たち護衛も、ライト様があなたたちの闘いに巻き込まれない為の護衛なんですから」
そのとおりだった。クラムシェルが来斗に向かって銃口を向けることはない。来斗はクラムシェルの一団に語り掛けた。
「皆さん、クロスライトです。皆さんは僕の考えに賛同していただいた方たちの中でも、最も強い意志を持っている方たちだと、僕は思っています。ただ、先日のテレビ番組の中で、僕が皆さんにお願いしたメッセージは、届いているのでしょうか?」
クラムシェルに語る来斗の後ろで、小鉢が興奮していた。
「カメラ!ちゃんと撮ってるか?さっきの戦闘も撮ったな?今だぞ今!さくらちゃん日本語実況して!しほりちゃん英語でテキスト実況して!小室、局に連絡しろ!配信だって、クラウドに上がるから取れって言え!」
来斗が蕩々と語るのは、3日間の幸せの先に4日目があるのなら、世界の平和を実現したクラムこそが、次の人類の希望、というメッセージだった。先の番組と同じだが、今回そのメッセージは、目の前のクラムシェルに直接響く。
「僕の目の前にいる皆さん、クラムシェルと呼ばれている皆さん、僕の考えを理解して欲しい。僕と共に、人類の未来を見つめませんか?」
ふぅっと息をつく。いつもの来斗の間だった。
「これがクロスライトから、あなた方への希望のメッセージです」
心酔するクロスライトが目の前でメッセージをくれた。クラムシェルの面々に陶酔を含んだ静寂の時間が流れる。だがその静寂は、ひとりの男の大げさな拍手で破られた。
拍手をしているのは、集団の中央でバイクに跨がる小柄な男だった。男はバイクを降り、フルフェイスのヘルメットを取りながら歩み出る。その男の顔を、来斗は知っていた。
「上村、か?」
男は来斗の同級生、上村由羽だった。最初の5月28日に武藤弘志らと共に来斗を虐め殺し、次の28日には来斗に殴り殺された。更に次の28日には、自分の父親が来斗の母を殺害し、その父親は来斗に瀕死の重傷を負わされている。
「お前、しゃべれなくなったんじゃ?それにそのバイク、中学生なのに」
「はっ!そんなのいつの話だよ!確かにお前に殺されてからしゃべれなくなったけど、あれから何回死んだと思ってる?もう死なんて怖くないんだよ!それにこんな世界だぞ?中学生がバイクに乗ったごときで咎めるヤツなんて、いると思うか?」
上村は後ろを向いてクラムシェルに叫ぶ。
「どう?ライトクロスなんてこんなヤツ。ただの口が上手い中学生!僕を見てよ、クラムシェルでも注目の若手筆頭株!裁いた人数も数え切れないよ。4日目なんてないんだ、この3日間で人生完結!そうでしょ?この考えを否定するヤツはみんな犯罪者だ、みんな裁いてやろうよ。僕たちでさ!!」
上村の言葉はそれなりの説得力を持っていた。クラムシェルたちに動揺が広がる。
そこに武藤が進み出て、上村に叫んだ。
「上村君、武藤だ。武藤弘志の父親だ。教えてもらえないか?君たちはここを、どうやって知った?」
宮崎というキーワードは浜比嘉から漏れた。だが、そこから先に何があるかは、漏れていないはずなのだ。しかも、今回の浜比嘉教授身代わりは極秘の計画だった。
「あぁ、弘志のお父さん。聞いてないんですか?教えてもらったんですよ、弘志に。俺の親父を追い掛けろって、言ってましたぁ」
「な、ひ、ひろしが、クラムシェル?」
「そうです、あいつもクラムシェルです。元は来斗に殺されて恐れて、そして感化された、ただのクラムでしたけどね。僕がクラムシェルになってあいつを引き入れたんです。以前、僕はあいつに、あなたの息子に従うだけのクズだったけど、今は違う。クラムシェルの中では僕の方がずっと上!僕の言うことはなんでも聞きますよ?あいつ、警察官の息子のひろし君は」
-弘志は気付いていたのか。いつもの仕事と違う俺の様子に。もしかして安藤さんとの電話も聞いていたのか?しくじった。警察官の俺から情報が漏れて、この事態を招いたなんて!
武藤の肩が震えている。歯ぎしりの音さえ聞こえる。
「それにもう、クラムシェルの主力にも連絡しました、この場所もばれちゃったから、すぐに九州全域から集まりますよ?あいつらも最初から僕の言うことを信じればいいのに。拳銃1丁しかくれなかったし。でも今回のことで僕がクラムシェルのトップに立つ、かもしれないな」
陶酔に浸る上村をよそに、来斗が小鉢を見やる。
「小鉢さん、いいですか?これから僕が前面に出ます。しっかり撮って、世界に同時配信してください」
そして来斗は一歩前に出た。
「世界のクラムの皆さん、この光景、見ていますか・・・」
「なに勝手に喋ってんのさ!みんな、やっちゃおう!!」
上村が吠える。それを合図にして、バイクの一団が襲いかかってきた。その攻撃の対象は、来斗も例外ではなかった。
来斗に向かうバイクの前に、護衛のクラムが立ち塞がる。四輪と違い二輪は最初の一撃さえ避ければ御し易い。しかも来斗の護衛は格闘のプロとも言える実力者ばかりだった。
間合いを計って運転者の首根っこを掴み引きずり倒す。後はそれぞれ得意の格闘術で制圧していった。
浜比嘉に襲いかかるバイクも同様だった。統制なく襲ってくるバイクは警官たちと安藤、武藤の銃撃で圧倒し、尚巴と麻理子の接近戦で次々と制圧されていく。浜比嘉の周りに、ふたりが仕留めたクラムシェルの男たちが折り重なった。
縁石や壁、門扉に衝突し、何台ものバイクがアスファルトに転がった。煙を上げているものや炎を上げているものもある。
燃えるゴムとアスファルト、そしてガソリンの匂いが鼻を突いた。煙で視界が悪い。
カメラはその様子を寸分漏らさず撮影した。その映像はさくらの実況としほりの英文を載せて世界に配信される。
「さくらさん、いいですか!」
「はい!ライト様、どうぞ!!」
「世界のクラムの皆さん、これが人間の本質です。3日間の幸せを守ることは大切なことでした。そして実際、世界中の人々が戦争を忘れ、飢えを忘れ、子供たちは笑顔です!でも、この3日間だけを守ろうとしたら、どうでしょう?僕はこの3日間だけを守ろうとしたわけではない。そこから続く未来を守りたかった!」
来斗の心からの叫びは、世界中に届く。
だがそのとき、燃えるバイクの煙に紛れながら来斗に近づく男の存在に、気付くものはいなかった。
「見てください!この3日間だけを守ろうとしたから、争いが、闘いが・・・!」
突然、来斗の言葉が途切れた。
煙に紛れて近づいた男に体当たりされたのだ。目を見開いている来斗から、男がゆっくりと離れる。
来斗の右胸には、ナイフが生えていた。
さくらの悲鳴が響いた。カメラは、その光景をも捉える。
来斗を刺した男、それは、上村由羽だった。
上村が来斗に話し掛ける。
「ほら、もう終わりだよ?ライト様。いや黒主来斗くん。ほら!見てよ世界のみんな!ライトクロス様の、さいごだよっ!!」
最後は絶叫する上村。その顔には冷たい笑顔が貼り付いていた。
来斗は一歩、二歩と上村に近づき、その肩を掴むと、唇を上村の耳に近づける。
次に聞こえた来斗の言葉に、上村は恐怖した。
「へたくそ」
上村の額に脂汗がにじむ。全身に鳥肌が立った。知ってる。この来斗、僕は知っている。
「上村さ、人間の体のことなんにも知らないでしょ?今から教えてやろうか。あとな?忘れたの?僕は人を殺すの、得意なんだよ?」
来斗はポケットから小さなヤスリを取り出した。先が鋭く尖り、ザリザリで刺されたら痛そうな、ヤスリ。
上村はそれを見て恐れおののく。
「ひ、ひぃ、や、やめて」
上村の口から、小さな悲鳴が上がる。両足の膝ががくがくと震えている。
来斗は怯えた上村の目を見ながら、ゆっくりと言った。
「大丈夫、心配いらないよ。上村にはこんなの、使わないからさ」
-大丈夫じゃない、前にも聞いたことがある。あのときの来斗は僕を・・
殴り殺したんだ。
来斗はヤスリをポケットに仕舞うと、上村の首に親指を強く押し当て、そして素早く引いた。
よく研がれた親指の爪が、上村の頸動脈を切り裂いた。
上村が声にならない悲鳴を上げた。そして白目を剥いて倒れる。上村の服は、どす黒い血に染まっていった。
動かない上村の傍らで、手を真っ赤に染めて立つ来斗。
襲ってくるバイクは、もういなかった。
「あ、あれを見て!あっちも!」
麻理子が何方向か指差す先には、襲撃に加わらなかったクラムシェルの一団がいた。来斗の言葉に従ったのだ。それを見た尚巴が応える。
「おう、あいつら全員で掛かってきてたら、とてもじゃないが勝てなかったかもな。助かった。黒主君のおかげだ」
「違う!その後ろ!!」
尚巴は目を見張った。
バイクのクラムシェルの一団、そしてその後ろには、バイクや乗用車、トラックの集団が迫っている。
九州各県から集まった、クラムシェルの主力だった。
-バイクの連中の倍はいる。こりゃまずい。
「麻理子!今のうちに叔父さんを中に入れるぞ!あれは止められん!!」
「尚巴さん違うの!あれのまた後ろ!それからこっち側も!」
「え?あれのまた?こっち側?」
門扉の前の国道は、海から広大な宮崎平野を抜け、山手に掛けてずっと上っている。つまりなだらかな坂の中腹だ。この周辺には高い建物も少なく、見晴らしもいい。
ここ、ヒムカの情報を得て集まったクラムシェルの主力たち。しかし、その遙か後ろには更に多くの車が、バイクが、そして人が集まってきていた。
それはただの民間人、いや、“ただのクラム”、だった。
更に上空には、機動隊とSATを乗せているだろう、自衛隊の輸送ヘリも近づいている。
情整の部隊はクラムシェル主力の情報も掴んでいた。そしてその情報は、様々なメディアを通じて拡散されたのだ。これは日本政府の決断だった。それに加え、現場から流される映像と来斗のメッセージは、心あるクラムと、それに協調する人たちを動かした。
その圧倒的な光景に、集結したクラムシェルの主力からも戦闘の意思は消えていた。
これをもって、浜比嘉とヒムカを巡るクラムシェルとの攻防戦は、終わりを告げたのだった。
来斗の声が響く。
「誰か、だれか上村を助けてやって!血は出てるけど切断はしてない。まだ助かります!僕のことは後でいいから!」
来斗の胸には、上村のナイフが刺さったままだった。
抜けば出血するからだ。
上村のナイフは肺まであと、少しだった。
■4日目へ
5月30日、午後20時過ぎ。
超高エネルギーハドロン粒子加速器“ヒムカ”は、この3日間のループが始まる前からずっと作動し続けている。試験運用を重ねていたのも理由だが、このような巨大装置はシャットダウンとスタートアップに膨大な時間と電力を要するからだ。
いくつものキーボードの上で、浜比嘉の指が踊る。この作業は5月29日の未明からほとんどぶっ通しで続いていた。
膨大なデータと難解な定数、そして複雑なパラメータの入力には神経を使う。浜比嘉が入力するたびに、竹山、藤間を始め、科学者の面々がその値を確認、検証していった。
更に、入力されたパラメータは実行するルーティーン毎に変化して引き継がれるから、その変化を精密に計算する必要があった。間違えれば期待した現象は起きない。小さすぎれば現象は収束し、大きすぎれば現象が暴走するのだ。その数値と手順を、浜比嘉は全て頭に入れている。
竹山教授と藤間教授はその手順を確認しながらも、浜比嘉の体調を心配していた。なにしろクラムシェルとの激しい戦闘の後、数時間の休憩しか取っていないのだ。29日にヒムカに入ったふたりとは違う。
「浜比嘉君、大丈夫か?もうかなり入ったから、ほんの少しでも休むか?」
「いやいや竹山さん!大丈夫だいじょうぶ!俺も科学者の端くれ、徹夜には慣れてますって!」
「もう、浜比嘉さん強がっても駄目ですよ?最後の最後倒れちゃったら、どうするんです?」
「ほお藤間君、そんときは頼むよ!もう少しで暗記問題終わりだからよ!」
浜比嘉もやせ我慢だったが、倒れるつもりなど毛頭なかった。あと4時間足らずで時間が戻る。
「や~るぞ~、わんにまかちょ~け~!!あ、俺に任せろって意味ね」
竹山も藤間も、笑うしかなかった。
クラムシェルとの激闘、それに続くヒムカの科学者たちの奮闘、その様子を小鉢たちは間近で撮影し、世界に向けて配信していた。世界第一級のドキュメンタリーである。
「すげぇなぁ、ねぇライト様、これで時間が戻らずに4日目になれば、この映像は消えないんですよ?俺、世界一のジャーナリストになっちゃう。どうしましょ?」
小鉢の言葉に来斗は微笑んだ。
「ほんとですね、そのときは僕、雇ってもらおうかな?」
そこに、聞き慣れた声が聞こえた。
「おいおい、おばっちゃんとこに就職するくらいなら、俺が弟子にしてやるからさ。おいでよライトちゃん」
「お、森田ちゃんじゃない!!」
「ライトちゃんにおばっちゃん、見たよ?28日のヤツ。すげぇよなぁ、やっぱライトちゃん、おんもしれぇ子供だぜ!それとあの夫婦な!!おんもしれぇの」
「森田ちゃんの価値基準ってさ、要するに面白いかどうか、だけだもんなぁ。ね!ライト様」
そう振られても、来斗は苦笑するしかなかった。
「ところでおばっちゃん!最後の最後、この俺にMCさせないって法は、ないよな!」
「お、いいっすねそれ!じゃああと数時間、即興でやりますか!」
5月30日、午後21時。
「きんきゅーとくばん!!みらいに、カウントダウンー!」
小鉢たちテレビクルーは、ヒムカのわずかなスペースに陣取り、動画配信のみの番組を立ち上げた。狭いスペースでの作業も黒主家のリビングと同じ要領だったから、小鉢たちにとっては手慣れたものだった。
森田のMCの元、小鉢とさくら、しほりも座り、来斗との対談といった風の番組になった。
もちろん28日の、クラムシェルとの死闘の映像も使われる。
「まずライト様、刺された傷はいかがですか?」
来斗は上村に刺された右胸をさすりながら応える。
「森田さん、僕、このあたりを刺されたんですけど、人の体ってこの辺が二番目か三番目くらいに硬いんですよ?もちろん痛いですけど、死にはしません。あ、ちなみに一番硬いのは頭蓋骨です」
-やっぱ大したもんだぜ、黒主来斗。
殺されかけた子供とは思えない来斗の落ち着きに、森田は舌を巻いた。
「じゃライト様、この子、上村由羽、首を切られたんだから、わたしゃもう駄目かと思いましたけどね、このときの心境っていうのは、どんなもんでしょ?」
森田のMCは軽妙だが、確信を突いてくる。
「はい、上村は最初、学校のグループでは一番下でした。でもそれがクラムシェルでは一番上になってた。単純にすごいなって思いました。思い続ければ人は変わる。それが良い方でも、悪い方でもです。だから、今悪いからってそれで命を絶つことはない。そう思ったんです。それで、血管を断ち切るのはやめました」
来斗のひとつひとつの言葉を、森田が拾う。そして小鉢は、それを感慨深く見守る。
-思い続ければ人は変わる、か。思えば俺も、始めの頃とずいぶん変わっちまったなぁ。極悪非道のパワハラプロデューサーがライト様のお陰で改心し、今じゃ敏腕!チームの結束も良好!っとな?・・おっとそろそろ時間か。
小鉢は最後の言葉を来斗に求めた。
「ライト様、そろそろお時間です。世界の皆さんにぜひ、お言葉を」
来斗はうなずくと、カメラを見据えた。
「世界の皆さん、この実験が成功すれば未来が来ます。僕は先ほど、今悪いからってそれで命を絶つことはない、そう言いました。しかしそれでは僕が以前言った、犯罪者に裁きを与えることと矛盾しているように思えます。真理はこうです。3日間を繰り返すから、裁きを受けたとしても次の3日間という未来で償えば良い。お分かりですか?僕たちが生きてきたのは、3日間という、かりそめの未来なんです。でも、もし本当の未来があるなら、戻らない時間の中に生きるなら、死んではならない、殺してはならない。それが未来を生きる人間の本質であるべきです。なぜなら、人はひとりでは生きられないから」
来斗は「ふぅっ」と息を継いだ。
「もし今回、実験が失敗したとしても、また次がある。いつかは本当の未来に行ける希望がある。その時を信じて、生きましょう。僕と一緒に」
「僕は日本人、名前は黒主来斗、ただの中学生です」
尚巴と麻理子は、作業に没頭する浜比嘉を見守りながら、しっかりと手を繋いでいる。
実験が失敗すれば、麻理子はまたビルの屋上を蹴り、尚巴は麻理子を救うため席を立つのだ。
そして浜比嘉の、叔父の手が止まった。
・
・
5月30日、23時30分。
藤間の声がヒムカに響く。
「それでは実験を開始します。すでにハドロン粒子は十分な速度に加速されています。今後コンピュータの精密制御の元、衝突実験に移ります。衝突実験は23時59分から1分間、衝突回数予測、おおよそ10万回」
ブラックホールの誕生、これが今回の実験の目標だった。
ヒムカの中で起きる超高エネルギーハドロン粒子の衝突で発生するエネルギーは、約30兆電子ボルト。セレンが発生させる13兆電子ボルトを遙かに上回る。そのエネルギーが、ヒムカの中に極微のブラックホールを作り出すのだ。だが、実験中にブラックホールが発生したとしても、それを認識することはできない。本来、衝突時に得られた様々なデータを総合、分析して初めて分かるものだから。しかし、今回は分かる。
成功すれば、4日目があるからだ。
5月30日、23時59分00秒、藤間の声。
「ハドロン粒子衝突実験開始!各測定チームは異常数値の検出を注視してください!」
ヒムカの中で光速に限りなく近づいたハドロン粒子は、浜比嘉が入力したデータと数値によって精密に制御され、正面衝突を繰り返す。そして放出されるエネルギーによって様々な量子的物理現象を引き起こしていた。その中のひとつに、ブラックホール生成がある。
「なにもない?各チーム数値を注視して!なにもないの?」
藤間が測定チームに確認を促す。
-なにか、なにかないの?
藤間がこの時点でのブラックホール生成の証拠を諦めかけたとき、超高感度光度測定チームから声が上がった。
「藤間教授!光です!ハドロン粒子が衝突したと思われる点から、真上と真下に正体不明の光を検出しました!」
「竹山さん、浜比嘉さん!これはっ!」
藤間の声に応え、ふたりが同時に声を上げる。
「藤間!レフチェンコ光だ!!」
「それはレフチェンコ放射だ!藤間君!!」
レフチェンコ光、あるいはレフチェンコ放射とは、ある点から放射される光がその場所での光速を超えるとき放射される特殊な光のことだ。
光速は宇宙空間、大気中、水中などでわずかに速度が違うことが知られている。レフチェンコ光を観測したということは、ヒムカ内の光速度より早い光が放たれたということなのだ。
藤間がつぶやいた。
「これはつまり、ブラックホールが近傍の原子を呑み、その瞬間上下にビームを放射した」
「そのとおりだぞ!藤間!!」
「藤間君!成功だ!我々はブラックホールを作った!!」
ヒムカが作りだした極微のブラックホール。
それは小さすぎて、事象の地平面内に物質を引き込むことはできない。せいぜい近傍にある数個の気体分子を呑み込むだけだ。
だがその瞬間、呑み込んだ気体分子に起因する原子エネルギーの余りをビームとして放射する。そのビームこそがレフチェンコ光。それこそが紛れもないブラックホールの証。そして極微のブラックホールは、ホーキング放射によって瞬時に崩壊する。
ホーキングの理論どおり、ヒムカが作りだしたブラックホールは、一瞬の後に消え去った。
宇宙で生ずる重力の波は光速だ。宇宙の彼方に届くには138億年掛かる。ヒムカが作ったブラックホールの波も同様だ。
しかし、量子の大海原に投じられた一滴の水の波紋は、全宇宙の量子空間を瞬時に震わせた。
宇宙に隙間なく完全に満ち満ちたエネルギーの中心に、針を突き刺したと思えばいい。その衝撃は瞬時に宇宙の端まで伝わる。
5月30日、23時59分58秒。
ブラックホールはできた。実験は成功したのか?失敗なら、すぐにでも時間は戻る。
麻理子はビルの角を蹴り、尚巴はデスクで目覚める。
尚巴と麻理子の手に力がこもる。ふたりは目を瞑った。
5月31日、00時00分01秒。
尚巴と麻理子は目を開けた。麻理子は空中にいないことを、尚巴はデスクチェアにいないことを、お互い確認した。
「戻ってない、戻ってないぞ!麻理子!!」
「尚巴さん、4日目、4日目なのよ?信じられる?」
「わー!やった、やったぞ!!5月31日だ、明日が来たぞ!!」
誰かが叫んでいる。
尚巴と麻理子は抱き合い涙に暮れた。ようやく終わるのだ、麻理子が死ぬ運命の日々が。
ふたりは更にきつく抱き合った。
もう離れない、と思った。
「ライト様ライト様!らいとさまー!!」
小鉢は来斗の肩を抱きかかえ、拳を突き上げながら叫んでいる。
カメラはその瞬間も逃さず捉え、世界の視聴者に向けて配信している。
「ライト様!新しい時代の始まりですよ、ライト様!これからあなたは、この新しい時代のリーダーだ。誰も戦争しない、誰も殺さない、誰も飢えない、誰も泣かない、本当の意味の幸せな世界。おれぁ~ライト様、あんたと一緒に作りたい!!」
未来が訪れた瞬間。
世界中のネットに流れるその映像に、世界中が歓喜に震えていた。しかし同時に、また始まる未来に恐怖を覚えていた。
誰かがまた、世界を征服しようとするのではないか?
無意味な戦争がまた始まり、なんの罪もない子供たちが泣き叫ぶのではないか?
権力者だけが美食を貪る代わり、またたくさんの人たちが飢えに苦しむのではないか?
それこそが、人間の本性なのではないか?
新しい人類の希望、クロスライトの言うことは、ただの理想で幻想なのではないか?
その時だった。
世界中の人々、全人類の頭の中で爆発的なイメージが炸裂した。
轟音、静寂、水、火、土、雷、光、そして闇。考え得る全ての元素が綯い交ぜとなったイメージだった。この世の始まりの景色なのか、それとも全宇宙の終焉なのか。
次に声が響いた。爆発するイメージと同じ、やはり頭の中で炸裂する声は、全人類が直接理解できる不思議な音として認識された。
声は、全人類に語り掛ける。
「やぁ、あなたたちは地球人っていうの?すごいね、あなたたちは真理にたどり着いたんだね」
「今、明かします。この箱庭を作ったのは僕たちです。この箱庭の大きさって、あなたたちの尺度で3日間って言うんだね。つまりあなたたちの感覚で言うと、3日間の箱庭っていうことかな?」
「今、あなたたちがこの箱庭を破った理論を使えば、この宇宙の全てと別の次元のことまで理解できるよ?僕たちのこともね。本当におめでとう。祝福します」
「でも、まさかあなたたちに破れるとは思ってなかったけどね。箱庭を破れた文明は、そんなにないからさ。あなたたちよりずっと進んだ文明だって、今も破れずにいるからね。だからその文明は、今も箱庭の中なんだ。別の宇宙のお話だけどね」
「でも、箱庭を破れたあなたたちなら、僕たちの次元に迎えることができるよ?その価値、分かるかな?」
「でもそれは今じゃない、もう少しこの宇宙を理解してから、だけどね」
「じゃあね、また会おうね。ばいばい」
イメージと声は消えた。そして世界中の人類が目を覚ました。ずいぶん長い時間と感じたが、それは1秒と掛かっていなかった。
竹山と藤間、そして浜比嘉が顔を見合わせた。
「竹山教授、今のは私の意識に直接コンタクトしてきました。テレパシー、そうですね、今のがテレパシー、私たちが構築した理論の彼方にあるもの。しかも今のは、別の次元から届いたメッセージ。それが意味するのは・・」
藤間は目を見開いて竹山に問い掛ける。
「ああそのとおり、今のは並列宇宙からの時空を超えたメッセージだ。その並列宇宙は我々の理論で構築した、意識と記憶の次元でもあるのだろう。そして彼らの言うことが本当なら、いや、本当だろうな。我々の宇宙は、いわゆる箱庭宇宙だったということだ」
竹山は自らが語る事実の重さに震えた。
「つまり我々は本当の生命体ではない。彼らが作ったプログラム、この世界は、この宇宙は、彼らのシミュレーションにすぎない」
竹山はがっくりとひざまずき、うなだれた。
「藤間君、我々はこの3日間のループを破った。彼らの言い方なら、3日間の箱庭を破ったんだ。しかし、それすらも彼らの気まぐれだったとしたら、私は、私たちはいったい何を・・」
藤間は竹山に掛ける言葉もなく、立ち尽くすばかりだった。ヒムカは静寂に包まれた。
その光景を見ている世界の視聴者も、竹山と同様の無力感に包まれる。地球が静寂に包まれた。
「でもよ!!」
突然、浜比嘉の大きな声が静寂を破る。
「その誰かさんがこしらえたっていうシミュレーションの生命体は、宇宙の真理を解き明かしたんだぜ!誰かさんも言ってたろ?じゃあね、また会おうね、バイバイ!ってさ!こりゃ~会いに行くしかねぇんじゃねぇか?あの偉そうな創造主様によ!」
「で、言ってやろうぜ!俺らが生きるのに、あんたらの手は借りない!邪魔すんじゃねぇ!!ってな?」
「がっはっは!!」
「が~っはっはっは!」
竹山と藤間が顔を上げる。浜比嘉の言葉に後押しされたようだった。そしてふたりは、顔を見合わせて笑った。
「ホントだわ、浜比嘉さんの言うとおり!会いに行きましょうよ、みんなで!そして絶対言ってやるの、てめえ何様だ!偉そうにすんな!人類なめんなよ!!って」
藤間が高らかに宣言した。ヒムカの静寂は破られ、笑い声に包まれた。
ヒムカの笑い声はネットに乗って世界中に運ばれる。その笑い声は力強く響き渡り、静寂を吹き払う。地球を包み込むほどに。
それこそが、次のステージに進んだ瞬間。
人類の進化の、瞬間だった。
■エピローグ
東京、5月30日、23時59分40秒、尚巴と麻理子の会社。
「みんな!もしかしたら目の前に尚巴さんが現れるかもしれない。そしたらいつものように!」
「いいわよ真一さん!」
「頼む彩ちゃん。新田も頼むな!」
「ほぁい!ワタシだけ名前呼びじゃないけど頑張ります!!」
「あと5秒!4、3、2」
最後の1秒を、佐久間はカウントできなかった。
「ん・・尚巴さん、来ないな」
「うん、来ないね」
「まさかの麻理子さんも、落ちてこないよな」
「うん、落ちてこないね」
「うぁ~日付、変わってるぅ~」
間延びした新田の声。全員が時計を見た。
「さんじゅういち、31日だ!!おー!成功したんだ、未来が来たんだ!!」
佐久間が叫んだ。伊藤が佐久間に抱きついた。
どさくさに、新田も佐久間に抱きついていた。
去った5月28日、佐久間たちは尚巴から連絡を受けていた。襲撃予告を受けた浜比嘉教授、つまり麻理子の叔父を守るために、クロスライトに会いに行くことをだ。そして、麻理子の叔父に何かがあるか、または実験そのものが失敗すれば、また時間が戻る。だから佐久間たちにはいつも通り会社のフロアに集まって欲しい、ということも頼まれていた。
佐久間は尚巴たちに同行を申し出ていたが、それは尚巴が断っていた。それよりも失敗の時に備えて欲しかったのだ。尚巴たちはそれほどに佐久間たちを信頼していた。
「彩ちゃん、俺たちも結婚しよう!そして沖縄で挙げるんだよ、結婚式!」
「うん、真一さん、ううん、真ちゃん、あなたと結婚する」
伊藤は溢れる涙を拭うことも忘れていた。
「ほぁい!ワタシもします。結婚!!」
どさくさに抱きついている新田も叫んでいる。
「行きます!沖縄!で、ワタシ、ゆーみーのお姉さんになるの!!」
新田里央は沖縄での披露宴以来、麻理子の友人、宇那志由美の兄と付き合っていた。
「そして釣るのよ!夫婦で40キロのジャイアントトレバリー!!」
顔を見合わせる佐久間と伊藤、そしていつものように集まってくれた同僚たちも。
「にったぁ、お前はいっつも釣りばっか!!」
フロアは皆の明るい笑いに包まれた。
が、次の一瞬!全員の頭の中でイメージとメッセージが炸裂し、そして覚醒した。
「っ!・・な、なんだった?今の」
「真ちゃん、今のは?神様?なんだかすごい景色を見せられたわ」
「神様っていうか、あの人、3日間の箱庭を破ったね、すごいねって言ってましたよ?」
「そ、そうか、そうだな新田!とにかく3日間は終わりって事だ。まあいいさ!沖縄で聞いてみようぜ、麻理子さんの叔父さんにさ!」
佐久間たちは全員、難しいことは考えないタチだった。
・
・
東京、黒主家、5月31日、創造主のイメージの後。
「ねぇ、あなた。今のって来斗くんの力じゃないわよね」
「そんな訳ないよ。来斗も言ってたろ?僕はただの中学生だって」
「そうよね。来斗くんは、ホントはただの中学生なのよね」
去った5月28日からずっと、正平と聡子は宮崎から配信される動画に見入っていた。そこには、クラムの過激派クラムシェルを前に一歩も引かない息子が、そしてクラムシェルに勝利し、世界にメッセージを送る息子がいた。
「君もよく来斗ひとりで行かせたね。来斗がクラムシェルと敵対することが分かったときは、あんなに反対してたのに」
「うん、あなたは逆に来斗くんを応援してたわね。やっぱりあなたはすごい父親だわ。それに、来斗くんも強かった」
「ああ、来斗は強くなった。虐められていた頃の来斗はもういないな。たった3日間なのにね、時間って繰り返すだけで、やっぱり人って成長するんだなぁ」
「あ、私もね?成長したと思うのよ?ただ取り乱すだけじゃなくなったでしょ?」
「ん?どんなとこ?」
「分からない?だって私、来斗くんのために利用してたんだから、小鉢さんたちを!」
「なんだって?君のあれ、小鉢さんとニコニコ仲良くって、全部演技だったの?」
「そうよ~、だから宮崎にも小鉢さんたち、行ったでしょ?」
-あぁ、女って、こわい。
正平は言葉を失った。
「あなた!もう考えることないわ!来斗くんが帰ってくるわよ?あ、小鉢さんも付いて来ちゃうかしら、もう、やぁねぇ」
-小鉢さん、かわいそ。
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「さぁ!今日の朝もベーコンエッグよ!!」
聡子は張り切っている。
正平の笑顔は、苦笑いだったが。
・
・
東京、5月31日、某所、某時刻。
「見たか今の!聞いたかお前ら!!」
男がわめき散らしている。
「だからあんとき言ったろ?俺の言ったとおりなんだよ!俺が正しかったんだ。クロスライトなんぞもうどうでもいい!神だ、神の御業なんだよ。結局のところ俺たちなんてさ、神様がこしらえたゲームの中の、ちっぽけなモブキャラそのものなんだよ!!」
看守が顔をしかめる。
「鈴木、静かにしなさい!いま何時だと思ってるんだ!」
鈴木の声は更に大きく、東京拘置所に響き渡る。
いつまでも、繰り返し。
繰り返し。
了
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