よそゆきの
先日、木更津で法事があった。木更津は千葉とはいえ、都内からはまあまあの距離がある。
大往生のおばあちゃんの三回忌、フォーマルじゃなくていいよと言われても、それなりにフォーマルっぽい格好を選ぶことにはなる。
そして、こういう時のために一揃いだけ用意しているパンプス。
就活生や会社員女性の多くが毎日履いて歩き回ることについて物議を醸している、あの、パンプスだ。
私はたった半日でも音を上げる。踵には靴擦れ、足の小指は両方にマメができる。これでも、ほんとうに合わない靴よりはましな方だ。
履き始めは良くて、なんだかすっと立って姿勢よく歩けるようになった気がして、いつもの自分と違う感覚、いつもの自分と違う靴音に「社会人」あるいは「親類で集まる時」のよそゆき感が小気味よくもある。
大人らしくそこに溶け込むことができたという、どこか誇らしいような気持ち。
颯爽としているうちは、気づかない。
その靴が、本当は足に合っていないかもしれないこと。ストッキングで絞り上げて、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ感覚を「ぴったり」と勘違いして、その窮屈さや痛みに気づこうともしていないかもしれないこと。
私は先日、陸上をやっていた友人に付き合ってもらって、ちゃんとしたランニング用のシューズを選んでもらった。
その時言われたのは、私は足の甲の幅(ワイド)が広いということだ。レディースの、ひとつ大きいサイズのワイドから探してもまだすこしきついくらいだ。
ふだんはほとんどヒールのないスニーカーしか履かないのに外反母趾のようになってしまった理由も、このあたりにありそうだった。
あれこれ試して結局、メンズのスリムサイズで1番小さい25.0のシューズを選んだ。
自分の足のサイズを、タテの長さだけでなく形まで考えたことが、これまであまりなかった。
考えたところで、パンプスにはそれほど選択肢が多くない。フォーマルとなればなおさらだ。これでも、先が尖ってないだけまだマシなのだろう。
「フォーマル」の前には、人の個性などというものは黙殺されてしまう。たとえ不具合を起こすほどに、自分に合っていないものだとしても。
そのことに、ものすごく不満があるわけではない。大体は、その日だけのことだし。
ただ、自分にそぐわない入れ物に押し込まれた自分の足を、なんとなく、他人のもののようにみてしまうのだ。
よそゆきの足、よそゆきの私。
その姿はいつしか、痛みを痛みと感じることなく「これがあたりまえで、こういうものなのだ」と思うようになった自分と重なっていく。
サポートしていただければ今後の創作・表現活動に大切に使わせていただきます。めちゃくちゃ喜びます。萌える毛玉になって跳ねます。