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あえて「モラル・ライセンシング」してみてわかったこと


実験的に「モラル・ライセンシング」を先取りしてやってみる、ということをしている。

やってみて、これまでにない気づきがいくつもあったので、書いてみようと思う。

モラル・ライセンシングとは

まず、モラル・ライセンシングとはというところから。

これは、簡単にいうといいことをすると悪いことをしたくなる、自分へのご褒美といってつい甘やかしてしまう……などを指すそう。

たとえば、
運動したご褒美におやつを食べてしまうとか、
昨日今日と頑張ったから今日はちょっとくらい怠けていいよねとか。

「モラル・ライセンシング」で検索をかけると、
「モラル・ライセンシングにハマっていませんか」や
「モラル・ライセンシングの罠」など、
主に悪い意味の記事ばかりがヒットするので、ここに良い意味はないのだろうと思う。が、今回は敢えてそれをやってみることにした。

なぜならhaLunaは思いっきり自分を甘やかす実験中だから。

具体的には、「ご褒美!」と思うことだけやる、ショートケーキのイチゴから食べるような毎日を送っている。

これ、グダグダになるんじゃないかと思ったら、案外大丈夫どころかむしろ気づきがいくつもあったので、紹介していく。

気をつけたのは、これだけ

これを実行するにあたって気をつけたことがある。
それは、その時本当にやりたいことなのかどうかをきちんと見極めること。

ただダラダラしたいのか、心から「やりたい! オラわくわくすっぞ!」なのか、
あるいはやりたくないことからの逃げでつい手が伸びているものじゃないか。

これが吟味できてりゃモラル・ライセンシングじゃないやん! というツッコミが入りそうだが(というか、今書きながら自分で「そういうことか」と納得したなど)

ただ、「今猛烈に文章が書きたいよう! でも先に練習しなきゃ……」というような時は、どんなに練習の優先順位が高くても文章が書きたいようの方を選ぶことにした、といった具合だ。

自分にとって「善いこと」を優先するのではなく、「ご褒美」から手をつけることにしたのだ。

その結果、思わぬ効果をいくつも体感している。

気がかり(今本当にしたいこと)がなくなって、かえって集中できる

あくまで自分の場合はだが、気になっていることはそれをやり遂げるまでずっと頭の中にあることが多い。
どうせ気がかりだったり、気を逸らされ続けたりするなら、「今こっち!」と思うことをどんどんやってしまった方が能率がいいっぽい。

やりたくない! と思っていたことが、そうでもなくなる

ああぁやりたくない、やだやだ、と思っていると、自分の中の駄々っ子が暴れだして、どうしても手をつけられないことが私は多々ある。

意志の力で「とにかく手をつけれ!」と多くの人が言う中、どうにもそれがうまくいかなくて苦しんでいた。

参考↓↓

ところが、「いいよ好きなことやって。いいよ嫌ならやんなくて」という気持ちで構えてみると、

どういうわけだか、憑き物が落ちたように取り掛かれるということが何度もあった。

とても不思議なのだが、これは自覚しているよりも根深いことなのかもしれない。
つまり、「自分の手によって、やるように強要されてきた」と、自分に対して恨み千万大反抗期なのかもしれない、と感じている。

うーむ、まあ、気分さんをこれだけ蔑ろにしてきたのだ、ある意味仕方ない。

結局、やりたくないことのうち「やらなきゃ」が生んだものが6割くらいはあるような気がする。

自分を責めなくなる

「やらなきゃ」「やっちゃダメ」から解放されるうえ、自分のしたいことをしたいだけする許可が与えられる状況。

これをひとまず(一ヶ月という)期間限定で作ったことで、心配事も先送り、追いかけられる状況も極力少なくした。

すると、当然仕事の動かせない締切はあるものの、それだけなので、けっこう余裕なのだ。
というか、完全に「したいこと」「しなければいけないと思い込んでいること」「ほんとうにしなければいけないこと」を混同していたなと。

全部義務にして自分におっかぶせて、そして自分でヒーヒー言ってたわけで。
あれもできてない、これもできてない。それもそうだ、オーバーワークな上に今日明日結果の出ないことまで焦りを引き受けて、いつも自分を責めることで駆り立ててたんだよね。何年も。
ほんとごめんな自分。

人と比べなくなる

人と比べて落ち込むことのほとんどは、(私の場合は)蓋を開けてみれば実は本心からやりたいことじゃなく「これ、昔やりたかった気がする(実はコンプレックスで、昔の自分を救いたいだけ)」ということが多かった気がする。

ないものに憧れて自分を恥じている時、そこに本当に自分がやりたいことが入っているかどうか、よーく問いかけてみると、
全部ではないにしろけっこうな割合で「必要だと思い込んでいるもの」だったり「他人の決めた、より優れたもの」に憧れているだけだったり。

それを自分に問いかけて、本当にやりたいことなら、人のことは一旦置いといて楽しめる形でやればいいよね、と考えると、
人の挙動や、所属するコミュニティでの流行りに振り回されることがなくなってきた。(というか、振り回されていたことに気づけた!)

「私自身」「自分軸」に立ち返る習慣が身につき始めた。

疲れ、集中力の切れにも敏感になる

「やりたいときにやる」「やりたくないことはしない」を分単位でも適用するようにした結果、
自然と、ちょっとでも不快だなとか疲れたなと思ったらやめるようになった。

分単位で適用するということは、ほんの少しの変化でも立ち止まって向き合うようになったわけで、

そうすると、「あ、今疲れてるな」「集中力切れてるな」「あとちょっとは大丈夫かな」ということに気づけるようになった。
気づけるようになると、これまでいかにそれを見過ごしてきたかに驚く。
もう無理しんどい吐きそう、ってなっても区切りが来るまではやろうとする、そういう癖が身に染みていたとつくづく思う。

今もここに関してはとてもあやしいので、注意深く「疲れてない? てない? ない?」と問いかけまくるようにして、なおかつ「途中でも手を離していいんやで」と言い聞かせている。

むしろモラル・ライセンシングあるあるが減る

自分の声に耳を傾けることで逆に、世に言うところのモラル・ライセンシングに陥ることが減った。

仕事頑張ったから、ストレスに耐えたから自分へのご褒美ね、っておやつを食べる時、やっぱり立ち止まって自分の心に耳を傾けてみる。
すると、実は別にお腹がすいているわけではなく、休めない、しんどさを紛らわすための代償行動だということに気づく。

やらなきゃいけないことがある時に限ってネットを見てしまう時も、自分を振り返るとそこにはネットを心の底から見たい自分は別にいなくて、ただ「やらなきゃ」を回避するための行動に過ぎないとわかる。

あ、なんだ、私これがやりたいわけじゃないんじゃんって気づいたら、自然とそのような行動を取らなくなった。

まとめ・しんどさはジレンマの自家中毒

やりたいことをしようとすると「そんなことをしてる場合じゃない」という思いがわき、
やらなきゃいけないことをしようとすると「これは今やりたいことじゃない」と思ってしまう。

この二つの間で延々と気持ちが振り回される現象も、いたずらに気力を削る原因の一つになっていたと思う。
否定の気持ちを行ったり来たりして状況がループする、まさに自家中毒的な悪循環。

無意識に自分に課していたことが「楽しむ気持ち」「素直な感情」に対する否定や禁止だった……というパターンは、自覚していたよりもずっとずっと多かった。


それで、社会人一年目だった私と、令和元年の私とあなたに言いたいのは、これです。

みんな、善いと思うことよりも、自分の心に適う好きなことをするんだ……!

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