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ふわふわ…

あたらしいクスリを手に入れた。
ふわふわするクスリ。
いきなり一錠まるごと飲むのは効きが強すぎるから、半錠をおそるおそる、口に放り込んで。

天と地がひっくり返る。くるんくるん。
危ない橋を渡りたくはないけどワクワクは欲しい。

あなたは私の隣で寝息を立てている。シラフで眠る人。さっき、私の話を聞きながら、ふとてをのばし、胸に頭をうずもれさせ、その腕で包んでくれたでしょう? 嬉しかった。
どうしてそんなことをするの、急に? そう確かめたいのをぐっとこらえた。
あまりにも野暮だ。

天と地がひっくり返って、しあわせとふしあわせも、ふつうとそうでないことも入れ替わってしまう。だから、きっと私はいまとってもしあわせ。
なにもしなくていいなら、このまま。

このクスリは、ちゃあんと、調剤薬局でもらってきた。飲みすぎてしまわないように、容量の小さな錠剤をさらにはんぶんに切って、ひとつずつパッキングしてくれた。
粉薬が入るような大きめの袋に、ふあんになるほど、ちいさなちいさな錠剤。
これを2種類合わせることで、効果が出るんだと医者は言っていた。

小さないびきが聞こえた。起こさないようにそっと、そちらに顔を向けると、変わらずおだやかに眠る彼の姿があった。

あぁ……、「あちら側」のひと。

きょう、私にはひとつの診断が下された。
もう何年も何年も前に切望して、そして諦めた、なんらかの名前。
自分で何とか乗り越えてしまったがゆえに、医師にも友にも上手く伝えられることもなく、看過してきてしまったあれこれ。
それらがついに、ちいさな反逆を起こして、どうにもならなくなった。

私に与えられた、あたらしい定義。
その文字列を、まじまじと眺めている。私はこの先、この子とうまくやっていけるだろうか? これまでみたいに。

夜が、世界中の夜が「ない」の「ある」を主張している。締め切った深夜のプールの更衣室のように不気味に。夜はしずかに怒っている。
私はその扉を開けてしまったのだから、「これまでみたいに」なんて甘っちょろいことが通用するはずがないことも、じゅうにぶんに分かっている。


ねえ、きみ。きみは私を護りながら奪った。

平穏のなりをしてそこにいた数年が、きっとトランプを返すように「さかさま」になる。
私は「こちら側」に来てしまった。否、もうずっと長いこと「こちら側」であったことを、思い出そうとしている。

「おくすり」を使って、私はやがてこの一心同体の影と決別するのだろう。
その時、わたしの定義も座標軸も様変わりして、私がどこまでわたしなのかも曖昧になるのだろうか。
……いや、もうとっくに曖昧なのかもしれない。
じぶんが何者なのかも知らずに生まれ、生き、死んでいく。多くの生物がそうであるように。
なんてプリミティヴな回帰だろう。

「あちら側」のひとびとは、寄り集まって、互いを互いの錨としている。鎖の目のように連なって、じぶんを定義している。
わたしたち「こちら側」は、その目をすり抜ける。
こぼれ落ちるものが思いのほか、たくさんあるということを、よく知っている。

尊厳、矜恃、良識、摂理、欲望、本能。
よいクスリとわるいクスリを分けるのはだれ?

そうしてワタシは、ひとだったころを思い出して泣く。

#創作 #小説 #短編 #エッセイ #薬 #とは #狂気

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