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【日記】自分が読みたいと思う物を書けばいい

僕が小学生の頃の話

クラスメイトに、たちばなはるか(仮称)という女の子が居た。

入学したての僕は彼女のことをなんとなく気にはなっていたが“好き”とかそういう感情では全くなく「小さい女子がいる」「かわいい」という認識だった。

3年生になり、なんとなしに彼女のことを観察していると、どうやら彼女は、やっぱり、顔が可愛い。そのことが僕の“好き”という感情を呼び起こした。恋である。

最初に言っておくが、これは恋が叶う話でも失恋した話でもない。この恋は実らず、かといって告白をしたわけでもなく、ただ遠くから眺めているだけだった小学生時代の話。

話したい話、に入る前に事前情報を二つ。

一つ目。たちばなはるかは、顔がいい。学年、いや学校、おいては街で一番顔がかわいいと言っても過言ではない(と思っていた)女子で、そこを第一に好きになった。

彼女についての情報はこれだけ。外見の記憶しかないのは、話をしたことが無かったら。僕が彼女を遠くから眺めているだけだったから。

小学生男子の僕は女子が苦手だった。女子が嫌いだとか女子をバカにするタイプの苦手ではなく、単純に免疫がなくて距離感をはかることができなかった。女子苦手に対する薬がもしあるのなら、適量を処方をしてほしい。そんな妄想をしつつも、なにより、自分が女子に対して興味を示しているなんてことを男友達に知られることに抵抗があった。一つ目の情報で言いたいことは以上。

二つ目。僕が通う小学校では、学年ごとに名前がついていた。例えば「希望」「未来」といった漢字二文字の、その学年を象徴する言葉みたいな言葉がつけられていた。

入学するときに勝手につけられるので、毎年、京都・清水寺で行なわれるその年を代表する「今年の漢字」のように、学年を象徴するものではないのだけれど、今思えばそうやって決めてしまうことで、子供たちに“心に秘めたる何か”を意識させようって狙いがあったのかなって思う。

そうして僕たちにつけられた名前は「銀河」。おそらく“希望の星”的な意味合いなんだろう。僕たちが卒業する年に入ってきた一年生は「スマイル」だった。ひとつ前の世代で漢字二文字を使い切ってしまったのだろう。二つ目の情報は以上。

やがて6年生になり“学年お楽しみ会”なるものが小学校にて開催された。体育館で行われた、ボールや大きい布を使うレクリエーション。何を楽しむんだって感じだが、当時の僕たちは紛れもなく子供だったので、だくと流れる汗も拭かず、自分が何者であるかもわからなくなるほど体を動かした。

学年お楽しみ会もフィナーレを迎え、体育館の上空には、先生たちの息で膨らまされた風船と、先生たちが刻んだ紙吹雪が舞った。

僕はそれを目で追いながら、そして、その時間は不意に訪れた。

「綺麗だね~」

視界の端に、たちばなはるかがいる。体育館の窓から差し込む光が、彼女の髪の先で、きらりと輝く粒となって宙へと散っていく。彼女はこちらを向いて言うわけではなく、空を見上げていた。僕は彼女を向くわけにはいかない。この気持ちがバレてしまうから。僕は目尻を目いっぱい拡げ、その横顔を眺める。

まるでこの世界に僕と彼女しか存在しないような錯覚。視界の端でも天使の輝きを放つ姿は、僕の脳裏に焼き付いた。そうして同時に僕は悟った。ああ、これが恋なんだ。今が人生のピーク。これからどんなに成長しても、僕の人生の中で一番の瞬間だ。彼女から僕に話しかけてきたんだから。

2024年いまの僕だったら、こっそり君の目を見つめながら「うん、綺麗だ」とつぶやくだろう。君は「ん?(なにか言った?)」の顔で僕を見上げ、僕はそれにまた、綺麗だと言いそうになる。漏れそうになる言葉を堪え、そんな自分が恥ずかしくなり、楽しくなり、風船に向かって走り出そうとする。「はるかちゃんも行こうよ!」僕はこんなふうに声をかける。格好つけて呼び捨てにするのはダサいから。

小学6年生の女子の心は少しずつ大人に。彼女は僕に「子供みたいで恥ずかしいよ~」と言うだろう。僕は「今も子供だろ~!」と言いながら君の手首をつかみ、風船と紙吹雪の元へ連れていく。僕と君、ふたりきりの世界を広げよう。一緒にはしゃぐ僕らはまるで……

しかし現実はこうだ。風船を眺めていたら隣に彼女が来て、綺麗だね~と話かけてきたまでは一緒。僕は答えた「うん」。

彼女はその場を去らず、続けてまた話してくれた。

「銀河みたいだね」

彼女はなんて素敵なことを、雰囲気作りが上手い子なんだと、過去を振り返った今そう思う。

僕は何も考えず、頭によぎった知識をそのままひけらかした。

「銀河ってゴミがあつまって出来てるんだよ」

彼女は笑顔で「へ~!」と言って走りだした。風船ではしゃぐ彼女を眺める僕は、ひとりきりに戻った。とりあえず男グループに戻って、風船をおしりで割る遊びをした。

彼女とはそれから何があったわけでもなく、避けられたわけでも仲が良くなったわけでもなく、顔見知りの距離感のまま卒業を迎えた。

ちなみにこの恋は中学生編につづく。


過去の発言というものは一生ついてまわる。僕の場合は誰かに何かをされた時よりも自分が何かをしてしまった時の記憶の方がずっと多く残っている。

そのひとつが先ほどの「銀河の放言」。

しなければよかった発言もあれば、当然、してよかった発言もある。褒める、許す、寄り添い、思いやり。してよかった発言は、言葉よりも行動の記憶が濃く残る。言われた側は言葉を記憶する。

何を言ったかは徐々に忘れていってしまうのだ。だから僕は、してよかった発言を記録に残そうと思う。


してよかった発言①

それは、まだ少し夏になる前の、暑い日のできごと。とあるビルでパソコンを使って働く僕(男)が朝、いつものように出勤しました。デスクの上のエアコンが稼働しています。冷たい風が吹き出し、僕を迎え入れてくれました。そしていつもどおりの業務をこなしていきます。仕事もある程度区切りの良いところまで終わり、僕は席を立ってお手洗いに向かいました。今日はいつもより尿意を感じる気がします。水分を摂り過ぎたからでしょうか。

オフィスに戻るとデスク周りにいる先輩たち(ほぼ女性)がざわざわしています。「エアコン効きすぎじゃないですか?」「寒い……」皆さんそんなことを言っており、皆かわいいブランケットを肩にかけています。女性は寒さに敏感だという話がありますが、男の僕も寒いと感じてきました。言われるまで気づきませんでしたけど、言われたら確かに凍えるように寒いのです。

「私のところ、特に寒いんですよ」「この羽の向きが悪いんですかね」ざわざわ申しています。(エアコンは業務用で、風向きを調整する羽が付いている。その羽は「ウェーブルーバー」というらしい)

先輩たちは僕を心配して聞いてくれました。

「○○さんは寒くないですか?」

僕は咄嗟に答えました。

「心を強く保っています」

すかさず「寒いんじゃん!」と、笑いながら言われました。

自分の発言を自分で気に入ってしまった僕は、その後の業務中も思い出してはにやにや。バレないよう、その日は何度も口元を隠しました。考え事をするとしてしまう、唇を触る癖。それも相まって口の周りにニキビができてしまいました。

キーボードは清潔に保とうと思います。


省エネの話

猛暑が続く中いかがお過ごしですか。御多分に漏れず僕、涼しいところでゴロゴロと過ごさせて頂いておりますが、皆さんはどうでしょう。エアコン、つけていますか。

さて、僕の家のエアコンには、省エネを知らせる機能が付いています。冷房では、28度に設定するとリモコンに「省エネ」の文字と笑顔の絵文字が表示されます。この「省エネ」は一体どういう意味なのだろう、というのが今回のお話です。

省エネ:省エネルギーの略。毎日の生活の中で使っているエネルギーをムダなく、上手に使うこと。

リモコンに表示されている「省エネ」の文字が意味することとは。28度にすれば節約になるよってこと?それとも、世界の為、地球の為になるから少し暑くても、電気代が高くなったとしても、この温度に設定しようってこと?

このリモコンに表示されている文字は、誰のための言葉なんだろう。僕を本当に思っているのなら、一番節約になる温度で「省エネ」と表示してほしい。

いま僕は、世界を思い遣るなんて高尚な考えじゃなく、ただ僕を労る思いで、28度に設定している。27度にするとちょっと寒い。僕の肌は敏感だ。


してよかった発言②

髪を切った。

伸びたら切るを繰り返しているので(みんなそうじゃない?)、いやみんなそうなんだけど、結構伸びたら一気に短くするのが僕なの。(なるほどね~4か月に1回のペースとか?)あーそう、そんな感じ。今回は3カ月ぶりに切ったんだけど、センター分けのような髪型からショートヘアにしたんだ。(だいぶ切ったね)まあな。切ったのは美容師だけどな。(へっ)

髪を切るとだいたいの人に言われる言葉がある。

「髪切ったね」

僕はその返事の仕方をいくつか用意している。例えば「ヘアドネーションの為に切りました」「通りすがりのカニが切っていきました」「頭皮の中に引き戻しました」「振られた友人の代わりに僕が切りました」。

今回「髪切ったね」と言ってくれた人は、職場の上司(女性)。用意しておいた言葉で返事をするには、どうも相手が悪い。冗談が通じる相手だが、彼女にはまだ僕の人間性をあまり知られていない。少し程度を抑えて返事することにした。

一部始終をどうぞ。

上司「あら~髪切りましたね~。さっぱりしていいですね~」

僕「あ、へっ。(切ったのは美容師だけどね)気づいたらこうなってました」

上司「ん?え~?」

僕「夏の暑さにやられて、衝動的に美容院に行ったので。へへ」

上司「あ~!夏だもんね!いいね~」

僕「へへ!」

僕が口にした「気づいたらこうなっていました」に対し、上司が見せた「?」の顔。何も考えず放った僕の言葉に僕が期待していた言葉は「なにそれ~」。止まりそうになった空気。場を繋げるため、咄嗟に出た「夏の衝動」発言。

昔、男友達に言われた「営業職に向いてるよ」。どうやら僕は“ああいえばこういう”能力に長けているようで、人付き合いの面でも、その場凌ぎの発言が得意なのだと思う。女友達には「結婚詐欺師に向いてるよ」と言われた。真剣な話をできるだけ避け、冗談話ばかりでお茶を濁すのだからそれもそうかと思う。遊ぶには良い男だ。

ということで、咄嗟に言い返しができたなという、してよかった発言の話、でした。


猫の話

キッチンは広いが収納が下手なので、キッチンに物があふれてしまう。

特にシンクの下や電子レンジの上、トースターの上がケイオスな状況に陥っている。しかし引きで見れば、実に機能的で使いやすいキッチンである。決して散らかっているようには見えない。キッチンが広いからだ。

だがどんなに明るく広く、合理的なキッチンでも、物が雑然と置かれていると家の魅力は損なわれてしまう。家は、内と外を繋げる場所である。いいキッチンは、外部に向かって開かれる。どこからでも見える物は美しく整理されているべきだ。それは玄関だけでなく、キッチンも同じなのである。

この心構えをすでにお持ちのあなたは、とても素敵な主だ。

今回、僕のようにキッチンを「隠れた地獄」「この世の吹き溜まり」化させている人に向けたライフハックをご紹介しよう。

おそらく、あなたの家のトースターの上には、金属のボウルが置かれていますね?我が家も同じです。トースター使うたびに熱が伝わりアチアチになりますよね。そんな風に置いたボウルの上にシリコン製の鍋ふたやタッパーを置いていますね?こんな風に、上手く生きれていない僕たちは、床にボウルやタッパーを落としてしまいます、よね。

そんな時はすかさずこう鳴きましょう。

「にゃぁぁぁ~~」

猫です。

猫のように鳴くことで“猫のせい”にできます。本当に猫と暮らしている人は、本当にその猫のせいになってしまうので、猫を飼っていない人に向けたライフハックです。

落としてしまう物によって、猫の鳴きまねは「みゃぁ」と「にゃぁぁ」の使い分けをしましょう。上手に使い分けてみてください。コップを落として割ってしまった時は悲しみもひとしおですので、大きな声で

「みぃぃぃぃぃ!」と鳴きましょう。

ライフハックが気に入りましたら、拡散お願いします。
(推奨ハッシュタグ #架空猫請求


してよかった発言③

出勤すると、エアコンの羽(ウェーブルーバー)がデスクの上に落ちていた。やがて皆も出勤し、どうやって落ちたんだとざわざわになった。ひとりの先輩(女性、コナンとヒロアカが好き)が僕に言った。

「上に落ちてきたら怖いですね」

僕は「た、たしかに」としか答えられなかったけど、たしかに怖い。とりあえず、羽についていた両面テープを新しい物に張り替え、また設置。

しばらくして、別の部署のデスクでドンと音がした。エアコンの羽が落ちてきたらしい。オフィス中がざわざわになった。

同じ先輩が僕に言った。

「これで真実が明らかになりましたね」

僕はぼそっと答えた。

「社交性のあるコナン君」

先輩は「むんふっ」と笑ってくれた。もう二つ用意していた答えである「名探偵ミツヒコ?」「子役で活躍してる礼儀正しいコナン君?」とどっちがウケただろうか。

とにかく、人が笑ってくれるのは嬉しい。してよかった発言だった。


おしっこ星人の運動会の話

いにょいにょ選手のにょうじょうです!

笛の音にあわせて、行進!
Pee Pee Pee!Pee Pee Pee!Pee Pee Pee!PEE~~~

おしっこ星人のうんにょう会


ホラーの話

ホラーの話。映画、漫画、ゲーム問わず本当に良い作品に出会った時っていうのはいつだって心が奮い立つものです。ただそんな“良い”と感じた作品でも、自分だったらこうするなとか、ここはこうして欲しいな、など色々と意見が出てくるものです。そして大体そういった発言には必ず反論が返ってくるものなのですが、僕の出す意見は批判は込められておらず、ただ自分好みにこうならよかったなと思うものを語っているだけであって、誰を責めるものでもないし誰かを否定したり貶したりするつもりはないのです。これは、枕の位置を変えるように、お風呂の温度を調整するように個人差がありまして、僕の場合はたまたま自分の理想となる作品がより良く見えてしまうというだけです。

そして、その作品に対して「こうすればもっと良かった」と意見する人の気持ちも分かるし、「これはこれで良い」という人の意見も分かります。ただ、その意見の相違は、どちらが正しいか間違っているかという話ではないのです。それは、その人がそう感じたというだけの話であって、その人の感じ方を否定したり責めたりするものではないのです。

以上を前提とし、いくらか「ホラー」、そして「恐怖」をテーマに、思うところを述べていきたいと思います。


▼過去の「ホラー」についての記事はこちら▼

・「恐怖」の面白さに「音」は必要ない。音が恐怖に一役買っている、というのはよく聞く話です。確かに音は人の恐怖心を煽るのにはうってつけです。例えば、ホラー映画を観る時、大きな音が出ればそれは怖いでしょう。しかし、それは現実では発生していない音なのです。足りない映像の怖さを音で誤魔化しているようにしか見えないのです。特に最近の映画には“ジャンプスケア”が多い気がします。意図して大きな音と共に画像や出来事を突然変化させる手法は、ホラー映画に限らず、ファンタジー映画やアクション映画でも見受けられます。しかし、その大きな音で迫力を持たせることと、恐怖を演出することは、全く別物なのです。

・「恐怖」の演出は「映像」にこそ宿る。持論ですが、ホラー映画における恐怖の演出に欠かせないもの、それは「無音」と「違和感」です。無音は言わずもがな。違和感とは何か?三つ答えます。

一つ目、それは“映像に映っているのにそこに存在しないもの”という感覚です。例えば、あるシーンで突然人が倒れたとしましょう。その人の周りで人は何事も無かったかのように動いているし会話もしています。しかし、その倒れた人だけが動いていないのです。「無関心」は我々の生活する世界では日常行われている行動ですが、映像の中ではこの“動かない(行動しない)”という演出に、観客は違和感を覚えると共に、その時間に恐怖するのです。

二つ目、それは“映像に映っていないのにそこに存在するもの”という感覚です。これは、人のいる場所や時間と、そこにいないはずの人が存在するという矛盾を演出することです。例えば、誰もいない部屋なのにテレビが点いている。誰も触っていないのに物が落ちるなどです。

三つ目は“映像に映っていたはずなのに存在しなくなるもの”という感覚です。例えば、人が突然現れたと思ったら次の瞬間には消えていたり、その逆もまた然りの演出です。この時、主人公は気付いておらず、観客の我々だけがその“存在”に気付いている、というほうが僕の好みです。

と、ここまで「無音」「違和感」について述べましたが、これらが恐怖の演出に必要である理由は、その映像に映っているものが何なのかを“観客に考えさせる”からです。そして、その違和感や無音によって生まれた不安感は、やがて大きな恐怖へと繋がっていくのです。

・ホラー映画とは、観る側に感情の主導権を与えない物語である。恐怖の演出が上手な映画は、観る側の感情や思考に一定の方向性を与えます。「こう思ったら負けだ」と自分に制限をかけたり、「この状況は一体?」とまるで観客が物語の主人公になったかのように思考するのです。感情移入を超えた自己投影と言えましょう。この“映画を観ながら自分の感情や思考を支配される感覚”こそが、ホラー映画の魅力であり、恐怖なのです。

・音と同時に怖がらせるジャンプスケア、を多用するホラー映画は好みじゃないが、映画全体を通して一回だけならアリだと思います。(許す) 大きい音を出される事が嫌なのではないのです。後半になればなるほど大きい音や衝撃の映像が多用されるのは、展開上あたり前のことですから。ただ僕は、驚きたいわけではなく、恐怖の美しさ・アート性を映画から感じたいだけなのです。

名作ホラーと言われる昔の映画たちには、いくつかの共通点があると思いますが、音に関してひとつ挙げます。それは、恐怖映像が出た後にデデーン!と音が鳴ることです。この音で、観客は「あ、終わった。もう大丈夫」という安心感を覚えます。そして、その安堵感からくる“気の緩み”が、逆に怖いのです。驚かされたのではなく、怖いものを見たという記憶が強く残るのです。

・ホラー観てる時の映画館寒がち。

・テレビ番組で紹介される心霊写真、家族と見てる時は「別に怖くないけどね」という態度でいるが、ひやひやしながらどこにいるか探して見つけてゾッと怖いがち。

・実際に自分の写真に心霊写ってたら、きっと、ちょっと面白く感じてしましそうがち。

・誰かの身に起きた心霊話や再現ドラマを見て、怖い怖い怖いってなるが、いざ自分のところにやって来た幽霊は怖くないがち。だって、倒せるから。

・心霊経験がまったくないので体験してみたいが、こちらから会いに行くことはしない。向こう側からやってくることを待つのみである。幽霊にも都合があるだろうから、そのへんは臨機応変に。

僕はこの人生で、幽霊を目にしたり、死者と交信したことが一度もない。もちろん霊界からの通信もない。忙しない日々の中で生死の一線を浮遊している者としてはいささか寂しい気がするが、一度でも交信してしまうと取り返しがつかないような気もするのである。

それでも夏になると僕は、人知れず心霊関係の記事を読みふけったりしている。そうでもしないと心もとない気分になってくるのである。生前の記憶が僕の中に沈澱していて、お盆のときなどにそれが亡霊のごとく浮上してきたりはしないだろうか。無意識のうちに故里へ足を向けていたりはしないだろうか。考えは募るばかりだが、しかしどうやらそんな気配はなさそうだから安心していていいようである。

最近の傾向として、物的な世界と関りのあるところで生きるのが、なにやら不安になってきた。この世界は、情報に満ちあふれている。そして人々は、その膨大な情報に操られているかのようだ。盲従そのもののような生活振りである。テレビをつければすべてのチャンネルであらゆる情報が提供されている。X(旧Twitter)はこれでもかこれでもかと波状攻撃を仕掛けてくる。街を歩けば広告が洪水のように目に流れこんでくるし、いたるところでセールの嵐である。僕はその情報の濁流の中で息も絶え絶えになりながら、かろうじて生きているのである。

「情報」が「情」に取って代わられたのはいつからのことだろう。そして「情」はどこに追いやられてしまったのだろう。この傾向は今後ますます加速度をつけて進行していくだろうと思われるが、その行く着く先は、どこなのだ。 情報の海をゆらゆら漂っていると、僕はときどき、自分がいま人間であるのかどうか、ひどくあやふやな気持になることがある。いっそのこと幽霊が僕を連れて行ってくれたら、こんな情動からはすぐに解放されるだろうに。

そんなわけで僕は、部屋の窓際にすわって夜の通りを見張りつづけた。何事も起こらず、三日が経ち、一週間が過ぎた。しかし依然として、何の気配も感じられないのだった。そんな簡単に幽霊を見つけられるわけはない。イルカウォッチングツアーじゃないんだから。

それから二週間目のことだ。雨が降りつづいていた。その日も窓のそばで寝起きして、そろそろ会社へ出かけようとしていた時分である。出がけにふと見ると、窓のさんに小さな紙袋が置かれている。なかには手紙が入っていた。雨に濡れないようにだろう、それは二重袋になっていた。

手紙は丸い文字で書かれた女性的なものだった。

「前略。突然このようなものをお届けします失礼をお許しください」という書きだしで、「あなたは一週間前、夜遅く窓際にすわって外を眺めていらっしゃいましたね。私の目には、あなたが暗闇に向かってじっと目を凝らしていらっしゃるように映りました。なんだか心配事でもあるみたいに見えました。それで勝手ながらお手紙を書かせていただくことにしました。ご迷惑をかけるつもりはありませんのでご安心ください」とあった。

「またお目にかかることができれば嬉しく思います」という言葉で手紙は結ばれていた。

僕はその手紙を手に、しばらくのあいだ呆然としていた。

これはもしやもしや、もしかすると、僕が待ち望んでいた霊界からの通信ではないのか。その日の夜も窓にかけ寄り、外を覗いた。十センチほどずらしたカーテンの隙間から。しかしそこには雨に濡れたいつもの夜の通りがあるだけだった。街灯の光がてらてらと光るだけで、人っこひとり見当たらない。

僕は信じてみることにした。この手紙が幽霊からのものであることを、つまりこれが死後の世界からの通信であることをである。

なんてこった。あまりにも話が早すぎるじゃないか。

「またお目にかかることができれば嬉しく思います」という最後の結び文句に、まだ返事を書いてもいないのにとあわてたが、よく考えればこれは霊界の通信なのだから、僕の書きように関わりなく、一方的に用件を告げて終わりということだってあり得るのである。あちらの決まりに合わせ、臨機応変に。

それにしてもなんと気の早い話なのだ。僕はそわそわするばかりで、当面どうやってこの幽霊に返事を書いたらいいものか、まるで思いつかなかった。窓の外を、紺色の傘を差したサラリーマンや学生がひっきりなしに通り過ぎていった。道路はそれらの人たちの行き来で活気づいていたが、そのどこにも幽霊は見あたらない。朝には出てこれない決まりなのだろうか。

手紙の返事で聞いてみようと考えたが、しかし、これはあまりに礼を失していると思い、僕は書くのを控えた。結局、当たり障りなく業務メールのような文章で返事を書き、二重にした紙袋にその手紙をいれた。

「一度お目にかかりましょう」という言葉を添えて。

しかし二日経ち、三日が過ぎても、なんの応答もない。呼びかけてもこないし、紙袋にも変化が無い。やはり僕の勘ぐりすぎだったのだろうか。あれは誰かのイタズラで…イタズラだったとしたら手が込み過ぎているし、なぜ僕に?との疑問が残る。

僕は出社し、仕事の合間に、会社の窓をちらちらと眺めた。ここまで来ているかも知れない。が、何の変化もない。

「またお目にかかることができれば嬉しく思います」という最後の結び文句が気にかかったが、あちらはあちらで忙しいのだろう。なにしろ広大な世界だ、僕のようにせこせこと文章を打つことに忙殺されているのではなく、きっと徒然なるままに日々を送られているのだろう。なにしろ広大な世界だ…と僕は自分にいいきかせた。だけども、このまま終わってしまってはじつにつまらない。

手紙の返事を待つ時間というのは、実にじれったいものだ。その時間が長ければ長いほど、返信が来ないかもしれないという不安に苛まれ、心はますます焦りを募らせる。早く知りたい。早く返信をくれ。そんな思いばかりが膨らんでいく。

僕はどうやら、情報社会にどっぷりと漬かりこんでしまった現代人になってしまったらしい。


この妄想を生かし、僕は「幽霊からの手紙」という児童書を創作したい。幽霊から手紙が来るという、ただそれだけのシンプルな内容だ。

と思ったら、「ポプラ社」から既に似たようなものが出版されていたので、僕がわざわざ新しい物を書いても仕方がない。

この世に僕の書くべきものは何もなく、僕の思いつきのすべては古典の中に存在する。それならば僕の思いを綴るしかなかろう。思いがなければ魂もなく、死んだような人生だ。

僕は読者に向けてつぶやくが、読者は自分だけでもいい。

最初の読者は自分なのだから、自分が読みたいと思う物を書けばいい。自分のために書けばいい。それが結果的に誰をも楽しませるなら、僕は何の文句もなく自分を天才だと定義できる。それに、幸せだ。


おわり

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