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③博多小倉の人たち

【博多小倉の人たち】
 私が母と過ごした短い博多の小倉での思い出は、良い人に囲まれていたイメージしかない。
博多の人はみんながみんな優しくて、情が深く、協力的で意地悪な人が一人もいなかった。
今でもそう思っているけど、きっと日本中どこもかしこもそういう時代だったのでしょう。
近くの市場に遊びに行くとおじちゃんやおばちゃん達があちらこちらから、あれこれと声をかけてくる、するめや天婦羅やポン菓子や、揚げて砂糖をまぶしたパンの耳とかを持たされる。
「食べんしゃい、食べんしゃい」と言いながら、誰もかれもが笑顔でしゃべりかけ、頭をなでてくれる。
 子供の頃は誰でもそうであるように、TVで見る歌手やドリフのカトチャンの「ちょっとだけよ♡」が十八番で、歌や踊りが大好きで、おしゃべりな能天気な子供ででした。
女の人には「おしゃまさん」と言われ、
男の人には「こましゃくれたおごじょ」言われていて、みんなが私を見て笑顔になった。
いつでも誰の子でも、大人が子供を守っていて、優しさは至る所に染み込んで、空はまぶしく青く、空気は澄んでいたように思う。
私はあのまま、暖かい人に囲まれた博多に居たかった。


【かわいそうな子と言われて】
母が亡くなってからは大人達は私を見ると、いつものように笑顔で話しかけることは少なくなり、私の顔を見て「可哀想だ」と言って涙ぐんだり泣いたりした。
その時は「可哀想」の意味があまりわからなかったけど、
「可哀想な子」と言われると、子供ながらに凄く惨めな気持ちになって寂しくて悲しかった。 

 母が亡くなって暫くは、ご近所さんや親せきの人たちがあれこれ世話を焼いてくれていたけど、それでも母が居なくなって出来ない事や、やれない事が沢山ある事が解った。
毎日のご飯とか洗濯とかはもちろんだけど、自分で髪の毛を梳かしてゴムで結んでリボンを巻くとか、靴下や靴を左右ちゃんと履くとか、服を裏表間違えないようにちゃんと着るとか脱ぐとか、身支度が思うようにできなかった。
私はそのことで母を感謝するような歳ではなかったので、ただひたすらできない怒りと腹ただしさと、不安やイライラを募らせていて、泣いてぐずってばかりで、あの日以来現れない母に対しても「なんで?」という思いが強かくて、この時は人は死んだら心残りがある人は幽霊になると思っていたから、もう少ししたらお化けになって会いに来てくれると思っていたのに、
いつまでたっても現れないし、家族に会いに来てくれない母にとって、
私たちは心の残りではないのかと思って腹を立てたりした。

【骨】
 父はそれから暫くは仕事も行かず毎日お酒を飲んで、しこたま酔っては母の骨壺を抱えて慟哭していたり、時々骨を骨壺から出して齧ってすすり泣いていた。(私にはそう見えた)
カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、骨を出しては泣く父の姿を私は何度も見た。
子供の私には、母があの小さな壺の中に骨になっていることが、受け入れがたいし、とても怖くて気味が悪くて恐ろしかった。
・・・・でも、怖がっていると母や、周りの大人に悪い気がして、「怖い」と言えずに堪えていた。
父の奇妙で恐ろしく見えたその姿には、深い悲しみと嘆きの他にも、
何かわからない狂おしい感情がある事はなんとなく理解していて、触れてはいけない事だと子供ながらに見て見ぬふりをしていた。

【学校に行ってない】
今でもよく考えるのだけど、私は小学1~2年の学校での記憶がほとんどない。多分まともに学校に行っていないと思う。
毎日閉め切った暗い部屋で、父に怯えて息をひそめ、グスグス泣く事しかできない。
体はどんどん病弱になって、いつもだるくて、毎日体中に蕁麻疹が出て痒くて夜は寝れなくなってしまった。
そのせいで昼間、特に午前中はいつももうとうしてしまう。
寝ている時は母が居ない現実を忘れていられるけど、目覚める度に喪失感でいっぱいになってしまうので目覚めることが嫌だった。
 
起きている時は大人の人達に気に入ってもらおうと、愛想笑いや何もわからないふりをしていたり、無邪気な子供を装う事で子供なりに虚勢を張っていたと思う。
とにかく沸き起こる寂しさと悲しさと喪失感や、得体のしれない恐怖と心に空いた大きな穴を早く代わりの物で塞ぐ事に心がいつも占められていました。
何よりもひたすら寂しくて悲しくて悲しくてしょうがなかった。
だから日常で起こってている現実的な出来事はみんな綺麗に消えてしまったのかもしれません。


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