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美術史第49章『古代エジプト美術-中編-』


メンフィスの遺跡
テーベの遺跡

 紀元前22世紀にメンフィスに政府機関を置くエジプト古王国から地方勢力が事実上独立し、エジプト第一中間期が開始、紀元前21世紀にはテーベに政府を置く政権がエジプトを再統一し中王国時代に突入した。

メンチュホテプ王の二重ピラミッド
ハトシェプスト女王葬祭殿のオシリス柱
ハトホル柱

 この頃には古王国時代に盛んだったピラミッドは非常に小型化、メントゥホテプ王の墓の二重の基壇の上に小型ピラミッドを乗せて高くしようとする様子などは古王国の巨大ピラミッドへの憧れを感じさせ、代わりにオシリス柱や頭部を彫ったハトホル柱など独特な形式を持った葬祭殿や神殿が出現した。

アメンエムハト4世
ダハシュールのブラック・ミラミッド
ハワラのピラミッド

 その後の紀元前19世紀には数多くの遠征や鉱山開発、農業事業を行い中王国の経済成長を促進したアメンエムハト3世はダハシュールとハワラにピラミッドを造営した。

 中王国時代には古王国時代のようにピラミッドの周りに貴族や高官の墓が建設されるというのはなく、それぞれの出身地に埋められるようになり、北部ではマスタバ様式の墓、南部では墓の中腹に穴を掘る岩窟墓が作られた。

テーベの彫刻の断片
メンフィス周辺の王メントゥホテプ2世像
青銅工芸

 また、中王国時代の彫刻では古くからの首都だったメンフィスの従来通りの様式と、新しく首都となったテーベの写実的な様式の二つが大きな流派となっており、紀元前18世紀の経済の停滞と共に巨大な石の彫刻は作られなくなり、小さな木製の彫刻が作られる様になっていて、工芸の分野では古くからある銅に加え青銅が伝わった。

アアム(アムル)族を率いるアビシャというヒクソスの指導者の絵

 衰退したエジプト中王国は元々、傭兵としてやってきた現在のパレスチナ、イスラエル、ヨルダン、シリアあたりの人々、エジプト史でいう所のヒクソスの政権を中心とした時代、エジプト第二中間期が開始した。

カルナック神殿の上空写真
カルナック神殿の参道
ルクソール神殿の第1塔門
ルクソール神殿の大列柱廊

 紀元前16世紀にテーベにあったエジプト人の政権がヒクソス人の支配を打倒してエジプトを支配、第二中間期が終わって新王国の時代となるとファラオの権限、つまり王権が強化され、近隣のスーダンやシリアも征服、エジプト文明自体が全盛期を迎え、古代エジプト美術も「カルナック神殿」や「ルクソール神殿」など首都テーベを中心に大型建築が作られるなど絶頂期を享受、その時期の美術には豪華な装飾や色彩が加えられた。

トトメス1世
王家の谷
墓の内部

 その一方でピラミッドは完全に見られなくなり、王の墓であると一目でわかるピラミッドは余すことなく略奪されたため、第18王朝時代のトトメス1世以降、王のミイラ本体は「王家の谷」に隠され、葬祭殿は離れた場所に造られるようになり、この葬祭殿は典型的な新王国時代の建築であるとされる。

アメンホテプ4世

 紀元前14世紀の王アメンホテプ4世が当時信仰の中心だったアメンという太陽神を祀る神官勢力から権力を剥奪するため、アテンという神を唯一の神とする宗教をエジプトに導入しテーベからアマルナに遷都、今までのテーベの神官勢力よる太陽神アメン中心の宗教から離れ、宗教も王中心となった事で、美術も今までと大きく異なり非常に写実的なアマルナ美術と呼ばれる独特の様式が誕生した。

ネフェルティティの胸像
メリトアテンの胸像

 そこではアメンホテプ4世と妃のキスシーンを描いた彫刻画の様に人間の感情や愛をモチーフにした作品も作られ、表情や姿勢に豊かな誇張的な表現がとられる様になっており、この時代の作品の中で最も有名なものとしては「ネフェルティティの胸像」がある。

ツタンカーメンのマスク

 その後すぐ、太陽神アテンの信仰が廃止、テーベに首都が戻され、アメン中心の宗教が復活させられた後もアマルナ美術は影響を残し、エジプトで古くから装飾品などとして用いられ多くの工芸品に加工されてきた黄金で作られた「ツタンカーメンのマスク」もその描写にはアマルナ美術の影響が見受けられる。

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