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シルクロードの歴史9『ビザンツ時代のシルクロード-後編-』


*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。

唐王朝の覇権と滅亡


 シルクロードではビザンツと唐王朝が直接交流したわけだが、そもそも、シルクロードは前2世紀の漢王朝の武帝の時代に誕生したものであるのだが、漢王朝時代が終わった後の劉備・孫権・曹操に始まる三国時代、司馬炎に始まる晋王朝時代、道武帝に始まる南北朝時代、楊堅に始まる隋王朝時代もずっと、漢王朝のように中央アジアを領土できる国は無く、開拓されたシルクロード自体は別の国々によって使われている状態となっていた。

シルクロードの開拓者武帝

 しかし、隋滅亡後の混乱を唐が治めて中国が唐王朝時代となると、630年に東突厥、640年に高昌、660年に百済、668年に高句麗、738年に南詔、751年には同時期にアラビアから大拡大したウマイヤ朝から王朝を奪ったばかりのアッバース朝と中央アジアで激突(タラス河畔の戦い)するなどし、結果、シルクロードは唐王朝が640年に高昌などタリム盆地を征服した際に、漢王朝以来、再び中国の国より支配された。

タリムを支配した唐の領土

 シルクロード地帯は678年に一度、吐蕃(チベット帝国)により占領されるが、699年には取り返し、722年にはチベットから山岳地帯を超えてインドへ進むアフガニスタンの交通路を吐蕃から奪い、こちらも737年に吐蕃から奪い返されるが、高仙芝の軍により再び唐の領土となった。

当時の吐蕃の巨大な領土

 また、唐は海のシルクロードにも再び参加し、中東やアフリカ沿岸とも交流したが、しかし、907年には唐王朝は反乱で滅亡、五代十国時代などを経て唐王朝の領土は遼王朝、宋王朝、西夏、天山ウイグル王国、大理、大越、そして、イスラーム教に改宗したカラハン朝やガズナ朝に分裂した。

唐滅亡後に割拠した朱全忠

モンゴルの登場とビザンツの復興


 大きな窮地に立たされていたビザンツ帝国であったが1204年にはついに海上貿易で栄えたイタリアの都市国家ヴェネツィア率いる第4回十字軍が、ビザンツの首都コンスタンティノープルを征服しラテン帝国を建国、他にもテッサロニキ王国、アカイア公国、アテネ公国、ナクソス公国などヨーロッパの諸侯が国を旧ビザンツに設置し、ジェノヴァとヴェネツィアは各地を植民地化、ビザンツは首都を失いニカイアやトレビゾンドのような小さな亡命国になった。

第4回十字軍のコンスタンティノープル攻略

 ちなみに、十字軍は本来、ヨーロッパのキリスト教の国々がイスラム教に戦争を挑むための軍で、同じキリスト教の国であるビザンツを侵略したのは、めちゃくちゃである。

 13世紀、「モンゴル帝国」が南宋や遼、金、西夏などの国が存在していた中国を統一、天山ウイグルやキプチャク、アッバース朝、ホラズム朝、ルーシ諸国、グルジア、アルメニア、高麗などを滅ぼす、もしくは支配下に入れ、東アジア、中央アジア、西アジア、東ヨーロッパを征服した。

モンゴル帝国の領土

 そのモンゴルの拡大の同時期には首都を失ったビザンツが都を移したニカイア帝国が旧首都コンスタンティノープルを奪取しビザンツを復興している。

ビザンツを復興したパレオゴロス8世

 その後、モンゴルは数回の内戦を経て、モンゴル本国や中国を無理やり支配したフビライにモンゴル帝国内の勢力が反発し実質分裂、モンゴル・中国あたりを支配したモンゴル本国、別名元王朝、カザフスタン・ウクライナ・ロシアあたりを支配したキプチャク・ハン国、ウズベキスタン・キルギス周辺のチャガタイ・ハン国、中東あたりをイル・ハン国に分裂した。

分裂したモンゴル帝国
緑=元、灰色=チャガタイ、黄色=キプチャク、紫=イル

 中でも中東あたりを支配したイルハン国はウイグル人のラッバーン・バール・サウマをヨーロッパに派遣、イングランド王エドワード1世、フランス王フィリップ4世、ローマ教皇ニコライ4世、そしてすでに同盟が途切れていたビザンツの皇帝アンドロニコス2世などに対して同盟を求めさせている。

イルハン朝からフランス王フィリップ4世に送られた書簡

 ビザンツは復興当時、すでに東のルーム・セルジューク朝やアルメニア、グルジア、中東に十字軍が立てた国々、東欧の大国ハールィチ・ヴォルィーニなどはモンゴルの属国となっているという状況におり、1265年に東欧を突っ切ってやってきたキプチャク・ハン国軍に首都周辺のトラキア地方を攻撃された。

 ビザンツはキプチャク・ハン国の有力者ノガイと同盟を結び、その後はブルガリアやセルビアなどをノガイとともに屈服させたりしていたものの、ノガイが死ぬと同盟が弱って後だてを失った。

イルハン朝と戦うノガイ

 そのため、ラッバーン・バール・サウマがやってきた際にはヴェネツィアやジェノヴァに経済を掌握され、セルビア、十字軍、ノルマンなどの攻撃も受けて、衰退の道を突き進んでおり、しかし、その一方で「パレオゴロス朝ルネサンス」という文化的な高揚を見せている時代でもあった。

 ちなみに、ビザンツの王アンドロニコス2世は3人の娘のうち、2人をイル・ハン国、1人をキプチャク・ハン国に嫁がせ、ビザンツ皇帝家とモンゴル人の国の王家は親戚関係になっている。

 また、「明史」によると、モンゴル人の元がモンゴル本国に撤退し、中国が、朱元璋が建国した「明王朝」の支配下になると、すぐに捏古倫(ニェクルン)という人物にビザンツ皇帝ヨハネス5世へ新しい王朝が誕生したという宣言を届けさせたとされ、中国との交流はその後も続いたとされる。

明王朝周辺

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