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シルクロードの歴史6『漢王朝とシルクロード』


*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。

1. シルクロードの誕生


  シルクロードを開いたのは中国の漢王朝だと最初に言ったが、前2世紀頃にはすでに中央アジア・南アジアと西アジアの交易が行われており、シルクロード開通までは、タリム盆地を超えた中国と中央アジアの本格的な交易が行えるようになるまでとなっていた。

西方に派遣された張騫

 そんな中の前130年頃、漢王朝が匈奴帝国への対抗手段として月氏と同盟を結ぶために張騫ら使節団を派遣し、この際に使節団は記録に初めて登場するフェルガナ地方の大宛、その付近のソグド人の康居、ソグド人が暮らすソグディアナを領有する月氏、ギリシア人のグレコ・バクトリア王国を滅ぼして建てられたトカラ人の大夏を訪問、他にも天竺、条支、安息(アルサケス朝パルティア)、烏孫などの国々についても情報を集め、武帝に報告、この情報により、漢は西方への拡大を決めることとなる。

当時の地図 by User: トムル

 ちなみに匈奴とは前2世紀頃までライバル関係だった月氏を南方のソグディアナに追いやり、東アジア北部の全域を支配下に入れた国で、元々は部族の連合国家だったが冒頓単于により強力な帝国になったとされる巨大勢力である。

 前200年の白登山の戦い以降、漢王朝は匈奴に服属しており、前177年には匈奴が楼蘭や烏孫など西域諸国を制圧して居住していた月氏を放逐、景帝が漢皇帝となると匈奴と漢は度々衝突したものの、両者とも大戦争には消極的だったため何も起こらなかった。

 しかし、前120年台に武帝が漢皇帝となると、張騫の使節団の派遣などの後、衛青や霍去病などが匈奴に派遣され、そのまま匈奴の領土の南側は漢領となり、前102年には李公利率いる軍が大宛を征服した。

漢王朝の拡大 by User:SY

 これにより漢は中央アジアにまで影響を及ぼすようになり、中央アジアを通して西洋と貿易を行うシルクロードが誕生、匈奴はそこまで強力な国では無くなっていった。

2. シルクロード誕生の理由


 「後漢書」には西方の世界について「大宛、大夏、パルティアは大国で、珍しい品に満ち、住民は中国人と同じく定住生活を行い職業制度も中国と近いが、軍隊は弱く、さらに中国の豊な農作物に関心を抱いている」といった旨の記述があり、中華と同様の文明があったと認識していたと思われる。

 漢王朝が西方との貿易を盛んに行なった理由としては、単純に需要があって望まれたというのと、上記のようにパルティアや大宛、大夏など、アレクサンドロス大王の侵略以来ギリシア人の支配を受けていた事で、ギリシアのような高度な都市文明を形成していた国々に興味を持ったなどという説もある。

アフガニスタンのアイ・ハヌムで発見されたギリシア建築の一部

 また、当時、中国は遊牧国家の匈奴などと戦争しており、対抗手段として馬が必要だったが、中国産の馬は軍用ではなく弱かった上に戦いの中でかなり死亡していたため、早くて強い馬の多い中央アジア一帯と交易をしたという面も考えられ、実際、武帝は強い馬が欲しいがために、売却を拒否した大宛から3000頭の馬を奪って繁殖させており、これが後に「汗血馬」という品種となる。

名馬として重宝された汗血馬

 この時代以降、中国は安息もといアルサケス朝パルティア、犂鞬もといセレウコス朝シリア、どこの国を表すのか諸説あるが中東にあったとされる条支、天竺もといインド北西部の国、奄蔡つまり後のアラン族など多くの西方の国に外交団を送るようになっており、このような使節団は1年に10回以上は派遣されたとされ、このような国家交流がシルクロードを開通させその始まりとなった。

3. ローマとシルクロード


 ちなみに、これが本当かどうかは不明というか、デマだろうが、オックスフォード大学のホーマー・H・ダブスの研究よるとシルクロードの重要地点である甘粛省の驪靬村の住民は地中海を支配したヨーロッパの父とも言える国ローマの人々の子孫である可能性があるとされていて、「カルラエの戦い」で敗北してパルティアの捕虜になったローマ軍が、にソグディアナの都市タラズで郅支単于率いる匈奴軍と陳湯率いる漢軍が激突し漢側が勝利した郅支の戦い(Battle of Zhizhi)で匈奴側の傭兵として参加していたのではないかとの事である。

 ただし、これも不正確な情報ではあるものの実際に前36年にはソグディアナのブハラで漢の軍とローマ軍が接触した記録があるようで、クロスボウを使い汗血馬に乗った漢軍はローマ軍を撃破したとされる。

 ちなみに、この頃はマルクス・アントニウス、つまり、カエサルが死んで独裁が崩れた後に第二回三頭政治に参加し、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラに取り込まれ、第二回三頭政治のメンバーであるオクタウィアヌスという人物との内戦に敗北、オクタウィアヌスは独裁を行うローマ最初の皇帝に即位してプトレマイオス朝を併合、彼によってアルサケス朝パルティアへの遠征が丁度行われていた時期であった。

初代ローマ皇帝オクタウィアヌス

 また、中国軍が強かった馬ともう一つの要因と思われる「弩」についてなのだが、実は、現在のヨーロッパの「クロスボウ」は中国の弩がユーラシアを突っ切って伝わって生まれたものであるという説があるが、それ以前からギリシアにガストラフェテスという全身を使ったクロスボウのような形をした何かが存在したため、こちらも確実ではない。

 後1世紀頃、班超という漢の軍人が7万人の軍勢を連れてタリム盆地を侵略、月氏とも友好関係を築き、そのまま、西に進みパミール高原を越えカスピ海沿岸やパルティアのすぐ近くまで進軍、これ以来、漢は大秦(ローマ帝国)に使節団を派遣することとなり、よりシルクロードが発達していくこととなる。

班超

 また、1世紀の月氏はインドに進出してクシャーナ朝を築いており、月氏との友好はインドとの友好という事にもなる。

 また、この頃の漢は「交趾」、現在のベトナム北部のハノイにあたる地域から、東南アジア島嶼部のオーストロネシア系民族などにより運営されていた海のシルクロードにも参加しており、この道はインド南部やスリランカを通してローマ帝国領のエジプトやナバテア王国など紅海の港まで輸送された。

 実際、ローマで多く作られた透明な吹きガラス製品、いわゆるローマガラスが港町である広州にある前1世紀初頭墓から発見されており、後1世紀以降には洛陽や南京など内陸でも見られるようになっていた。

ローマガラス

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