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天文学史8『ルネサンス期の天文学』

中1の時の奴の続き、今見るとなんか他人事感というか文章がちょっと今と違いました。


  14世紀、ギリシア・ローマの文化を復興しようという文化運動ルネサンスがイタリアのフィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、フェッラーラなどから起こり、これが15世紀後期以降、ヨーロッパ全土に波及、暗黒時代と呼ばれた中世ヨーロッパからマキャヴェリなどが哲学、アリギエーリ、ペトラルカ、ボッカチオ、シェイクスピアなどが文学、ジョット、ボッティチェリ、ドナテッロ、ダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノ、エル・グレコらにより絵画などの美術、彫刻、パレストリーナやモンテヴェルディらにより音楽、ブルネレスキ、アルベルティ、ブラマンテ、パラディオなどにより建築が発展、その他にもコロンブスやヴァスコダガマなどの探検家によりヨーロッパは大航海時代を迎えて多くの植民氏を作り、ティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーなどといった学者達により科学も大きく進歩した。

 このようなルネサンス文化が発展した理由としては、中世のイスラム文化との交流や、残存していたローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がオスマン朝トルコにより滅ぼされ、そこで本来、ローマ帝国の中心だったイタリアのラテン族に代わってメインの民族となっていたギリシア人が多くイタリアに亡命したという事があり、絵画で名前が上がったエル・グレコはまさにギリシアからイタリアにやってきた人物で、グレコもギリシャを表す言葉である。

 天文学においてもルネサンスは最も重要な部分で、15から16世紀のポーランドの学者、ニコラウス・コペルニクスが晩年に「天球の回転について」という著書の中で、今までの他の星が地球の周りを回る天動説ではなく地球が太陽の周りを回る地動説の方が正しい事を指摘、しかし、地動説が正しいとする説明はそこまで正確ではなく、飽く迄も数学的な可能性であるという説明を付けた事から、大して話題にもならなかった。しかし、現在ではこの説は非常に画期的だったとされコペルニクス的回転その影響を呼び、このコペルニクス的回転という言葉は物事の見方が全く変わってしまう事を言う事もあるという。

 このように当時、話題にもならなかった地動説が、何故、ここまで科学の発展に寄与したのかというと、そこから暫く後のフィレンツェの学者ガリレオ・ガリレイや、ドイツのヨハネス・ケプラー、イギリスのアイザック・ニュートンらによって地動説が支持され、ティコ・ブラーエなどが多くの研究を残し、結果、地動説が正しい事が証明されたためである。

 ティコ・ブラーエはデンマークで生まれた学者で、六分儀や四分儀の精度の向上を行い当時としては最も高いレベルで天体を観測、大量の記録を残し、当時はそこまで知られていなかったコペルニクスの地動説を支持したが、コペルニクスの計算間違いから、太陽と月の二つは地球の周りを回っており、地球以外の惑星は全て太陽を回っているという、天動説と地動説の間をとったような説を唱え、これは天動説の矛盾も地動説の矛盾も克服し哲学や神学とも矛盾しないため大きな支持を得た。しかしその助手のヨハネス・ケプラーはコペルニクスの地動説理論が正解だと考えており、ブラーエの死後にケプラーはその正確なデータを用い、かつて完全な円の軌道で惑星が回っている場合、出る矛盾を解決するためにプトレマイオスが提唱した回りながら回る従円と週転円の理論に、僅かな誤差を発見、惑星の軌道は楕円形であるというケプラーの法則を発見し地動説にあった矛盾を完全に解消し、他にも数多くの業績を残し、ブラーエが達成できなかった正確で数表や計算法などが記された天文図「ルドルフ表」を完成させた。

 ケプラーと同じ時代、イタリアのフィレンツェ大公国でメディチ王家の保護を受けた学者ガリレオ・ガリレイは、ケプラーの地動説を支持し、おそらく初めて本格的に天文学に望遠鏡を導入、オランダで望遠鏡の特許を取得して精度を上げまくり、最初に月面に海、現在の言葉で言うクレーターを発見し、次に木星の周りを回る衛星、つまり木星の月を四つ発見、天動説にとっては不利な発見だったため揉めたが、名声を獲得、次に金星の観測で金星は見える大きさが時間によって変わり、月のように満ち欠けを行う事を発見、今までの天動説では金星は、太陽より近くで地球を中心に回っていて、後ろから太陽の光が当たるため丸く完全に見える事はないとされていたが、これにより否定され地動説が有力となり、さらにその太陽を観測した際にはヨーロッパでは初めて温度の低くなっている黒点を観測、天の川というボヤボヤとした何かが、無数の恒星の集合体である事を発見した。また、物理学においても振り子の法則や落体の法則などを発見したとされ、これらの革新的な発見、特に地動説を広めた事によりローマ教皇を中心としたカトリック教会に異端とされ有罪判決を受けたとされる。

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