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「挑戦」をあえてしないというのもひとつの合理的解

息子が「ことばの教室」に通級するようになって、1年が経ちました。

興味の対象も、恐竜や古生物から昆虫に移り、得意のマニアックなクイズを先生方に出して困らせているようです。

1年前とは担当の先生も変わり、打ち解けるまで時間がかかるかな〜?と思いましたが、お迎えの時は車からバイバイと手を振るほど親しい様子を見てひと安心。
やはり、ことばの教室は息子にとって、自分の得意なこと・やりたいことを尊重し、おおいに認めてもらえる場として大事なようです。

彼のような完璧主義者にとって、新しい環境・新しい課題に挑戦することが時に難しい場合があります。
「やってみないとわからない」というのは凡人の考えで、彼らはやる前から「これは難しい」「たぶん無理」ということがあらかた見えているので、挑戦する意欲を失くす、というパターンがあるように思います。

この傾向は年齢があがるにつれて強くなるので、幼いうちにとりあえず1回は挑戦してみて、「これやったことある」という経験値を残しておくのがいいかな、と思いますが、これもよく分からない笑


たとえば、小学校のプール授業は
「もういいかげん慣れてもいいんじゃない?」とこっちが思っても、彼にとって顔が濡れることは毎回、無理ゲーです。
水遊びや、川で生き物を捕まえたりすることはできても、水に潜ることへの拒絶感が半端ない。
幼児の時から、抱っこして頭を洗うのではなく、頭からシャワーを浴びせておけばよかったかなあ、と思いますが、おそらく毎回ギャン泣きされて私が萎えていたでしょう。

ピアノを習っているのですが、去年初めての発表会でうまく弾けたのに、今年は「出たくない」という。
普段ピアノを弾く様子を見ていると、間違えたり、止まってしまったところからの復活が難しいようです。
子どものピアノ発表会なんて、たどたどしいのがご愛嬌、みたいなところもあるのに、彼にとってはプライドが許さない、ということでしょうか。


昆虫を飼うにしても、行きあたりばったりで飼うのではなく、入念にリサーチし、まずは知識をインプットして必要な道具を買い揃え、やっと飼い始める、という周到さ。
こういう人に、旅行の計画とか任せると便利かもしれない・・


ギフテッド応援隊の本(※)に、恐竜が大好きな子の話がでてきます。
その子は、もし『ジュラシック・パーク』のように本物の恐竜と遭遇することがあったら、自分はきっと捕食されてしまう、と言います。
なぜなら、恐竜を見たとたん、何属か、雌雄、年齢などを特定しようと頭が分析を始め、その間に襲われてしまうからだ、と。

実際にやってみるより先に、脳が勝手にシュミレーションして最適解を導き出そうとする、というのはギフテッドの子の特徴かもしれません。その結果「無理」と判断したあとで、自分がやってみよう、という気にはなかなかなれませんよね。
ある意味、彼らは「最も効率の良い行動」を常に選択しようとしているに過ぎないのかもしれません。


水中で呼吸ができない人間にとって、水に潜る危険をあえて犯すのは、それに見合うメリットがある時だけ。
発表会も、自分の実力と、期待されている演奏との差を正確に見積もり、「冷静に考えたらムリ」という判断になってるのかなあ。

まあ、母親の私にだって分からないことだらけですから、息子の行動の理由を人に説明することなんてできません。

ただ、そこには彼ら独自の考え方による、確固たる理由がある、ということはわかっています。

大多数の意見に従わない、数パーセントの変わり者の存在が、人類が生き延びる上で非常に重要だった、という歴史的事実からも、彼らのような考え方が抹消されるような世の中であってほしくないな、と思います。

ただ、人間はAIと違って、予測不可能なところが面白い、と私は思っているので、「99%無理」と思えることにも1%の可能性を賭けて挑戦してみることにロマンを感じたりするのですが・・・

息子に言わせたら「かあちゃん、無謀」と鼻で笑われるのでしょうね。

(※)ギフテッド応援隊の本・・・北海道教育大学の片桐正敏教授が編者となって、当事者や家族、「ギフ寺」を運営する大人・子どもたちの声を1冊にまとめた本。ギフ寺について詳しくはこちら⇒https://kyoiku.sho.jp/154337/

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