人魚ソーダ


                                        
                   


【人魚】
 幻想の彼方で浮き沈みを繰返す、しかし直感と・・・その実在を認めないわけにはいかない存在・・・である彼女を、彼は「人魚」と呼ぶことにした。
【ソーダ】
 人魚が泡と化し、彼の中に溶け出したその瞬間、彼の「現実」という血液は発泡する。「現実」と思っていたものが。
 
 それは何のリズムも予兆もなしに、いつでも不意にやって来る。仕事中に、目覚めの直後に、歩いている途中に、突如やって来ては彼から言葉を奪い取り、赤子さながらの無防備な存在に陥らせる。その時彼は刹那の無重量を経験し、強烈な光によって純白となった不確かな空間に漂う。そして彼はその瞬間にだけ、言語の無意味さ非力さ、そしてその限界を認識する。そんな風に、一種の恍惚のように彼は我を失う。その時一体彼は何を見ているのか?しかし、彼は思い出せやしなかったし、思い出せたことがあったとしても、とても説明など出来やしなかった。
 ため息を吐きながら完成した作品を窓に立て掛けると、もう一度ため息を吐いて、対面したフェイクファーのソファに身体を投げ込んだ。徹夜仕事からの開放感に浸りながらも、その不馴れな心地よさは、どうにもし難い疲労感を呼び起こし、彼の気持ちを沈ませる一方だった。初めて掴んだ大きな仕事を無事にやり遂げ歓喜したあの頃。僕は生まれて初めての大きなギャラを手にし、その記念にと家具屋へ行ってこのソファを買った。あれからどれくらい経ったのだろう。もう10年も20年も経ったように思う。ああだけど、そう、まだ2年半も経っていないではないか。その後トントン拍子に事が運んで、僕は息をつく暇もなかった。フリーのクリエイター共通の悩みであろう、仕事がなければ毎日休日無収入。仕事が増えれば文字通り年中無休の睡眠不足。確かにお金の心配など全くしなくなった。けれど人が言うほど楽ではない。「毎日自宅で束縛されることもなく、君は自由でいいね」と。「大した御身分だな」と。彼らには、僕ら特有の責任感とプレッシャーなど分からない。一睡もしないまま忙しさを縫って約束の打ち合わせに向かっても、延期になったり無意味だったり、その相手にすっぽかされたり。電話もなにもかも自分一人で受けなければならないから、四六時中の呼び出し音はイマジネーションを殺そうとし、殺されないようぎりぎりのテンションを保ちながら無視するわけにもいかないそれに出る。時にクライエントは仕事と何の関係もないプライベートの愚痴を延々僕に話して聞かせる。粗末に扱えば仕事が無くなる恐れがある。彼から別の人間へと僕の悪い評判が伝染していかない保証はない。そうなったら、僕はまたノーギャラで友達や家族から頼まれたイラスト制作を時々しながら、冬でもビーチサンダルを履いて、どんな遠くへも徒歩で移動する日々に逆戻りするしかない。電話が終わって時計を見た時に、例え制作猶予があと1分だったとしても、僕はその1分で何もかも仕上げなければならない。完璧に。完璧でないものは塵あくたでしかないのだから。
 もうすっかり朝になっている。2時間後にはこれを持って取引先に向かわなければならない。しかし明朝までにはまた、もう一つ迫っている仕事を仕上げてしまわねばならない。 
 僕は今、幸せだろうか?夢は叶った。 
 半端ものや鮮度が落ちた野菜を安価で譲ってもらうために、当時、毎日通っていた古い八百屋のおやじからお情けでやっと貰った仕事。広告に大根やらねぎやらをかごに盛った絵ばかりを描いては、新鮮な野菜と引き換えてもらっていた。美大はおろか専門学校どころか高校にさえ行かなかった僕は、この程度で当たり前なのだと、自分を慰めていた。隣に精肉店があったが、そこは羽振りが良く、季節毎に店名のプリントされたのぼりを立てていた。つまり、既に誰かが付いていたのだ。一度仕事乞いに行ったものの、鼻で笑われただけで挨拶さえ応えてはもらえなかった。その時僕は思った。いくら仕事が欲しくても、こんな嫌なやつに頭を下げてまで僕の作品、例えそれがコロッケ一つの絵だったとしても、僕の真剣に作った作品をこんなやつに使われるなんて絶対に嫌だ!と。揚げたての串カツの匂いが嫌味のように店内に充満していた。つくづく僕は貧乏だと実感した瞬間だった。僕はこんなものも食べられないのか!こんな嫌なやつの揚げた肉にさえ、だ液線を反応させるのか!僕はそんなに卑しい人間なのか!こんなやつの商品をたった一本買って食い、まずいと文句を言い頭を下げさせる程度の、普通のお客にさえなれないのか!僕は絶対に裕福になってみせる。しっかりとした良い物に身を包んで、串カツどころか毎日極上のステーキを食べてやる。大きな家に住んで、大きなソファを買おう。レンブラントもゴンドラも全部の画材を揃えてやろう。その時はパソコンだって一番いいのがある。バカラのグラスでシャンパンを飲もう。もう誰にも僕を馬鹿にさせない。そう決心した頃に、唯一の親友が姿を消していたことを、この時、僕は思い出さなかった。そう、今は広い部屋に大きなソファ。高級画材にパソコンに、自称幸福の象徴、バカラのグラスもある。そうだ何だってある。串カツなんて馬鹿臭いものはもう食べたいとも思わない。時々レセプションや堅苦しい食事会で、フランスの高くて臭いチーズを食べたし、その都度なんとかこうとかと説明される、噛まなくて良いようなステーキも食べた。ドンペリの味もついに脳は記憶したし、時計も服も靴も、それに下着まで、あの頃夢にさえ描けなかった、僕の知らなかった物が、こうして当たり前に身の回りを囲んでいる。何よりも僕はメディアに現れるようになった。イラスト以外でも雑誌で連載を持っている。ファッション誌では「絵描き屋の断片」というコラムを書いている。下積みを突破した若者の雄叫び、をだ。そう僕は成功アイコン。あの僕がここまでになるなんて、僕も誰も思いもしなかった。一流とまでは言えないにしても、少なくとも二流にはなった。最下層にいたこの僕が。では、夢は叶ったではないか?ならば、僕は幸せを手にした。例えこのソファに座ったのが今日で10回にもなっていなかったとしても、ほとんど毎日仕事部屋の床に敷いてあるござの上での睡眠だったとしても、買ったベッドを一回しか使っていなかったとしても、それが今どのくらいの埃を積もらせているのかを僕が知らなかったとしても、だ。僕は幸せだ。間違いない。違うかい?窓の絵を眺めながら、僕は確信しようとした。幸せなのだ。鼻がつんと沁みて目頭に何かが込み上げてきた。まさか、僕が泣く訳などない。僕は幸せなのだもの。
 五分でもいいから、ひとまず眠ろうと目を閉じたその時だった。
 突然頭が真っ白になった。激しい光線で視神経を打たれたような痛みとともに、身体が一瞬中に浮いたような錯覚に囚われる。掴みきれない平衡感覚が目眩と吐き気を呼び起こす。分子レベルでの爆発でもしたかのように、身体中がビリビリと痺れ出した。まるで体内が炭酸化したようだ。表現し難い不安感に苛まれ、僕は怖くなった。
「違います」
 炭酸の中から誰かが何かを訴えてくるのを感じた。
 僕は疲れているのだ。大丈夫、少し眠れば治るさ。大丈夫。
「違います」
 言語となる以前の意志そのものが僕を貫こうとする。
 動機と息切れが始まって、僕の意識は次第に遠くなった。
「違います」
 音声としてではない声なのに、それが女性の声であることを認識しつつ、僕はいつの間にか安心し、少し満たされたような気持ちになっていた。夢だったのかもしれない。僕はそのまま夢を見たから。(素朴で美しい少女は真っ白な波間を、まるで草原でも駆けるかのように、楽し気に走り回っている。僕は懐かしく、少女を眺めていた。やがて海を包んだ世界は丸い玉のように変形し始め、グラスとなった。グラスの中には海がある。シュワシュワと、生まれたての飛沫が跳ねる。綺麗だな。僕はその海を眺めていた。するとその端に半透明の虹色のひらひらしたものが風にそよいでいるのが見えた。海の中にはそよ風が吹いていた。そのひらひらの上部を見上げると、それは魚の尾ひれであることが分かった)
 
 電話の呼び出し音に起こされた時にはもう、今朝のことも夢のことも忘れ去っていた。    
 彼の記憶は、窓に絵を立て掛けたところで終わっていた。けれどその後「あれ」は頻繁に起こるようになり、彼はそれを自覚せずにはいられなくなって行った。それは、彼の言葉では適わない何かであった。彼のソーダは彼にしか分からなかった。
 昨年、若手デザイナーが何人か集まって、新しいブランドを立ち上げたことは知っていた。僕のインタビュー記事が掲載された雑誌に、彼らも載っていたからだ。彼らはあっという間に、昔ながらのブランドに追いついたかのように思われた。そして、彼らも僕に目をつけていた。僕は、喫茶店でコーヒーを飲みながら、コンセプトを聞いていた。僕のイラストをデザインに取り入れたいそうだ。これはお互いにとって有益であると判断し、僕は二つ返事で引き受けると言った。また始まった、と思った。頭の中が痺れ始めた。ピリピリは強くなりながら全身に広がる。
「どうかしましたか?」こめかみを押さえた僕に彼は言う。
「ええ、大丈夫です、僕、頭痛持ちなので」必死に笑ってみせたが、彼は心配気にこちらを見ている。
「思ったより早く良いお返事をいただけたので、今日はここまでにしましょう。後日連絡しますので、またここで」彼は頭を下げた。思ったよりも好青年である。僕は内心ほっとした。僕は背中の壁に後頭部を押し付け、向こうの天井を眺めていた。
 
「思い出して下さい」声ならぬ声は言う。
「何を、でしょうか?」僕はつい問い返してしまった。
「あの時の事」
 うわあ!答えた。何かが、僕に答えた。
「思い出して下さい」
 かつての光景が白昼夢のように僕を取り込み始めた。僕は、自分が泡になって光に包まれて行くのを感じて、目を瞑った。
 あれは、同級生の全員が高校生になった年のことだった。僕は、親の言うことも聞かないで絵ばかりを描いていたから、受験に失敗した。元々、本当に進学したいわけでもなかったから、ショックでも何でもなかった。いや、むしろほっとしたのを覚えている。だけど、自分がこれからどうなるのかという強い不安と焦りがあった。進学もせず嫌味を言われながらふわふわしている生活は、思う程楽ではなかった。高校へ行っておけばよかったかな。あっちの方が気楽だったかもしれない。でも、集団で同じ方向を向いて同じ科目の同じ頁を同じ時間に学ばせられるあの光景は、思い描くだけで吐き気をもよおす。中学1年の冬、授業中にふとそう思って、実際、僕は吐いた。何故それまで気付かなかったのだろう、あの不気味さに。それから半年間は何とか耐えて通ったが、次第に教室にも居られなくなってきて、行くのをやめた。そのためか、定時制高校の受験にも落ちた。通信制高校を勧める教師と親の気持ちに悪意はないことは十分分かっていたし、僕だって、何となくは普通に進学して働くか大学へ行くかして、現代人は当たり前に大人になっていくのだということを知っていたつもりだった。でも、駄目だったのだ。そんな焦りのために、僕なりに自分をなんとかしようと努力を始めた。古本屋で古い教科書をこっそり買って勉強してみたりもした。でもやっぱり、絵を描いている時のように自分そのものであり続けることが難しく思えた。そんな時に、郷土資料のコーナーで地元の画家や音楽家の一覧と作品の一部が載っている本を見つけた。僕はそれを買って、来る日も来る日も眺め続けた。読み耽るのとは、やはり違う。僕は、眺め続けた。その本の存在から、僕は何かを感じ取っていた。高校の進学案内書や古い教科書よりもピンとくるものがそこにあったから。僕はそれを感じ続け、そしてそれが何なのかを考え続けた。ある日、その本を片付けると、今度は飯も食わず一心不乱に絵を描き続けた。そして、50音順に並んだ地元画家の『あ』の人から順に訪ねることにした。彼らならきっと僕と似ていて、そして分かってくれるかも知れない。彼らがどうやってその立場を築いたのかも、教えてくれるかもしれない。けれど実際それは甘いものではなかった。僕は大人の嫌な面を見に行っているだけなのに違いなかった。
 ある画家は実際ほとんど絵など描いておらず、大学で教鞭をとっている、色と美術の歴史に詳しいだけの理論屋だった。次の画家は昼間から酒を飲んでいて話にならなかった。「売れて初めて価値が出る」とだけ言われた。その次ぎは不在で、その次もそのまた次も、表面的には喜んで僕を受け入れてくれたが、自分の若い頃の自慢話をし、偉そうな感じで難しい事を言い、最後にちらっと僕の描いたものをやたらと冷たい目で眺め「基礎がないからな、君は」と言って僕を追い返した。偉い人は、やっぱりプロだから、ろくに作品を見なくても分かるものなのだなぁ、と思いつつも傷付いて、その都度わざと遠回りをして家へ帰っていた僕は、帰宅後にはいつも「立派な先生に可愛がってもらっている」と、家族に嘘をついていた。そう言わなければ、僕は泣いてしまいそうだったから。
 基礎がない、基礎がないと言われ続ける中で、その言葉は僕を全く新しい気持ちにさせてくれた。その老画家は三十分も無言で僕の絵を見つめると目を瞑って天井を仰ぎ、そしてまた僕の絵を見た。
「絵画教室へも行ったことがないのか?」
「はい・・・あの、すみません」
「謝ることじゃぁ、全くないんだよ、君」
「小学校の図工の時間と・・・中学は途中まで行きました。だから、美術で瓶のデッサンだけさせられましたけど。他は、僕にはないんです」
「ほう。瓶の評価はどうだった?」
「その期の成績表は2でした」老画家の目尻には彫刻のような弧が広がって、女性のように優しく笑った。
「何も学ばず描いた絵は、教えられて描いた絵よりも真実に近い。ただ、それで誰かと競おうとか、飯の種にしようとするから優劣をつけないわけにはいかなくなるだけだ。分かるだろう?社会はそうなっておる。基礎がどんなにしっかりしている人間でも、基礎以上の物がない輩が殆どだ。分かるか?気にするな。わしはお前さんがこの状態でどこまで行くのかが、見たい」老画家は僕の絵を机に置くと壁際の棚へと進み、僕を手招いた。
「おいで。わしがどんなに何を描いても、これには叶わないという作品を見せてやる」老画家は棚の下段からクラフトのケースを取り出すと、指を舐めてその中から一枚を取り出した。
「あった、あった。これじゃよ」目を細めてにっこりとする老画家はいたずら気に僕を見上げ、それを差し出した。幼児の描いた絵らしい。クレヨンがはみだしている。もじゃもじゃの頭の老人がありったけの色でできたエプロンをつけている。老人を囲むように赤い花がいくつも描かれている。一番上には拙い文字で「おじいちゃんだいすき」と書いてある。紙の端にはリングからちぎり取った跡がある。
「お孫さんですか?」思わず僕も微笑んだ。
「そう、末の孫娘が書いてくれた。孫可愛さで言うわけじゃないがね、君。子どもの作品には誰も敵わないのだよ」
「え?先生も、ということですか?」
「無論。そうじゃな、到底叶わんなぁ。分かるかい?この子らは本気で描いている。あの小さな体とそこに詰まったまだ新しい小さな風船みたいな心を、一分も余すことなく全力で膨張させて描いている。それも、巧くなりたいから描くのでもなければ、後世に残したいから描くのでもない。描きたいという噴水なんじゃ。この絵は、この子がわしを大好きだから描いたんだ。愛という情熱のほとばしりだ。しかし、これ以上のものがあるか?いいか?機械なんかに描いてもらうような大人にだけは、なるな。お前さんは今どきの少年にはむしろ珍しい位、無知だ。下手だ。なんの技も理論もない馬鹿だ。それなのに描いているおかしなやつだ。しかしその基礎のなさというのはな、我々プロの基準でのことだ。子どものままただただ描き続けただけのやつが、プロにそう言わせたんだ。君が色々巡ってきた偉い先生たちは、君がどこかの弟子か学生だと思ったんだ。あいつらが優しくするのは才能のないやつに対してか自分を賞賛してくれるやつにだけだ。だからあいつらは本物になれない。わしもだけどもなぁ」老画家は、がはははと笑って続けた。
「あいつら、自慢話をしなかったか?わしらはな、本物に出くわして怖くなると、自分を高めて守ろうとする醜い習性を持っておる。分かるか?君は、貴重だ」僕は、誉められているのか、けなされているのか判断しかねて「すみません」と俯いた。
「だから、何故謝る必要があるんだ?お前さんの描きたい想いは誰かに迷惑をかけたか?お前さんに技巧がないことは、誰かを苦しめるか?どうして胸を張らない?好きなものがある、全てを傾けて打ち込めるものがあることに。それはな・・・」老画家は椅子に腰掛け煙草に火をつけて一息吐くと、「それはな、どんな金持ちになっても、得られん」と言った。僕はまばたきもできなくなって硬直したまま、彼の目から視線をそらせなくなった。
 老画家は憑かれたように遠くを凝視して「あの子と同じ目だ。そうか、そういうことか。だからわしは・・・」と小さく呟くと、突然我に返って、「いいか?こんな所へ来るな!人に意見なんかを聞きに来るな!絵など持ってくるな!」と怒鳴った。不意のかんしゃくにすっかり怯えて「すみませんでした」とお辞儀をしてアトリエを出ようと踵を返した僕。
 はっとした老画家は、ゆっくり出口まで送ってくれ、僕の頭に手をのせてぽんぽんとしながら言った。
「貫け」
 僕は膝と頭がくっつきそうな程に深く頭を下げて何度もお礼を言った。「ありがとうございました」紛れもない、本心から出た言葉だった。帰り道、僕は長い道のりをビーチサンダルで歩いた。もうこんなに暗くなっていたんだ、知らなかった。何故だか分からないけれど、子どもの時以来の涙があふれた。このまま家へ帰ったら家族に対して恥ずかしい。気持ちのやりくりをしたかった、というのが本当の理由だったと思うけれど、とにかく僕は今日も遠回りをして帰ることにした。ああだけど、今日の遠回りは、傷を癒して自分を立て直すためじゃない。入り江に平行して敷かれた道路をずっと行くと、小さな丘が見えた。あの明かりは何だろう?豪邸かな、それともホテルだろうか。半ば夢うつつに惹かれ、僕はその建物の方に向かっていた。

 少女は四角いものを抱えて、後ろを振り返りながら泣いていた。背丈からいくと僕と同じくらいの年齢か、でもすごく幼く見える。「ほら、早く来い!」黒いスーツを来た父親らしき男が三メートル程先から振り返って少女に怒鳴る。少女は目に涙を溜めて走りだそうとしたが、転んだ。僕は立ち止まってずっと見ていた。少女は「うう」と小さく呻いたが、まるで聞こえないといった様子。うんざりして引き返した男。突如、手に持ったアタッシュケースを少女の顔面に力一杯打ち付けた。少女は無理矢理立たされ、同時に何かを落とし、引きずられるように歩かされた。片足を引きずっている。捻挫したのかも知れない。僕は胸の痛みを感じた。路肩に停めてあった車に父親が先に乗り込んだ。少女は突っ立っている。再び、乗車した父親が降りて来て助手席のドアを開けると、少女の後ろ首を片手で捻るように掴んで車内に押し込んだ。「お母さん」少女が空を仰いで小さく声を上げると、父親は企んだような目をして運転席に戻りながら言った。「もう違うやつになっちまった。全くお前まで似てきやがって。あいつ一人で沢山だ!」僕は「待って!」と、叫んでいた。何の考えもないのに。何もできないのに。だけど気持ちを割り切ることができなくて、そして奇妙に惹き付けられて。車内から振り返る二人の怪訝な顔を見て、僕はそうだ!と閃いた。僕は少女の転んだ所へ走っていくと、正方形の物体を拾った。それを手に「忘れ物!」と叫びながら助手席まで突っ走ると、少女が窓を開けた。「はい、これ。さっき落とすところが見えたから」少女は何も言わずにそれを膝の上にのせ、嬉しそうに眺めては抱き締めた。そこには『人魚姫』と書いてあった。「これはどうも御親切に。ちっとも気がつきませんでしたよ」父親は社交的に笑った。「ほら、お礼を言いなさい」不気味な優しさに促されてようやく少女は「ありがとう」と呟いた。父親が先の場面を取り繕うように言い出した。「君、君も、お見舞いかね?」声が上ずっている。「お見舞い?いえ、別に、あの、僕は散歩で・・・」父親はほっとした顔をしてシートベルトを締めた。「あの」声が勝手に出てしまった。「足、大丈夫?」僕は父親に聞こえないように彼女に囁いた。彼女は何も言わず、物言いた気に打たれた頬を押さえてみせた。僕は、分かっているよ、と言うつもりで頷いた。その途端、少女の顔がぱっと明るくなって、ようやく僕に視線を合わせた。その時だった。
 天地がゆらぐような妙な感覚に襲われた。彼女の父親は何も感じていないのだろうか、煙草に火を点けている。脳震盪を起こした時に似ている。ずっと点けている。火は進まない。時が止まったようだった。彼女と僕との視線は磁石がくっついたように微動だもしない。僕らはこの時きっと、会話をしていた。彼女にも、分かっただろうか?僕の腕に鳥肌が立っているのが分かった。こんなに人をまじまじと見ていたらおかしいと思われる、そう思ったけれど視線を動かせず、けれど頑張って頑張って、ふっと外すと彼女もぱっと俯いて、もう何も言わなかった。父親は何事もなかったかのように僕に会釈をし、ギアを入れた。
 今のは何だったのだろう?追い掛けて行って彼女とうんと話をしたい気持ちになったが、そんなことは出来ない。もし出来たとしても、学校へも行かず何か一つでも誇れるものがない僕が、彼女と話したりするのはみっともないだけで、馬鹿にさせるだけで終わるのは目に見えている。彼女には、なにも感じられてはいなかったのだろうか?だけど、どうしてだろう。また逢えると確信していた。僕がもっと一人前になってから。せめて、これだと言えるもののある人間になってから。きっとそれからまた出逢う。

 名前くらい知りたい。
 
 その夜、布団に入ってもなかなか寝つけず、夕方逢ったあの少女の事を考えていた。あのつかの間に起こった全てを正確に思い出したかった。父親は「お見舞い」と言っていた。お見舞い?病院でもあるのだろうか?彼女は「お母さん」と言っていた。父親は、少女も母親のようになってきていると言うような事を言っていた。それにしても、あの感覚は何だったのだろう。ああせめて、名前だけでも欲しかった。

 翌日あの丘へ行ってみた。豪邸に見えた建物は古いが病院らしかった。人の気配もない。建物は遠くに見えるけれど、僕の立っている道路まで、原っぱのような敷地が続いている。
 それから何度もそこへ通い続けたけれど、一度も彼女に逢わなかった。それに、だんだん僕の中の記憶とあの妙な磁石の感覚も薄れてきていて、僕はついに「何をしにきているのだろう?」と、自分に疑問を持った。その後、時々ふと思い出すことがあったけれど一瞬でしかなく、何の感情も残さずその都度うまく忘却していた。僕は彼女に逢いたかった。名前も年齢も住所も知らない彼女に。

 砂浜は透ける程白く薄く、砂粒に混じって星屑がちりばめられていた。砂浜のあちこちから小さな光が天に向かって立ち昇っている。ふと空を見上げると、そこは海の底だった。珊瑚礁が浮かび、鮮やかな小魚たちが華麗な舞いを繰り広げている。あれは何だろう?半身の少女が魚たちと一緒に舞っている。何て無邪気に笑っていることだろう。唇が綻んだ途端、僕の身体がふわりと浮いた。星は噴水のように、その光を噴き上げ、僕を昇らせていた。僕は少女に近付く。一緒に泳げる、あと少し。少女の背後にたなびく虹のような尾に、もう少しで手が届く。もう少し、あと少しだよ、人魚、僕はここにいるよ。どうか気付いて。
 
 はっとして、時計を見るとまだ5分と経っていないことが分かった。最後に時計を見たのは頭痛の前だから、実際1分か、もしかしたら数秒の出来事だったのかも知れない。何なのだろう?僕は深い眠りから覚めたようだった。夢でも見たのだろうか。どこかへ行って来た余韻すらある。けれど僕は何も思い出せない。左手の甲で瞼を擦った。濡れていた。僕は残りのコーヒーを飲み干してレジへ向かうと、店員が「お支払いいただいております」と笑顔で言うので、ありがとうと言って店を出た。今日はちゃんと寝た方が良いのかも知れない。あれ、僕はさっき「ありがとう」と言った?店員なんかに?「彼の現実」と「彼の理性」はまだ呼吸を続けていた。現実に残るものとして言えることは、人魚が来る毎に彼はひとつ学んでいたと、後になって気づくという点だけだ。起こる全ては常に一瞬なのだけれど、それはまるで長い旅をしてきた事実を回想するように、しかし烈しく、匂いや皮膚感覚や体温、鼓動、それから思考や感情を正確に・・・彼は何に基づいて正確であると断言するのか自分でも解らない・・・正確に鋭く体感させるのだ。何かとの一体感を以って。無気味な現象は、彼の中の不思議を帯びた愛着を呼び覚ます。しかしそれが、実は不快ではかったということが、その生身の理性的存在者を苦しめる要因となった。

 人魚が薄れていく。人の波間に翻弄されている自分に気づいた僕は、もうすっかり冷めた差し入れの缶コーヒーを持ったままギャラリーの混雑をすり抜け非常口を開けると、裏の土手へ出た。こんなことは初めてだった。人の集う場は常に戦いの場であり好機の場であり、日常のどんな場面よりも油断を許さない場であった。僕はそうして仕事を得、仲間を得、情報を得て来た。挨拶に挨拶を重ね会話に会話を、笑顔に笑顔を重ねして何かしらを得るためだけに用意された場面であると、僕はそう捉え続けてきた。実際それで楽しかったし、ぞくぞくとするような予感や志気の高まりを、ありきたりな僕に起こすにはうってつけで唯一の機会だった。商売敵の発見はその後の僕を成す一端を担ったし、おべっかや笑顔の裏を読み解く戦術もこんな場で身に付けてきたものだった。それがどうだろう、自分の個展だというのに、つまらなかったのだ。それどころか、ひどく僕を疲れさせた。息苦しささえ感じたではないか。土手は湿っていた。サングラスを外して腰をおろすと、生地を突き抜けて尻や腿にひんやりと生温い湿度が伝わった。黒いクロップドパンツは余計黒くなった気がした。空や地面や草が僕を馬鹿にしている。僕の新しいパンツを馬鹿にしている。そんな気がして、僕は脚を伸ばして両腕を後ろに付いた。空は「今すぐにでも降ってやるぞ」と僕を脅すように鉛筆画の世界を繰り広げていた。「雨が降ればお前は濡れるぞ、自慢のパンツだけでなく、今度は髪もジャケットも、だ」空は僕を試していた。そうだ、いつもなら、こんな湿った地面に座ることさえなかった。汚れるし濡れるし草の変な色が付くし。
「下らない。僕はあんな物に夢中になっていたんだね、人魚」
 人肌に落ち着いた何の刺激もない缶コーヒーのプルタブを空けて一口含むと、目を瞑って空を仰いだ。目を見開いている時よりも良く見える気がした。瞼の裏には何もないのに、わずかな日光はあの辺から射していると分かった。空は僕が思うような不機嫌では決してなかった。あるものに目を向けない人間には気づかれたくもない、と言わんばかりに。やっぱり空は僕を、僕らをただ試しているのかも知れない。同時に彼らは示唆している。常に、何かを。僕は思いきって寝転んだ。腕を頭の後ろで組むと丁度良い枕になった。そうだ、子どもの頃はよくこんなことをしていたっけ。鼻先をくすぐる草にどれだけ耐えられるか、なんて一人で試していた。むずがゆくて、むずがゆくて、もう駄目だと思った時、負けた気がして、それからなんだか可笑しくなってきて、一人で笑った。家へ帰ると「機嫌がいいのね」と、母に言われたのだった。きっと少年の僕はあの時良い顔をしていたに違いない。何故だかいつも木切れを持っていて、土に落書きをしていたあの頃が、懐かしくもどことなく空々しい。かつての自分自身というよりは、よその子の様子を眺めている感覚に近い。
 子どもが元気な理由はただ単に年齢が小さいからとか、細胞が新しいからというだけではないのかも知れない。自分で自分を制限しないことや、外界と自分との境目にまだ厚い壁を築いていないところにも理由はあるのかも知れない。子どもは、大人のように頭で拒絶せず、目に見えない何かと自然に接することができるから、エネルギーの代謝ができているに違いない。大人になるにつれ、自分の周りを外壁で覆うようになる。その壁は他から流れ込もうとするエネルギーを遮断し、こちらから外に向けて疎通しようとするその力も閉じ込めてしまい、密閉された水のように澱み始める。自分の壁に跳ね返された自己の力は結局自己の中心に向かう。自分一人ではプラス極とマイナス極双極の役割を同時に担えない。目に見えるものであろうとなかろうと、自分の対極と流し合うことが我々にはきっと必要なのだ。
 僕は瞼を開いた。またおかしなことを考えてしまった、と思った。しかしこれらが彼女の発言によるものなのか、僕自身の生み出した思考なのか、ほとんど区別できなくなっていた。しかし、人の海に漂う僕の時は僕自身の比率が多く、今のように一人静かになった時には人魚が優位になるのではないかと考えた。こう考えるのは人魚ではなく僕の思考だ。そう判別できるということは、やっぱりさっきは人魚だったのだ。人魚との一体を認めながらも証拠を求める僕がまだ生きていた。
 会場へ戻ろうと立ち上がった時、人魚ソーダは再び起こった。例の如く無重量の感覚に陥って、全身に衝撃が走りシュワシュワと発泡した。同時に、確かな真っ白いものが発光して僕の意識は眩み、何かを目撃した。あれ、と思って瞬きをした時にはもう元に戻っていた。何かを見た気がした。分からない、思い出せない。僕は地面にしゃがみ込んで胸を押さえていた。今までとは違うものが僕に残遺していた。僕はただただ畏怖した。
 僕の理性は束の間の記憶を辿ったが何も見えなかった。しかし、再び寝転んで目を閉じるとありありとした感覚が戻ってきた。僕は少女の気持ちになっていた。僕という少女の手足の感覚。細いが弾力があり、ぎゅっと力を込めて拳を握ると肘の辺から筋が現れる、僕はこれを良く知っている。皮膚の柔らかさ、白さ、肩にかかる髪の毛先の感覚。得も言われぬ愛着、凄まじい親しみがある。僕と言う少女は愛おしんでいる。何をだ。何を?逢いたい、一体化したいといった強烈な欲求を覚えた。それと同時に甘く切ないきゅっとしたしなやかな愛情に包まれてもいた。
 しばらくするとそれはすっきりと引いて行き、愛着だけを残して僕は僕に返った。何だったのだろう。僕の中の女性性の目覚めなのか。おかしなことに、あれは僕自身の体であるような感覚があった。愛着とそれが僕自身だった感覚。目も鼻も口も爪の形も思い出そうと思えば思い出せるようで、思い出すどころか僕はいつもそれと共に在りながらも今この一瞬だけその記憶を失ったに過ぎないような、振り返ればそこに少女の僕が当たり前に立っているような気持ちになった。
「人魚なの?」僕は必死に己の内に問いかけた。
「あなたです」人魚が応えた。
「僕なの?」
「そう。私です」
 ギャラリーを見回る振りをしながらも、頭の中は先の問答の解釈で精一杯だった。椅子に腰掛けているよりもこうしてあちこち見て回る様子を見せた方が、人に捕まらない。意味あり気な雰囲気は考え事をするのに役に立つ。
 人魚かと聞いたらあなたと言われた。それはあなたかと訪ねて僕だと言われるのと同等だろうか。僕かと聞いて私と言われたが、そこには肯定の「そう」があった。僕かと言われてそうだと言った。だけれど、そう私です、つまり彼女だ。僕かと聞いて肯定された。そこだけを取出せば、そうか、彼女は僕自身か。分かった。あれは僕だ。ということは、だ。人魚と彼女と僕は同一?いや、人魚と彼女が同一で、いや、それとも僕と彼女が同一なのか。だめだ、どうにかなりそうだ。「こういうこと」を口にするから、彼らは地上に涌いた人間の考え得る限り最高の孤独と苦痛の牢獄に追放されたのではあるまいか。やがて全ての人間が体験することでありながら、それを一足早く経験してしまったが故に、彼らは虐殺されたり投獄されたりした。そんな悲しい事実を踏まえた現代人の僕は僕を守り生き抜くために、この唇を固く結ぶと誓う。ああ、しかし彼らはきっと孤独など感じなかったのだろう、一度彼らのそれに出逢ってしまえば、二度と孤独になどなり得ないから。それにしても、実際のところ彼らは自分をどうされるのかを知りながらも、あえてあのことを口にしたのではあるまいか。何のために?僕は嫌だ、絶対に僕はこのまま何事もなかったかのように振る舞い、生き抜くんだ。しかし、そこにも一体何の意味があるというのだ。一体僕らにとって最も重要なものは何で、他の何がそれ以下なのだろうか。どうして彼らはあの浄められた透明な唇を、穢れの中に放ったのだろう。それも自らの意思で。
 人魚ソーダの度に、これまで現実と疑いもしなかった現実の現実味真実味が薄く脆くなり行き、それと反比例して、非現実だったはずの現実が濃厚により確かな現実として生き生きと呼吸を開始する。トイレを出て手を洗いながら顔を上げるとそこに鏡があった。手入れはされているけれど古びていて端が腐食しかけていた。何気なく顔を覗き込んで、ふと鏡の中の目を見た時、僕の中の配線はショートした。鏡の中の眼球と目が合ったのだ。いいや、大丈夫。分かっている。それは鏡で、僕を映しているだけだ。僕の眼球をそれは映し出し、生身の僕はその平面に映ったに過ぎない自分の眼球を見た。分かっているのだけれど。一瞬僕はその中の僕の目とコミュニケーションを取ったのだ。それは明らかに僕の眼球なのだけれど、他者のものでもある感じがして、良く知っている僕の体の一部なのだけれど、初めて逢う目でもあり、そしてやっぱりあの言い尽くせぬ愛着と親しみに強く満たされた。そこに映るのは僕なのに、僕はこの人に逢いたいと思った。
 ロビーには誰もいなかった。僕は自動販売機で少し高値のレモンスカッシュを買った。室内には暖房がかけられているせいか、体中に火照りを感じていた。黄色い350ml缶も汗ばんでいた。僕はそれを袖で拭いながら、ひんやりと冷たく心地良い現実に心身を委ねた。人間が、ことに文明人が、ああいう直感を受け入れ難いのは、それがただ単に目に見えないからというだけだろうか。
 僕はソファに腰掛けた。痛みや痒みだって目に見えないではないか。高熱だってそう、体温計で測るまで発熱していたことに気づかない人たちは結構多くいる。肩凝りだってそうだ、肩が凝ったところを目で確かめたわけでもないのに僕らはそれと分かる。なぜだ?感覚だ。以上も以下もない感覚だ。空腹が分かるのもそう、わざわざ内視鏡で空腹を確認してからものを食べるなんてことはしない。なぜだ?感覚だ。自分に空腹の感覚があることを疑う者があろうか?まして人の空腹を否定する者があろうか?この自分の空腹の感覚はまやかしかもしれぬと、よって証拠を掴むまでは何も口にしないなど、そんなことをして生きている人間があろうか?人間はある程度自分の感覚や直感を意識下で信頼している。その自己との暗黙の信頼を疑い始める境界線はどこだろう。自分を馬鹿げていると笑い始める線はどこだろう。
 プルタブを空けると良い音が響いた。僕は一気に半分を飲んだ。これだ。この喉の粘膜に触れるシュワシュワの感覚。これを人は疑うだろうか?この目で確かめられない感覚を。この、炭酸を体内に流し込む感覚を。人は、僕は、どうして証拠など求めたがるのだろうか。これらの感覚も人魚の感覚も何ら違いはないのだ。人を好きになる感覚も嫌いになる感覚も。人はそこに根拠など求めないではないか。どんな唯物論者でも恋の一つや二つはしただろう。人を慕い合う感覚は否定されないのに、なぜ他の多くの、大部分は自身と直接関係を持たないものは、疑い拒むのだろう。何を根拠に有り得ないと断言するのだろう。何のために。
 ああ僕は自己弁護の材料を探しているのだ。見えぬものを否定する輩を非難したい気持ちになるのは、僕自身へのそれに違いないのだ。僕の中には、あれを信じたい自分がいる。同時にそんな自分を痛めつけたい自分、つまり、あれは気のせいであり、思い過ごしだと信じたい自分もいる。もうどちらでも構わないから、どちらか一つにすっきりと落ち着きたいと思えてきた。
 僕はどちらであって欲しいのだろう。あんなことが起こりさえしなければ葛藤することもなかった。こんな特殊な苦しみに苛まれることもなかった。それならば、あれは気のせいだと流してしまうだけでいい。それで僕は楽になる。大体おかしいではないか、僕が感じたもの、僕の対話するもの、それは幻なのだもの。
 僕は気持ちを集中させて、あれは気のせいでしかないことだったと思おうとした。そうだ、気のせいだ。僕は疲れていたし忙しかったし、もしかしたら職業病のような症状が出たのかもしれない。無から生み出すぼくらの仕事は時に妙な感覚を味わわさせるものだから。何もなかった。そう言い聞かせ胸をなで下ろし、僕ソファから立ち上がると、再びギャラリーへと向かった。慣れ親しんだ作り笑顔で。胸の奥の隅の方に閊えた小さな、けれど強固なしこりの感覚を押し殺して。何もなかったと決めて以来、思い出さないよう思い出さないようにと普通に過ごしていた。けれど、あれを信じたい僕がいるのは何故だろうか。それを考え出してからは、いくら考えても理由を見つけることができず、取り留めがない苦痛から抜けられなくなった。
 ある晩、僕は放心状態で台所に立っていた。
 人魚が微笑みかける。
 僕はかっとして、手に持っていたグラスをシンクに叩き付けていた。グラスは砕けた。

【覚え書き】
 「中庭はとっても穏やかで優しいので、わたしはここが好きです。病棟の中は不自然に静かだったり、不自然にうるさかったりします。ここで月を見ていられたら良いのだけれど、夜は出られません。でも、見えないから月がないというわけではないので、わたしは悲しみません。今は見えないけれど、こうして一緒にいますから」彼女は目を閉じて口元をわずかに綻ばせた。その顔は聖母のようでも仏のようでもあった。
 ここにある唯一の大木に背を凭せ、時々目を開けては手元の小さなノートにうわ言のように言葉を綴った。
「病気であるとかないとかは、わたしにはもう取るに足らない些細なことなのです。それは給食にパセリが添えられているかいないかに囚われるのと同じ次元のものなのです」
 彼女は再び目を閉じて暫しまどろんだかのようにじっとしていたが、突然、溌溂とした目を見開くと、嬉しそうにまた綴り始めた。
「見えるか見えないかも取るに足らないことなのです。(これは月が教えてくれました)」
「触れられるか触れられなかも」
 そう付け足すと、彼女はさっと立ち上がり空を仰ぎながら病棟へと歩いた。(鉛筆画みたいな空)彼女は思った。もうすぐ雨が降り出すだろう。玄関の石段にはいつもの二人が腰掛けていた。そのすぐ脇にはベンチがあるにもかかわらず、その老齢の患者二人は毎日そこに座っている。ベンチは最近置かれたもので、おそらく古株の二人がいつもそうして出入りを邪魔していることを病院側が配慮して置いたものだ。いわばこれはこの二人の老人のためのベンチだった。(昔からあのベンチがここにあったなら、このお二人はきっと今ベンチに座っているのだわ)彼女はそう思った。彼女と老人二人は互いに挨拶を交わすこともなくいつも通りに交叉した。「あの、パラノイア気質のね」老人の一人が口走っているのが聞こえた。その老人はいつでも左側に座っていて、もう一人「そうだ、そうだ」と、いつも目を瞑ってひたすら頷いて肯定している老人が、必ずその右に座っている。この二人は一見会話しているように見えるのだが、接近して耳をそばだてると相互にほとんど独り言のように聞こえる。しかし互いに何かしらの疎通があり、信じられないような知識や意見を共有していることがある。「あのパラノイア気質のね」老人は再び呟いた。
 その時彼女の感情を押し退けるように彼の感情がなだれ込んで来た。それは信頼していた人に裏切られて傷ついた、まさにその感情だった。老人は青年だった頃、誰かにそう言われたのだわ。学校・・・そう、大学だわ。研究室のような場所で・・・そう言ったのは、学生ではない・・・もっと大人の、貫禄のある・・・教授。「信じていたのに!」一瞬の体感は彼女に新鮮な痛みをもたらした。涙を抑えることができずそこに立ち尽くした。
 老人たちに背をむけたまま顔を両手で覆って泣く彼女は、ふと気配を感じて顔をあげた。そこには彼女にそれを味わわせた彼が立っていた。見たこともないくらいに穏やかで意志のしっかりした瞳が彼女を見詰めた。「済んだことさ」老人は悪戯気に彼女を覗き込み、ぽんと頭に手を置いた。その瞬間、彼女の中の感情は昇華した。
 翌日も翌々日も彼らはそこに座り込み、会話の仮面の内側で相互に暗黙の交流を図り、彼女と無言で交叉したけれど、あの言葉はもう聞こえてこなかった。
 (供養されたのだわ)彼女はほほ笑んだ。
 その夜、彼女はベッドの中で小型ノートの最後の頁を繰ると、
『すべては共有されるのです。全ては全てを愛するように出来ているのです。やがて全ては、そうなります。そのための先駆的存在があるかも知れません』
そう書き記すと、かつてない快い眠りへと沈んで行った。

 翌日も妙な気分が続いた。額の裏でミニチュアの蛇が疼く。
 いたたまれなくなった僕は、プルオーバーを被って家を出た。何の目的もなかったが、とにかく逃げたかった。物理的逃避が不可能であることは承知の上ながら、どうしてもそうせずにはいられず、独り暮らしだというのに、僕は家出をしたようなものだった。こんな季節に、それもこんな夜更けに、海岸に人がいるはずもなかった。家にいた時よりも気を紛らすものなど更になく、それどころか、何もないが故に、そこは僕を映した鏡が四方八方に貼り巡らされた呪の館となった。僕は、自分の群れがハイエナのように一斉に視線を突き刺して来るのを回避しなければならないと焦った。僕は走った。蒼白の砂浜を、足を捕られながら走った。砂に塗れた僕のハイエナたちが、コネクションを利用してやっと手に入れたレアもののスニーカーに噛み付こうとする。ハイエナの手下となった乾涸びた海藻が血管のように至る所に潜伏し、隙を見ては絡み付こうとする。はぁはぁと息が切れるのは案外早かった。昔はいくらでも走れたのに、今こうして走れば走るほどに負荷は強化される。重力がアップしたのではないかとさえ思った。
 僕はこんなに変わってしまった。おかしくなってしまった。
いや、当たり前だと思い込んでいた日々が、自分が、実はおかしくなっていただけで、いまここに現れ始めた自分がまともなのか。畜生!人魚ソーダがまた始まった。手足が痺れ頭痛が始まり、ほとんどそれは身体的な症状を持った発作だった。僕はとうとう僕と言う虎挟みにかかって転倒した。「やめろよぉ。もう、やめてくれよぉ。勘弁してくれよぉ」怒りも愛着も確信も懐疑も、人魚と僕自身に対する全ての想いが火山のように噴出した。ほとんどもう、僕は泣いていた。言葉にならない叫びを上げながら、僕はひたすら腕で砂を打ち続けた。
「そんなに声を出しちゃ、だめ」
 そよ風にでさえかき消されそうな程の声で人魚は現れた。
 人魚は凛と綺麗にしまった顔をして母親のように僕を見ている。
 透けそうな唇に人差し指を押し当てて、息も吐かずに僕を注視する彼女の緊迫の意味を捉えようと、僕の思考は高速回転した。
 僕は、撹拌してみても鱗が飛び散るばかりで何の血肉も備えていなかったという事実を露呈しただけの、愚かな腐った魚だった。結局及ぶところは何もなかった。
 彼女は静寂の白夜に浮かび上がる、岩に腰掛けた人魚であった。その時、彼女の髪は美しく長く伸びて、しなやかに耽る虹色の鱗の下に敷かれる。僕は彼女の言葉を裏打つ根拠なき正義の精を信頼するしかなかった。把握しようと挑んだり試みたりする僕の自発的行為の何一つも、彼女の前では意味を成せない。
 僕の思う現実社会と、あちら側の世界とをきわどく繋ぎ止める「狭間」という網にからまったまま生きざるを得ない瀕死の薄絹魚のような彼女は、その前にある僕を、彼女以上に脆弱で無知な、全く無力な存在にまで溶かし滾る泡に変え、それを僕と言う残された固形の破片に突き付ける。最後の固形である僕はじゅうっと音を立てて焦げ溶け、蒸気となって昇る。僕は無になる。
(そんなに声を出しちゃ、だめ) 
人魚はその膝に僕の頭を凭せ、ゆっくり、ゆっくりと撫で始めた。僕は思考を止めた。いや、彼女の紡いだ妙薬が僕を思考不全へといざなった。僕はただただ感じた。僕は、ただただ白夜になり行く自分を味わっていた。
僕が完全に白夜となって、産着のように人魚の世界を包み出した頃、彼女の微かな声は再び届いた。
「そうよ」
 月はそのシフォンのような柔らかな光を少しずつ縦に引き伸ばし始めた。
「充分なのが、わかるでしょう」
 僕は変容していく月の様に何の疑問も持たず眺めていた。
「声は大きくなくて善いのです」
 ついに、氷柱のように鋭く先を尖らせた月光は、矢と化した。
「こういうことが、いちばん大事」
 僕は、クリスタルのグラスを割ってしまった場面を思い出していた。鋭い切り口が僕を嘲笑して、僕はあの時「畜生!」と吐き捨てた。
 罰として月は僕を目がけてそれを射た。 
 天体のレーザーガンは僕に的を合わせて発射され、彼の思惑通り、それは僕の心臓を突き刺した。
 その瞬間、痺れも頭痛も消え去った。
 否定しようとするから苦痛が起こるんだ。僕は解った。
 
 生活にはなんの支障もなかった。支障がないどころか、仕事の依頼は増加傾向にあるし、仕事内容である描画の調子はだんだん良くなった。心理的な空腹感や苛立ちがなくなってきたせいか、あまり腹が減らなくなった。だらだらと一日中眠いこともなくなり、以前よりも短い歯切れの良い睡眠で爽快感を味わうようになった。それに、結局着もしない限定品の高価なTシャツや靴を買わなくなった。その代わり、人魚ソーダも増加して、作業をしながら、買い物をしながら、会話をしながら、体感の現象も同時進行するようになった。そのひとときは日増しに増えて、僕の時間を人魚が共にするような共同作業的感覚に疑問を持つ猶予もないまま今やほぼそれが慢性化した。僕は人魚と緩やかに一体化していく過程を丁寧に味わっているようだった。人魚の感情を味わいながら、人魚の伝達に耳を傾けながら、同時に仕事が進んだ。絵はうんとよくなったと誉められた。雑誌に連載されている毎月の僕の挿し絵もテーマは変わらないし描き慣れたものなのに「なんだか前より呼吸が感じられるわ」などと言われることが増えた。驚くことに、僕が限定販売品収集を止めた途端、それを皮肉るように、僕の描いたイラストはポストカードやTシャツ、帽子やバッジにもなってシリアルナンバー付きで、それもすごく高い値段で限定販売された。CDジャケット制作に、出版者のロゴ入りの文庫本用しおり。それに来年のカレンダー。大手の幼児番組で、童謡の背景に映すファンタスティックなイラスト。
 物心ついた頃から染み付いていた「僕の人生でそんなことは絶対に有り得ない」という、信心に近い暗黙の確信はこれを機に拭われた。万能感こそないが、いつからか根拠なき自信に背中を押されるのを拒まなくなった。こんな風に僕は変わって行った。


【マーメイド・ソーダ】
 彼女はあの木の場所へ辿り着くまで、頁が切れていたことに気づかなかった。腰をおろした後で、しまった、と思い院内へ引き返した。売店は20年前と同じ物しか売っていないと思われる品々ばかりだった。相変わらず、何を買うでもないのに漂う人で混んでいた。一日中そこにいるのではないかと思う程にいつもいる人や、病棟の看護師にああだこうだと言われながら尊厳を取り戻すべく戦いながら買い物をする人もある。彼女は一番奥の文房具の陳列棚を目指した。文房具は色が褪せているか、埃をかぶっているかのどちらかだ。菓子類は入れ替わりが早く、ここにいながらにして世の動きを察知する唯一で貴重な存在だった。
 文房具のコーナーには誰もいなかった。なぜかクレヨンがいつも売り切れている。猛烈に描く患者が一人いるか、仕入れていないかのどちらかだと常々彼女は思っていた。彼女はこれまでと同じ、notebook と書いてあるオフホワイトの小さなノートの置いてあるはずの下段に目をやったが、そこには一つもなかった。驚いてしゃがみこんだが、やっぱりなかった。彼女は口を聞きたがらなかったが、この件は最も重要な事項の上位に位置することを思い出し、店員の方へ向き直ると手を上げた。店員は彼女と会話を交わしたことはなかったが、なんとなく彼女を気に入っていたので、忙しいにもかかわらずすぐさま文房具棚の前にやって来た。
「どうしましたか」店員の笑顔に偽りはなかった。
「あの、これ」彼女はノートの置かれているべき部分を指差した。「ああ、これね。そうね、もうなくなっちゃったの?明日の午後には入ると思うんだけど、大丈夫かしら?もう頁がないのかな?」店員は同情の念を現した。彼女は悲しそうに頷いた。頷いたまま顔を上げようとしなかったので、店員は彼女が泣き出すのではないかと冷や汗をかいた。仕方がないので諦めて間に合わせを探そうと思ったが、一つの任務に選んだあれを、あれがいないからといってすぐに代理を探すことはあのノートの自尊心を傷つけかねないと思ったので、やめた。今、彼女が悲しげに俯いたのは、あのノートがないからではなく、ないからといって他に摺り替えようと一瞬でも思った自分の心を悲しんだためだった。「考えてきます」閊えるように精一杯店員に応えた彼女は、顔を上げて店を出ようとした。レジの前を通り抜ける時にそれは起こった。彼女の視界はとてつもない閃光と共に一瞬制止して、そしてジェルを伸ばしたように歪んだ。彼女は体が宙に浮くのを感じ、ぎゅっと目を瞑った。小刻みにまばたきをしながら、彼女はレジの後ろの壁を指差して、「え?」と言って店員が壁を振り返る間にそのまま倒れた。左手の脈を測られているのに気が付いて、彼女は徐々に意識を取り戻した。頭痛がした。「うう」と言って瞼を上げると「ああ、気が付いた」と言われた。眩しそうに目を細めながら起き上がろうとする彼女の肩に看護師が手を貸しながら言った。「お部屋に戻りましょうね」突如、彼女自身さえ予期せぬ涙が溢れ出し、どしゃぶりのようにその白い膝を打った。彼女は「いや、いや」と泣きじゃくりながら壁を指差した。店員と看護師が壁を見やる。店員は移動する。「これ?」店員はカレンダーを指差した。彼女はもげんばかりに首を振った。看護師が立ち上がる。レジ越しに壁を指した。「もしかして、これ?」そこには一枚のポストカードが一つの画鋲で貼られていた。彼女は久しぶりに満面の笑顔を見せて大きく頷いて両手を伸ばした。店員は頷く。「でも規則ですから」看護師の冷たくも悲しい声が遠くに聞こえる。彼女の目はその一枚に釘付けになり、もはや何者も介入できなくなっていた。
 美しい絵。ワイングラスの淵に小さな人魚が腰掛けていて、その尾ひれを冷たそうなソーダ水に浸している。人魚が身をもたせかけているストローには、ラインに沿って小さく“mermaid・soda”と書いてある。「貰ったりあげたりするのは禁止なんですよ」
「いいのよ、娘が昨日沢山買って来たものだからまだあるし」
「でも」彼女は意を決したように立ち上がるときっぱり言った。
「買う。それなら、いいの?」
 彼女の異様な気迫を感じたためか、看護師も店員も、あっさりそれを承諾した。結局それは建て前程度の価格で取引された。
 彼女は病棟に連れ戻される間もずっとそれを眺めていた。まるでまだ見ぬわが子を抱くかのように、大事に大事に両手で抱くようにもち続けた。その日一日、大事をとるということで、病室に運ばれた昼食をとる時も、夕食の時も、投薬時間も、干渉されずに眺め続けることが出来た。眠って起きるまで。ずっと。彼女は、この絵は自分が書いたもののような気がして、混乱を始めた。
(素朴で美しい少年は真っ白な波の上を、まるで草原でも駆けるかのように、楽し気に走り回っている。少女は懐かしく、少年を眺めていた。やがて海を包んだ世界は丸い玉のように変型し始め、グラスとなった。グラスの中には海がある。シュワシュワと、生まれ立ての飛沫が跳ねる。綺麗だわ。少女はその海に飛び込むと、少年と二人ではしゃいだ。やがて疲れて少女が縁に掴まると、少年は抱き上げ座らせた。少女は、岸だ岸だと喜んで声を上げた。)
 掲示板は彼女の病棟の食堂にもあった。先月のままになったカレンダーと並んだ今月の給食献立表。
 桃の缶詰。チンゲン菜と海老のクリーム煮。キャベツの中華風スープ。食パン(ジャム・マーガリン)。ひじきご飯(味付けのり)。牛乳。ささみチーズ。かぼちゃのあんかけ。焼き魚。カレーライス。ポークソテー。ヨーグルト。バナナ。豚汁。ほうれん草のごま和え。※主食はパンか米飯の自由選択 ※※毎月20日過ぎに配布される翌月の選択メニュー献立から選択し(丸をつけること)月末までに提出のこと。
「あとはこの繰り返し。これを食べ終われば今月が終わる」彼女は朝から30分毎にここに立っている。最近状態が落ち着いたとされる彼女の耳には、「来月になれば外泊許可をもらえるかもね」という希望の言葉が木霊を続けていた。それは今朝のバイタルチェックの時に脈を測りながら看護師が言った言葉だった。
「本当?」「そうね、ご飯、しっかり食べなきゃね」
 看護師はここぞとばかりに彼女の弱味を突いた。
 彼女はここの給食が嫌いではなかった。ただ、食べることを習慣化できないだけだ。「食べなければ」そうして朝から何度も献立を睨み把握し、心の準備と決心、それから配膳と対峙する自分をシュミレイトするのだった。
『応募作品募集中』
 ため息を吐いて献立表から視線を外した先にそれはあった。
『後援 地域振興課』
『小学生の部:作文(テーマ自由)』
『一般の部(中高生含む):随筆・自由詩・童話』
『応募規定:400字詰原稿用紙5枚以内』
「出してみたら?」
 不意の呼び掛けに驚いて、彼女は1秒間パニックに陥った。
「ああ、ごめんね。驚かせちゃたかしら?」
 今朝の看護師だ。
「ほら、賞品があるって!」「え」「ほら、ここ」
 看護師の指に視線を移す。『大賞受賞者には賞金3万円。その他入賞者には文具券3千円分を贈呈』
「文具券。欲しい」
「そうだ、いい物持っていってあげるから、お部屋で待っててくれる?」
 彼女は操り人形のようにこくりと極端に頷いて、とぼとぼと病室へ戻った。先週から6人部屋に引っ越したので、まだ慣れていなかったのだが、ベッドのカーテンは半分以上引いてはいけない規則があるので自分を孤立させる方法がない。窓をあけてみたが10センチも開かないところでガツンと止まった。(せめて掌に風を感じたいのに)彼女はあきらめてベッドに戻ると、紙袋を漁り入院当初に持ってきていた唯一の絵本を取り出した。そして頁を開くと顔を覆うようにして読み耽る様を装った。

 2時間が経過したが看護師は来ない。彼女は諦めて中庭へ行こうと記録帳に行き先と離棟時間、帰棟予定時間を記入した。制限時間の一時間目いっぱいを、中庭で過ごすつもりだった。そうして彼女は病室を出た。老患者二人の横をすり抜ける。外の天気は素晴らしく良かった。心無しかいつものあの木がのびのびとして、ことさら大きく育って見える。彼女はいつものように脚を伸ばしてその木に背を凭せると、小さなノートを膝の上に置いて目を瞑った。
「ああ、やっぱりここにいたのね、ごめんね、遅くなっちゃって」
 看護師の声に彼女は顔をあげる。息を切らせている。
「ごめんね、てんやわんやしちゃっていて」
 彼女は首を横に振った。
「でね、これ」
 看護師は少女に古い紙の束を渡した。
「この前棚の整理をしていたら出てきたの。お母さまのよ」
 少女は火柱を立てるような目をして、掻きむしるようにそれを確認し始めた。
「ごめんね、また後でくるから」看護師はまた走って病棟へ帰って行った。
 彼女は返事もせずに、一つ一つを開くことに夢中になっていた。
 その殆どは走り書きよりひどいもので、読めはしなかった。
「お母さん」そう呟いて、ある一つを開く。

 『私の可愛い人魚姫
  
人魚姫へ

  私の愛も血も声も
  すべてあなたが使えばいい
  その時わたしは あなたとなって
  天使の翼をはためかせ
  煌めく粒子を播き散らす
  そうして役にたてるから
  あなたは私の愛も血も声も
  ぜんぶ使い果たしていい
  私は喜んで泡になるの
  一致を祈って

  私のすべてへ 可愛い娘』

紙から指先を伝って流れ込む感情。娘を愛するが故の母親の幸福感は、彼女の想像を絶した。
 突然幹に触れた少女の背中が熱くなり、同時に脳裏に鮮明な像が浮かび上がった。
 もう少し小さかった頃のこの木。背中を凭せているのは、私?違うわ。お母さんだわ。紙切れの束と、それから、先の丸い鉛筆を持っている。向こうから女の子が走ってくる。おかあさん、と叫んでいる。笑っている。すごく嬉しそう。女の子を抱き締めて、お母さんは涙を流している。逢いたかった。誰?男の人。怖い。この人、このアタッシュケースでお母さんを殴るんだわ。私のことも。男の子がいる。一緒にブランコに載っている。お母さんもだ。私たち、幸せなのよ。さっきの男の人が背を向けて帰って行く。ああ、もう大丈夫。お母さん、もう大丈夫よ。あの子が来てくれたのだもの。
「足は、もう、大丈夫?」
「ええ、もうずっと前に治りました」
「ほっぺはもう、痛くない?」
「ええ、もうちっとも」
「ごめんね、あの日」
「なあに?」
「助けてあげられなかった」
「いいえ。助けてもらいました」
「それに、君を、忘れた」
「いいえ、あなたはずっと私のそばに、いてくれました」
 

 僕はソファに横になり、グラスの中に残った氷が溶けていくのを見ていた。重なった氷の一つが溶けて底に落ちた。カツンと小さな音を聞いて、僕はふと思い出した。発泡だ。僕はクッションを枕にして、目を閉じた。臍の辺りが温かく、何かを抱いているような、何かに抱かれているような安堵に陶酔した。
 彼はどうしているだろう?ここ数年会っていないどころか思い出しもしなかったある一人の友人。僕らはお互い無収入に近い生活をしていた頃に出逢い、よく夢を語り合った友だった。彼はもの書きになりたくて、僕は絵書きになりたくて、彼の作品を見ては頼まれもしないのに挿し絵をつけてみたり、彼もまた僕の絵に短い言葉を添えたりしながら、夜明けまで冗談を言い合い笑い合った。僕はいつもビーチサンダルを履いていた。彼は夏でもブーツを履いていいた。お互い、持てる靴と呼べるものはその一足だけだった。彼のウエスタンブーツは先が尖っていた。業者が張り切って付けたような過剰なステッチとフリンジが、返ってその靴を安物らしく見せていた。彼はそういうものが好きだった。変なやつだった。「本物に追い付こうとして余計なものを増やしていく人間みたいでいいだろ。本物のウエスタンなら飾りの何一つもなくったって、自分がウエスタンかどうかなんて気にもしないさ。それは、カットという先天的な、そうだな、言わばウエスタンのDNAみたいな目に見えないものが内包されてるってだけで、それが本物の証となると思わない?本物のウエスタンは自分がウエスタンであることが当たり前で、他の何かになろうなど考えたこともないだろうな」彼は、僕が話題を変えない限り延々と演説を続けた。僕は彼の話す意味の分からない内容になど興味はなかったけれど、喋らせている間の彼は、本物のウエスタンにあるものと同じものを彼の中に見出せた。だから僕はよほどの用事がない限り、いつまでも彼にそうしていてほしいと願った。自分の中にないものを彼の中に見つけることによって、僕は安心をしていたのかもしれない。今思うと、もっとちゃんと聞いておけばよかった。今の僕なら、彼の言っていたことが、あの頃よりはずっと理解できるはずだ。彼はいつも僕より先を見ていたに違いなかった。
僕は彼を訪ねていくことにした。


【棚の裏】
「おはよう」看護師は彼女の右手首を押さえながら腕時計の秒針を読んでいた。 彼女は引き出しから体温計を出し、脇にはさむ。「今日からお薬が少し変わるんだって」体温計が小鳥の鳴き真似をした。「37.2℃」あら、ちょっと高いわね。風邪引いちゃったかしら?お昼まで様子をみようか。お庭へは勝手に行ったりしないでね」彼女は頷くと、引き出しからポストカードを出し、看護師に見せた。「え?なあに?まあ。かわいいわね。人魚さんがいたわ」看護師が笑うので、つられたのか、彼女も笑った。人前で笑うのは、ほとんど初めてといっても良かった。彼女はこの看護師を認め始めていた。看護師が褒めてくれたので満足したのか、少女は再びそれを引き出しに仕舞った。
「この前のあれ、応募した?」 
 少女は、今度は引き出しの下の扉を開けると例の紙の束を出した。「ああこれ、全部見てみた?」
 何も言わぬまま、あの木の下で読んだ一枚を引き抜きテーブルの上に置くと看護師を見上げた。
「ん?なになに、どうしたの?」看護師は、少女の母親の文字を目で負いながら、瞳を震わせ潤ませた。
「これ、だめ?」少女は看護師を見上げる。
「うーん。本人じゃないっていうのは、どうなのでしょうね。でも、そうよ、駄目なんてことはないわ。これにするの?」
 少女はこくんと頷いた。
 看護師は少女の口元に垂れたよだれを自分のハンカチで拭いながら「じゃあ、決まりね。文具券もらえるといいわね」と言った。
「おかあさん、どこにいたの」少女は声を落とした。
「覚えていない?ずっと、あなたと同じように開放病棟にいて、時々閉鎖に移って。だけど保護室へ行った後に・・・ねぇ?」
 看護師は涙ぐんだ。彼女は少女の母親の担当だった。
「でも、最後は・・・」
「おしえて」
 それは彼女がここへ入って以来初めての、完全に覚醒した言葉だった。
 娘が子どもの頃は、ここに入院している自分を見舞いに来、しかし夫と娘が姿を見せなくなった頃から突如として悪化した母親は、以来一睡もせずに娘の名を叫び続け、ついに目を開けたまま動かなくなり、免疫機能の低下に伴って感染した溶血性連鎖球菌によって、ひどい高熱が続いた挙句、死んだ。
 その頃、書類上は夫とも娘とも、もう家族ではなくなっていたことを母は知らなかった。娘が自分の父親の元に引き取られ、思春期病棟に入退院を繰り返していたことも、知らなかった。親子二代にわたり同じ病院に入院したというのに、少女は一度もそのことを口にしなかったので、スタッフの間で不思議がられていた。
「私が一番長く担当したの。あなたのお母様をね。私も若くて未熟だったから、どう接したらいいのか分からなかった。でもね、ある日見たの。まだ、悪くなる前にね。あなたみたいに紙と鉛筆を持って、お母さまはいつも何かを書いていらしたのよ」
「これは?」少女は紙の束を指差した。
「私たちの部屋の奥に棚があるのが見えるでしょう?あの裏にね、落ちてたのよ。不思議ね。患者さんからの預かりものをおいておくところなんだけどね、ほら、針と糸とか、髭そりとか、渡してるところを見た事があるでしょう」
「知ってる」
「うん。患者さんがお亡くなりになるとね、ご家族の方にみんな返すのだけれど、あれだけがどうしてか、出てこなかったのよ。あなたに逢いたかったのかもしれないね、読んでもらいたかったのかも知れないわね」
 気が済んだのか、少女はけろりとして、「あれ、出すから、封筒とか、わからないから」「あっ・・・そうね。うん、あとで一緒に宛名書きもしようね」看護師ははっとして、目頭を押さえながら病室を出た。
 他の患者が食べ終わってもまだ、彼女は独り残っていた。食パンを定規で半分に切り、それをまた半分に切り、またさらに半分に切った。少女は闘志を燃やして朝食と格闘していた。最後の一切れに塗るジャムが残らなかったのは誤算だった。彼女は牛乳で一気にそれを流し込むと、桃の缶詰めに取りかかったが、一旦スプーンをテーブルに置くと、ポストカードを両手に持って話し掛けた。「はやくおじいちゃんに、逢いたい。きっと、あなたもくるから」再びポストカードは膝に置かれ、彼女は残りの桃を一口で飲み込んだ。数人の看護師が驚いてやってくる。少女のやり遂げたという満足気な表情は、それによって一気に消沈した。あと一時間で昼食だ。
「うん。役所の下請けで地元の人たちの書いた文章を選ぶ仕事を引き受けたんだ。俺は詩部門担当。それで下読みしていたんだけど、こんなに多いと思わなかったよ。「詩?おまえが詩?インチキ臭い世の中だな、しかし」僕が笑うと、「だろ?」友人も笑った。本当はそんなこと思ってなどいない。彼は誰より本物だ。その気持ちを裏に現しているだけで、そこに密かな敬意が込められていることを、彼は知っている。だけど僕は、なぜわざわざ言葉をひっくり返してしまうのだろう。
「へえぇ。どれ、見せて」
「いいよ、そこに束になってるだろ、それそれ」
「ふうん。これか」
 案外応募者が多かったという割には少ないように思った。これで多いという位なのだから、毎回どんなに少なかったことかと思いつつパラパラと眺め始めた。その時僕の掌に熱いものの存在を感じた。まるでこの束の中のどこかに脈打つ炎が紛れ込んだかのように。僕の掌は感じ取っていた。胸騒ぎがする。
「これ読んだ?えーと、作者は、『人魚姫』だって」
「え?あああ。それね、なんか変な念が出てるやつだろ?」彼は笑ったが僕は笑えなかった。
「これ、入賞させてくれよ」
「何だよいきなり!?気に入ったのか?でもね、お前のために受賞作品を操作したらまずいだろ」「お前はどう思う?」彼はグラスを片手にこちらへやって来ると、テーブルの上に座って脚をぶらぶらさせながら、しかし真剣に読み始めた。妙な緊迫感が僕らを包んでいた。
 僕は手持ち無沙汰になって、きょろきょろと部屋を見回していると、そこに昔の作品集を見つけた。埃を払って手に取った。地域振興課。書体がおかしい。うわぁ、こっちのは10年前のだ。粗かったんだなぁ。へぇ。表紙には、見た事があるような絵が描いてある。あれ、誰だったろう?僕はこの人を知っているような気がするのだけれど、想い出せない。まあいいや、と、頁を開く。するとそこにもまた表紙のような挿し絵がされていた。
 ふうん。僕は頁を繰った。『随筆部門 最優秀賞 ロシアの雨』
なんだこれ。「小生まだ青き儚き夢の中に生きたあの頃・・・」小生ねぇ。『童話部門 奨励賞 南天とお重箱』「兵隊さんのお人形が欲しいというので、私は母様の古い半襟を貰って小石をつないで縫ってあげました。だのに太郎は、そんなのいやだい、と言って豆炭を投げ付けたのでございます・・・」豆炭かぁ。昔見た事があったような。
 『詩部門 佳作 画家の娘』平凡なタイトルだな。
 「私は祈ります 
  あなたが人を愛せますように
  そして人から愛されますように
  あなたが全てを愛し 愛されたなら
  愛される以上に
  息をするあらゆるものを
  あなたが心から愛せますように
  そう祈っているうち
  わたしはあなたに祈っているというのに
  どうも作用が
  わたしにも起こるということを
  知りました」
  「佳作だろうな」
 彼の声に、僕はついはっとして本を隠してしまった。
「佳作?一番いいのにしてやれないのか?」
「他のももっと熟読してからじゃないと。でも、これよりはいいだろう?ええと・・・あった、これこれ」彼は一人で笑いながら朗読を始めた。
「犬の舌を引っ張ったらいけないというので、おお、カモメ、君が突っ突くなというので、僕は草むしりをしながらアルシーテのことを思い出す。さようなら、僕」「おしまい。」
「え?それだけなの?すごいなぁ。こっちの軸がどうにかなりそうだよ、君も大変な仕事をしているんだね」
「だろ?でもね、俺、こういうの、実は嫌いじゃない」
 僕も、実は嫌いじゃなかった。夕方ここへきてから、素人の本気さが好きだと思い始めていた。みっともないこととも知らずみっともないことを自信をもってやる変な本気さが、僕は羨ましいとさえ思った。彼は言った「俺らも昔はこんなだったよな」
 僕は俯いた。「スタッズのついたベルトして、クロスのついた黒いニットキャップなんか被っちゃって。ビーサンどうしたんだよ」彼の声に攻撃性を感じた。「あ、そうだ」僕は彼を無視して先の本を取って見せた。「このコンテストは年寄り専用なのか「いいや!?なんで?」「さっきこれ見てたんだけど」「ああ、それね。昔からそんな感じだったらしいよ」「それと、この絵」
「何、知ってるの?地元のじいさんがボランティアで描いているらしいぞ。入り江の方の。一度逢ったことがある。偏屈じじいだった」「え?」ソーダが逆流した。思い出した。老画家の、あの先生の絵だ。間違いない。「これ、て、ことは、これは、毎年挿し絵してるの?俺もできないかな」僕は、彼が佳作だと言った、あの生きたものに挿し絵をつけたかった。僕自身の手で。
「うん。お前なんだよ?こんな雑魚みたいな仕事に興味を持つとは思わなかったぜ。一流イラストレーター様よ」つい、「ふざけてんじゃねぇよ」咄嗟に怒鳴ると、彼はふっと笑って言った。「役所に聞いてみろよ。それか、じいさんだろ」僕は自分が真に受けたようで恥ずかしかった。まるで、自分で一流だと認めているみたいだ。僕は、思い上がっているんだ。「わかった」僕は彼に背を向けると、挨拶もせずに玄関へ向かって言った。
「俺も変わったけどさ、お前も卑屈になったもんだな」負け惜しみみたいだった。靴を履きながら、少し横を見ると、そこにはかつてのウエスタンブーツがあった。つま先に穴が開いている。彼はまだ、履いているんだ。僕は初めて本気で負けたと思った。そして、振り返ると「すまなかった」と頭を下げた。「おう、また来いよ」分かったよ、ありのままの僕でね、と心の中では返事をしたけれど、実際はまたも彼を無視するかたちで玄関を出た。
 先生のところへ行かなければ、という気がしてならなかった。
 

「疲れたろう、まずはほれ、そこで休みなさい。」老画家は荷物を床に置いて、ソファに少女を寝かせた。
「おじいちゃん、ありがとう。迎えにきてくれて、嬉しい」
「散歩して、ちゃんとご飯食べて、薬も少しずつ減らして。頑張ったんだってなぁ。偉かったよ。わしの孫にしては、おじいいちゃんよりも立派じゃないか」二人は笑いあった。
「おじいちゃん、私、たくさん書いたの。頭のなかの声だけど」少女は哀しそうに俯いた。
「いいんじゃよ」老画家は女性のように優しい目をした。
「あと、これ、見て。」
「ん?絵葉書か」
「うん。人魚さんなの」
 老画家は一瞬はっとしたが、物悲し気な顔をしてそれを見つめた。しかし顔を上げると呟いた。
「よかったな。」
 
 少女はソファで寝入っていた。
 老画家は外に物音を聞いて玄関を開けた。
 「先生。ご無沙汰しておりました」彼は頭を下げた。
 「いや!たまげた。おお、おお。立派になったもんだ。」
 「はい、お陰様で、僕は好きなことを仕事にすることができました。今日は先生にお願いがあって参りました」老画家は「孫が寝てるから、音を立てないでくれよ」と言って、彼が頷くのを確認すると、少女の眠る居間の前を通ってアトリエへ入った。
 「変わってないですね。あ、それよりも、覚えていて下さって、光栄です。驚きました。ありがとうございます」
「大きな声を出すなと言ったろ!病気の孫が寝ているんだ。やっと病院から外泊許可を取って来たのだからな」
「すみません。お孫さん、悪いんですか?」
「社会にとったら悪いんだろうな。本人がどんな感じなのかは、分からん。病気はこっちだ」老画家は人さし指で自分の頭を指した。
「そうですか。」彼は厭に神妙だった。
「ところで今日はなんだ?」
「あ、はい、これなんですが」彼は作品集を見せた。
「おお、それのことか。わしが毎年挿し絵をつけておる。死んだ娘がまだ病気の進む前にな、よく書いていたんでな。親子合作の気分でこの暇な年寄りがしゃしゃり出たって訳じゃ。あの子はひどい死に方をした。あんな男と結婚させるんじゃなかったわい。罪滅ぼしでわしは今でも描いておるんじゃ。死ぬまでな」こうして見ると老画家はずいぶんと小さくなって、うんと年をとって弱ったように見える。
「あの、実は、僕にも参加させていただけないかと思いまして。1頁でもいいんです、小さくても、いいんです」
「どうして、また」
「罪滅ぼしです」彼は言った。
 老画家は何も聞かなかった。
「いいだろうと思うけどな。うん。担当者に言っておこう。しかし1頁だけだと、変だろう?部門ごとに、わしと君とで分けるってのは、どうだい?それから、わしは機械は嫌いだ。手描きで頼む」
 「よろしいんですか、是非、是非お願いします。手描きで、はい、お願い致します」
 「わかった、そうしよう。やっとお前さんとの共同作業が実現するわけだ。わしは本気で描くぞ!ほれほれ、孫を起こさないように静かに帰ってくれよ。まあ、また来なさい」
 帰り道、僕はかつてない充実感を味わっていた。大きな仕事を貰った時よりも、そう、八百屋の籠盛りの絵を描く仕事を貰った時の気持ちに近い。いや違う。そんなものでもない。仕事と関係なく、僕の生きている部分がようやく生き始めるような、そんな満ち足りた感覚なのに違いなかった。
 
 シアーをかけて保存したはいいが、なんだか下らなく思えて、僕はそれをゴミ箱に入れた。「いいや。やめよう。もういいや」絵を描く事は好きだった。追われる辛さはあっても、やっぱり仕事は好きだった。僕は好きなことをしているけれど、だけど何かが違った。

【手紙】
 表紙には『地域振興文学コンテスト』と書いてある。
 「素敵な挿し絵。表彰式、行きたかったでしょう?」
 彼女は文具券を握りしめながら首を振ったその時、事務員が入って来た。
「お手紙、来ていますよ」看護師が受け取ると、事務員はにこりとして去った。何となく開けぬまま彼女は一週間を過ごした。一週間後、彼女はあの木の下へ。
 今日ならいいわ。きっと大丈夫。彼女は胸に手を当てて落ち着かせた。今は昼間で、ここは病院だけど、違うの。今は夜で、星がいっぱいいっぱい輝いている。ビーズをこぼしたみたいに。そして、ここは病院ではない。いつか見たあの海。新雪を踏んだみたいに足の裏が気持ち良い、真っ白な砂浜。今なら、魚になれるかも知れない。泡にならずに、きっと泳げる。
 彼女は深呼吸をして、それから静かに封を開けた。
 『人魚姫様。突然、驚かせてしまって、ごめんなさい。僕は、君の作品に挿し絵をつけた者です。君の作品がずっと心に残っています。僕は君と話をしたいと思って病院を訪ねましたが、家族以外は面会できないと言われました。手紙を通してならば、君と話ができるでしょうか? 僕は、君の書いたものが、好きです。どうか、また絵をつけさせて下さい』 
 “mermaid・soda”のバンダナとメモパッドが同封されていた。彼女は早速そのバンダナを三角巾のように頭に巻いた。いつもの生成のスモック型ワンピースの胸に入ったピンタックと丸襟、良く見ないと気づけない極小の赤い小花模様が、やけに映えて見えた。メモパッドはもったいないので取っておくことにした。彼女は機嫌良く、外泊中に祖父からプレゼントされたエスパドリーュの麻紐を解くと裸足になって脚を投げ出し、いつもの小さなノートを開くとペンを走らせた。

「全ては正しさのためだったと、今ならば、言い切る事ができます」
病棟に戻ると、看護師に手伝ってもらいながらオフホワイトの小型ノートを封筒に入れ、宛名を書いた。
「もういい、売店の、人が、計って、出して、くれるの」
「そうね。早く届くといいわね」看護師は去った。
【交換日記】
 まさか返事が来るとは思わなかった。僕はこの雑記帳なのか日記帳なのか、それとも長い手紙なのか分からないものをどうしたものかと考えた末、気を悪くさせるかもしれないと思いつつも、一つ一つに絵を描いて行った。彼女の分かりにくい文章は、文字を追おうとすればするほどその真意から僕を遠ざけた。けれど目を瞑って感じていくと、不思議な程に彼女の想いが馴染むように僕に入り込んだ。そんな言葉に、僕は僕の言語で応じたかった。
 そうして全てに絵をつけ終わると、彼女が僕の中にずっといた人魚なのか、それとも、あの日の少女なのか、どちらでもない全くの別人なのかを確かめてみたくなって、一か八か、ある絵を描いた。それは、転んで正方形のものを落とす、脚のある少女の絵だった。
 
【少女の季節】
 少女は蜜蜂を追い掛けて、幹の周りをくるくると回った。
 (林檎も桃も蜜柑もみんな、実りそう)木はいつもよりもうんと色濃く、見えない命を宿していた。
 彼女はくすくすと笑って、白い正方形の中に『人魚姫』とだけ書いた。
 
【結晶】
 いつしか交換日記状に23冊の作品集が出来上がった。
23冊目の最後の頁にはこう記してある。

『わたしは みんな わかって いました』

 僕は24冊目を送ったけれど、二度と返ってはこなかった。
 半年が過ぎた頃、僕は友人宅にそれを持って行った。ビーチサンダルを履いて。
「その頭、何とかしてくれよ。」開口一番友人は言った。すごく嬉しそうな顔をしていた。  
 僕は彼女とのいきさつを事細かに話した。脳震盪のような、白昼夢のような、呪いのようで夢のようなソーダのことも話したが、友人は 初めて見るほどの真剣さで瞬きもせずに聞き入っていた。
「それでこれをどうしたいの?」
「本になれば、彼女の力になるんだろうか?」僕は言った。
「生きてるのかね」
「やめてくれよ」
23冊をめくりながら、僕は彼が涙を流すのを見たような気がした。気のせいだったかもしれないが。 僕らは毎晩制作作業に夢中になった。あの頃みたいに最終的に彼は帯の文句とあとがきを書いてくれ、しかし、僕の栄光や彼女の病気を誇張して売り文句にしようとはしなかった。隠してもいなかったし、過度に露出してもいなかった。
「やっぱり製本すると違うもんだねぇ」
「らしくなったな!」
「でも、いくら何でも、 もうちょっと俺の売りが出ていてもいいんじゃないの?」僕はおどけて言った。彼も冗談だと分かっている。
「だめだめ、一流イラストレーター様の名前が全面に出すぎちゃ」
「 こうして見ると彼女の方が濃いな。俺、前面に出ても消されそうだよ」  友人がいつになく優しい、老人のような顔をして呟いた。
「よかった」と。
 僕と彼女の作品集は、夢のようには売れなかったけれど、予想したよりは随分売れた。僕はこれを老画家に送ろうと考えた。一応封筒に入れ、さらに紙袋に入れ、僕はアトリエに向かった。
 ほほほほ。わし、これ買ったぞ」
 老画家は奥から10冊はあると思われる札数を抱えて出てきた。まさか、あの売れ行きは全部彼の手柄じゃないだろうね?
 動揺を抑えて僕は言った。
 「ご存知だったんですね。」
 「ははは、やーっと君は、わしの思った通りの、正真証明の本物になりおったな」
 戯けて彼は言う。
 「いや、あの。えっ?」
 「ふふ、お前さんは一度、魔界に引きずり込まれそうになりおった。馬鹿めが。あのままだったらな、お前が昔訪ね歩いた偽者先生様と同じになるとこじゃったんだぞ。だけど、大丈夫なのが分かったから、わしは何も言わなかった。お前さんが挿し絵をしたいと訪ねてきた時にな」
 あの頃を思い出した。僕はふと気になって聞いた。
「お孫さんの具合はいかがですか?」
「はぁ?お前なに、何だって?寝ぼけたのか、阿呆が!お前に絵を描かせたのはあの子じゃよ?」
「え?」
「この本の」老画家は適当に頁を開く。
「この絵を描いたのがお前さんで、こっちの文を書いているのがわしの孫娘じゃ。お前、知らないでやっていたというのか?」
「こっちへ来い」
 かつて孫娘の描いた絵を見せてくれた棚の方へ、僕は呼ばれた。そこにはノーブランドのありふれたスケッチブックが一冊あった。
「孫が買ってくれたんじゃよ。おじいちゃん、また好きな絵を描いてねと」
「わしは今度こそ、絵描きになろうと思う。今からでも遅くはないだろう?」

 それが原始的愛情の成す精神性行為であったからだ。あの、各々が個人的に経験する以外に理解する術のない極めて私的な現象は、それ故に他者に向けてそれを解らせようとする必要も、他者が他人のそれを理解する必要も生まない。第三者を介入させる必要のない事柄には、それに見合う言葉が用意されていないのだ。何者かの意図によって。しかし、いずれそれが人類全体を一つに繋げる。全体としてのその一つにやがて経験させるための示唆としての象徴的感覚を、僕は受けたのに違いない。自覚がなかっただけで、僕の確信は常に人魚の裏打ちされていたから。
 僕は商業ベースにを降りた。
 僕は絵描きになりたい。
 僕は、夢を叶えてなどいなかった。
 結局彼女は、彼女の母親と同じように死んでしまった。だけど、その日からやっと一つの僕に戻れたような満たされた感覚を味わった。決して消えることのない一体感。彼女はいつもここにいる。前よりもうんと近くに、僕と同一化して、ここにいる。彼女は僕の欠片だったのかもしれない。いや、僕が彼女の欠片だったのかもしれない。同じことだ。割れたグラスが戻るように、僕らはようやく一つになった。最後のソーダで彼女は言った。
 「私の愛と血と声であなたは全てを愛するの」
 それは人魚が泡になった瞬間だった。


                                         

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