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奥の細道-「あやめの草鞋」について

▢ 安積沼の芭蕉


1689年5月1日(陽暦6月17日)、芭蕉は安積あさか(現在の福島県郡山市)にいた。奥の細道の旅の途上、江戸深川を出てほぼひと月になる。

等窮が宅を出て五里ばかり、檜皮の宿を離れてあさか山あり。路より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ふぞと、人々に尋ね侍れども、さらに知人なし。沼を尋ね、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。

(奥の細道)

[口語訳 ]
俳友の等窮の家を出て五里ほど、檜皮(郡山市日和田町)の宿を出るとあさか山がある。道のすぐ近くで、この辺には沼が多い。もうじき花かつみを刈る頃でもあるので、どの草を花かつみというのかと、土地の人に尋ねたが、まったく知っているものがいない。沼のほとりを探し歩き、人に問い、「かつみ、かつみ」と尋ねまわっているうちに、日は山の端にかかった。二本松より右に曲がって黒塚の岩屋を見て、福島に宿をとった。

(訳 薄楽)

随行の曾良そらの旅日記には「かつみ」を探したという記事は無い。また、福島に到着したとき、日はまだ高かった。

芭蕉が見たかったのは実在する「黒塚の岩屋」(安達が原の鬼の伝承地)の方で、芭蕉の足は安積の沼付近でとどまることはなかったとみるのが妥当だ。
 
では、なぜこのような創作を芭蕉は行ったのか。
そこには能因と藤原実方さねかたが関わっていたと思われる。

▢ 芭蕉が書かなかったこと


「白川の関」「武隈の松」「象潟」という能因にちなむ名所を訪ねていることからも分るように、芭蕉にとって能因は奥州の旅の先達であり、いわば旅の風流化の水先案内人でもある。

そして、この安積の沼もまた、能因ゆかりの地であった。能因はここで古来からなぞとされていた「安積の沼の花かつみ」を調べている。

  沼を尋ね、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて

そう思ってこのくだりを読むと、花かつみにとりつかれ安積の沼を尋ね歩く能因の姿が浮かんでくる。この地を通るときの芭蕉の脳裏にはそんな能因の面影があったのではないか。
 
「こもをば、かつみといふ。」(能因歌枕)

これが、謎の花、「花かつみ」に下した能因の結論である。だが、それは実物を見てではなく現地の人の言葉によってであった。つまり、「かつみ」は「まこも」の方言ということになる。

芭蕉はこのことを知っていたのか。

「無名抄」「今鏡」の藤原実方の逸話や歌論書「俊頼髄脳」でも、「花かつみ」は「真菰」とされており、まして能因に思い入れを持つ芭蕉なら、知っていた公算が大きい。(注1)

芭蕉が知っていたうえで、あえて書かなかった、とするならば、そこに彼なりの風流のスタンスがあるようにぼくには思えるのだが、どうだろう。

▢ あやめ草足にむすば草鞋わらじの緒


陰暦の5月4日、芭蕉と曽良は午前8時に白石を発ち、岩沼で能因ゆかりの武隈の松を見物、その後、笠島のこおりに入り、藤原実方の塚へ行こうとするが、五月雨あとのぬかるみ道、その上疲労が重なり、遠くから眺めるだけで過ぎ、そのまま仙台に入る。(注2)

笠島はいづこ五月さつきのぬかり道   (奥の細道)

五月雨あとのぬかり道。この辺境の地で無念の死をとげた実方の魂に思いはせる追善の句でもある。(注3)

こうみてくると、芭蕉は能因だけでなく実方の、つまり、花かつみにまつわる風流人ふたりの面影をともなって旅をしていたように思えてくる。

芭蕉は8日に塩釜に向かって発つが、それまでこの仙台に4泊している。その間、画工北野屋加衛門と知り合いになる。その加衛門が松島や塩竈の名所旧跡を描いた絵と紺の鼻緒をつけた草鞋二足を旅の餞にといって贈ってくれた。

さればこそ、風流のしれもの、ここに至りて其実そのじつを顕す。(奥の細道)

「こんな気の利いたことをするとは。会ったときより、なかなかの風流人だとは思っていたが、これほどの風流を極めたお人だったとは」 
芭蕉にあったのはこんな思いか。胸に迫ってくる一文である。

あやめ草足に結ん草鞋の緒

 漂白に身を置く私どもは 端午の日を迎えても
 邪気を払うあのあやめを軒に挿すなどできはしない
 折しも あなたからいただいたこの紺の鼻緒の草履
 その緒に邪気払いとしてあやめ草を結び、
 旅のつつがなきを祈ろうと思います。

(意訳 薄楽)

一説には紫色は蝮よけになるらしい。その効果も期待しつつ、魔除けのあやめにちなんだ紺の鼻緒の草鞋を贈ってくれた加衛門。風流探求の旅をする自分にとって何よりの風流を凝らした餞であると、芭蕉はその緒にあやめ草を結ぶという趣向で感謝の念を表したのである。見事な風流人士の交流である。奥の細道中ぼくの一推しのくだりである。

▢ 風流の極致-あやめの草鞋


あやめ刈る安積の沼に風ふけばおちの旅人袖かをるなり

この歌は「解釈と創作ー安積の沼のあやめ(2)」でも紹介した。
源俊頼は「花かつみ=真菰」であることを知りながらも、それはそれとして「あさかのぬまのあやめ」という題で風雅の典型であるような歌を詠んだ。(注4)

「奥の細道」においてそれと同じようなことが、旅の物語という時空でなされているようにも思える。真菰のことは、「言わぬが花」ということではなかったのか。そんな気もする。

もちろん芭蕉の意図を根拠づけるものをぼくは知らない。たまたまそうだった、ということもありうる話だ。だけど、あそこで真菰に触れなかったのは作品創作の上では正しかったとだけは、はっきり言える。

端午の節句の前日の夜に家の軒にあやめ草を挿す、という実方の時代よりもずっと前からの習慣。それにまつわる実方のエピソード。能因の安積の花かつみ探訪。そして加衛門の紺の草鞋。それらがこの美しい句に合流し、風雅の極致に至ったとぼくには思えてならないのだ。


注1 宮中で一条天皇の怒りにふれ、陸奥の国に左遷された藤原実方が、端
   午の節句用の菖蒲が陸奥の国にはないことを知り、その代わりとして
   安積沼の「かつみ」で代用するよう命じたという逸話が「今鏡」「無 
   名抄」に紹介されている。「花かつみ」が「真菰」であるとも記され
   ているが、ふたつの書物とも書き手の側の説明であり、実方自身が
   「真菰」と言ったわけではない。「花かつみ=真菰」としているのは
   すでに能因の考えが反映していたとの指摘がある。

注2 「奥の細道」本文では笠島⇒武隈の松の順で書かれている。ここでは
   実際の旅程を使った。

注3 実方が馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒
   れ、下敷きになって没した。没時の年齢は40歳くらい。999年1月とさ
   れる。

注4 歌論書「俊頼髄脳」に「陸奥国にはこもをかつみといへるなめり」と
   ある。

参考:伊藤洋先生のHP「芭蕉DB」・・・このサイトには「奥の細道」だけにとどまらず芭蕉のたぶん全作品と口語訳、および関連情報があります。とにかくすごいです。


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