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つくばでカワイイご当地"土偶"を発見! @桜歴史民俗資料館

家族の実家が茨城県つくば市にあるため、年に数回……10回くらいは、つくばへ行くことがあります。家族の実家……つまり義父母の家へ行くのは“一般的に”退屈なものではないでしょうか。「行かない」と言うのも気まずいので「行く」という選択肢しか残らないわけです……わたしの場合はです。

どうせ行くなら楽しみたいじゃないですか。そのため、つくばへ行く時には、なにかしらの目的を作ろうと思っています。

その目的とは……多くは歴史探訪です。

ある時には、つくば市役所で開催されていた、戦国武将の小田氏に関しての大学名誉教授のセミナーへ行き、またあるときには土浦城から小田城までのサイクリングへも参加しました(主催はつくば市)。また数カ月前には、土浦城の博物館で開催されていた、八田氏=小田氏の特別展を観覧しつつ、小田氏関連の寺を巡ってみたり……別の機会には小田城の裏山である宝篋山(小田山)へハイキングしてきました。

そうした行動を義理の親戚たちには奇行のように思われているようで、「小田城って、なにかあるのか?」とか「好きだねぇ……おもしろいのかい?」などと問われています。

そして、義理の祖母の誕生会へ出席するために再訪した先週は、思い立って……本当は、かすみがうら市歴史博物館へ行きたかったのですが、遠いので断念して……つくば市にある、桜歴史民俗資料館へ行ってきました。

桜歴史民俗資料館のある建物

桜歴史民俗資料館は、市民体育館など複数の施設が集結した場所にあります。妻にTXの駅まで迎えに来てもらい(家族は前泊)「ちょっと10分くらい寄りたい所がある」と言って、運転を変わって車を走らせました。なにせ親戚が多く集まる義祖母の誕生会の開催時間も迫っていたため、そんなにゆっくりもしていられません。

事前にGoogleマップやブログなどを見て、どんなものが展示されているのか調べましたが、どうもイメージが掴めないため……たぶん魅力的な物はないんだろうなぁ……なんて、半ば諦め気味で資料館へ行ったというのが正直なところです。

ところがどっこいですよ……行ってみたら、複数の土偶に出迎えてもらいました。もし周辺に住んでいる土偶ラバーまたは土偶ハンターであれば、絶対に行っておきたい場所です。

ということで、今回は、つくば市から特別な許可を得て(単に申請して許可が下りただけですが…)、館内で撮影した展示品を、写真入りで紹介していきたいと思います(ただし古代中心です)。

■往時の姿をとどめる土偶たち

まずは何をおいても土偶です。真っ先に目が止まったのは、資料館の近くであろう上境旭台貝塚から出土したミミズク土偶です。作られた推定製作年代は、3000年前の縄文時代の後期か晩期です。

『ミミズク土偶』桜歴史民俗資料館蔵

頭部が少し欠損しているようですが、ほぼ完成形に近い姿をとどめています。両目と両耳が円形で、両目の間には鼻のような突起が見られます。顔や目や耳の縁には、ちょんちょんちょん…と小さく波打つようにデザインされています。

『ミミズク土偶』桜歴史民俗資料館蔵

正面から撮ると、後ろの土器と色がかぶって輪郭が分かりづらいので、少し斜めからも撮影してみました。ほかの地域から出土している「ミミズク土偶」もですが、フクロウの仲間のミミズクというよりも、シンプルに猿に似ている気もします。

股間の円形の突起は、アレでしょうか? だとすると男性なのかも……。同時代だと男性の象徴物は「石棒」がメジャーで、土偶では少ないと思われます。ミミズク土偶というカテゴリーで見ても、もしこれがアレであれば、とても希少な土偶なのではないでしょうか。男……またはの土偶のような気がします。

いちおう小2の息子にも、「これって何だと思う?」と写真を見せながら帰宅してから聞くと、「これはアレでしょう……お◯ん◯んだよね」とのこと。やはり間違いない。

『ミミズク土偶』桜歴史民俗資料館蔵

念には念を入れて後ろからも撮りましたが、スマホで撮ったこともあり、やや鮮明さにかけます。が……拡大して見てみると、身体の表側と同様の文様がデザインされているようです。

↑ 上のミミズク土偶が出土した上堺旭台遺跡の発掘調査時の資料が見られます。まだ読んでいませんが、複数の土偶が出土しているようです。

上堺旭台遺跡の土偶や土器たち
上堺旭台遺跡『土偶』

上堺旭台遺跡からは、ほかにも土偶が出土しています。こちらは頭部のみが残った……何土偶というのでしょうか? ミミズク土偶っぽいのも見られますが、ミミズクとひとくくりにして良いのか微妙なところです

上堺旭台遺跡『土偶』

平たい土偶の頭部がゴロンと寝かせて置いてあるので、真上から撮ってみると、形状や文様が分かりやすいです。こうして見ると、先ほどの土偶と同様に、顔の表面に様々なポツポツが描かれています。

4つある土偶の下(手前)の2つは、両目に加えて口も円形ですね。先ほどのは「へ」の字でしたが、口が円形だからか、ちょっと無表情な印象を受けます。

上堺旭台遺跡『土偶』

↑ 土偶を後方からも見てみましたが、この前方と真俯瞰、それに後方からの3枚の写真を合わせて見ると、どんな形なのか……意外にも想像しづらくなりました。イメージしていた形状よりも、もっと複雑なのか……。頭のてっぺんが、いずれも平たくなっているんですかね。

上堺旭台遺跡『土偶』

↑ 4つの土偶の奥に置いてある土偶を、少し斜俯瞰から見てみました。正面から見た時には、「あぁこれは遮光器土偶だねぇ〜」みたいに知っている風な感じで見ましたが……上から見ると、(わたしが)よく見る遮光器土偶よりも、ぷっくりと丸っこい感じです。

口に穴が空いているし、頭頂にもぽっかりと穴が……。中空土偶にしたけれど、頭頂が割れてしまったのか……それとも初めから空けていたのか……。謎は深まるばかりです。

↓ そのほか浅い鉢や土瓶のような注口土器ちゅうこうどきもありました。いずれも文様がきれいですねぇ。

上堺旭台遺跡『浅鉢』
上堺旭台遺跡『注口土器ちゅうこうどき

↑ こちらの『注口土器ちゅうこうどき』は、デザインが面白いですね。実用上は全く不要だろう、装飾がワシャワシャと付いています。

側面に穴が空いています。対角線上の向こう側にも穴が空いていれば(未確認)、ここに木製なのかの取っ手を付けられそうです。

↓ 一方で、こちらの土瓶のような注口土偶は、どうやって使ったんでしょうか。取っ手が付けられなさそうなので、中に熱い液体ではなく、冷たい液体……土器の側面を包むように持っても「アチチチッ」とはならないような液体を入れたのでしょうね。

上堺旭台遺跡『注口土器ちゅうこうどき

見ているときは、あまりというか全く目に入らなかったのですが、写真で振り返ると、土器の周りに貝が散らばっています。解説パネルには下のように記されています。

「上境旭台貝塚で出土した貝は淡水と海水が混じる汽水域に生息するヤマトシジミが9割を超え、魚の骨もスズキやクロダイなど内湾や河口に生息するものが主体でした。当時は霞ヶ浦まで海が入り込んでおり、貝塚のあたりは河口に近かったことがわかります。

解説パネルより

よく言われることですが、縄文時代の平均気温は現在よりも高く、海面も高かったようです(縄文海進)。東京23区の、江戸城よりも東側は、多くが海の下にあったと言ってよいでしょう。つくば市もまた、今とは全く異なる様子だったはずです。

国土地理院のホームページには、標高図の色を変えられる、ちょっとしたアプリがあります(色別標高図)。縄文時代には、時代によっても異なりますが、今よりも海面が5mくらい高かったと言われます。そこで、その国土地理院の地図で、標高5mまでを青色にしてみると下のようになります。

標高5mを海の色にして見たところ

こうしてみると、今の東京23区の東側もですが、利根川流域も水浸し(深い入江)だった様子が分かります。本当は現在の霞ヶ浦の領域が分かりやすく表示できれば比較できたのですが、まぁかなり広かったというのは、地元の人であれば分かるでしょう。真ん中よりも少し上に赤い旗が立っていますが、そこが上堺旭台遺跡の“だいたい”の位置です。

もっと上堺旭台遺跡周辺に寄ってみたのが、下の図です。

標高5mを海の色にして見たところ

今では霞ヶ浦がこのエリアまで迫っていたなどとは想像しにくいですが、上堺旭台遺跡が、縄文時代は海岸エリアだったことが分かりますね。ちょうど桜川流域だったところが海で、上堺旭台遺跡は河口に近く、海水と淡水が混じり合っていたのでしょう。

■足型の土偶や縄文時代のクッキーも出土

先ほどの上堺旭台遺跡の出土品が収められたガラスケースの後方のケースにも、土偶や石斧などが展示されていました。

『土偶』
『土偶』

ちょっとふわふわしたものに包まれていて、形状が分かりづらいのですが、これは、そうとうカワイイ感じの土偶ではないでしょうか? 額には菱形のアイコンがレイアウトされていて、そのアイコンから三方に線が伸びています。なんだろう……どこかで見たことがあるようなデザインなんですよね…‥思い出せない……。

『土偶』

足形の土偶ですね。ほか地域の遺跡からも発掘されているので、このエリア特有とは言えませんが、足の指は5本あるし、完全に“人”の足形ですよね。

人形の土偶もですが、こういうのを見ると、「何のために作ったのか?」とか考えてしまいがちです。まぁ空想するのが楽しみの一つでもあるのですが、けっこう「なんとなく作ってみた」というのも正解なんじゃないかなとも。例えば、じゃあ『ガンダム』とか『マジンガーZ』とかって、なんでああいう形なの? って、なにも知らない人からすれば思いますよね。ガンダムなんて、宇宙で闘う時に、人形ロボットである意味って、ほとんど実用面では意味ないのに……。

『土偶』

うちもですが、息子が幼児だった頃は、保育園などで足に絵の具を塗って紙にフットプリントしたりしていましたしね。

基本、人は人の複製を作りたくなっちゃうんじゃないでしょうか……。人の身体の構造ってどうなっているんだろう? っていう方向からの複製もあり得ますしね。というのが一つ。

あとは、形見ですかね。例えば赤ちゃんが亡くなってしまったとかね……その時に、その子の足形だけでも家に置いておきたいとか……当時の人は思ったかも。

でもこれ、貝塚から出土したのなら、また話は変わってくるかもしれません。まぁでも失敗作だったから貝塚へ放り投げといたっていう可能性もありますね。

縄文時代の食料事情

「稲作が始まる前の縄文時代、人々は採集と狩猟によって食べ物を得ていました」と書いてあります。この近くの下広岡遺跡では、ドングリを粉にして焼いた「縄文クッキー」 といわれる料理や、たくわえていたクヌギの実が、炭となって出土しているそうです。

「パン状炭化物」と「クッキー状炭化物」と記されているのがそれのようです。そういうものまで、数千年間残っているっていうのがすごいですよね。

その同じ下広岡遺跡から出土した土器も展示されていました。縄文土器が「ドングリを煮てアクを抜くために発明された」という説も紹介されています。う〜ん……でも、こういう深鉢って、水を沸騰させるのに適した形状なんだろうか? とも思いますけどね。もっと釜みたいな形の方が、良いような気がします。

下広岡遺跡『縄文土器』

一つ一つに説明がないので分かりませんが、この桜歴史民俗資料館のある旧桜村の下広岡遺跡や才十郎遺跡や旭台貝塚で出土した土器のようです。個人的に縄文土器で不思議なのが、釜とか浅い鉢のような土器が少なくて、深い鉢が多いんですよね。いったい何に適した形なんだろうか? って思います。

■弥生時代の埴輪もチョビっとあります

以下は古墳時代です。一般的に古墳時代というと、3世紀後半から7世紀頃ですかね。おそらく平和だった狩猟採集メインの縄文時代から、稲作が始まって貧富の差が生まれた弥生時代を経て、身分というランク付けが顕著になってきたのが古墳時代です。もちろん戦争みたいな話にもなっていたでしょう。

埴輪はにわたち

解説パネルには「桜川に沿った上野から金田こんだにかけての台地上は、首長墓級の大きな古墳以外にも、6世紀以降を主とした中小規模の古墳が数多くあります」としています。

そして、そうした古墳のほとんどが未調査だといいます。

そうなんですよね。縄文や弥生時代もですけど、人々はいたるところに住んでいたはずで、地面を掘れば何かしら出てくるはずなんですよね。でも、古代の歴史を紐解きたいからって、あちこち堀りまくるわけにもいきません。

土地開発が進むエリアであれば、多摩ニュータウンのように工事の途中で、発掘調査をしたりするんでしょうけど、そんなこともなく、畑や田んぼとして使い続けていたら発掘などはしないのでしょう。古墳のような丘なども同様ですよね。

だいたい畑などから重要な土偶や土器が出土したとして「調査しなければ!」なんて言われたら、古代に興味のない大半の農家ほかの地主の人からしたら迷惑な話です(笑) こっそりというか、当たり前のように、「うわっ……土器だよぉ……出ちゃったよぉ」って渋い顔になって、ぽ〜い! と空き地に投げ捨ててしまうかもしれません(バレないようにね)。

解説パネルには「金田古墳では直刀や、祭祀に用いられた石製模造品が、上境滝の台古墳群では埴輪が、それぞれ出土したと伝わっています」と記されています。昔の人は真面目に、「こんなものが畑から出てきました」と申告してくれていたのでしょう。

そういえば、東京下町育ちの父は、近所で土を少し掘れば江戸時代の寛永通宝が出てきた……みたいな話をしていました。そういうノリで、古代の直刀などが見つかったのかもしれません。

校倉あぜくら』などの模型

古代の展示ボリュームが少し広めだったのですが、古墳時代から先は、展示が一気に南北朝〜戦国時代となります。

弥生時代の隣は、南北朝時代…そして戦国時代です
『小田孝朝袖判下文』南北朝時代 (永和3年(1377)) 金田の日輪寺所蔵

ここで小田氏関連の資料を見られるとは思っていませんでした。小田孝朝と言えば、詳細は知りませんが「小田氏の乱」で有名です。お父さんはもっと有名な小田治久。何で有名かと言えば、この治久さんの時がちょうど南北朝時代。南朝の北畠親房を小田城に迎えて、その時に『神皇正統記』が書かれたとも言われます。まぁでも南朝の形勢が不利になっていき、北畠親房は小田城に居づらくなって、出ていくんですけどね。

という話は、あまり今回は関係ないのですが、その小田孝朝から大和房頼誉宛の下文(命令書)とのこと。内容は分かりませんが、同館へ寄託されているのか、日輪寺という寺の所蔵と記されています。

この日輪寺は小田城の出城だったという話があり、今でも四囲が土手で囲んでいますが(いや今は三方ですね)、戦国時代当時は濠が二重になっていたとも…。数カ月前に行った時には、倉の軒先に駕籠が架かっていて……「なんだこれ!?」と驚きました。ネットで検索すると「ここの住職は幕府から駕籠での登城を認められていたという」と記しているサイトもありますが……幕府からとは、鎌倉なのか足利なのか……まさか江戸? 住職さんから詳しいお話を聞きたいところです。

建て替えられたばばかりの日輪寺の本堂
日輪寺。周囲は土手が囲み、八十八箇所巡りの祠が並んでいます
倉庫の軒先にぶらさがっていた駕籠です……これ、けっこうな文化財っぽいですけど……もう数百年くらい、こうしてぶらさがっているんですかね(汗

まぁ日輪寺の話は、それほど(知識がなく)深堀りできないので、どんどん先へ急ぎます。

■明治以降の展示物

このあたりで、義祖母の誕生会が気になって、落ち着いて展示物を見て回ることができませんでした。ということで、ここからは写真のみの掲載です。

ということで、桜歴史民俗資料館へ行った時のレポートでした。機会があれば、加筆していきたいと思いますが、こういう資料館というかミニ博物館は、各地にありますよね。どこどこの土偶や土器や埴輪が見たい! っていうと、わざわざ出かけなきゃいけなくなりますが、きっとそうした資料館や博物館にも、ご当地出土の土偶や埴輪などが置いてあるものです。ご当地って、なんでも愛着が湧くものなので、おすすめですよ。

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