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不気味な絵が集められた特集『寒山拾得(かんざんじっとく)』 @東京国立博物館

東京国立博物館(トーハク)の表慶館では、『横尾忠則 寒山百得』展が、12月3日までの会期で開催されています。

と同時に、本館2階では特集『東京国立博物館の寒山かんざん拾得じっとくー伝説の風狂僧への憧れー』が展開されています(こちらは11月5日まで)。

鎌倉や室町時代くらいから、絵師たちにより連綿と描き続けられてきた寒山かんざん拾得じっとくと、現代アーティストの横尾忠則さんの寒山かんざん拾得じっとくを、トーハクで同時に見られるという、贅沢な企画となっています。

そんな本館2階で開催されている特集の方の『東京国立博物館の寒山かんざん拾得じっとく』が、10月中旬に展示替えとなりましたので、noteしていきます。


■ところで寒山かんざん拾得じっとくって何? 誰?

横尾忠則さんの寒山拾得図を見て回る前に、必ずしも「寒山拾得とは何か?」を知っておく必要もないとは思いますが、ひとによっては気になる人もいるでしょうし、もしかすると知っていた方が、横尾版の寒山拾得図を深く理解できるかもしれません。

■寒山拾得図の源流となった顔輝がんきの不気味な表情

同特集を担当された研究員(いわゆる学芸員)の方に、「これは見ておいた方が良いですよ」とお勧めされた、顔輝がんきによって描かれたと伝わる寒山拾得図かんざんじっとくずが、後期に登場しました。

「顔輝(がんき)の寒山拾得図は、全国各地の日本の寒山拾得図の源流というか、その作品をみんな意識して書くというようなところがあるので、それは本当に、数ある作品の中でも名品と言えるものです」

この寒山拾得図を描いたと伝わる顔輝がんきさんは、中国語版のWikipedia(のようなBaidu百科)には、南宋末から元初に活躍した人物画家とあります。

地元の中国では、残されている作例が北京と台北の両故宮博物院に1点ずつあるくらいと少ないのですが、日本では顔輝がんきの作品が大変珍重されたようです(と言っても、後述のとおり、日本にある真筆と言える作品も知恩院蔵の1点だけです)。解説パネルにも「織田信長から石山本願寺の顕如上人に贈られたという、いわくつきの逸品」とありますが……何かを暗示するかのように、信長が顕如上人に贈ったと思われているんですかね。いずれにしても、同作は足利将軍家の東山御物の一点であり、その後は織田信長から顕如上人へと渡り、明治大正期には川崎家(川崎造船所の川崎正蔵か?)へ、そして帝室博物館なのかトーハクなのかに渡ったようです。

Wikipedia(日本版)によれば、「顔輝筆とされる伝承作品は31点ほどある」そうで、その中で真筆と言えるのは「蝦蟇鉄拐図 (知恩寺)だけ」としています。そしてトーハク所蔵の《寒山拾得図》については……残念なのですが……「衣文の類型的処理で分かるように技倆が劣り、顔輝周辺の作だと推定される」としています。またトーハクの公式サイトの中でも、同作については「幽暗の中、不気味に破顔大笑する寒山と拾得を描く本図の表現には,元時代の顔輝派に特有なアクの強い怪異さがみられる」とあるとおり、優品だともしていないし、必ずしも顔輝によって描かれたともしていません。

■仙台の伊達家が旧蔵していた、元時代の《寒山拾得図》

特集の前期に展示されていた、因陀羅いんだらさんが描いた、国宝の《寒山拾得図(禅機図断簡)》に変わって、後期では、伝因陀羅筆の《寒山拾得図》が展示されています。

解説パネルには「禅僧画家である因陀羅の画風は、かわいた墨をこすりつけてやわらかくぼかした頭髪表現と、独特のリズムがある一見無造作な線描を特徴とします」とあります。

伝因陀羅筆、慈覚賛《寒山拾得図》元時代・14世紀 | 紙本墨画

■雪舟の師匠・周文の作と伝わる《寒山拾得図》

雪舟の師匠である周文が描いたと伝わる《寒山拾得図》も、今回の特集の後期に展示されています。

顔輝がんきが活躍したのが南宋末の元初と言われているので、仮に1260〜1290年前後に、前項の《寒山拾得図》が描かれたとしましょう。日本だと鎌倉時代あたりですね。

一方で、周文が15世紀の室町時代ですから……顔輝がんきが描いてから200年後ということになります。

伝周文筆、 春屋宗園賛《寒山拾得図》室町時代・15世紀 | 紙本墨画

ボサボサの髪の毛と、三日月形の目……それに裂けている口で不気味に笑っている点は、顔輝がんきまたはその周辺が描いたと言われる《寒山拾得図》と共通しています。

伝周文筆、 春屋宗園賛《寒山拾得図》室町時代・15世紀 | 紙本墨画

■17世紀に描かれた愛嬌たっぷりの寒山と拾得

伝孫克弘筆《寒山拾得図》明~清時代・17世紀 | 紙本墨画淡彩
高島菊次郎氏寄贈

こちらを書いたと伝わる孫克弘さんについては、どこにも詳細が記されていません。ということで、ネットで調べられる情報をもとに、ここに詳細を記してみようと思います。

孫克弘は、1522〜1610年で中国の明代の人……日本だと室町時代の末期から江戸時代初期ですね。現在の上海市に含まれる汪蘇省の華亭の出身(現在の上海市松江の出身)で、あざな允執べんしつ?、号は雪居せっきょ?

お父さんの孫承恩は礼部尚書……祭礼や祭祀を取り仕切る大臣で、容易に曽祖父の代までネットで調べられることからも、名門の家だったことは確かです(祖父:孙瓛、曽祖父:孙士达)。

孫克弘もまた官僚として過ごし、漢陽知府(湖北省の知事)などを務めています。金石法書の収蔵に富み、自邸の秋琳閣で書画を楽しんだというから、かなりの富裕層でもありました。

書は宋仲温に学び、特に隷書を得意とし、後漢時代の石碑を中心に習い、端正で謹厳な書風。

また画は花鳥、山水、人物など、題材にかかわらず優れた腕を発揮。山水画は馬遠を学び、雲山画は米芾を模倣し、花鳥画は徐熙、趙昌に似、竹画は文同に倣い、籣画は鄭思肖に倣い、時折人物や仙釈画も描いたが、梁楷の要素も取り入れた。枯れた筆致で花を描くのが得意で、彩色でも水墨でも、いずれも古雅な趣があった。当時から名声が高く、絵を依頼される場合は、門人に代筆させたこともあった。晩年は墨梅を描くことが多かったそうです。

おそらく前述の秋琳閣についてですが、居室は「東郭草堂」と呼び、名画を秋琳閣に収蔵したそうです。またその居室の四壁には、「蒼松老柏、崩浪流泉の絵」……青々とした松の木と枯れた柏の木、荒々しい波と澄んだ泉が描かれた絵……が描かれていたそうです。

人柄については天才肌で、声は明るくよく通る声……容姿は粗野だったので、書画蔵書家のイメージとは異なり、かなり豪壮な感じだったのかもしれませんね。そんな印象を裏付けるように、親友で文人画家だった陳継儒は、孫克弘のことを「好客の癖が江東に響き渡り、訪ねてくる客が雲の如く、談笑は風のように軽やかで、酒席では老いても空になることがなかった」と評しています。

そうした経歴を確認してから、改めて《寒山拾得図》を見ると、やはり筆者の豪放磊落な印象が浮かび上がってきます。孫克弘自身は、容姿が粗野だったと言われつつ、絵の中の寒山も拾得も、とても清潔感がありますし、何をするか分からないといった不気味さを感じません。ただただ明るい寒山拾得図……一番、好感が持てるものだった気がします。

■引き続き河鍋暁斎が描いた寒山と拾得も展示

同特集の前期から引き続いて、河鍋暁斎が寒山と拾得や豊干ぶかんさんを描いた《豊干禅師》も、ドーン! と展示されています。

ということで、『横尾忠則 寒山百得』展は12月3日まで開催されていますが、本館2階の特集『東京国立博物館の寒山かんざん拾得じっとくー伝説の風狂僧への憧れー』の方は、11月5日までしか見られません。もしトーハクへ足を運んださいには、見ておくと良いかもしれません。

本館2階の特1室で開催


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