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老中・安藤信正の孫は、秋の夜空を描くのが上手な画家だった……長野草風

東京国立博物館(トーハク)の近代美術の部屋をフラッと通った時のこと。ある絵の前で足が止まりました。完全に止められた……と言った方が正確です。

あいかわらず、撮ってきた写真を見ただけでは、その良さは全く伝わらないなぁ……という感じの平凡な感じですけど……長野草風そうふうさんという画家が描いた《高秋霽月こうしゅうせいげつ》です。

また難しい四文字熟語だな……と思いつつChatGPTに尋ねてみると、「《高秋霽月こうしゅうせいげつ》は、古典的な中国の表現で、直訳すると『高い秋の晴れた月』」という意味で、「秋の晴れた日に明るく輝く、月を描写するものとして、詩や文章で使われることがある」のだとか。

特に「霽」という文字は、漢字ペディアによれば「霽れるはれる」とも読み、雨や雪がやんだり、はれわたるという天候の「晴」と類似の意味と、「さわやか」や「心がさっぱりする」といった気持ちを表現するのにも使われるということ。

うろこ雲がたなびく秋の夜空でしょうか……雲の描き方がなんともやわらかくて、独特の雰囲気をかもしだしています。良い意味でモヤッと雲っぽいんです。

ということで、作品に関しては以上で終わりです。もうね、夜空に雲と月が描かれているだけなので、その絵を見た時に良かったなぁ…ということ以外に、言うことがないんです。

以下は蛇足というか、描いた長野草風そうふうさんが、どんな人だったのかを、週末の一日を使って調べたことをまとめておきます。

■谷崎潤一郎の友人だった長野草風そうふうさん

良いなと思った、長野草風そうふうさんですが、その絵を見るのは、今回が初めてでした。

生まれたのは明治18年。おじいちゃんが、磐城国・平藩藩主の安藤信正さんとのこと。

その祖父の安藤信正さんは、大老・井伊直弼なおすけのもとで若年寄となり、その後に老中に就任するものの、直後には桜田門外の変が起きます。1862年には、自身も坂下門外で水戸浪士に襲撃されて(坂下門外の変)、背中を切られるという不運なイメージのある方。

また、この安藤信正さんの実子であり嫡子(安藤信民)は早逝そうせいしたため、甥の安藤信勇のぶたけが磐城平藩を継ぎます(信濃国岩村田藩・内藤家の嫡男の三男)。ただ、この安藤信勇のぶたけは、明治5年に(安藤信正が亡くなってから生まれた第八男)安藤信守のぶもりへ家督を譲っています。

ということで、長野草風そうふうさんが、安藤家なのか内藤家なのか、それとも他の家系なのか分かりませんでした。いずれにしても長野草風そうふうさんは、明治18年188510月4日に生まれました。実名は守敬もりたかさん。5歳頃に、母方の大叔母の長野家の養子になりました。この長野家に入ってから、《大政奉還図》で知られる邨田丹陵に、20歳頃に川合玉堂に師事し、草風と名乗ります。その後は、今村紫紅や速水御舟、前田青邨らがいた紅児会(こうじかい)に参加。同時に文展(文部省美術展覧会)に作品を出して、《六の華》で三等賞、《朝と夕》で褒状となるなど、画壇である程度は認められる存在になったようです。そして大正3年1914には院展が再興されると、こちらにも参加し、大正5年1916には同人に推されます。興味深いのは、大正12年1923大正14年1925には、絵の経験を積むために支那ちゅうごく旅行へ赴いていること。その翌年の大正15年1926に、聖徳太子奉讃展へ出したのが、代表作の1つと言われる《高秋霽月こうしゅうせいげつ》です。

以上は、東京文化財研究所を参考に、少し肉付けして記しました。ですがそこには、1949年に65歳で「2月6日に脳溢血のため逝去」するまでの詳細は記されていません。

ただし、亡くなったのが「横浜市の大橋家別荘」という記載がありました。この別荘を調べると、出版会社・博文館を築いた、明治・大正時代の出版王の、大橋佐平と新太郎の一家の金沢文庫にあった別荘だったことは、ほぼ確実です。その博文館は、『文芸倶楽部』という文芸雑誌を出版していたんです。

つまり、長野草風そうふうさんは、戦前には出版王と言われていた大橋佐平や新太郎と親交があったということです。この線からネットを調べ直してみると……長野草風そうふうさんは、いわゆる文豪と呼ばれる人たちの本の挿絵や装幀を担当していたんですね。

詳細は調べていませんが、少なくとも谷崎潤一郎の『旗麟』(植竹書院、大正3年1914)に所収された 『信西』の挿画を描き、ベストセラーとなった『(潤一郎訳)源氏物語』(中央公論社、昭和14年)の装幀を担当したことだけは確かです。

長野草風が装幀や地模様を担当した『(潤一郎訳)源氏物語』

また、谷崎潤一郎の小学校以来の親友・笹沼源之助の店「偕楽かいらく園」の、美術顧問のようなことをしていました。ちなみに同店は、渋沢栄一などの財界人が出資して創業された会員制の店舗が基となっています。そのことから、町中華というよりも料亭に近い雰囲気だったのではと想像しています。

また芥川龍之介さんとも知り合いだったようで、同氏の『上海游記』の冒頭では、次のように記されています。

いよいよ東京を発つという日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かけるつもりだそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海へ着いてしまう。たかが二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。――こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯たらっぷに登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、ふたたび我が長野草風画伯の海にきょうなる事を気の毒に思った。

『上海游記』青空書店より

そう語っていた芥川龍之介ですが、出港後に海が荒れ「――要するに長野草風氏が船酔いの薬を用意したのは、賢明な処置だと感服していた」という目に遭うことになります。

この上海旅行が、長野草風そうふうさんが40歳か42歳のこと。40歳の中国旅行では、谷崎潤一郎の幼馴染であり偕楽園当主の笹沼源之助夫妻や、同じく日本画家の山村耕花と一緒に行ったようです。

以上のように、当時からある一定の評価を得ていたことが分かりました。

そうしたことを調べている時に、「長野草風そうふうさんは、太平洋戦争中は、長野県に疎開していた」ことも分かりました。だとすれば、もしかすると長野家なのか親戚の旧領とも言える場所に疎開していた可能性が浮上します。そうなると長野草風そうふうさんは、安藤信正の跡を信州の内藤家から養子に入った、安藤信勇のぶたけさん系列の子孫ということになるのかもな……と、たいていの人にとっては、興味のないだろうことを考えてしまいました。

さて、博物館や美術館に所蔵されている長野草風そうふうさんの作品は少なく、トーハクには《高秋霽月こうしゅうせいげつ》の1点のみ。宮内庁三の丸尚蔵館には3点。そのほか東京国立近代美術館、講談社野間記念館や平塚市美術館、駿府博物館に1点ずつ所蔵されています。少ないですけど、タイミングがあえば、来月リニューアルオープンする(江戸城の)三の丸尚蔵館などで作品を見てみたいものです。

日蓮聖人御伝版画刊行会 編『日蓮聖人御伝木版画 : 宗祖六百五拾遠忌御報恩記念』〔第8〕 俎岩の危難,日蓮聖人御伝版画刊行会,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1242415 (参照 2023-10-08)

<参考サイト>
東京文化財研究所
細江光『笹沼源之助・谷崎潤一郎交流年譜』
日本美術年鑑』昭和22~26年版(139頁)

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