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え⁉︎ 坂上田村麻呂が…《清水寺縁起絵巻》 @トーハク

現在、東京国立博物館(トーハク)では、京都の清水寺の縁起……なりたちを絵で表した絵巻《清水寺縁起絵巻》が展示されています(重要文化財)。少し前まで気が付かなかったのですが、考えてみると、同絵巻が展示される前……先月あたりは同じ展示ケースで《鼠草紙》が見られました。

《鼠草紙》も、広義には「清水寺の縁起」と言っても良いでしょう。人間になりたいと願い、そのために人間の妻をめとろうとする鼠「権頭(ごんのかみ)」と、良縁を求めている美しい女性とが、祈願しに行った清水寺で出会い、めでたく結婚するというストーリーです。

ただし、鼠の権頭に嫁いだ姫君は、夫が鼠であることに気が付いてしまい、家から逃げ出してしまいます。そして自らの境遇について「鼠の権頭のことは恨んでおりません。だけれど良縁を願った私に、鼠に出会わせた清水寺の観音様についてはお恨みしております」と(巫女を通じて)語るというストーリーです。

今回は、そうした《鼠草紙》の話よりも以前のこと。清水寺の本尊である観音様が、いつ、誰によって作られたのか。そして今につながる立派な堂宇が建てられた経緯を、詞書と絵によって物語られています。

■《清水寺縁起絵巻》のあらすじ

《清水寺縁起絵巻》には、いくつかの系統が残っていますが、トーハク所蔵のものは、室町時代の永正14年(1517)に作られたものです。絵は宮廷絵所預の土佐光信が描き、詞書は三条実香や甘露寺元長などがしるしたものです。上中下の三巻本。各巻には、詞書と絵のセットが11段あり、上中下巻で33段の構成となっています。

<巻上(上巻)>
上巻では、宝亀9年(778年)に大和国の興福寺の僧・賢心(後に延鎮)が夢のお告げで山城国愛宕郡の音羽山(現在の清水寺の地)に至り、そこで修行していた行叡(後の延鎮)に出会います。行叡は、賢心にあとを任せて東国へ旅立ちます。賢心は行叡が残した霊木に千手観音像を刻み、その千手観音像のための草庵を作ったことが、清水寺の始まりとなりました。

その2年後、宝亀十一年(780年)に、坂上田村麻呂が鹿狩の際に、たまたまその草庵に至ったのが機縁となり、仏閣を建立します。そして、坂上田村麻呂は東征を命じられて、征夷大将軍に任じられ、武運を祈願するために清水寺を詣でた後に出陣。蝦夷を倒しました。

<中巻>
中巻には、平安時代に東国を平定して凱旋した坂上田村麻呂が、清水寺にお礼参りに来て、清水寺を増築する場面などが描かれています。この中巻の一部を、今季のトーハクで見られます。

<下巻>
下巻では、観世音菩薩の霊験譚が数々描かれています。

■現在トーハクで見られる《清水寺縁起絵巻》

上巻では、坂上田村麻呂が東国の蝦夷(えみし)を平定してくるように、朝廷から命じられました。征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、建てたばかりの清水寺へ行き武運長久を願ったのでした。そして無事に蝦夷をやぶり、京へ凱旋しました。

展示されている中巻の最初の絵では、京へ凱旋した坂上田村麻呂が、蝦夷平定の祈願が成就したことを報告するため、清水寺の延鎮を訪ねたシーンから始まります。

赤い服を着た坂上田村麻呂が、清水寺の延鎮に、蝦夷平定を報告しています
庭先や門の外には坂上田村麻呂の家来たちが甲冑姿のまま主人の坂上田村麻呂を待っています

清水寺の延鎮に報告した坂上田村麻呂が、次に向かったのが朝廷です。

庭先にいる坂上田村麻呂が、朝廷に参内して東国平定を報告している様子です

延暦17年(798年)に、坂上田村麻呂は清水寺を改築し、今も見られる「清水の舞台」を配すなどします。

その後、清水寺には多くの荘園が集まり、寺が拡充されていきました。

時間があれば詞書の翻刻を試みたいところですが、今回は展示部分の記録をnoteしておくのみにとどめたいと思います。

ちなみにトーハクのアーカイブでは、全巻の画像データが見られます。

ColBaseでは、なぜか巻上が欠けていました。












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