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教養の大切さが分かってきたかもしれない

最近、「教養って大切だな」と思うようになってきた。

現代アート作家の師匠について、アート活動をさせていただくなかで、たくさんの方とお会いしてきたが、
そのなかで、「なんて素敵なひとなんだろう」と思った方々は、すべからく教養人だった。

そもそも、アート、芸術は、教養人によって支えられてきたものだから、
師匠のお知り合いに教養人が集まるのは、当然かもしれない。

「教養のある人」というと、良い家柄に生まれた人や、資産家、エリートというイメージがある。

確かに、師匠も旧家の生まれだし、師匠と長年お付き合いのある方にも、立派な家柄のご出身のひとは多い。

由緒ある家には、一品級のものがそろっているらしい。

洗練された空間のなかで育つだけで、教養が育まれそうな気はする。

師匠の備前焼きの作品

ただ、たくさんの方に会わせてていただくなかで、出自や学歴と、「教養」は、必ずしも相関関係にないような気もしてきた。

まともに学校に行ったことがないひとでも、私よりはるかに好奇心が強くて、頭の良い方はいらっしゃる。

では、「教養」とは、いったい何なのだろう。

「教養がある」人は、ものの見方が違うと、師匠は言う。

師匠「"儲け"ではなく、『価値』があるかどうかで、ものごとを見るのが大事。」

師匠は、「価値」という言葉をとても強調する。

確かに、師匠はどんなものに対しても、一時的な"儲け"ではなく、長期的に『価値』がつけれられていくかでどうか考える。

そして、師匠は『価値』が下がらない作品を、35年も作り続けてきた。

これまで師匠のアート活動を支援してきた方々も、師匠の作品の『価値』を分かっていたのだろう。

というと、「教養」がある、ということは、『価値』を見抜く力をもっている、ということなのかもしれない。

師匠の作品

私はパンピーなので、小さい頃から一品級のものに囲まれてきた方々にはかなわない。

それでも、両親は私に「教養」を身につける機会をたくさんくれたように思う。

小さい頃から、両親に美術館や博物館につれていかれた。

なかでも、印象深いのが、奈良に行ったときだ。

兵庫県にいる祖父母に会いに行くついでに、毎年、家族で奈良に行っていた。

奈良に行くたび、必ず博物館を訪れた。

興福寺

どこもかしこも、歴史的に価値のある代物がずらっと並んでいるのだが、当時、私は小学生。

国宝の価値なんて、分かるわけがなかった。

ワケも分からず展示物のまえに佇む私に、父が一生懸命説明をしてくれることがあった。

鑑真の像を前にしたとき。

父に「鑑真はね、はるか昔、中国から日本に来て仏教を伝えにきたんだよ」と言われても、
小学生の私は「なんやねん、このおっさん」としか思わなかった。

それでも、鑑真の像が8世紀に作られたものとは思えないほど、生々しい印象だったことは記憶している。

他にも、歴史を学ぶまえから、学校の歴史の教科書にのっているものをたくさん見た。

もちろん、小さい頃はワケが分からずに見ていたが、今日、この経験が自分の身を救ってくれている。

両親が私に見せてくれたのは、「時代と国境を超えてきた」ものだ。

バリ島に行った後、「国境」と「時代」を超えて広がっていけるのかどうか、という観点を大事にしたいというnote記事を書いた。

私は、アーティストとして活動をしていかなければいけない。

つまり、私は見る側ではなく、作る側の人間として、生きていかなければいけないということだ。

アート活動を死ぬまでやりたいのなら、国内レベルで考えていたら間に合わない。

師匠のように、「国境」を超えても評価されるものを作っていかなければならない。

しかし、それでも足りない。

師匠は「自分が死んだ後も、自分の開発した技法が残っていってほしい」といった。

つまり、「国境」だけでなく、「時代」も超えていけるものを作っていく必要があるということだ。

師匠の作品「ガネーシャ」

そして、「国境」と「時代」を超えて評価され、残されてきたものには、『価値』がある。

これは、一時的な「儲け」では測れないものだ。

アート活動を生涯続けていきたいなら『価値』あるものを作らなければいけない。

そして、『価値』あるものを作るには、『価値』を見抜く力、つまり「教養」もなければいけない。

ものづくりには、自分が今まで培ってきたものがダイレクトに反映されてしまう。

もちろん、作り手に「教養」があるかどうかは、創作物を見れば分かってしまう。

また、私がものを見る側になったときにも、『価値』を見抜けないといけない。

特に、これからの時代は国内外とわず、急激に情勢が悪化していくだろう。

一時的な「儲け」をみるだけでは、来る未来に対応できないだろう。

師匠のいうとおり、「儲けではなく、『価値』でものごとを見ていく」必要がある。

師匠の備前焼の作品

そう思うと、両親がしてくれたことが、どれほど今の自分を救ってくれているか実感する。

どうして、両親が私を美術館・博物館に連れて行ったのか。

どうして、ゲームや服はたいして与えてもらえなかったのに、本だけはいくらでも買ってくれたのか。

今になって、その意味が分かってきた。

でも、「教養」は、大人になっても磨き続けることができるはずだ。

アーティストとして、高いパフォーマンスができるように、
これからの激動の時代を生き抜いていけるように、
「教養」を育むことに気をつけていきたい。

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